引退か
(令和6年9月10日 4:06)
昨日午後行われた高市早苗氏の自民党総裁選出馬表明の会見を、テレビ中継で始めから終わりまですべてを視聴した。
結論から言うと、陳腐な表現だが感動を覚えた。圧巻と言わざるを得ない。完璧と言ってよい内容だった。次の総裁・総理はこの人しか無いの意を強くした。
内政・外交・防衛・経済などすべてに精通しており、原稿など見ないで自らの言葉で語った。今、与野党を通じて、そういった政治家は彼女以外は皆無だ。その言葉の一つひとつに信念が感じられる。仕事が趣味だと言い切っている。孔子は、『論語』の中で「自分ほど学んでいる者は居ない」と言われた。高市氏もそういった心境なのだろう。
これまで弱いと言われた「拉致被害者を救う」件についても、力強く応じた。また巷間、揶揄される「人付き合いの希薄さ」についても、余裕の感じられる応え方をした。約30分にわたる記者からの質問に対しても、何ら動揺すること無く毅然と一つひとつ落ち着いて答え、終始笑顔を絶やさず余裕が感じられた。小泉・石破・河野らとは、ものが違うことを改めて証明した。
一部では、党員票において石破が圧倒するのではとか、小泉・小林の若手が強いなどの声もまことしやかに聞こえて来るが、高市が他の候補の後塵を浴びることは無いだろう。全国各地で開催中の「個人講演会」は、何処の会場でも満杯だと聞く。
12日の告示後、立候補者全員による討論会などが何度かもたれるが、その度に高市氏の存在が際立つだろう。史上最多の立候補者数になることは必至、決選投票になるだろうが圧勝するのではと予想する。
女性初、奈良県から初の自民党総裁、総理大臣の誕生が、いよいよ現実味を帯びて来た。
(令和6年9月10日 4:00)
朝、希望をもって目覚め、昼は懸命に働き、夜は感謝と共に眠る。
平成29年3月15日 参議院予算委員会でのやり取りで、
「人が生きる上で1番必要なものは空気だと思います。2番目は何だと思いますか」という山本太郎議員の問いに対して、麻生太郎国務大臣(副総理)が「朝、希望をもって目覚め、昼は懸命に働き、夜は感謝と共に眠る」と切り返した。
推測だが、事前通告無しの質問だったのではないだろうか。これは、麻生の実に見事な「返し」だ。
麻生は首相時代、国会答弁で漢字の読み間違いをして評判を落とした。一国の首相が……」と揶揄されたが、この切り返しで取り返したとも言える。
朝、希望をもって目覚めることは、新しい一日を前向きに迎えることを意味する。朝には、新しい可能性や新しいチャンスが訪れると期待することが望ましい。
昼には、懸命に働くことが求められる。仕事や学業、家事などに全力で取り組むことが、充実した人生を送るために欠かせない。
そして夜は、感謝と共に眠ることが大切だ。一日の終わりには、自分が達成したことや、周囲の人々が支援してくれたことに感謝することが、幸福感を高めることにつながる。
つまり、この言葉は前向きな態度で一日を有意義に過ごし、感謝の気持ちを忘れずに生きることの大切さを示している。
この章句の出典には、さまざまな説がある。有力な1例としては、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの哲学書『自省録』の中で、「何をすべきか」という問いに対して、
「朝、起きた時には自分が目的を持っていると確信し、一日を勤勉に過ごし、夜は、自分が努力をし、誰かのために尽力したことに感謝しつつ、安らかに眠るべきである」
と記されていると。
また一説には、アメリカの実業家エルバート・ハバードが1904年に出版した『A Message to Garcia』という小冊子の内容が、この章句の元になった可能性があると。我が国では、明治の官僚・教育者であった大森房吉の『三愿堂日記』に似た言葉が見られ、この言葉が日本で広く知られるようになったとも言われる。
しかし、どれも確定的な根拠はない。
解釈も様々である。以下が代表的な解釈だ。
1 積極的に生きることを促す
この言葉は、毎日を前向きに生きるためのモットーとして解釈されることがある。朝、新たな一日を迎えることに希望を持ち、昼は全力で仕事に打ち込み、夜は一日を振り返り感謝の気持ちを持って眠ることで、毎日を意味あるものにしようという意味が込められている。
2 謙虚さを重んじることを促す
この言葉は、自己満足や傲慢さを避け、謙虚さを大切にしようという意味が込められていると解釈されることもある。
朝、希望を持つことで自分自身を励まし、昼は懸命に働くことで自己満足や傲慢さを避け、夜は感謝の気持ちを持って眠ることで謙虚さを大切にしようという意味だ。
3 美しい一生を送ることを促す
母親の身体から元気に産声を上げて生まれ→「朝、希望を持って目覚め」
大人になり仕事、恋人、家庭、遊びなど様々なことに一生懸命になり→「昼は懸命に働き」
命尽きるときは多くの人に感謝し、感謝されながら安らかに眠る→「夜は感謝とともに眠る」 Y画【国会】麻生太郎のしびれる名言「生きる上で大切なこと」のコメント欄より抜粋。
以上のように、「朝、希望をもって目覚め、昼は懸命に働き、夜は感謝と共に眠る」という言葉には複数の解釈があるが、どのように解釈するかは人それぞれだろう。
前向きな姿勢・態度で一日を有意義に過ごし、感謝の気持ちを忘れずに生きたいものだ。
(令和6年9月5日 4:10)
庭は、私の命
「庭いじり」という趣味を持てて幸せだ。植木や盆栽たちの世話をしていると、心が晴れる。次から次とやるべきことがあり、ボケる暇がない。手をかければかけるほど、成果が……。
生まれ育った故郷は僻陬の地だったが山紫水明。父も母も花づくりなとを楽しみ、夏場は私も水遣りの手伝いをした。幼少のときからこれまで、環境や巡り会った人にもに恵まれた。
社会人になって下宿したのだが、その家主ご夫婦がサツキの培養を熱心にされていて、庭には鉢植えのサツキが所狭しと並んでいた。植え替え時はお二人で、夜中まで精を出されていた。特にお手伝いしたということは無かったが、大いに影響を受けた。
23歳という若くして結婚した。義父はサラリーマンでまだ勤めておられたが、畑や庭いじりをされていた。長女が生まれるに当たって、義父母の家の近く、三室の借家に住んだ。借家にも3坪くらいの庭があり、義父のアドバイスの下、庭いじりを始めた。その後、27歳でローンを組み、同じ三室で建売の家を購入した。土地が64坪あり、一から庭いじりを始めた。ここでも、義父がいろいろと世話をやいてくれた。サツキの培養を始めたのもこの頃だ。庭や盆栽などに係る書物も、貪り読んだ。
その後、東信貴ケ丘に土地を求め、自らの設計で新築した。早いもので、あれから40年と8カ月になる。資金の上で親を頼らず、莫大な銀行ローンを背負った。33歳のときだ。建売の家は、購入したときよりも高く売れた。妻もフルタイムで働いていたので、大きなローンが組めたのだ。
土地は90坪で、家が完成する前から庭の設計にも取り組んだ。家づくりも庭づくりも人任せにしなかった。登記まても自分で行った。庭の景石の配置の一つひとつまでもである。毎月の多額のローン返済、しばらくは大変だったのだが、自分で決断した事、苦にはならなかった。
給料がどんどん増えるいい時代に勤めることができたので、50歳を前に借金は完済できた。庭いじり以外でも、トライアスロンとか登山だとか好きな事をやって来たのにである。運がよかったし、何より妻の力が大きい。
現在、庭は若い時に思い描いたものに限りなく近づいた。何度も記しているが、手入れで業者の手を煩わせた事は一度も無い。それが自慢だ。出来上がった成木を植えたのは僅かで、苗木から育てたものが多い。毎年、多くの時間をかけて手入れに努めた黒松も、年々、樹格を上げている。昨年、今年と、特に樹勢がよい。自らが手入れをするから余計に愛着が涌く。
暑い夏だったが、拙庭の樹木や盆樹の生育は順調だ。町の文化祭に盆栽を出展するが、鑑賞していただく方に喜んで貰えそうだ。
「庭は私の命」だと思っている。
(令和6年9月5日 4:39)
人生を変えるかも知れない名言➆
〇変化を望むならば自らが変る事だ
自分が変わることで、人間関係や仕事、そして世界が変わっていくのだ。自分の理想とする姿を目指して、日々行動することが大事である。
人生を変えるかも知れない名言⑧
〇心配するのは時間の無駄、心配は問題解決の邪魔
心配することに時間を浪費せず、成功に向けて何をすべきかに思いを巡らすことが大事だ。方略が定まれば、実現に向け邁進するだけだ。迷わず、ブレずに。
(令和6年9月4日 19:25)
習近平の失脚
習近平が失脚したのではないかと言われ始めて、かなりの日数が経過した。私を含め、誰もがこれまで何度も騙されて来た。がしかし、今回は疾病など何らかの理由で采配を振るえなくなったのではと喧(かまびす)しい。
先日も本欄に記したが、「今度こそ間違いない」と確信に近いものがあった。
この3週間くらいの中国国内の報道を注目する限り、「習近平礼賛」の記事がほとんど見られなくなったと。こういった状況から間違いなく、少なくとも習近平の指示のもとに中国共産党は動いていないという状況が明らかだ。集団指導体制に入ったと思われる。
日本のマスコミは依然として報道しない。日中国交回復のときに約束させられた「北京に支局を置くのであれば、中国に不利なことは報道しない」を頑なに守っているようだ。
体たらくも甚だしい。
習近平が退任したとしても(実際は、しばらくは役職等はそのままでいくと思われる)、中国共産党が崩壊しない限り大きくは変わらないだろう。
今、中国の経済はガタガタである。多くは、習近平の無策に起因する。経済成長率も随分前からマイナス成長になっていると思われるのに、3~4㌫の成長と嘘ばかりついている。さまざまな指標から、プラス成長を遂げているなどは考えられない。一説によれば、中国の人口は11~12億まで減少しているとも。随分前にインドに追い越されていると言われる。であるのに、日本のマスコミは、中共が発表する数字をそのまま報道している(分からないはずはないのに)。
引き続き、今後の中国の動向に注視する。
(令和6年9月4日 17:30)
人生を変えるかも知れない名言➄
〇思ったとおりにはならないし実行しなければ何も成就できない
思いどおりにならないことが多いが、行動しなければ何も変わらない。
諦めずにまじめに努める中で仲間も増え、めざす目標が見えて来る。
徳は孤ならず
人生を変えるかも知れない名言➅
〇反省があれば人は少しずつ向上する
「欲望」「怒り」「愚痴」などの煩悩に、私たちは振り回される。それを薄めるのは、「反省」である。反省の無いところに「進歩」は無い。
吾れ日に我が身を三省す
(令和6年9月4日 4:08)
人生を変えるかも知れない名言➃
〇努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を述べる
努力する人は未来に希望を託すから何事も全力で務める。不満ばかりの人は、努力せず、現状を変えようとしない。小さな積み重ねが、大きな変化を齎(もたら)すことに気づかない。
(令和6年9月3日 19:48)
人生を変えるかも知れない名言➂
一緒に居て楽しい人よりも離れると寂しくなる人を友として選べ
傷を嘗めあうような友よりも、ときに厳しい意見を述べる友、離れるとすぐに思い出すような人を友として選びたい。そのような友こそが、真の友人と言えるのではないか。
長期的に信頼できる関係を築くことが大事だ。
朋遠方より来るあり、また楽しからずや
(令和6年9月3(日)) 4:15
人生を変えるかも知れない名言➁
〇失敗しなかった一日は何もしなかった一日
できることなら失敗はしたくないと思う。早く成功したいと誰もが思う。しかし、世の中、そう甘くはない。
失敗を恐れては、何も始まらない。果敢に挑戦する事で道は開ける。「念ずれば花開く」の気持ちを忘れず、「百折不撓(ひゃくせつふとう)」の精神で生きることが大事である。
(令和6年9月2日 17:24)
人生を変えるかも知れない名言➀
〇数多く失敗し失敗から常に何かを学んできた人が一流に近づく
成功した人は、そこにたどり着くまでに多くの失敗をして来たはずだ。「失敗は成功の源」と失敗を恐れずに挑み続ける姿勢が、一流へと、成功へと近づく道となる。
That`s why it`s important to keep challenging yourself, and creates new valuws.
(令和6年9月2日 9:10)
見直したい関係
ネットでの情報だが、ある方が「すくに付き合いをやめたほうがよい」「縁を切ったほうがよい」だろうという人について記していた。共感するものが多かった。
すぐに縁を切ってしまわないまでも、注意して付き合い改善がなされないようだったら決断もやむなしだろうと思った。
私なりに編集してご紹介する。
〇困った時にだけ連絡してくる人
お互いを大切にする関係ならば、都合の良い時だけ連絡してくるという事は無いはずだ。このような関係は、長く続かない。
〇苦労を大袈裟に話す人
誰もが何がしかの苦労をして今がある。相手のことはほとんど考えていないと思われる。自分の苦労ばかりを話す人とは、距離を置いた方が得策だ。
〇不機嫌をぶつけてくる人
どう考えてもこちらに非が無いのに、八つ当たりされるのはとても辛い。感情を制御できない人とのつきあいはやめるべきだ。
〇奢られて当たり前と思う人
感謝の念の薄い人との関係は疲れる。奢って貰ったら、次は奢り返す。対等な関係を築きたい。
〇時間を奪って平気な人
時間にルーズな人から自分を守りたい。時間を守るのは、誠実さの表れである。
〇一緒に居ると疲れる人
楽しかった、元気を貰えたという関係が理想である。
〇話を最後まで聞かない人
相手の話を遮る人との関係を保つことは、とても難しい。
〇可能性を否定してくる人
人生は長くはない。毎日を明るく生きたい。前向きな人と共に時間を過ごしたいものだ。
人間関係は、お互いを高め合うものであることが理想だ。一度きりの人生、友人関係は常に切磋琢磨する関係でありたい。
エネルギーを奪われるばかりの関係は、早めに見直す必要がある。
(令和6年9月1日 13:52)
忙しい
「忙しい、忙しい」とすぐに口にする人が居る。そのような人で、仕事や作業がよく出来る人に私は出会ったことがない。
私は自らの事で、「忙しい」とは口にしない。「それを言っちゃ、お仕舞だよ」くらいに思っている。45年以上、実践している。もちろん、他者には、「お忙しいでしょう」とは使う。
「忙」は、心が亡ぶと書く。
辞書を引くと、
1 急いでしなくてはならない事に追われている。する事が多くて休む暇もない。多忙だ。
2 落着きがなく、めまぐるしい。せわしく立ち働くたちだ。
とある。
世の中では、「いつも忙しそうな人」とかなり仕事量は多いはずなのに「余裕がある(ように見える)人」がいる。両者にはいったい、どのような違いがあるのだろうか。
常に忙しそうにしている人の中には、「忙しいことは仕方のないこと」と思い込んでしまっているケースもある。もしくは、「忙しくても、自分には改善すべきことはない」と思い込んでいるのかもしれない。しかし、「忙しさ」は行動と思考の工夫で改善できる可能性があるように思う。
常に余裕を持って動ける人は、どの作業がどれだけ時間がかかるのかを正確に把握できる。そのため、スケジュール通りに行動をすることができ、バタバタとしてしまうことが少ない。一方、忙しいと感じる人は作業に要する時間を正確に見積もることが苦手で、たとえスケジュールを立てても、一つひとつの仕事に想定以上の時間がかかってしまう。結果、どんどん慌ただしくなってしまう。
余裕のある人は気持ちにゆとりがあるため、周囲の状況を冷静に把握することができ、周囲に気を配るのが得意である。また、気配りができることで周囲からの信頼を得られ、ゆとりがなくなったときには周囲の方から協力をしてもらうことができる。一方、忙しいと思っている人は自分のことだけで手一杯となるので、周囲のことまで気にすることができない。自部勝手と思われ、信頼を得られない。
余裕のある人が時間通りに作業をこなしていけるのは「やるべきこと」と「そうでないこと」を的確に見極めることができ、物事の優先順位を正しく判断できるからだろう。一方、常に忙しいと感じる人は優先順位の低いことまで「やるべきこと」と判断してしまいがちだ。気がつくと「やるべきこと」が溜まってしまい、結果として忙しくなってしまうことになる。
余裕のある人は、優先順位を正しく判断し「やるべきこと」に集中できる。一方、忙しいと感じる人は一つのことに集中できず、あれもこれもといろいろなことに手を出してしまいがちだ。また、忙しいと感じながらも「自分は作業が出来る方だ」と思い込んでいる場合には、次々と新しい予定を組み込んでしまい、さらに集中できなくなっていく。
余裕のある人でも、もちろん失敗をすることはある。ただし、失敗しても「なぜ失敗したのか」「どうすれば失敗せずにすんだのか」「次からはどのように行動すべきか」といった振り返りを行うことで、再度同じ失敗をしないように自分を成長させている。一方、忙しいと感じる人は、とにかく急いで手元の作業を済ませようとする。そのため、過去のことを振り返ることがなく、その場しのぎの対応が多くなる。そのため、なかなか成長することができない。
余裕のある人は優先順位の判断が正確にできるため、休憩すべきときにはしっかりと休憩を取る。趣味に没頭したりして必要な休憩を取ることで心身をリフレッシュさせ、作業の効率を維持することができる。気分転換が図れるのだ。しかし、忙しいと感じる人は常に作業に追われているため、休憩の時間を惜しんで作業を続けてしまいがちだ。そのため、常に脳が緊張状態にあり、なかなか疲労を回復させることができない。忙しい時間が長くなるにつれて、結果として作業が非効率になっていく。
余裕のある人は、自分の能力を正確に把握している。そのため、自分ではできないと思うことや、困ったことなどがあれば、一人で解決しようとせずに助けを求める。しかし、忙しいと感じる人は、与えられた作業をすべて一人でやろうとしてしまう傾向がある。そのため、助けを求めればすぐに解決することであっても、自分だけで解決しようとして時間をかけ過ぎてしまう。
忙しいと感じる状況を改善するための対処法だが、なかなか難しい。
忙しいと整理整頓の時間を確保できず、デスクの上が散らかってしまいがちだ。一般的に人は散らかっている物が視界に入ると、集中力が低下したり、ストレスを感じたりするという。また、デスクが散らかっていることで、必要な物がすぐに取り出せなくなって作業効率を落としてしまう原因にもなる。そのため、これらの影響を受けないためにも、デスクは整理整頓をして綺麗にしておきたい。私は、これが苦手だ。
忙しいと思われる状況になると、次は何をしなくてはいけないのか、どの作業がどこまで進んでいるのか、今は何をしているのか……など、頭の中で思考が堂々巡りしてしまう。思考することが増えパニック状態になるとミスを起こしてしまうので、頭が混乱してきたときには深呼吸をして落ち着くことが必要だ。焦っても取りかかれる作業は一つずつなので、今は何をするべきかをしっかりと判断することが大切である。
あまりにも作業量が多い場合には、周囲に助けを求めることも大事である。その際には、素直に状況を伝えて助けてほしいと頼むようにする。周囲から「手伝おうか」と声をかけてもらうために忙しいアピールをしても、なかなか思うようには気付いて貰えないものだ。かえって「計画性が無いから」と悪い印象を与えてしまう可能性もある。だが、人に頼るのが苦手だとしても、時には周囲に助けを求めたり、相談をしたりすることは重要だ。一度頼ると、今度は「頼られる」側に回る可能性もある。頼る・頼られるを繰り返すことで、周囲の人と頼りやすく、頼られやすい関係を築けるようになるとよい。
多忙な状態が続き、緊張やストレスを溜めてしまうと作業効率が落ちる。集中力が落ちると、ミスも起こりやすくなる。作業の効率を落とさないために、積極的に休憩をとることを勧める。「優先順位の判断が苦手」という人は、仕事を始めるとき、もしくは前日の夜などに「やるべきこと」を紙に書き出す。「やるべきこと」を書き出したら、次はそれに優先順位をつけていき、「やることリスト」を作る。このリストを細めに見つつ仕事をすることで、自分が1日にできる作業量や、一つの仕事にかかる手間や時間が把握できるようになる。私は、現役の時、これを実践した。今でも、時折やっている。
忙しいと感じる場合には的確な対処をすることで、その状況を改善できることが多い。もし、忙しいと感じる状況をそのままにしておくと、ミスを起こす原因となってしまうため、なるべく早く対処をすべきだ。逆に、周りに「いつもバタバタしていて忙しそうにしている人」がいたならば、「手伝えることはないか?」と声をかけてあげると、感謝されるだろう。
(令和6年9月1日 9:06)
台風10号の通過を機に、少し涼しくなるのかも知れない。そうあって欲しいと願う。
そううまくはいかないだろうが、「秋」が忍び寄っていることは間違いない。
この季節になると、古今和歌集の藤原敏行のあの有名な和歌が思い浮かぶのである。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる
【意味】
秋がやって来た、と目にははっきりと見えないけれども、風の音でそれと気付かされた。
もう一つ敏行の和歌をご紹介する。時期的に、これはもう少しだけ後になるだろう。
秋萩の花咲きにけり高砂の
尾上の鹿は今や鳴くらむ
【意味】
秋萩の花が咲いた高砂の峰に住む鹿は、今頃鳴いているだろうか。
作者不詳だが、古今和歌集からもう二首
いつはとは時は分かねど秋の夜ぞ
物思ふことの限りなりける
【意味】
物思いは何時というように時節によって違いがあるわけではないが、秋の夜こそは物思いの極みであることだ。
秋の野に人まつ虫の声すなり
我かと行きていざ訪(とぶら)はむ
【意味】
秋の野に人を待つという松虫の声がする、私を待っているのかと、さあ尋ねて行ってみよう。
「秋の夜長」という言葉があるように、徐々に夜の時間が長くなる秋は、物思いにふける時間も増えて来るのだろう。
昔の人々も、秋を題材にした和歌を多く詠んできた。そういった秋の和歌を鑑賞してみるのも……。
(令和6年8月31日 19:38)
未だに我が国のマスコミはだんまりを決め込み報じないが、習 近平は路線闘争に敗れたようだ。鄧 小平の「開放路線」を支持する勢力が、実権を握った事に疑いの余地は無い。
不思議なのは、これを報じるのはごく一部の中国ウォッチャーだけであり、我が国の保守派と目される言論人からの声が聞こえて来ないことだ。残念だ。
ただ言える事は、習近平が退任しても中国共産党が崩壊し独裁政治が変わらなければ、中国は変わらないということである。
(令和6年8月31日 8:37)
家内の父も、私の実父も酒好きだった。36年前に、同じ年に亡くなった。健在であれば、今なら旨い酒をいくらでも呑ませてあげられるのにと、つい悔やむ。
呑みながら家内にそう言いかけたが、涙が出そうになったので言わずに飲み込んだ。
今日の「BSプレミアムシネマ」は、『次郎物語』だった。映画を観ながら、一人泣いてしまった。久しぶりのことだった。
東映の37年前の作品だったが、加藤 剛・高橋恵子・泉ピン子・高松秀郎・山岡久乃など、キャスティングがよかった。
余談だが、30年以上前に近鉄田原本線で高橋惠子に出会った。彼女は一人だった。車両に4~5人しか乗っておらず、他の人は高橋に全く気づいていなかった。色白の、着物姿の彼女の美しさは際立った。昨日の事のように思いだざれる夏の日の出来事だった。
(令和6年8月29日 20:10)
祝辞を述べる機会
9/14(土)午前、町主催の「敬老会」が開かれる。
本日午前、来賓出席の案内が担当者から事務所に届けられた。併せて、「祝辞」の依頼もあった。
50年くらい前から町の「敬老会」は開催されていただろう。三生連(当時は三老連)会長にも「祝辞」の依頼があっただろうが、面倒だと言うことで辞退したのではないだろうか。昨年までは、以来、ずっと「無し」で来たのではないか。とにかく、三生連(三老連)会長が「祝辞」を述べる機会はこれまで無かった。恐らく、初めてのことだ。
当日は、700~800名くらいが出席される。会員数が漸減する中、三生連をアピールする絶好の機会と捉え全力で取り組む。
(令和6年8月27日 18:48)
食費の削減は墓穴を……
妻に家計を任せているのでひしひしとは感じないが、物価の上昇で家計のやり繰りは大変だろう。特に子育て世代は……。
そのような中、特に高齢者が気をつけなければならないのは、食費を大幅に削ってしまうことではないか。これはやってはならないと強く思う。食費の削減は、炭水化物中心の食事に陥りやすい。タンパク質の必要性は誰もが分かっているはずだが、高い牛肉などを避けてつい炭水化物中心の食事となってしまいがちだ。これは極力避けたいものだ。なぜならば、医者に寄付をすることになるからだ。
牛肉が高いのならば豚肉や鶏肉を食べ、もっと安価にと考えるならば、豆腐や納豆などの植物性のタンパク質を摂ればよい。鶏卵も値上がりしたとは言え、肉よりは安い。
タンパク質が不足すると元気が出ないし、抵抗力も弱まって疾病につながるだろう。病気になれば医者代がかさむことになる。我が国では保険制度が充実しており助かっているが、余計な出費が必要となる事は間違いない。
食費を削らず、他の事で遣り繰りしたい。子や孫に財産を遺すことはない。贅沢は戒めなければならないが、食費を削ることはない。
たばこ代の出費などは、愚の骨頂である。論外と言えよう。
(令和6年8月26日 18:57)
中国共産党の動静
8/10の本欄において、「習 近平」は退任したのではと記した。
これまで何度も騙されており、若干の疑心暗鬼も無くはなかった。友人たちからは、直接あからさまには聞いてはいないが、「谷口、フェイクニュースに乗ってはいけないよ」の雰囲気を感じていた。
今日までの間、ネット上ではさまざまな情報が飛び交っている。だが、中国国内の様子(国内報道)が、これまでとは明らかに違う。党や政府幹部の発言や論文(中国国内の新聞等)に、「習 近平」を礼賛するものが激減している。これまでとは、明らかに違って来た。そういった事からも、今回の「退任ニュース」は間違いないだろう。
クーデターは生起していない様子だが、恐らく周 近平は重病で人事不省に陥り、指示が下せない状況なのだろう。これまで独裁であったので、周りも困惑していると思われる。容易に想像がつく。
これは、世界にとって大きな出来事である。現在、中国の経済状況は大変な事態に陥っている。これからの中国共産党の動静に眼を離せない。
我が国では、目下、自民党の総裁選挙の件で日々喧しい状況が続いている。立候補が予定されている方々の中には、河野・林をはじめとして「親中派」「媚中派」と呼ばれる方が多いが、これらの方々の胸中は如何なものか。
NHKをはじめ、国内報道機関は、現在の中国共産党の動静について頬被りを決め込んでいる。酷いものである。
(令和6年8月24日 18:37)
天 命
『論語』の最後に、「命を知らざれば、以て君子たること無きなり」(堯曰第二十)とある。人は『天命』を知る事が大事だと……。
私たちの日常を振り返るとき、自分の利益を求め、人を押し退けて前に出ようとすることが多い。そのようなとき、社会は殺伐とした空気に覆われてしまう。だからこそ、他の人を思いやり、あれこれ慮ったりできる人が、「有徳の人」として称えられるのだろう。
『論語』の中で、最も好きな章句は「生を求めて以て害する事無く、身を殺して以て仁 を為すこと有り」(衛霊公第十五)、「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲 して人を達す」(雍也第六)である。
孔子は50歳で「天命」を知ったが、私は若いときに「自らの『天命』は何か」などと考えたことはなかった。一般的には、みなさんも私と同じではなかろうか。もう 少し早く論語の学びを深めていれば、もしかしたら早い時期に自らの『天命』について考えが及んだのかも知れない。そうであれば、少し違った人生を歩んだのかも。
私は70歳だが、遅ればせながら現在は自らの使命について少しは考えたりする。 私の使命は、一つは高齢者の会の役員(町の連合会長)として会の運営をスムーズに運び会員から喜んでいただくこと。もう一つは、現在二つの論語塾(中之島図書館論 語塾、三生連論語に親しむ会)の塾長を務めているが、「論語」を講じることを以て、「論語」の普及に少しでも貢献することである。その一環として、5年前から毎朝続けている地域住民の健康増進に貢献することを願って始めた「ラジオ体操会」を、生ある限り継続する。一年365日6時30分からというのは易くはないが、参加者からの「ありがとう」を糧に、協力者の支えで以って日々心を新たに努めている。
私の使命は小さなことばかりだが、『天命』として自らの心に刻んでいる。 何気なく生活しているだけでは天命は見つからない。なので、常に自問自答することが求められる。天命が見つかったとしても、努力せずに天命を全うすることは出来 ない。天命とは、「自らの人生にどう向き合っていくのか」という姿勢のこととも言える。
私は自らの天命を見つめつつ目の前のことに全力で取り組み、他者のために汗 をかく行動の実践を通して、天命を全うしていく。
4年程前にある組織・機構から請われ、寄稿した小文である。そのまま再掲した。気持ちは、まったく変わっていない。「論語塾」や「ラジオ体操会」についても同様である。常に「継続は力なり」を反芻している。
発言がコロコロ変わってはならないのである。
(令和6年8月22日 17:14)
高い(強い)向上心
『徳の修まらざる、學の講せざる、義を聞きて徙る能わざる、不善のあらたむる能わざる、是れ吾が憂いなり』(とくのおさまらざる、がくのこうせざる、ぎをききてうつるあたわざる、ふぜんのあらたむるあたわざる、これわがうれいなり)。
『論語』(述而第七)にある孔子の言葉だ。今、『論語』の中で、もっとも私の気を惹く章句である。
意味は、「徳が身につかないこと、学が究められないこと、正しい道を聞いても行うことができないこと、悪い行いを改めることができないこと、これが常に私の心をいためるものである」だ。
孔子が自らを戒めているのか、立身出世ばかりを夢見る弟子たちに対してなのかは分からない。どちらにしても、聞く者の胸を打つ言葉である。
齢を重ねても「これでよし」ではなく、自らを常に振り返り、「昨日よりも今日、今日よりも明日」と高い向上心を保ち続けることが大事であろう。
念頭に置く。
(令和6年8月22日 5:16)
徳のある人
教養があり、徳のある人が「君子」と呼ばれる。徳のある人とは、どのような人だろうか。
先ず徳とは、仁・義・礼・智・信の五つで表わされると言われる。
思いやりがある、言動が正しい、礼儀作法を弁える、向上心があり賢い、信頼される、であろう。
具体には、
〇人を見下すような人は、論外だ。自信の無さの裏
返しかも知れない。困っている人を見たら、手を
差しのべることができる。
〇強い公正心を持ち、言動は誰から見ても正しい。
言動に矛盾があってはならない。ミスを人のせい
にしない。
〇マナーの悪い人は信頼されない。相手の立場に立
って物事を考えることが出来る。そうでなけれ
ば、人心は離れていく。
〇向上心が高く、常に学ぼうとする。
〇自らの事は後回しにし、自然に人のために汗がか
ける。
完璧に備える人は聖人だ。そのように心がけ、実践に努めるることが大事だ。そうすれば、次第に少しずつで近づけるのかも知れない。そうありたいと心がけることが第一歩だ。
(令和6年8月20日 19:54)
『論語』講演会
随分先の話になるが、下記にて『論語』に係る講演会を開くことになった。
三郷町からは少し遠いし、受講料が必要だ。お時間が許せば脚をお運びいただきたい。
日 時 令和7年1月25日(土)
14時~15時30分(90分)
会 場 大阪府立中之島図書館別
館2階多目的スペース3
主 催 三生連 論語に親しむ会
主 管 毅 朴 会
協 力 大阪府立中之島図書館
指定管理者
ShopPro・長谷工
TRC共同事業体
講 師 谷口利広
演 題 生きる指針を『論語』か
ら学ぶ
定 員 90名(要予約・先着順)
受講料 1,500円(税込)
申込方法 電話またはメール
電話 06-6202-0474
(図書館代表)
メール
eventyoyaku@nakanoshima-
library.jp
(令和6年8月18日 21:04)
一般的な話としては、友人は少ないより多い方がよいだろう。しかし、趣味や価値観が同じ、或いは近い人に出会う事は易しくはない。少数でも気の合う人がいれば、よいのかも知れない。
友人との関係を深めるのには、時間と労力を要する。何十人もの友人と深い関係を保つのは現実的ではない。ゆえに、友人が多いと、自分の時間が制約されてしまうという事も起こる。意味のない浅いつきあいが増えるだけという考え方もある。
大事なのは数では無く、質であるとも言える。友人の数が適正であれば、予定を合わせやすいという利点もある。適正人数というものは、人によって異なるだろう。
人によっては、「友人が居なくても何の問題もない」と言われる人もいるだろう。周りからすれば、「何と寂しい人生では」と思ったとしてもそれは本人の問題であり、とやかく口をはさむ問題ではないのである。
とにかく、「自分らしく」を保てる友人、本音で話のできる関係こそが、長続きする真の友情に繋がると言えるだろう。
(令和6年8月18日 20:30)
猛暑が続いている。
残暑お見舞い申し上げる。立秋を過ぎると残暑だが、季節とズレがある。会員におかれては、ますますご清栄のこと……と申し上げてしまうものの、会員の平均年齢も82歳超となり、年々、暑さ寒さが体に堪えるようになっていることだろう。
早く涼しくなって欲しいと誰もが願う。猛暑も盆を越えると、少しは和らぐのかと期待する毎日だ。20日を過ぎれば、朝夕の風に「秋来ぬと」と感じることが出来よう。今しばらくの辛抱だ。
春のハイキング
5月13日に実施した「山の辺の道」ハイキングは、雨に祟られた。この時期に連日の雨とは、私の不徳の致すところだ。大いに反省をしている。それでも悪条件をもろともせず、20名が「山の辺の道」を歩いた。「降り続く雨を友とする」といった雰囲気であった。本連合会は大した方の集まりであると、改めて感じた。「春のハイキング」に係わっては、3名の方に寄稿いただいた。2~8頁にかけて掲載した。なお、秋のハイキングは、昨年度と同様、社会見学と併せて実施する予定だ。多くの方にご参加賜りたい。
町の文化祭
今年度の町の文化祭は、10月26日、27日の両日、開催される。「展示の部」の会場は、いつものとおりスポーツセンターである。
以前に比べて出展数が大幅に減り、それに伴い鑑賞に訪れる人の数も激減している。写真は昨年度のものだが、三生連会員からの出展も以前と比べると大きく減った。そういった状況を打開するためにも、先ずは本連合会が率先して出展数を増やそうと思い、支部長にも重ねて協力をお願い申し上げた。
「出展協力につきましては、4月の支部長会でも、また「矍鑠」27号でもお願いしましたとおりです。昨年度の文化祭終了時点から、あらゆる機会に申し上げています。本連合会会員がこれまで以上に多くの出展をすることにより、寂しい状態になっている『展示』部門を盛り上げたいと思います。復興の「核」となろうではありませんか。支部長にはご理解をいただき、「出展者無し」といった支部が無いことを切望いたします。支部長ご自身が先陣を切ってください。本部役員にもどのような物でもよい、ぜひとも何か一点をとお願いしています」(依頼文抜粋)
その結果、昨年度よりは出展申し込みが大幅に増えた。7倍以上になった支部もある。全体としては6倍強だ。ただ残念ながら、依然としてゼロという支部も……。そういった支部の多くはすぐに「会員の高齢化」を理由にされるが、平均年齢最高齢の支部において会員の半数が出展申し込みしたという現状もある。理由にならない。支部別の申込数は、次のとおりだ。
夕陽ケ丘 40
三 室 14
信貴ケ丘 18
東信貴ケ丘50
みさと 1
明治 13
緑ケ丘 3
いわせが丘 1
教室同好会では、「銭太鼓」と「論語」から申し込みがあった。
支部への助成金は例年どおり10月末に
支部への助成金は、後期の補助金が交付される10月末とする。いつものとおり、当日は支部長会を開く。詳細は、後日連絡。
町の「敬老会」
町主催の「敬老会」は、9月14日に開催される。今月末には、個人宛に案内はがきが届くはずだ。お揃いでご出席いただきたい。また、各支部でもいろいろと計画されていると思う。東信貴ケ丘では、「長寿を祝う会」として「大衆演劇鑑賞と温泉入浴」を実施する。入浴後、宴会。ホテルのバスでの送迎付きだ。90歳以上の方も、数多く参加される。昨年度は通常行事として「大衆演劇鑑賞と温泉入浴」実施し、大好評だった。
郡生連のカラオケ大会
恒例の郡生連のカラオケ大会は、11月28日に開かれる。大浦副会長に、早めにお申込いただきたい。すでに、15名(定員25名)の申し込みがあった。なお、カラオケ同好会『さけび』の世話人は、片岡さんから萬治理事(73-8766)に代わった。
郡生連の社会見学
生駒郡生き生きクラブ連合会の社会見学が6月に開かれ、神戸港湾内の遊覧と、伊丹のバラ園を散策した。人数が10名に限定されているので、残念だが執行部役員だけの参加となる。もう少し枠を増やしてほしいと願うが、他町からは要望が無い。参加者が集まりにくいという事情もあるのだ。
また、10月に宿泊指導者研修会も鳥取で開かれるが、こちらも参加定員は10名である。
ゲートボール部2年連続で全国大会へ
県大会で優勝した本連合会のゲートボール部は、10月5・6日に倉敷で開かれる全国大会に出場する。2年連続の快挙だ。なお、本連合会から「激励金」をお渡しした。健闘を祈る。
県老連会報「大椿寿」
これまで年3回発行であった「大椿寿」が、昨年度から年2回となった。明解な説明はなかった。先日、今年度1回目が発行され、お手元に届けた。どのような印象をお持ちになられただろう。
7月18日に開かれた郡生連の役員会でも話題となり、「会員数が減少する中、『会報』がこんなものでは沈滞ムードが一掃できない」の意見が多く出た。松井連合会長(安堵町)が次の理事会で、今回噴出した意見を伝えていただけると。
《8/8 発行 第28号から》
(令和6年8月10日 7:55)
町文化祭への出展
昨日、町文化祭「展示の部」の三生連からの出展数が明らかになった。
9支部、2団体から141点の作品の出展申し込みがあった。昨年の6倍以上である。
年々、寂しくなる「町の文化祭」を三生連が復興の核となって盛り上げようと呼びかけた。
このような結果となり、喜んでいる。会員のみなさんのご協力に心から感謝を申し上げる。
展示した光景をいろいろと想像してみるが。きっと見事なものとなるだろう。
今から楽しみである
支部別の出展数は、次のとおりだ。今後、若干増える可能性がある。
東信貴ケ丘 50
夕陽ケ丘 40
信貴ケ丘 18
三 室 14
明 治 13
城山台 10
緑ケ丘 3
みさと 1
いわせが丘 1
書11 絵画44 写真18 盆栽4 木彫2 手芸23
金属工芸10 工作等29 その他1
平均年齢の最も高い「東信貴ケ丘支部」が、最も出展数が多かった。私がいつも申し上げる「年齢は関係ない」を如実に示した。
「銭太鼓」と「論語に親しむ会」からの出展もあり、花を添える。
(令和6年7月27日 5:43)
天晴(れ)/ 遖 読み方:あっぱれ
日常的には使わないが、私を含め時折使われる。辞書を引くと、
1 ほめたたえる気持ちを表すときに発する語。すばらしい。みごとである。
2 すっかり感心したり、強く驚いたりしたときに発する語。ああ。
「天晴」の読み方は「てんせい」や「あまばれ」ではなく「あっぱれ」だ。当て字で「天晴れ」と表記することもある。「天晴れ」と書いた場合にも「あっぱれ」と読む。使われているのは天と晴というなじみ深い漢字だが、読み方を間違いやすい。
「天晴」の語源は「あはれ」
「天晴」の語源は「あはれ(哀れ)」だと。「あはれ」を促音化して、意味を強調したものが「天晴」となった。
言葉の意味から考えると、意外な語源だが、もともと「天晴」はほめる場合だけで使われる言葉ではないと。「ああ」という感嘆や悲哀の感情を表す時にも使われており、この場合には語源のニュアンスと近いものになる。
驚きの賞賛という意味の場合も、感嘆や悲哀という意味の場合も、つい自然に出てくる感情という点では共通している。
努力を積み重ねて事を成し、人から「天晴れだ」と言われてみたいものだ。
(令和6年7月25日 5:10)
信頼を裏切る人
信用・信頼していた人に裏切られたという経験は、私には無い。だが、世の中において、「人に裏切られた」という人は少なくないのではないか。私も裏切られたのではないが、なぜか急に去っていかれたということはある。いまだに、原因は分からない。
ある人が、「いつか裏切る人の特徴」について記していた。とても興味深いし、多くは的を得ていると思った。ご紹介する。参考になれば幸いだ
1 いつも自己中心の人
このような人は、平気で約束を破
ることが多いだろう。ドタキャンも
平気。
2 自分の利益のためなら手段を選
ばない人
自身の目的達成のためなら、「何
でもあり」といった調子で嘘もつ
く。今は味方かもしれないが、いつ
手のひらを反すかも知れない。
3 相手の気持ちを尊重しない人
共感能力が著しく欠如しており、
相手の悩みを軽く扱う。他者の立場
に立って考えることができない。
4 相手によって態度を変える人
風見鶏のように態度を変える。目
上には「はい、はい」と服従する
が、目下には横柄な態度をとる。
5 隠し事が多い人
いつも曖昧な物言いで、相手に対
して胸襟を開かない。
6 小さな嘘を平気でつく人
小さな嘘をつくことが常態化して
いる人は、いつか大きな裏切りをす
るだろう。
7 被害者意識が強い人
「損ばかりしている」「理解して
くれない」といつも零す人は、自ら
の行動に責任をとらず、すぐ人のせ
いにする。信頼関係を築けない。
8 妬み心や嫉妬心が強い人
人の成功を素直に喜べない人は、
あなたが成功した時に裏切る可能性
が高い。
9 言い訳ばかりする人
非を認めることができないので、
課題の本質に向き合えない。いざと
いうとき、あなたに責任を押し付け
る。
10 金銭にだらしない人
金銭感覚がルーズな人は、お金に
係わってトラブルを起こす可能性が
高い。
信頼できる人を見つけるのは難しい。「裏切る人」をちょっとした兆候から見つけることができれば、それに越したことはない。相手をよく観察して、怪しいと思ったならば距離を置くのが賢明だ。
自身の言動を振り返り、抵触するものがあるならば改善しよう。でなければ、人からの信用・信頼を得ることはできない。
(令和6年7月25日 4:39)
覚 悟
「覚悟が大事だ」「覚悟して置け」「覚悟ができていない」などと、「覚悟」という言葉はよく使われる。
「覚悟」は辞書によると
1 危険なこと、不利なこと、困難なことを予想して、それを受けとめる心構えをすること。
3 きたるべきつらい事態を避けられないものとして、あきらめること。観念すること。
5 知ること。
とある。
本来、覚悟は眠りからさめること、目がさめていることを意味する言葉だ。もともと、「覚」も「悟」も「さとり」という意味だから、迷いを去り、真理を体得し、さとりの智恵を得ることを意味する仏教語なのだと。
「覚悟する」の言い換え・類義語としては、
などだ。
何を為すにしても、志を高くして「覚悟」を決め、不撓不屈の精神で臨まねばならない。
今の政治家には、「覚悟」と「責任」の希薄な方がほとんどのような気がする。
(令和6年7月24日 13:10)
草木にも魂が
拙宅から70㍍くらい離れたご近所のお宅に、2~3日前に植木屋が入った。
このお宅の前の持ち主は私より二回り以上も歳上の方で、庭づくりにとても熱心で美しい庭を維持されていた。
40年近く前の話だが、前庭の白のヒラドツツジがあまりにも奇麗なので、お願いして挿し穂をいただき挿し木して育てた。
その方は息子さん夫婦と同居されていたが、お亡くなりになられた後、間もなく息子さん夫婦も隣町に移転され、10年以上空き家となっていた。
次に入居された方は私より少し若い独り身の方だった。庭には興味が無いようで、剪定や雑草の処理もせず庭は荒れ放題となった。そのお宅のお隣りは私が懇意にしている方で、庭いじりに熱心な女性であった。口には出されなかったが、隣が「幽霊屋敷」のようになっている状況は、内心忸怩たる思いであっただろう。
そういう荒れた中でも、前述の白いヒラドツツジは春になると引き続き美しく咲き続けていた。けなげなヒラドツツジに、私は妻と二人、毎年心の中で拍手を送っていた。一方、挿し木した拙宅の白いヒラドツツジは大きくなり、シンボルツリーの一つとして毎年見事な花をつけている。
さて、本題に戻る。「思いっ切り伐ってくれ」と依頼されたのであろう、玄関前のマキを除いてすべてを根元から2~3センチを残して伐採された。前庭のヒラドツツジも例外なく。なんでそこまでと唖然としてしまった。
元の持ち主、丹精こめて庭を造られたお爺さんは、あの世で嘆かれていることだろう。ただ拙庭に受け継がれたヒラドツツジには、微笑んでおられることと思う。
今朝は、有明の月がとても美しい。『早起きは三文の得』だ。
思わず次の和歌が浮かんだ。
ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる
(後徳大寺左大臣)
ホトトギスが鳴いた方を眺めやれば、ホトトギスの姿は見えず、ただ明け方の月が淡く空に残っているばかりだった。
本名は藤原実定(ふじわらのさねただ)。大炊御門右大臣藤原公能(きんよし)の子供で、百人一首の撰者、藤原定家のいとこ。祖父も徳大寺左大臣と称されたので、区別するため後徳大寺左大臣と呼ばれる。詩歌管弦に優れ、平安時代末期の平氏が栄えた時代に大臣の職にあった。
ホトトギスば3月から5月にかけて日本に渡ってくるので、「夏を告げる鳥」と呼ばれる。そのため「時鳥」などと呼ばれて愛され、文学的にも格調の高い景物として扱われる。
平安時代の雅を愛する貴族たちにとって、夏のはじまりに飛来するホトトギスは、季節の訪れを象徴する鳥として、ウグイスのようにとても詩的な魅力的なものに思えただろう。
特にホトトギスの第一声(初音)を聴くのは非常に典雅なこととされた。そこで山の鳥の中で朝一番に鳴くといわれるホトトギスの声をなんとか聴くために、夜を明かして待つこともよく行われていたと。
ホトトギスは動きが敏捷で、こちらと思えばまたあちら、というように移動するそうだ。作者が「ホトトギスの初音だ」と振り返った瞬間、もうホトトギスはそこにはいない、という印象もこの歌には込められているのだろう。
この歌は、「百人一首」の中の一首でもある。
(令和6年7月23日 5:17)
高い「人間性」
高い「人間性」を備えている人とは、どのような人を言うのか。11を挙げてみた。まだまだ、あるだろう。
すべてを備えることは易しくはないが、日々の積み重ねが自らを成長させ「人間力」を高めるだろう。心したい。
1 徳が高い
徳(仁・義・礼・智・信)を念頭に、「ありがとう」「すみません」が素直に言える。自分がされて嫌な事は、人に対してしない。
2 怒りの感情を制御できる
腹が立っても、それをすぐには表に出さない。冷静さを保ち、対処する。
3 人に流されない
他者の意見も聞けるが、強い信念を持ち人に流されない。バランス感覚も高い。
4 誰とでも会話ができる
相手の興味や関心などを素早く掴み、誰とでも自然に会話ができる。
5 皆にとっても心地よい環境を作ろうとする
周りの人が心地よいと思える環境を作れる。
6 自己肯定感が強い
自分を認め、ほめることの出来る人は、他者にもやさしくできる。
7 常に学び続ける姿勢をもつ
謙虚であって、常に学ぶ姿勢をもつ。志高く、飽く事無く可能性を求める。
8 不撓不屈の精神をもつ
失敗したり、苦境や逆境に陥っても、へこたれない。
9 調子に乗り過ぎない
幸運が続いている時こそ気を引き締め、抑制する。常に、「好事魔多し」と考える。
10 足るを知る人
何事にも、「満足する」という意識を持つ。不満を言っても、状況は変わらない。
11 他者を立てる
自分の事は後回しにして、先ずは他者を立てる。
(令和6年7月22日 4:41)
断薺画粥(だんせいかくしゅく)
「四字熟語」を学んでいたら、断薺画粥(だんせいかくしゅく)という熟語に出会った。
意味は、「貧乏に耐えて勉学に励むこと」であると。
「薺」は、なずな(ぺんぺん草)のことで、「断薺」は、なずなをきざむ意味だ。
「画」は、たてよこに線を引いて四つに区切る意で、「画粥」は固くなった粥(かゆ)を四つに切ることとあった。
出典は、「中国北宋(ほくそう)の范仲淹(はんちゅうえん)という男は若い頃貧乏で、なずなをきざんでおかずとし、冷えて固くなった粥を四つに切って、朝晩二つずつ食べるという生活をしながら、勉学に励んだ」という故事から。
私も范仲淹の爪の垢でも煎じて飲めば、学びに熱心になれるだろうか。恵まれた環境にあるのだからもっともっと学ばなければならないし、世のため人のために汗をかかなければと改めて思った。
類義語としては、蛍雪之功(けいせつのこう) 蛍窓雪案(けいそうせつあん) 車胤聚蛍(しゃいんしゅうけい) 苦学力行(くがくりっこう)がある。
(令和6年7月20日 4:40)
下問を恥じず
「下問を恥じず」は、『論語』(公冶長第五)由来の言葉である。
「年下の者に道を問うことを恥としない」「若かってもあることに精通している者に対して、問うことは恥ずかしい事では無い」という意味だ。
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」に通じる。
70歳を超えると、何か新しいことを学ぼうと思ったら、ほとんどの場合、先生は年下である。下問を恥じていたら、何も学べない。年下の人から学ぶ姿勢を忘れてはいけない。
最初に年下の人を「先生」と呼んだ時には、なんだか違和感を覚えたが、最近は慣れてしまった。
余談だが、教師仲間では、「〇〇先生、▽▽先生」と呼び合うのが普通だった。私は現役のとき、先輩であっても「●●先生」とは呼ばなかった。上にも下にも、「□□さん」で通した。互いに「先生」と呼び合うのには抵抗があった。
教え子の何人かと親しく付き合っている。たまには、呑みにも。教え子と言っても63~64歳だ。孫持ちも。彼らに教えて貰う事も少なくない。彼らも厳しい社会を生き抜いて来たので、一家言を持っている。
幾つになっても、「下問を恥じす」の言葉を忘れないようにしたい。
(令和6年7月19日 8:34)
怨みを匿して(うらみをかくして)
論語に「怨みを匿して其の人を友とするを恥ず」(うらみをかくしてそのひとをともとするをはず 公冶長第五)とある。
怨みをかくして、友として親しく交わるのを恥じる、という意味である。
「ひどく憤慨するような事をされ内心苦々しく思っているのに、それを抑えてその人と親しくつきあうようなことは恥じるべきだ」ということだろう。
一般には、「いやなことがあっても、いやな人でも、それを抑えてにこにこと対応する」というのが望ましいとされ、大人の生き方だとされる。
だが、私にはそれはできない。孔子も同様であったようだ。
「いやなことがあっても、それを抑えて笑顔で」は、慇懃無礼(いんぎんぶれい)に繋がらないか。人生はそう長くはない。いやなことを我慢して生きることもないのではと思うのである。
慇懃無礼(いんぎんぶれい)とは、表面はきわめて礼儀正しく丁寧であるが、実はひどく尊大であること。また、言葉遣いや態度などが丁寧過ぎるのは、かえって無礼であること。
(令和6年6月19日 4:48)
遺憾千万
何か協力の要請をした時に、意気に感じていただけたのか「よっしゃ分かった。一肌脱ごう」と自らの事を差し置いて協力して貰える方が居られる。私の周りには大勢。一方、少しの努力で協力も可能なのに、深く考えること無く進んで汗をかこうとしない方も世間には居られる。
「協力するしないは個人の自由」だが、「何とかしよう」というのが情のある生き方だろう。「仁」だと言える。そのような中、遺憾千万(いかんせんばん)という言葉が脳裏をかすめた。
遺憾千万は、非常に残念(=遺憾)でたまらない事。 思いどおりに事が運ばず、非常に心残りなことを表す。 「千万」は程度がはなはだしい意味。
自分にとって有利な事(益になる事)については、いの一番に手を挙げる。だが、しんどい事にはダンマリを決め込む。そのような情けない方も少なくない。
常日ごろ、「他者のために汗をかく」という事を念頭に置く。まだまだ不十分ではあるが、実践に努めている。「自分さえよかったら」「自分たち仲間冴えよかったら」という気持ちを抑えて皆が生きるならば、紛争は起こらないだろう。
困っている人を見かけたら、「何とか力に……」と思いたいものだ。
(令和6年7月17日 4:20)
「人間到る処青山有り」
(じんかんいたるところにせいざんあり)
「人間到る処青山有り」について、言葉を分解して見る。
まず「人間」については人々の間のことを言う。これはいわゆるヒューマンではなく世の中を指している。そこは通常の「人間」とは違う。「到る」は、ある場所や時間、状態に行き着くことを表す。また「青山」は骨を埋める墓地などのことを示す。これらをまとめると、世の中にはどこにでも骨を埋める墓地があることを意味する。
大望を実現するためには故郷にこだわらず、広い世間に出て活動すべきであるということを言っている。心置きなく挑戦することの大切さを説いた言葉と言える。望みを叶えるには、リスクを恐れずに動くべきだという教え・戒めとしても使用される。
出典は「月性」という僧侶の詠んだ詩の一節から
「人間到る処青山有り」は幕末の僧侶、月性の詩「将に東遊せんとして壁に題す」に由来する。月性は教育者としても活躍した人物だ。また、思想家や剣術家としても知られた。そんな彼が詠んだ詩の一部が「人間到る処青山有り」なのである。
故郷を出る決意が込められた詩となっている
月性は、周防(現在の山口県)に生まれた。27歳の時、著名な漢学者である篠崎小竹に弟子入りする。故郷を出る際に詠んだとされるのが、「人間到る処青山有り」を含む詩だ
彼は一度決心して故郷を出るからには、学問が身につくまでは帰ってくるわけにはいかないと心に誓ったのだろう。その決意の後に詠んだのが「骨を埋めるに何ぞ期せん墳墓の地、人間到る処青山有り」という一節だった。これは先祖代々の墓に葬ってもらおうとは考えていないことを詠っている。それに続いて、世の中どこに行っても墓地になる森はあるとも。つまり、彼は故郷に固執するのではなく、挑戦のためにはどこへだって行くという気持ちを詠っている。決意の気持ちが、この言葉に集約されている。
月性の漢詩
男兒立志出郷關
學若無成不復還
埋骨何期墳墓地
人間到処有青山
(読み下し文)
男児志を立て郷関を出ず
学若し成る無くんば復た還らず
骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん
人間到る処青山あり
(通釈)
男子がひとたび志を立てて故郷を出たからには
学業の成就をみなければ故郷に帰るものではない。
骨を埋めるのは必ずしも先祖代々の地を望むものではない。
この世はどこにあっても墓地となる青山はあるのだから。
ということで、「青山」とはお墓のことだ。そして、ここでいう「青山」とは必ずしも石のお墓に限るわけではない。
現代では「野望のためには故郷にこだわらず夢に向かって突き進め」というような意味でも使用されることが多い。自分への励ましの言葉でもある。
「青山」だが、もともとは中国の北宋時代(10世紀前後)に詩人の蘇軾が弟に送った詩の一節に、「是処青山可埋骨」とあり、骨を埋める場所を「青山」と言っている。
「人間」を、現代では(にんげん)と読まれることもあるが、微妙にに意味合いが違ってくる。
(令和6年7月16日 5:08)
銘肌鏤骨(めいきるこつ)
銘肌鏤骨とは、深く心にきざみこんで忘れないこと。肌にきざみつけ、骨に彫り込む意から。
「銘肌」は、肌にきざみ込むこと。
「鏤骨」は、骨にきざみ込むこと。
出典 『顔氏家訓(がんしかくん)』
『顔氏家訓』は、中国北斉の顔之推(ガンシスイ)が著した家訓であり、子々孫々に対する訓戒の書だ。
「銘肌鏤骨」を心がけてきたことがあるかと思い起こすとき浮かぶのは、「賭け事」に手を出さなかったことだ。
「賭け事をするな」は、父からの忠告だった。学齢に達する前から10歳くらいまで繰り返し言われ、脳裏に刻みこまれた。「勉強しなさい」などとは、一度も言われたことがなかった。言われなくともやったと言うのではない。
父の忠告を、現在まで頑なに守って来た。競輪・競馬・競艇はもちろんのこと、パチンコも麻雀もしたことが無い。「宝くじ」がギャンブルに入るか否かは意見の分かれるところだが、「宝くじ」も買ったことが無い。
いい加減な性格で何の取り柄も無い私が、何とか人並みに生活できているのは、父の忠告を「銘肌鏤骨」し守って来たからだと思っている。
私は長男でありながら、父の創業した家業を継がず好きな道に進んだ。親不孝者である。ただ忠告を守って来たことについては、あの世で喜んでいるのかも……。
(令和6年7月16日 4:47)
「論語」は中国社会に存在しない
多くの日本人は、中国文化と中国人文化の違いを区別できない。日本が中国の本質をどうしても見抜けない根本的な原因は、この部分だろう。
日本人は中国と同舟とは考えていないものの、少なくとも同文化、同じ漢字文化を共有していると考えている。日本文化のかなりの部分が中国から伝わったもので(実際は違うのだが)、少なくない日本人が中国の古典といわれる詩や芸術、音楽、哲学などの文化に、若干の憧れに近いものを持っているとも思われる。
確かに中国文化には優れたものがたくさんあり、中国の古典には立派なことが書かれている。しかし、それらは中国人の実社会には存在しない。日本人は、それが分かっていない。
中国文化、特に古典と言われる『史記』や『漢書』、『論語』、『孟子』、『春秋』などは、基本的には3つの理由で重要視されてきたと考えられる。
一つは勉強するためのものだ。中国には科挙制度があった。それらを勉強して試験に合格しなければ、官僚にはなれなかった。官僚にならなければ権力者にはなれなかったということである。
もう一つは、権力者が見て楽しむための娯楽だ。
最後の三つ目は、権力者がそれを使って民を統治するための手段になっていたということである。
日本人が中国文化を理解できないわけ
日本人がなぜ中国文化を理解できないのかを簡単に説明すると、日本文化がほぼイコール日本人文化と言えるからだ。例えば日本の文化の中で俳句や短歌を例に挙げると、これらは別に特に教養のある人間だけが楽しむ文学では無い。また権力者がそれらを用いて、民を統治するための道具でも無い。田舎であろうが、都会であろうが、職業も貧富も関係なく、誰もが俳句や短歌を詠んで楽しんできた。しかし、中国ではそのようなことは無い。
中国の親は子供の嘘を賞賛する
外国人から見れば、日本文化の中心、最も本質的な部分は、真(しん)だとよく言われる。真実の真(しん)、真(まこと)だ。日本人社会、日本人文化は、誠実さを中心に形成されてきた。日本人の誠実さ、真面目さというのは別に努力して身に付けたものではなく、日本文化のなかに自然と存在しているものだ。
一方で、中国人的な発想からすれば、日本人は何の目的で誠実に生きるのかと考えるようだ。日本の文化と西洋の文化で非常に一致していることは、「美徳そのものが美徳の報酬である」とも言える。
なぜよい行ないをするのか、なぜよい人間になるのか、なぜ美徳が身に付いているのか。それは、日本人の多くが、美徳そのものが報酬だと考えているからだろう。しかし中国文化は、イコール中国人文化ではない。もっと分かりやすい説明をすると、中国では親が自分の子どもに教えるのは中国人文化である。中国の教科書にも人間は誠実であるべきということは書かれてはいる。が、これは中国文化の部分で、要するに偽りの文化と言える。実際の中国人社会の中には存在しない。
中国人文化の本質は「偽り」だ。日本の「真」とは真逆なのである。だから中国人の親は子どもに、「他人には本当のことを言ってはならない」と教える。また、「他人を信用してはならない」とも。これはずっと昔から今まで中国人の親が子どもに教え続けてきたことであり、他人にはウソをついてもよいということなのだ。
日本を訪れた中国人観光客が、繁華街であろうが何処であろうが、大きな旅行カバンをゴロゴロと引いて歩くのは、信用して預けることが出来ないのが理由だろう。「他人を信用してはならない」との、小さい頃からの教えに従っているのだ。
「中国政府が発表する統計資料は嘘ばかり」と言われるが、「嘘をついてもよい」という考え方だろう。
極論すれば、中国人文化は基本的には偽りの文化、詐欺師の文化ということになる。
私は「論語」を学び、講じているが、けっして中国文化や中国人文化を礼賛している訳では無い。「論語」に書かれている内容(章句)に、今を生きる私たちに大きな示唆を与えてくれるものが数多く鏤められているからだ。
中国共産党の現幹部たちが率先して「論語」を学び、そして中国の中で少しでも「論語」の内容が浸透すれば、世界の国々と仲良くやっていけるだろうと思うのである。
子どもたちに、「他人には本当のことを言ってはならない」とか「他人を信用してはならない」などの戯言を教えないようにしてほしいと願うのである。
(令和6年7月15日 11:45)
81年前の人種平等サミット 大東亜会議
日本の敗色がやや感じられるようになった昭和18年11月、アジア7カ国の代表が東京に集まって、史上はじめてのアジアサミットを開催した。
当時の東南アジアの人々の人種差別や欧米植民地支配への憤りを共通の課題として、その解放を目標に日本を核として大東亜戦争に勝利し、独立を果たし、共に支え合う経済圏を確立する大東亜共栄圏の確立を共にめざそうというのがこの会議の主旨だった。
欧米の植民地支配からのアジア各国の独立と共存共栄、白人による人種差別を許さないことを東京に介したアジア各国を代表する7人が集い、宣言したのである。会議の舞台は、帝国議会の議事堂、現在の国会議事堂だった。
出席した首脳たちは、
・中華民国の汪兆銘行政院長
<辛亥革命の志士で、日本は彼の政権(南京政権)に対して治外法権を撤廃し、租界を返還した>
・タイのワンワイタヤコーン殿下
<戦後、外相、副首相、国連総会議長になった>
・満洲国の張景恵国務総理
<清朝の軍人から中華民国の閣僚を経て満洲国のナンバー2になった人物である>
・フィリピンのホセ・ラウレル大統領
<戦後、上院議員として活躍した>
・ビルマ(現ミャンマー)のバー・モウ国家元首
<ケンブリッジ大などに留学した弁護士、哲学博士で、イギリスに抵抗する独立運動に身を投じ獄につながれた>
・日本の東条英機首相
・オブザーバー出席の自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボース
<独立運動の指導者としてガンジー、ネールとともにインドの国会議事堂に肖像画が掲げられる英雄である>
アジアを代表する錚々(そうそう)たる7名だった。
前述のとおり、昭和18年11月といえば、日本の敗色が感じられるようになった時期である。それでも命の危険を顧みずアジア7カ国の代表が東京に集まった。ちなみに、「大東亜共同宣言」を発したこの7カ国の中で、大東亜戦争開戦前の時点で独立国であったのは、日本国、中華民国(支那)、タイ王国、満州国の4カ国だけだった。
この時期の世界で、有色人種の独立国というのは、実はこの4カ国だけだったのだ。
後に、大東亜戦争の開戦により日本陸軍の南部フランス・インドの進行作戦の成功によりビルマとフィリピンが独立を果たしていることが、まさに大東亜会議によって発せられた【大東亜宣言】の実効性を裏付けるものではないだろうか。
ではこの時期アジア以外の、アフリカ、中近東、南米などの地域ではどうだったのかといえば、すべて白人たちの植民地だった。国でさえなかったのである。
胸を張って「大東亜戦争」と
植民地だったこれらのアジア各国の首脳を集めたアジアで初めての国際会議。それが大東亜会議であり、この会議をもとに各国が互いに支え合って独立を誓い合ったのである。
この大東亜における「共に支えあい共に栄えてアジアに立とう」を目指した7人の侍たちの思いを歴史に残すことは、戦勝国が戦後、再びアジアを自分たちの都合の良い経済戦略下に組み入れるためには抹消しておかないとまずいと考え、大東亜戦争の呼び名が「太平洋戦争」へと一方的に呼称、変更されたのだ。GHQ「連合国指令本部」、米国の方針であった。
現在、「大東亜戦争」と口にすると、「偏向した考えの持ち主・軍国主義者」などと思う人がいるが、とんでもない話なのである。欧米諸国からアジアの人々を解放しよう、そして「共に支えあい共に栄えよう」とした貴い考えからの呼称である。
私たちは、胸を張って「大東亜戦争」と呼ぶべきなのである。
改めて言って置くが、けっして戦争を賛美する立場ではない。歴史の真実を学んでほしい、知ってほしいのである。
日本は大東亜戦争でアメリカに負けた。しかし、東南アジアの人たちは、日本兵の戦いぶりを見ていた。欧米人が日本軍に蹴散らされた様子を。欧米人は、4~5百年の長きに渡り東南アジアの人々を抑圧支配してきた。東南アジアの人々は過去において幾度も反乱を試みたのだが、そのたびに失敗に終わっていた。とても欧米人にはかなわないと、独立をあきらめてきた。
しかし、その欧米の白人たちが日本軍に敗れ、逃げたり捕虜になったりしたのを目の当たりにしたのである。しかも、アジアの同じ人種日本人にたった半年で。
これは、東南アジアの人にとっては「奇跡」だったのだ。
東南アジアの人たちは日本軍の奇跡から学んだ。軍とはこのように動かすものなのか、国のために戦う精神とはこういうものなのかなど、実際に見て、目覚めたのである。
昭和20年8月15日以後、現地において敗残兵となった日本兵の中には、祖国日本への帰国を断念して東南アジアの国々の独立運動家たちの願いを受けた。再度植民地化を目論む欧米諸国との戦いに挑むために、残留義勇兵として身を捧じた。東南アジアの国々の独立のために、現地の人々と共に戦った日本人たちが少なからずいたのである。
敗戦後のインドネシアでは、再度の植民地化のために侵攻してきたオランダ軍に対して2千人以上、ベトナムではフランス軍の侵攻に対して600人以上の残留日本軍兵士が独立戦争に関わった。まさに、若き日本兵たちの戦いの胸の内は「アジアの白人支配からの同胞たちの解放への思いだったのである。東南アジアの国々は、日本の敗戦後の動揺を乗り越え、その後独立を勝ち取っていった。
東南アジアの国々が独立を果たすと、これがきっかけになって世界中の植民地が立ち上がった。自分たちもできるはずだと。そして第二次世界大戦後、次々と独立を勝ち取ったのである。
(令和6年7月15日 8:00)
日本人の成立は 斎藤成也
日本人の成立について、斎藤成也(国立遺伝学研究所 特任・名誉教授)氏が次のように述べておられる。ご紹介する。
日本人の成立には3種類の仮説があります。
1つは置換説で、縄文人と弥生人が置き換わったというもの。第1の移住者の子孫は先住民、そして系統の異なる第2の移住者の子孫が現在の日本人である。すなわち先住民は完全に死に絶えて先住民のDNAは我々には伝わっていない。置き換わった=置換説です。
かつて世界の人類学では人間が交代する、人種が交代するという置換説が当たり前の考え方でしたから、その流れの中で出てきた説ですが現在は否定されています。
次に変形説です。これは、第1の移住者の子孫が時間的に変化して現在の日本人になっていったという説です。
この変形説は時代的には一番新しく登場して、かつて私が大学生だった1970年代、あるいはその前の1960年代は一世を風靡していた説です。
東京大学人類学教室を創られた長谷部先生、その跡を継いで主任教授を務められた鈴木尚先生が支持したことで研究界に広がりました。
実際に江戸時代〜明治時代、それから現在までさらに大きく、身長がどんどん伸びており...『短頭化現象』というのですが、顔の形もそれなりに変わっています。そういう発見から、縄文時代〜弥生時代以降の人々はやはり同じ人々でいつの間にか顔が変わっていったのではないか? ということを指摘されていました。
しかし残念ながら現在では否定され....科学の点から見ても滑稽としか言えない説となっています。日本の人類学、自然人類学をずっとリードしてきた東京大学のお二人が支持していたということで、弟子たちも「なんかおかしいな」と思いながらも、それに従ったことで1960,70年代はこの説が学会全体を支配しておりました。
そして最後に混血説です。これは第の1移住者の子孫に、それ以降の移住者が混血して現在の日本人となったという説です。もっとも古く提唱されたのは、いわゆるお雇い外国人教師として帝国大学の医学部の内科を担当していたドイツ人のベルツによるものですが...現在では私の研究グループをはじめ次々に縄文人のDNAが解析され、現代の日本人と比較可能になったため科学的に証明されるようになりました。
日本人・中国や朝鮮などのアジア人そして縄文人のDNAを比較すると...はっきりと私たちとのつながり、そして他地域との関係が見えてくるのです。
彼らはいつやってきたのか? 我々にはどのくらいそのDNAが残されているのか? 骨のかたちなどではなかなか証明することは難しかったより詳細で複雑な日本人の起源史が、DNAが明らかになったことで紐解かれつつあります。
不惜身命
(ふしゃくしんみょう)
「不惜身命」とは仏教語であり、あることのために身も命も惜しまないこと、身を顧みないことをいう。
「不惜」は惜しまないこと。
出典は、『法華経ほけきょう』だ。
何かを達成するためには、身も顧みず没頭することが求められるだろう。しかしそのことを分かってはいても、私のような凡人にはなかなか出来ないことだ。
学びに、「もうこれでよし」は無い。生涯学び続けようとする気持ちを継続することが求められる。「丘の學を好むに如かざるなり」(私ほど学を好む者は居ない)と自負した孔子でさえ、「朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり」<あしたにみちをきけば、ゆうべにしすともかなり>と、なかなか人として歩むべき真理を見いだせず思い悩んだようだ。
そして、弟子たちにも「学びて思わざれば則ち罔く、思うて学ばざれば則ち殆し」<まなびておもわざればすなわちくらく、おもうてまなばざればすなわちあやうし>(学ぶだけで深く考えなければ、本当の意味はわからない。考えるのみで学ばなければ、独断に陥って危うい)と、先人に学ぶことと自分で思索する必要性を説いた。
加えて、「人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患うるなり」<ひとのおのれをしらざるをうれえず、ひとをしらざるをうれうるなり>(人が自分のことを知ってくれないことは憂えず、自分が人を知らないことを憂えなさい)とも。
世の中には立派な人が数多く居られる。「少しばかり学んだからといって天狗になってはならぬ」ということだろう。心したい。
「不惜身命」の気持ちで以て、死ぬまで学び続けたいものである。
(令和6年7月15日 5:03)
意気に感じる
若いときから、「意気に感じる」という言葉が好きだ。現在まで、そのような生き方を心がけてきたつもりだ。実践してきた。
「意気に感じる」は、中国の故事「人生意気に感ず 功名誰か復た論ぜん」に由来している。唐の太宗に仕えて苦労を重ねた結果、志をとげ、功労のあった魏徴が感想を歌ったものとして有名である。人生は情熱で動くもので、「功名・手柄など誰が求めるか」という意味だ。
相手の何かをしようとする心持ちに、自分も何かをしようという気になることであり、人のやる気や熱意に触発されてこちらもその気持ちや気配に同調することである。
人は、「この心意気が無くなったら終わりだ」と思っている。努力している人の姿を見て、「よし、あの人のためにも頑張ろう」という気持ちが無くなったならば、この世は終わりだくらいに思っている。それがあるから社会が上手く回っているのだと思う。
お互いの努力を認め合い、助け合うことが「意気に感じる」の言葉には含まれているような気がする。この言葉が念頭にあるとき、自分勝手な行動はとれないはずだ。その意味からもこの言葉が好きだ。
さて、出展数が減り寂しくなった町の文化祭を、「先ずは本連合会から盛り上げよう」と現在、呼びかけている。意気に感じていただけたのか、多くの方からの出展申し込みをいただいている。この勢いが続くと、三生連の出展数は昨年度の5~6倍以上になりそうだ。
意気に感じていただける方の多い『三生連』の会長を務めていることを、誇りに思う。もっともっと、『三生連』のために汗をかかなければと思うのである。会員諸氏に感謝申し上げるばかりだ。
(令和6年7月13日 21:03)
青雲の志
誰しもが若い頃、青雲の志(せいうんのこころざし)を抱く。そうでなければならないと、私は思う。4~5歳くらいから、両親を始め周りの大人が仕向ける(アドバイスする)ことが大事だろう。「意欲に火をつけてやる」ということだ。
辞書には、「青雲の志とは、徳を磨いて、立派な人物になろうとする心。 また、功名を立て立身出世をしようとする心」とある。「青雲」は雲の上の青い空を意味し、高位・高官、立身出世のことをいうとも。
今から2500年前の中国の思想家 孔子は、73歳まで生きた。現在の年齢で言えば、90歳超だろう。晩年、自らの人生を振り返り、誰もが一度は耳にしたことのあるあの有名な言葉を遺した。『吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い(したがい)、七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず(こえず)』。
数年前に「古希」を超え、今、自らの「青雲の志」はどうなったであろうと思い起こすとき、けっして胸を張れるほどのものでは無い。ただ完璧に『青雲の志』が達成できた(した)と言える人は稀れだろう。
会員や読者諸氏は、如何だろうか。今からやり直しは難しいが、孫や玄孫の意欲に火をつけてやることは可能だろう。
「今からやり直しは難しい」と申し上げたが、「生涯学び続けることが大事」を念頭に「今日から努める」ことは今からでも出来る。「学び」にもう遅いは無いのである。
(令和6年7月13日 7:44)
幸せは
古代中国の思想家『荘子』は、「幸せとは幸せを求めないことである」と言われた。
欲しいものがあっても、すべては手に入らない。「幸せ、幸せ」と求めず意識の面でそこから抜け出し、この世界のほとんどは「苦」だと思うようにする。
恒久的な幸せは存在しないと思えば、気持ちが楽になるだろう。そして、「仁」や「徳」をいつも念頭に誠実に生きる。
仁……思いやりの心
徳……仁・義・礼・智・信
幸福に係わる名言を紹介する。
「幸福は受け入れる人にのみ存在しうる」
ジョージ・オーウェル(英国の作家)
「人の行動は思いどおりにならないが、それに対してどう反応するかはあなた次第である」
ロバート・K・ベネット(米国の作家)
「幸福とは問題がない状態を言うのではない。問題に対処する能力をいう」
スティーブ・マラボリ()米国の作家
(令和6年7牙11日 15:58)
蚊の感知力
同じ場所に居ても、蚊に刺されやすい人と刺されにくい人がいる。その違いは何か。
蚊はニオイや色で人がいるのを感知し、狙っているようだ。
人の体温(熱)や二酸化炭素、汗などが蚊をおびき寄せると。体温が高く、たくさん汗をかく子供や吐く息が多い人は、蚊に刺されやすい傾向があるらしい。血液型がO型の人やお酒を飲んだ人が刺されやすいという調査結果もある。
私は刺されやすいが、あてはまる事が多い。血液型はO型ではない。庭いじりをするときは蚊の餌食になるので、「献血はごめん」といつも蚊取り線香をぶら下げている。忘れると、途端に……。メーカーから表彰されるのではと思うくらい、売り上げに貢献している。本来の献血では、日赤から何度も受章しているが。
蚊の存在に気付かず、かゆみを感じてからようやく刺されたことに気付く場合が多い。なぜ瞬間には気付けないのか。大きな要因として挙げられるのが、針の太さのようだ。採血の際に使用される注射針の太さは、0.7~0.9mmくらいである。チクっと痛い。
鍼灸のときによく使われるのは0.14mmからのものだ。注射針の約5分の1である。蚊の口針はさらに細く約0.08mmなので、気付けないのも無理はないのだ。
また、蚊の口針の先端はギザギザしていて摩擦が少なく、1秒間に30回ほど細かく振動させながら刺すようだ。そのため、気付かないうちに刺されているのだと。
蚊は、なんと数十メートル先から吸血のターゲットを感知するそうだ。飛ぶときのスピードは時速約8キロでそれほど速くはないが、前述のとおり、嗅覚・視覚の他、熱や二酸化炭素も感知する。いくつもの感覚機能を駆使して人間のもとへやってくるのだ。
とは言え、すべての蚊が吸血する訳ではない。オスが栄養源としているのは花の蜜や果汁で、吸血するのはメスだけである。パチンと潰して確認したときに「まだ吸われていなかった」とほっとすることもあるが、そもそもオスであった可能性も考えられる。通常はメスも花の蜜などを吸っているが、産卵に必要なタンパク質を摂取するためにメスのみが吸血する。意外と大食漢で、1回あたり自分の体重と同量くらいの血を摂取するという。
他の病気が感染するかも知れない。刺されないようにお互い注意しよう。
(令和6年6月6日 5:41)
一週間ほど前から、拙庭で「桔梗」が咲き始めた。秋の七草に数えられているが、秋の七草は万葉集に収められている山上憶良の2首の歌が始まりであり、この和歌には桔梗とは無い。
「秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花」
「萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花」
一つ目の歌で「秋の野に咲いている草花を指折り数えると7種類ある」とし、二つ目の歌で「それは萩の花、尾花、葛(くず)の花、撫子(なでしこ)の花、女郎花(おみなえし)、また藤袴(ふじばかま)、朝貌(あさがお)の花である」と。
「朝貌」については諸説あるが、現在では桔梗を指しているというのが定説だ。
桔梗は多年草であり、その形の良さから多くの武将の家紋に用いられた。中でも明智光秀の水色桔梗の家紋は有名である。
桔梗の根を乾燥させ粉末にしたものは、痰や咳の薬として用いられているようだ。
〈花言葉〉は、清楚、気品、誠実、従順、変わらぬ愛、優しい温かさ
秋どころか梅雨も明けていないが、アジサイもギボウシの花も終わり、しばらくは蓮路苑の主役となってくれる。
(令和6年7月4日 8:51)
信用・信頼
「信用・信頼される人」とは具体的にどのような人かを考えてみた人が居る。受け売りになるが、「そのとおりだ」と思うので、挙げてみる。
1 挨拶がきちんとできる
2 約束を守る
3 古いものを大事に使う
4 人の話が聴ける
5 言動に筋が通っている
6 先を読んで行動する
7 他者の身に立って考えることがで
きる
8 気持ちや考えを表現できる
9 潔さがある
10 感謝と恐れの感覚がある
目新しいものは無く、当たり前のことばかりだ。しかし、この当たり前のことがすべて当たり前に出来ているかと言えば、出来ている人はそんなに多くはないのではないか。
「他者の身に立って考えることができる」についても、あるときは出来ても、あるときは出来ていないという人も多いだろう。
孔子は、「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」(おのれのほっせざるところ ひとにほどこすことなかれ)と言われた。「自分がされて嫌な事は、相手にもしてはならない」は多くの人が実行しているだろう。が、ときに忘れて、嫌な事をしてしまっていることもあるのではないか。私も、「完璧に出来ている」などと胸は張れない。
9と10とは、前の8つよりも難しいかもしれない。この2つをきちんと押さえることが出来れば、「器が大きい」と称賛されるだろう。
上記の10を、きちんと実行できれば信用・信頼を間違いなく得られるだろう。
(令和6年7月3日 20:05)
「存在感が薄い」「貢献度が低い」と思われる人は、どんな組織・団体にも居るものだ。全員が完璧に近ければ人間関係がとげとげしくなるかもしれないので、そういった人の存在価値もあながち否定は出来ないという意見もあるが、どのように思われるか。
「存在感が薄い」「貢献度が低い」といった人の特徴を4つ挙げる。
自らを振り返りあてはまるものがあれば、改善に努めることは、周りからの高い評価につながるのかも……。
1 仕事以外で努力せず、不満は言うが努力はしない
仕事のときは、それなりに働いているが、それ以外では学ぼうとしない人が居る。どのような地位にあろうと、自己研鑽は欠かせない。スキルアップを怠る人は取り残される。
愚痴ばかり零して行動しようとしない人、改善しようとしない人、努力もせずに文句ばかりの人は、そのうちに相手にされなくなるかも知れない。
2 頑張りの基準が低く、「忙しい、時間が無い」が口癖
「頑張っている」と言う人ほど、往々にしてその基準が低い。自分では頑張ったつもりでも、周りからは「それくらいは当たり前」と思われている。生きている限り、常に高みをめざす姿勢が大事だ。
本当に忙しい人は、忙しいと言わない。「忙しい」と零す人で、仕事の出来る人に出会う事は無い。「忙しい」が口癖の人は、時間の有効活用ができていない事がほとんどだ。時間管理のスキルを身につけることが求められる。
3 返信が遅い、指示された仕事しかしない
メールの返信が遅い人は、他の事でも反応が悪いことがほとんどだ。業務のスピード感に欠けていると取り残される。メールに限らず、返信の早さは業務に対する姿勢の表れとも言える。
与えられた業務しかしない人は、モチベーションに課題がある。「指示待ち」ではダメだ。自らの業務にやりがいを持ち、業務を前向きに捉えることが大事である。受け身の姿勢では、周りからの高い評価は期待できない。
4 ミスを認めない
ミスをしないように努めることは大事だが、「完璧」という事は難しい。ミスを生起させたとき、ミスを認めない人は信用・信頼を失う。素直に認め、詫びる。
ミスを繰り返さず、ミスを次に生かすことが求められる。失敗は成功の源である。隠さずミスを報告することが、評価される組織でなければならない。
冒頭で緩衝材の役割を果たすと言ったが、「評価育成システム」が組織内で有効に機能する場合は良い(バリバリ成果をあげる人が評価される)。そうでない場合は、業務の負担の偏りが組織内の不満を呼び、それが鬱積するようになることも往々にしてある。
そうなると、「引き抜き」(ヘッドハンティング)により他の組織(企業)に優秀な者が去ってしまうというような由々しき事態に陥るかも。
(令和6年7月3日 4:56)
朝、昼、夜 2
「朝、希望をもって目覚め、昼は懸命に働き、夜は感謝と共に眠る」の出典だが、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの哲学書『自省録』の中で、第五巻一つの箇所で「何をすべきか」という問いに対して、「朝、起きた時には自分が目的を持っていると確信し、一日を勤勉に過ごし、夜は、自分が努力をし、誰かのために尽力したことに感謝しつつ、安らかに眠るべきである」というような内容で述べられていると。
また、一説には、アメリカの実業家であるエルバート・ハバードが1904年に出版した『A Message to Garcia』という小冊子が、この言葉の元になった可能性がある、とも。
日本では、明治時代の官僚・教育者である大森房吉の『三愿堂日記』に似た言葉が見られ、この言葉が日本で広く知られるようになったとも言われている。
他にもさまざまな説がある。しかし、どれも確定的な根拠は無い。
平成29年3月15日 参議院予算委員会で、次のような質疑があった。
「人が生きる上で一番必要なものは空気だと思う。2番目は何だと思うか」
という問いに対して、当時の国務大臣(副総理) 麻生太郎が「朝、希望をもって目覚め、昼は懸命に働き、夜は感謝と共に眠る」と切り返した。
首相時代、漢字の読みの間違いで揶揄された麻生だが、このときは見事な「返し」だった。
ただ質問者からは、「ありがとうございます。一応通告してある質問なんでね、これもね。でも、まあ非常に詩的な表現といいますか、すてきな言葉を聞けたことに感謝いたします。」と返答している。
麻生が、咄嗟に述べた言葉ではないようだ。
「朝、希望をもって目覚め、昼は懸命に働き、夜は感謝と共に眠る」という言葉は、さまざまな受取り方がある。
朝、希望をもって目覚めることは、新しい一日を前向きに迎えることを意味している。新しい日には、新しい可能性や新しいチャンスがあることを期待することが大切だ。
昼は、懸命に働くことが重要だ。仕事や学業、家庭のことなどに全力で取り組むことが、充実した人生を送るために必要である。
そして夜は、感謝と共にに眠ることが大切だ。一日の終わりには、自分が達成したことや、周囲の人々が自分に提供してくれたことに感謝することが、幸福感を高めることにつながる。
つまり、この言葉は、前向きな態度を持ち、一日を有意義に過ごし、感謝の気持ちを忘れずに生きることが大切であるということを示している。
(令和6年7月1日 8:25)
県老連広報誌「大椿寿」に想う
奈良県老人クラブ連合会(以下、「県老連」)では、会員数が減り会費の減少、補助金の減額などもあり、事務局や執行部役員は連合会の運営に苦労されていることだろう。
会報「大椿寿」第186号がつい先日届き、配布中だ。5月の正副会長会議の折に聞いてはいたが、今号から編集・制作等の一切が業者に委託された。会員等からの原稿の収集は事務局がやられていると思われる。制作費用は、これまでは共同募金からの補助と広告料で賄っていたと思う。今回からは、業者が企業等から広告をたくさん集め、制作費用はそれで賄うことになる。という事は、共同募金からのお金(昨年度実績50万円)は、今年度からは他に使えるだろう。
「大椿寿」第186号は紙質が大幅に下がり、日刊紙と同等、それ以下となった。広告が多く読む会員によって印象は異なるだろうが、「品格」という点ではお世辞にも……。特に、1面は酷い。会長挨拶が無い。昨年度から発行回数が、3回から2回に減った。今年度、1回目の会報に「会長挨拶」が無いというのは理解に苦しむ。「スペースが無かった」とは思えない。何故なら、必要以上に大きくとっている記事が少なからずある。長々とした「挨拶文」は必要ないが、掲載しないというのは見識を疑ってしまう。
もう5年になると思うが、県老連は業者に委託して「ホームページ」を全く新しいものにされた。これについては、大いに拍手したものだ。それまでのホームページが、時代遅れも甚だしいものであったから。しかしながらその際も、顔とも言える「会長挨拶」が欠落しており、すぐに「改善を」と進言した。だが、「なしのつぶて」だった。いまだに、「会長挨拶」は掲載されていない。ホームページ中の「問い合わせ・意見」欄から申し上げたので、「履歴」に残っているはずだ。作り話ではない。
冒頭にも記したとおり、事務局のご苦労を理解していない訳では無い。市町村連合会の役員もどんどん高齢化し、運営を社会福祉協議会担当者に任せっきりに近かったり、反応の早くない市町村連合会も少なくないだろうから事務局も大変だ。
厳しい意見も述べたが、私も常々、もっときちんとしっかりせねばと反省している。お互い緻密な業務を心がけたいと思うのである。
(令和6年6月27日 10:08)
町文化祭に向けて
昨日(6/26)、町文化祭の実行委員会が開かれ、今年度の実施要項が決まった。10月26日(土)~27日(日)(25日<金>午後搬入)の開催だ。
昨年の終了時点から、あらゆる機会に申し上げているとおり本連合会がより多くの出展をして、寂しい状態になっているスポーツセンター内での『展示』部門を盛り上げたいと思う。
4月の支部長会でもお願いしたとおりだ。復興の「核」となれればうれしい限りだ。
近々支部への協力依頼と申込書をお届けする。ご理解を賜り、「出展者無し」といった支部が無いことを切望する。本部役員もどのような物でもよい、ぜひとも何か1点を……。
申し込み締め切りは、7月25日とする。なお、今年度は、町文化祭への出展をはじめ、総会・ハイキング・社会見学等への参加、会報への寄稿など、『本連合会への貢献』を総合的に評価し、貢献度の高い支部への「特別助成金」(仮称)の支給をしたい(2月予定)。
(令和6年6月27日 7:42)
松の話
松の手入れの話になると、10人中9人までもが「松は難しいでしょう」となる。これは、植木職人の影響が大きいと私は思う。結論から言うと、「それは嘘だ。けっして難しくない」のである。
三郷や平群には、植木業者(造園業)が多い。大阪の八尾市は造園業者が犇めく(ひしめく)。まともな業者はそんなことは無いが、そうでない植木職人は「松は難しい。素人には無理だ」と言われる。推論だが、『中途半端にさわってほしくない』『職域が侵される』といった考えからのものだろう。「素人には無理だ」の話が巷間伝り、「松は難しい」となっているのだ。
松の手入れは、理論的には単純だ。少し慣れれば易いとも言える。盆栽で言えば、松類の手入れよりも雑木の手入れの方が数段難しい。ただ理論的には単純なのだが、手入れには相当の時間がかかるのである。根気と持久力が求められるのだ。
平凡なレベルの高くない職人ほど、若い弟子に松の手入れを任せない。そのことも、「松は難しい」という嘘の流布に拍車をかけている。ひととおりハサミが使えるようになれば、弟子に教えて任せたらよいのだ。弟子も親方の話だけではなく、自ら研究する気持ちを持たなければならない。何の世界でも、研究と修養が大事だ。親方になっても同様である。
拙庭の黒松は、購入してから46年になるが、手入れで職人はもちろん他の人にさわらせたことが無い。ずっと一人で手入れして来た。5月初めの「ローソク芽(長く伸びた芽)のもぎ取り」、今の時期の「芽切り」、9月末から10月初めにかけての「芽摘み(不要の芽をかきとる)」と「古葉落とし」。それと薬剤散布と的確な水やりも。
そういった年間を通しての日々の手入れにより、樹格はどんどん上がっていく。46年前、現在地に引っ越した40年前の写真を見れば、それは歴然としている。ご近所では、職人に任せているにも拘らず、樹格が下がり続けている黒松を多く見かける中で……。
話は変わるが、そこそこの日本庭園も、子どもの代になると維持できず樹木は整理され、駐車場の拡大などへとつながってしまう。そういった例は、近所でも枚挙に暇が無い。新築の家では、駐車場ばかりが広いという事が普通になってきた。
そういった事が、今後ますます顕著になっていくだろう。拙庭でも、他人事では無い。
植木業者にとっても多難の時代である。
(令和6年6月25日 8:08)
人を知らない事を
『論語』には、512の章句が20篇にまとめられている。
その冒頭「学而第一」の最後に、「人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患うるなり 」(ひとのおのれをしらざるをうれえず、ひとをしらざるをうれうるなり)とある。
「人が自分の事を分かってくれなくても憂えるな。世の中には優れた人がたくさん居られる。人を知らない事を患えなさい。もっともっと努力を積み上げよ」
含蓄のある言葉だ。若いときは誰しもが「なぜこんなに努めているのに、人は分かってくれないのだ」と思いがちだが、「まだまだ努力が足りないことを思い知る」こと事が大事であると。
80歳になっても、90歳になっても、こういった言葉を思い起こし、さらに努力しなければと思うのである。
(令和6年6月24日 5:20)
奔放不羈(ほんぽうふき)
奔放不羈という四字熟語がある。出典は定かではないが、「なにものにもとらわれることなく、自分の思うままに振る舞う」という意味だ。「自由奔放」は、類義語である。
法律を犯すなどは論外だが、余計な気を使わず思うがままに生きて行けるならば、それに越した事は無い。
自らの人生を振り返るとき、幼少の時から現在まで、ある時期を除いてそのように生きて来たと言える。ある時期についても、家人に言わせれば「そうだったかなぁ」と。
要するに、「野に咲く花」のように生きて来られたと言える。そうできたのも、周りの支えがあったからだ。「感謝」を忘れてはならない。
残された人生は、「摩頂放踵(まちょうほうしょう)」の心で過ごさなければならない。
摩頂放踵 自分の身を犠牲にして、他人のために尽くすこと。出典 「孟子」
(令和6年6月22日 17:00)
孔 子
昨日(6/21)、孔子は晩年、「不正・不義によって得た名声や地位、財産などは、自分にとって浮雲の如し」と達観できるようになったと記した。
しかし、そのような孔子であっても、若い頃は世の中の矛盾に、不正・不義が横行する世の中に思い悩んだようだ。人としての道を真っ当に生き、誰よりも学門に励み、徳治政治(徳を基盤にした政治)を志す自分が、なぜ採用されないのか。自身の思想が、なぜ世の中に浸透しないのかと……。若い時期は誰もが、世の中の矛盾に対して「何でだ」と憤るのである。
そして、そのような「矛盾」「不合理」に対してへこたれることなく、弛まず努力を積み重ねることが大事だ。不撓不屈の精神で。
誰もが一度は耳にしたことのある『十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の欲するところに従えども矩をこえず』の章句は、孔子の歩んだ道筋を示している。
「四十にして惑わず」とは、あれやこれやと迷わず、「自らの信じるがままに生きよう」と40歳で決めたことを表す。
「五十にして天命を知る」とは、人がどのように生きるかは天が決めることだと50歳にして思い知ったことを。
「六十にして耳順う」は、60歳にして人の意見を素直に聴けるようになったと。
「七十にして心の欲するところに従えども矩をこえず」とは、70歳にして赴くままに行動しても、世の中の規範を破るようなことは無くなったと。
孔子の時代、「80歳を超えて生きる」などというのはあり得なかっただろう。
現在、本連合会会員の平均年齢は82歳、私の所属する支部では86歳である。本連合会会員で90歳超の方は、80名くらいだろう。
会員諸氏が過去を振り返ったり、現在の状況を思うとき、「八十にして……」「九十にして……」「百にして……」、どのように記されるであろうか。興味深い話である。
本連合会の「論語に親しむ会」では、『論語』に鏤められた珠玉の章句を会員と共に学んでいる。第一、第三水曜日の10時から、福祉保健センターの大広間で、楽しく学んでいる。ぜひ、ご一緒に学ぼうではないか。
連絡先
恒川 敏(つねかわ さとし)0745-32-0191 080-7797-7624
西村 恒子(にしむら つねこ)080-3817-3595
(令和6年6月22日 8:43)
浮雲の如し
〚論語〛述而第七(じゅつじだいしち)に、孔子晩年の人生観が示された章句がある。
ご紹介する。
子日わく、疏食を飯い水を飲み、肱を曲げて之を枕とす。楽しみも而其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し。(しのたまわく、そしをくらいみずをのみ、ひじをまげてこれをまくらとす。たのしみもまたそのうちにあり。ふぎにしてとみかつたっときは、われにおいてふうんのごとし)
通 釈
孔子が仰られた。「粗末な飯に水一杯、肱枕で寝るような貧しい状況であっても、心の楽しみは尽きることがない。道に外れた方法で得た富や身分など、私にとっては空に漂う浮雲のようなものであって、実にはかないものだ」と。
解 説
孔子晩年の人生観であり、不正な手段で富裕になる出世主義者は相容れないと述べている。孔子にとって粗末な衣食住の生活をすることは苦痛でも不幸でもなく、学問と道徳の実践の中にこそ、人としての『真の楽しみ』があると考えていた。
金銭や官位を得るために他人を不正な手段で蹴落としたり、賄賂を贈って取り入ったりするような生き方を、孔子が直接的に批判していない点に注目したい。全否定はしていないが、彼らは私にとって何の意味も価値も持たない『浮雲』のようなものだと語っている。『他人は他人、自分は自分』という明瞭な区分をしており、不正や強欲などの『徳の欠如』があっても、それを非難したり否定する必要性を感じていないのだ。
どのような職場でも、客観的に見て実力・実績に乏しいのになぜか昇任していく者が居る。私も約40年務める中で、そういう方を身近に少なからず見てきた。明らかに不正・不義を働き、上に昇っていく人を見てきた。
しかし、そのような者が昇任しても、万雷の拍手を得るような業績を遺されたかは、甚だ疑問である。それどころか、力及ばず腑抜けになったり、定年を前に退職した管理職の例は、枚挙に暇がない。相撲界などでよく使われる「家賃が高かった」ということになるのである。
孔子の凄いところは、不正や強欲などの『徳の欠如』があっても、それを直接的に非難したり否定しなかったところだ。
孔子にとっては、金銭や官位を得るために他人を不正な手段で蹴落としたり、賄賂を贈って取り入ったりするような生き方は何の価値も持たない、まさに「浮雲の如し」であったのだ。
孔子は73~74歳で亡くなった。私は現役当時、不正や不義を前にとても「浮雲の如し」の心境にはなれなかった。孔子が亡くなった年齢に達したわけだが、「浮雲の如し」の心境に少しは近づけたのかなと思う。
孔子の生きた時代(約2500年前)、平均年齢は40代以下であっただろうと推測できる。当時の73~74歳は、現在の年齢で言えば90歳超だろう。ということは、孔子より若くして世の中を達観視できるようになったのかなと、阿呆なことを思っているのである。
(令和6年6月21日 17:30)
苦労はしたほうがよいのか
質の高い苦労を
「苦労」には種類がある。するべき苦労と、しなくてもいい苦労である。
仕事においてするべき苦労とは、自分の仕事や会社をより良くするためにどのようなことができるかを懸命に考え、実行し、見直すことだろう。苦労というよりは仕事の基本とも言える。このような苦労は「努力」とも言い換えられる。これは、経験すべき種類の苦労である。
反対に、しなくても良い苦労とは「気苦労」だろう。人間関係に悩んだり、人と比較して悩んだり、これらの苦労は大体「取り越し苦労」である。より質の高い苦労=「努力」をしよう。
人間関係や人との比較など、どうにもならないことに悩んで時間を使うくらいならば、自分の仕事をもっと良いものにするにはということに考えを巡らせる方が良い。仕事は地道な作業の積み重ねだが、それを面倒くさがらずにいかにやれるかが大事だ。「若い時の苦労は買ってでもせよ」は、若いうちに『面倒なことでも、嫌がらずにやり切る習慣』をつけておきたい、という意味も含んでいる。
人間関係や人と比較して悩んでいるのであれば、まずはじめに自分のことを徹底的に見直してみる必要がある。内省することで、あなたの新しい面を周囲の人たちが見直す。その結果、関係が良くなったり、そもそも人と比較するといったことに意識が向かなくなるだろう。
真剣に取り組めば壁に当たる
真剣に仕事に打ち込んでいれば、買わなくても自然とそこにも苦労は伴うものだ。苦労は一生懸命打ち込めば打ち込むほどに尽きないものだ。「若いうちの苦労は買ってでもせよ」とは、一生懸命になることをためらうな、という意味も含んでいるだろう。
若いうちに一生懸命になることから逃げてしまうと、損をすることが多い。歳を重ねてからその姿勢を身に付けようとしても難しいし、何よりその時必死にならなかった結果、手にすることができたはずのチャンスを逃している可能性が高い。ちなみに、何事も打ち込んでいる場合は、それが苦労ではなく『当たり前』に思えているものである。
振り返ってみて、「あの時あれだけ頑張ったなぁ」という気持ちになるならば、仕事に打ち込んでいた証拠だ。歳を重ねてから「努力できたなぁ」と自分の仕事を振り返れるように、若者には今を一生懸命にやり抜くことが求められる。
若いからできることがたくさん
若いときは体力もあるし、失敗に対しても周囲が比較的寛容な場合も多い。そういう時に全力でやり切らないと、後々、本当に苦労をすることになるだろう。年齢を重ねると「失敗できない……」と自分の選択肢を狭めてしまったり、視野が狭くなってしまったり、挑戦することがますます億劫になってしまったりする。
無駄に時間がかかることや、ローリスク・ハイリターンなことを敢えてしなさいということではない。効率化やより安全な方法はむしろ取るべきだ。ただ単純に、やるべきことを当たり前にやれるだろうか。「若い頃の苦労は買ってでもしろ」という言葉は、そんな意味も含む。
仕事は、時に面倒なことや困難を伴う。それが仕事というものである。その困難や煩雑さに躊躇せずに立ち向かえれば、自分の自信や経験にも繋がるのである。また、「今だ」と思う逃せないチャンスがあれば、思い切って挑戦してみることを勧める。前述のとおり、若ければそれがたとえ失敗に終わっても、体力的にも時間的にも取り返しがつくのである。「買ってでも……」というのは少し大げさな表現ではあるが、そのくらい、若いうちに経験を積むのが大切というメッセージだ。
10代、20代、30代……80代、90代、人間にはそれぞれの年齢にそれぞれの良さがあるが、若さは何物にも代え難い大きな価値と言える。多少の失敗も大目に見て貰ったり、体も思うがままに動かせるというのは、人生の中でもある意味得であり有利な期間だ。若い方はもちろん、齢を重ねても、人生における貴重な期間を無駄にしないよう、苦難が伴うことでも積極的に挑戦していきたいものだ。
人生にはさまざまな苦労がついて回るが、中にはしなくてもよい苦労がある。
仕事で体を壊す
仕事はもちろん大事だが、健康あってこその人生だ。「休んでいる暇はない」と思っていると、気づかないうちに体を壊してしまうことが往々にしてある。適度な休養・休息をとることで、仕事の効率もアップするだろう。
自分を粗末にする人と付き合う
自分を大切にしてくれない相手と付き合い続けるのは、苦労の種だ。距離を置きたい。また、前向きでない発言ばかりして、周りのエネルギーを奪う人も避けたい。自分までもが暗くなる。
言葉や行動で理不尽に攻撃してくる人が居る。分かり合えない相手と同じ土俵で戦っても得るものはない。疲れるだけだ。うまくかわすことを心がけたい。無理に合わせる必要は無い。
合わない環境に居続ける
「今の環境は合っていないかも」と感じたら、我慢せず変えることも考えてみたい。環境を変えるのは勇気が必要だが、新しい環境で自分らしく輝ける可能性はある。
人生は短い。しなくてもよい苦労は避けよう。立ち止まって考えることが求められる。
(令和6年6月20日 16:40)
気持ちが楽になる考え方
『論語』には、512の章句がある。それらの中には、生きていくうえで指針となる章句が数多く鏤められている。それらの中から一つを取り挙げると、為政第二に「子曰わく、学びて思わざれば則ち罔く、思うて学ば座れば則ち殆し」(しのたまわく、まなびておもわざればすなわちくらく、おもうてまなばざればすなわちあやうし)<孔子が仰られた。学ぶだけで深く考えなければ、本当の意味は分からない。考えるのみで学ばなければ、独断に陥って危ない>とある。
「先人の教えに学び、その教えを自らで咀嚼(そしゃく)し、深く考えなさい」ということであろう。含蓄(がんちく)のある言葉である。
辛いとき、苦しいとき、どのように考えて対処していくかを、さまざまな資料や情報を元に私なりに整理してみた。
友人は数よりも質が 自分の頑張りを褒める
友だちの数は多ければ多いほどよいが、無理して増やす必要はない。悩みを聴いてくれる、そのような友が一人でも居れば十分とも言える。
仕事でも趣味でも成果を上げることは大事だが、自分の小さな努力を認めることも大事である。自己肯定感を高めたい。
ときには他力本願も 過剰な心配は無用 居場所は必ずある
何でも抱え込むことは、極力避ける。他者に頼ることは恥ずかしいことではない。人は支え合って成長する。助けを求める勇気は大切である。
起きていない事に、余計な心配をしない。起きるかどうか分からないことに思い悩まない。
思っている以上に世の中は広い。現在の場所が合わないと感じたら、勇気をもって一歩踏み出せはよい。受け入れてくれる居場所は、必ずあるはずだ。
人は他人に興味がない 個性を前面に
思うほど、人は他人に興味が無い。誰もが自分の事で精一杯だ。細かい事を気にせず、自分らしく生きることだ。人はそれぞれに違う、それが個性だ。自分を好きになり、自分らしさをもっと出せばよい。
思い込みを捨て、こまめに不満を吐き出す
ある人に嫌われていると思い、辛くなることもある。でも、自分の思い込みかも知れない。思い込みに振り回されず、事実に基づいて考えることが大事だ。
不満を抱え込むと、いつか爆発するかも知れない。信頼できる人に相談することで、不安も和らぐ。抱え込まないようにして、こまめに吐き出すことが大事だ。
別れは次へのステップ
友人などとの別れは辛いが、別れは新しい出会いのためにあるのかも知れない。簡単ではないが、別れを前向きに捉えて進んでいく。
(令和6年6月20日 10:00)
拙宅は、ゴミの集積場所まで100㍍以上の距離がある。ふだんは苦にならないが、剪定した木屑が大量となった場合は何度も往復しなければならないので、負担は大きい。
現在、昨日抜いた草や土日に剪定した木屑で、45㍑袋が8つと貯まった。雨がわりと強く降っていたので、無理する事は無い後日にしようと思った。
ラジオ体操から帰宅後、雨降る中、燃えないゴミを出した。まだ燃えるゴミは誰も出していなかったが、木屑の入ったゴミ袋が6つも置かれていた。
帰ってから妻に、「もう木屑のゴミが置かれていたよ。恐らく、昨夜出したのだろう」と。「私も昨夜、2つを出した。先客が4つを」と妻が。「えっ」と、私が寝てから10時過ぎに出したのだろう。かなり重いのによくやったものだ。
裏の法面の雑草については、共通の悩みの種だ。私が予告なしに一人で奇麗にしたので、妻も刺激を受けたのだろう。
家事を手伝わず我が家では評価の低い私だが、昨夕は、妻からも娘からも「風呂を洗って」などの声はかからなかった。
(令和6年6月18日 8:01)
わりと強い雨が降り続いている。
日中の強い雨は、久しぶりのような気がする。
昨日は、拙宅の裏側(東側)は隣地から3.5㍍以上高く、法面になっている。ここに草が生える。作業がしにくく草が生い茂ることになり、悩みの種だ。
昨日、思い立ち3時間かけて草を抜いた。45㍑のビニール袋に4杯。前述のとおり、高低差があるので脚立を降りたり登ったりきつい作業となった。予定では本日行うはずだったが、雨とのことで繰り上げた。
膝へのダメージは小さくないが、美しくなりやれやれの気分だ。
(令和6年6月18日 5:25)
友人から、あるところに提出する原稿(2,000文字)を添削して欲しいと言われた。これまでも何度か依頼され添削してきたが、指摘した事が改善できない。何度も同じ過ちを繰り返している。依頼される側としては、「また同じような……」と辛いものだ。
『過ちて改めざる。是を過と謂う』(「論語」衛霊公第十五)
本人のためにならないと、「書いた文章を少なくともさらに10回は読み直して欲しい。そのうえで、次の5点を実行するならば引き受けてもよい」と返事した。
次の5点とは下記のとおりだ。
1 誤字・脱字は無いか、きちんと点検する。
2 語尾を統一する。「です・ます」調と「である」調が混用されていないか。
3 一文が長くなっていないか。簡潔に区切る。主語がはっきりすると、読む人が分かり易い。
4 くどくどとなっていないか。
5 適宜、段落を設け、一字下げる。
厳しいようだが、やさしくしていては彼のためにならない。
彼からは「分かった。言われた5点を必ず実行する」と。よって、添削を引き受けた。
原稿の締め切り日は7月15日だと聞く。私の所へは、「余裕をもって今月25日までに」と告げた。もちろん、Eメール添付でと念を押した。
原稿が届くのが楽しみだ。もし、1~5が不十分であれば、即、送り返したいと思っている。1~5が出来ていれば、添削の必要性は無いのだが。
(令和6年6月16日 8:35)
すきこそもののじょうずなれ
「日中、庭いじりをしていても、そんなに暑いとは思わない。暑くは感じない」と言ったら、友から「好きこそものの上手なれ」だねと言われた。
「好きこそものの上手なれ」は、日常的によく使う言葉だが、本来の意味は「好きなことは熱心に行うから、自然に工夫し勉強するようになる。だから、上達も早くなる」ことのたとえである。
人は好きな事に対してならば、興味を持って熱心に取り組める。上達するための工夫も自発的にでき、努力し続けることが苦にならないため、自然に物事の上達が早くなりやすい。拡大解釈すれば、友の表現は誤りではない。
同じような意味の語としては、「道は好む所によって易(やす)し」というものもある。対義語としては、「下手の横好き」か。
他に心を動かされずひたすら一つのことに心を集中する。いちずに、一つのことに心を注ぐ意味の語として、「一意専心」がある。
肝に銘じたい語である。
(令和6年6月15日 18:25)
昨日はマキの剪定をしたが、私の不注意からひじょうに危険な目に遭った。もしかしたら、命にかかわるような事になっていたかも知れない。と言っても、三脚から落ちたとか落ちそうになったという話ではない。
三脚を据え付け、上に乗って剪定をしていた。その場所での作業が終わったので、いったん下へ降りた。長短2本の刈り込みばさみや竹ぼうきなどを持っていたのだが、一度で用具のすべてを持てず、長い柄の刈り込みばさみを三脚の上に置いて降りた。
置いているのを忘れ、三脚を移動しようとしたときに刈り込みはさみが首筋に落ちて来た。柄の方が下の状態だったので大事に至らなかった。刃の部分を下にはさみが落ちていたら、かつ当り所が悪かったならば、出血多量であの世行きになっていたかも……。
家の者も居なかったし、道路からも陰になる所だったので、もしかしたら……。
三脚の上にはさみを置いて降りるなど、プロ(?)として失格である。大いに反省すべきである。
笑い話では済まない。
(令和6年6月13日 8:25)
不幸や辛いことが続くと「私にばかり何故だ」とつい思ってしまうが、「そのうちによいことがある」と堪えたい。
禍福は糾える縄の如し(かふくはあざなえるなわのごとし)という言葉がある。
人間の幸福と不幸は、より合わせた1本の縄の表裏のように交互に来る。災いが転じて福となり、福が転じて災いとなることがある。人の知恵で計り知ることはできないというたとえである。
由来・語源
中国の『史記・南越伝』の一節、「因禍為福、成敗之転、譬若糾纏」(=禍によりて福となす。成敗の転ずるは、たとえばあざなえる縄のごとし)を由来とした故事成語が発展した言葉である。
『禍福糾縄』(かふくきゅうぼく)の四字熟語は、『禍福は糾える縄の如し』と同様の意味だ。
『禍福は糾える縄の如し』の言い換え表現としては次のようなものがある。
人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)
「人間万事塞翁が馬」は、「不幸や幸福は予測ができない」という意味を持つ言葉で、『禍福は糾える縄の如し』の言い換えとも言える。禍福が交互にやってくる逸話を描いた中国の故事に由来しており、出自も『禍福は糾える縄の如し』と共通している。
沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり(しずむせあればうかぶせあり)
「川の瀬に浮き沈みがあるのよ同じように、人生にも、良いこと・悪いことどちらもある」という意味である。くよくよしている時・浮かれている時、どちらの戒めにも使える『禍福は糾える縄の如し』に比べて、こちらは「くよくよしないように」といったニュアンスが強い。
苦あれば楽あり(くあればらくあり)
『苦あれば楽あり』とは、文字どおり「苦労のあとにはきっと楽しいことがある」という意味だ。『沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり』によく似た言葉だが、「苦労は必ず報われる」といったニュアンスがより濃い。
『禍福は糾える縄の如し』は、英語では次のようにどのように言い表すことができる。
Sadness and gladness succeed each other.
「悲しみと喜びは交互にやってくる」という意味の英語表現だ。
Good luck and bad luck alternate like the strands of a rope.
「幸運と不運は、よりあわせた縄のように変わっていく」という意味。
人生、努力の先には必ず光明が……。それを信じて、不撓不屈の精神で徳を積み重ねたいものだ。
(令和6年6月12日 9:20)
「言い訳になりますが、他の市町村からも質問したい旨の話がありましたため、まとめた上で回答したいと考えて、質問到着を少し待っていたことと、事務局だけで回答できない質問(「その他」など)もあり、時間をいただいている次第です。できるだけ早く回答します。」(原文のまま)と。
(令和6年6月11日 10:47)
〇奈良県高齢者福祉施策の概要について
小林課長のご説明の中で、「平均余命」を「へいきんよみょう」と言われたように思いましたが、私の聞き違いでしょうか。「平均寿命」は「へいきんじゅみょう」ですが、「平均余命」は「へいきんよめい」です。
同じように勘違いしやすいのは、「出生率」の読み方です。「しゅっせいりつ」ではなく、正しくは「しゅっしょうりつ」です。
〇令和6年度県老連事業計画等について
丁寧に分かり易く説明されたと思います。
評議員会で、昨年度開いていただいた「会員増強に係る話し合い」について何ら触れることが無かったのは、強く疑問に思っています。もう終了なのでしょうか。
〇その他
・中村会長の挨拶の中で、県の職員に対して(県に対して)、ひじょうに厳しい、聞きようによっては辛辣な物言いがあったと私は感じました。事前折衝などで(これまでの県の対応などで)不快な事があったのでしょうか。或いは、「執行部は、県に対してなぁなぁな態度では臨んでいない」というパフォーマンスが多少なり含まれていたのでしょうか。後半のハーモニカ演奏とのギャップが大きかったです。教えていただきたいと思います。聞きようによっては、喧嘩腰に思った方も多かったのではないでしょうか。必要なときは、〚喧嘩〛もありだと思いますが。
・遠方から来られている方への配慮からだと思いますが、13時開始の14時終了でした。年に一度の正副会長会議、一堂に会して協議できるのは、この時だけです。あまりにもあっけなく思いました。小林課長も残って居られたのですから、質疑応答や日ごろの思いなどを述べ合う時間をせめて15~20分くらいでも、おとりいただきたかったです。局長は中村会長の挨拶も聞かずに帰られましたが、失礼千万だと思いました。いくらご多用とは言え、無礼の謗りを免れないでしょう。さっさと帰られるのであれば、課長のみの出席でよいと思います。そうすれば、そして14時30分の終了とすれば、協議の時間が30~40分は取れると思います。
(令和6年6月10日 20:00)
浮雲の如し
約2500年前の中国に生きた孔子と主に弟子たちとの問答を、孔子没後弟子たちが纏めたのが『論語』である。その中には、うーんと思わず唸らせられる章句が幾つも鏤められている。
「子曰わく疎食を飯い水を飲み、肱を曲げて之を枕とす。楽しみも亦其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於て浮雲の如し」(述而第七)(しのたまわく、そしをくらいみずをのみ、ひじをまげてこれをまくらとす。たのしみもまたそのうちにあり。ふぎにしてとみかつたっときは、われにおいてふうんのごとし)<孔子が仰られた。粗末な食物を食べ、冷や水を飲み、肱を曲げて枕として寝るような貧乏生活の中にも楽しみはあるものだ。正しくない行いで財産や地位を得ても、自分にとっては、浮雲のようなものだ>
人を騙したり、出し抜いたり、贈賄などで地位を得たり、そういった人としての道を外れた行いで経済的に豊かになっても、それはとてもつまらないものである。取るに足らないものである。経済的に豊かでなくても、また地位に恵まれなくとも、人としての道を外さず、徳(仁・義・礼・智・信)のある生活を送っていれば心豊かであると。
まさに至言である。心したい。
(令和6年6月10日 5:35)
「子曰わく、徳の修まらざる、學の講せざる、義を聞きて徙る能わざる、不善の改むる能わざる、是れ吾が憂いなり」(『論語』述而第七 しのたまわく、とくのおさまらざる、がくのこうせざる、ぎをききてうつるあたわざる、ふぜんのあらたむるあたわざる、これわがうれいなり)
通釈『孔子が仰られた。徳(仁・義・礼・知・信)が身につかないこと、学びが究められない事こと、人として正しい生き方を教えてもらっても実践できないこと、悪い行いを改めることができないこと、この四つが常に私が憂うことである』
不勉強や道徳上の間違いを非難しているのだが、これが誰に向けられているのかについては、二つの説がある。一つは、弟子たちの不品行や学習への熱意の弱さを失跡しているというもの、もう一つは老年に至ってもなお、人格や学問が完成できない自身を自己批判したというものである。
どちらにしても、私たちも心したい章句である。
2500年前の古代中国に生きた『孔子』は、今を生きる私たちが生きる指針となる言葉を多く遺している。一緒に『孔子』の遺した含蓄のある言葉を一緒に学ぼうではないか。他町の方も歓迎する。現在、大阪・藤井寺からも通われている。
毎月、第一、第三水曜日 10時~11時30分
三郷町福祉保健センター大広間
問い合わせ 恒川 敏(0745・32・0191、080・7797・7624)
(令和6年6月5日 19:25)
ある方が著書の中で、「日常の小さな習慣や行動がいつか将来の自分をつくる。先ずは小さな事から始めることが大事である」と。私も同感である。
その小さな習慣や行動は、具体に何を示すのか。私なりに考えてみた。
「真似」は、いつか「上手」に
「真似をするな」とよく言われるが、優れた人や「達人」と言われる人の真似をする事は、悪いことではない。むしろ大事なことだ。対象が身近な人であればよりよいが、そうでなくても構わない。最初はうまくいかなくても、真似し続けることによって、徐々に近づいて行けるだろう。もちろん、1ヵ月や3ヵ月の努力ではダメだ。短い期間で到達できるような技術・技能ならば、それらは大したものではないだろう。
優れた人に直接教えを請うことが出来ればこの上ないが、直接でなくとも探る機会はあるはずだ。座して、機会を得ることは出来ない。とにかく、対象となる人を見つけ、コツコツと真似し続けていくことが大事である。
「忍耐」は、いつか「得意」に
何でもそうだが、苦労せずに一流にはなれない。『達人』の域に達するには、多くのと労力が必要である。当たり前だ。一朝一夕に会得できればそれに越したことはないが、そんなに世の中、甘くはない。一流や超一流になるには、「血の滲むような努力」が求められる。そうした努力の継続の(積み重ねの)先に、明るい光が見えてくるのだろう。一流の人は、そうした努力を永年積み重ねて来たのだ。
努力を継続し、習慣づけることによって一流と呼ばれ、「達人の域」に近づけるのである。
「好き」から「楽しみ」に、それが大きな「武器」に
人から言われてやるよりも、自らがそのことを「好き」になって実践する方が、当然ながら成果は大きいだろう。誰もが分かることだ。
仕事でも趣味でも、「好き」になってやるよりもさらに上の境地がある。それは、「楽しみ」としてそれらの事に取り組めるようになるということだ。「楽しみ」として実践できれば、成果がより上がるばかりでなく、より大きな「達成感」や「成就感」、「満足感」が得られる。そのようにして得たものは、値千金の、自らの大きな「武器」となるだろう。
「努力に勝る天才無し」「オリンピックの覇者に天才無し」などの言葉が好きだ。言わずもがな、努力の大切さを示している。
(令和6年6月3日 17:00)
楽しむ者に如かず
『論語』に「之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず」<雍也第六>(これをしるものは、これをこのむものにしかず。これをこのむものは、これをたのしむものにしかず)とある。
「人から言われて知識としてのみ知る人は、好んでやる者には及ばない。好んでやる者は、楽しんでやる者には及ばない」という意味だ。
自らを振り返るとき、庭いじりなどは楽しんでやるので体はそれなりに疲れるが精神的な疲労などは無い。逆に満足感・達成感を味わえる。他の事もこうありたいと思うが、ときに追われてやっている自分がいる。そのようにならないように、早め早めに準備しなければならないと思うのである。
今日は、中之島図書館論語塾の第138回だ。10時半開始なので、間もなく出発する。
「朋遠方より来る有り。亦楽しからずや」(〚論語〛学而第一 ともえんぽうよりきたるあり。またたのしからずや)である。
(令和6年6月1日 7:20)
幼い頃からの習慣は、齢を重ねても変らないものだ。散髪の話である。
髪を刈り、洗髪して貰うと実に気持ちがよい。散髪代2,350円は、あまりにも安過ぎる。そう思うのは、私だけではないだろう。私はずっと「大衆理容」の世話になっている。
子どもの頃、母から「むさ苦しい頭はみっともない。早く床屋へ」とせかされ、自分では「まだ早いのに……」と思いながらも散髪屋に向った。父親のむさ苦しい頭も見たことがなかった。散髪して貰うと、実に「すっきりさわやか」である。
このように、今も早め早めに散髪屋に向かう。むさ苦しい頭の若者を見ると、つい「だらしないなぁ」と思ってしまうのだ。きちんと頭髪を整えて損をすることはない。
大学でも学生服と坊主頭
4年生ごろから丸坊主だった。大学2年になるまでそれが続いた。
4年間寮生活だったが、1年生は丸坊主を強制された。「丸坊主」に違和感はなかったが、大阪や京都などの自宅から大学のあった茨木市まで通っていた同級生からは、「何だお前たち、大学でも学生服に坊主頭か」と揶揄された。授業も1年生は学生服の着用を余儀なくされた。同級生からの皮肉は悔しかったが、「4年後を見ておれ」と思った。自宅から通っていた者の多くは、学業にも部活動にも熱心でなかった。何をしに大学に入ったのかと思うような学生も少なからず居た。それは、寮生においても同様だった。
初志貫徹
大学1年の終わりに母を亡くした。
他にも不幸な出来事が続き、一時、目標を失いかけた時期もあった。だが、選手になり大学のランシャツ・ランパンを身に着けて走りたいと思った(学生選手権と言われる大会しか着用できない)。何より「体育の教員になる」という初志を貫かねばならないと思い、私なりに努力した。
努力の甲斐あり、選手になって日本学生選手権や全日本大学駅伝(熱田神宮~伊勢神宮)でも活躍出来た。ご存知のとおり、全日本大学駅伝は現在でも営々と続いているが、生まれ育った「愛媛」でも第二の故郷となった「奈良」でも、この駅伝を初めて走ったのは私だと思う。区間最高記録賞(区間賞)を獲得しておれば自慢できるが、そこまでの力はなかった。
同窓同級の者で高校の教諭になって勤め上げたのは全国で6名であり、校長に昇任したのは私だけだ。後輩では、高校でも中学においても、大勢の校長が誕生した。現在、大阪府下の中学校校長を専門教科別で見ると、「保健体育」が最も多いそうだ。その中でも、同窓の後輩が最も多いのである。後輩たちが、頑張っているのだ。うれしい限りだ。
私が卒業して教諭になった頃、大阪府立高校では「保健体育」を専門とする校長は、5~6名だったのではないか。今では、「数学」と並んで最も多い。隔世の感である。
トライアスロン・ウルトラマラソン
後年、トライアスロンレースに出場した。水泳3.9㌔・自転車180㌔・ラン42.195㌔のレースを「フルトライアスロン」と呼ぶが、「愛媛」でも「奈良」でも完走したのは私が最初である。その勢いで、「神奈川」「千葉」「東京」に続いて、国内で4番目に〚奈良県トライアスロン協会〛を設立し、11年間理事長を務めた。そのときの年齢は、34歳だった。その後、国内で初めて〚奈良県ウルトラマラソン協会〛を立ち上げ、こちらの理事長も務めた。
山登りを
40歳から山に登り始めた。
最初は、家族で「富士山」に登った。それを機に、近郊の山はもちろんのこと、北アルプス・南アルプスをはじめ、北海道から屋久島まで、国内の主な山を踏破した。そして、海外にも眼を向けるようになり、「キリマンジャロ(タンザニア)」「マッターホルン(スイス)」「モンブラン(仏)」と立て続けに登頂した。
退職後は、「アコンカグア」(アルゼンチン)、「マッキンリー」(アラスカ)、そして「エレベスト」(ネパール)へと夢を描いたが、膝痛が酷くなり断念せざるを得なかった。現在は、両膝とも人工関節である。
恩返しになれば
このようにこれまで、さまざまな事に挑戦出来た。幸せな人生を歩んで来られた。
若くしてトライアスロンやウルトラマラソンの理事長を務め、全国規模の大会66の実行委員長・会長を務めた。一つの大会を運営するには、数十人のスタッフの協力を要する。こうした中、異業種の人たちとの交流から得たものは、私の血や肉となっている。
現在、縁あって本連合会の会長を担っているが、多くの仲間(先輩たち)に支えていただいている。感謝に堪えない。
本連合会も、そして支部の運営も、これまでお世話になった方々へのささやかな「恩返し」になればと思っている。
「散髪」の話から思わぬ方向に進み、人生も終わりのような話になったが、まだまだやらねばならぬ事や、やり遺している事が山のようにある。
開始から8年8カ月になろうとしている「ラジオ体操会」(一日も休み無し)は、これからも続けて行かねばならない。630回を超えた〚論語〛講義は、千回をめざす。〚中之島図書館論語塾〛の受講者数は日本一になったが、内容でもさらに磨きをかけねばならない。20冊を超えた著書も、30冊は……と思っている。
途中で止まっている〚超難関資格試験〛への挑戦も近々再開しようと思う。75歳くらいで達成したいが、そうなればもしかしたら日本記録かも。とにかく、達成せずにあの世には行けない。
最近著名な方から「谷口さんは目標があっていいですね」と言われた。目標のないところに、努力の継続は困難だ。〚飽くこと無く 可能性を求めて〛がモットーだが、死ぬまでそうありたい。そうあらねばならないと思っている。
みなさんも、ぜひ目標を持っていただきたい。意志あるところに道は開ける。
(令和6年5月28日 14:00)
郡生連の「社会見学」として、バス1台総勢41名で神戸を訪ねた。
先ず、港町・神戸の風情を最も感じることができるクルージングを楽しんだ。海上からは、六甲山を背景に東西 に広がる神戸の街並みを一望できた。
晴れた日は遠く明石海峡大橋まで眺めることができると聞くが、今日は曇り空、おまけに黄砂の影響もあり見晴らしは今一つだった。
前にも体験したが、そのときは船中でランチを楽しんだ。
その後、車で20分くらいの所にある城崎の名旅館「西村屋」が経営する割烹で、昼食をとった。ここでは、上品な日本料理に舌鼓を打った。郡生連の会計からアルコール類も提供され、左党からは思わず笑みがこぼれ、ぐいぐいと呑まれる方も多かった。酒好きの私だが、原則として昼間はアルコールを控える方なので、注いで貰ったグラスのビールにも手をつけなかった。
昼食後は、伊丹市の荒牧バラ公園を訪ねた。ピーク時には、世界のバラ約250種1万本が南欧風のおしゃれな園内一帯に咲き乱れるそうだが、少しピークを過ぎていたように思った。それでも、我々の眼を十分に楽しませてくれた。入園料が無料なのは、有難かった。
その後帰路に着き、私は16時50分に帰宅、開催中の大相撲夏場所幕内後半戦にも間に合った。
他町の方々とも親しく歓談でき、有意義な一日となった。
(令和6年5月24日 19:10)
とある人曰く、「人生で得をする人の特徴には、三つがある」と。なるほどと思いながらも、自らの行動を損得で考えるべきではないとも思った。
その方が挙げた三つとは、「声が大きい」「返信・返答が早い」「先ず動く」である。
私なりに咀嚼し、まとめてみた。
声が大きい
声は大きい方がよい。小さい声では、相手に真意が伝わらないことも多いだろう。しかし、適正音量というものがあり、ただ大きければよいというものではない。
時と場所、目的によって適正音量は変わる。喫茶店やレストランなとでの大きい声は、他の人の迷惑になる。相手からも、「あの人に深い話は……」となってしまう。
使い分けることが必要だ。リーダーとして指示・連絡をする場合、「ボソボソ……」では失格だ。
カラオケ歌唱でも、上手な方はサビの部分では強く、他では語りかけるように唄っている。
返信・返答が早い
連絡を貰ったら、できるだけ早く返答することが求められる。もちろん、電話やメールを貰っても気が付かない場合がある。そのような時、気付いた段階で、すぐに返信する。それがマナーであり、人としての誠意というものだ。返信が極端に遅かったり、返信が無かったりすると、段々と「あの人に連絡しても……」となり疎遠になるだろう。関心が無いと判断されるのだ。「相手になりたくない」と思っている場合は別だ。
拙速はダメだが、遅いのは話にならない。
先ず動く
何か事が生起したとき、「どう対処すればよいか、ああしようか、こうしようか」と思い悩む人が少なくない。
あれこれと迷ううちに、事態がますます深刻になることも多い。先ずは行動を起こし、動きながら考え修正すればよい。拙速は戒めなければならないが、行動が遅いのは最低だ。
危機管理の重要性が常に叫ばれるが、危機管理は日ごろからの備えが出来ているかどうかにかかっていると言っても過言ではない。「備え」の元になるのが、自らが心身ともに健康であることだろう。
事態が収束すれば、きちんと反省・総括をして、それを次に生かすことが求められる。
まとめ
煎じ詰めれば、やはり『論語』の次の章句に辿り着く。
〇己の欲せざる所、人に施すことなかれ
〇己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す
〇生を求めて以て仁を害する事無く、身を殺して以て仁を成すこと有り
(令和6年5月18日 8:35)
周章狼狽(しゅうしょうろうばい)は、「泰然自若」の対義語だ。予期しないことに出合って、ひどくあわてふためくことを言う。うろたえ騒ぐことだ。「周章」と「狼狽」は、どちらもあわてうろたえるという意味である。
「狽」は伝説上の獣で、前足が極端に短くて後足が長い。狽が狼の後ろに乗るようにして二頭は常に一緒に行動するとされる。離れると動けず倒れてしまうことから、うまくいかない意、あわてふためく意に用いる。「周章」に「狼狽」を添えて意味を強調している。
「右往左往」も、同義語である。
現役の頃の話だが、学校には保護者や地域住民、議員なとが抗議や、ときには難癖と思われるような事をもって乗り込んで来られることがある。
とある校長は、ふだんは教職員に対して偉そうにしているのに、そんなとき自らは対応せず、「不在と告げなさい」と言って校内を逃げ回ることがほとんどだったと……。
周章狼狽、右往左往せず、そのような時こそきちんと対応をして収めるというのが長としての務めである。逃げては、教職員との信頼関係は醸成されない。保護者や地域住民からの協力を得ることも出来ない。
日ごろから、何が起ころうと周章狼狽しないように心身を鍛え胆力を養い、準備を怠らず、天災・人災に備えることが求められる。そうすれば、「泰然自若」の境地に近づくことになるであろう。
私は、保護者や地域住民、また議員などからの訴え・申し出については、三つに分類して即決即応に努めた。
一つは、負担が大きくなっても学校独自でやれることについては「今日からやります」と、二つ目は「学校だけの力では無理です。保護者・地域の支援・協力を得て時間をかけて努めます。協力をお願いします。時間をください」である。三つ目は、「国や都道府県、市町村など行政で対応していただく案件です。学校としては、教育委員会に働きかけます。みなさんからも行政に訴えてください」と。とにかく、抗議、訴えには傾聴し、回答をすぐに返すことが求められる。聞くだけに終わっては、不信感が増幅する。
抗議・訴えに訪れる人は、基本的に学校に関心のある人だ。チャンスと捉え即決即応に努めることによって、逆に「応援団」になっていただける。これは、民間企業においても同様だ。
「意志あるところに道は開ける」、とにかく逃げないことが大事だ。
(令和6年5月17日 9:20)
自分の庭を持って約47年になる。26歳で建売の家(三郷町三室)を購入し約7年住んだ。そこも64坪あり一から庭づくりを楽しんだが、もちろん和風庭園だった。
サツキに興味を持ち、盆栽のまねごとを始めた。「蓮路苑」(れんじえん)と呼ぶ現在の庭は、サツキの刈り込み物を主体としているが、それらはこの時代に月刊誌を読み気に入ったポット苗を購入し育てたものばかりである。「筒井」駅近くの国道沿いに、サツキの専門店があった。ゆえに、赤一色では無い。現在大木となったハクモクレンやモミジ、椿なども、苗木から育てたものだ。購入した成木は、黒松と槙だけである。盆栽のまねごとと言ったが、東京での盆栽展にも夜行バスで通うなど、知識や技術の習得には貪欲であった。
東信貴ケ丘へ
現在の家は40年になるが、東信貴ケ丘で更地を購入して思いどおりの家を建てた。私の設計だ。妻もフルタイムで働いていたから出来た事である。三室の家から樹木も石も運んだ。これには事情があるが、話をすると長くなるのでここでは触れないで置く。
家を建てたとき移した樹木や石に加え、石を新しくかなりの数入れた。すべて生駒石だ。経費が嵩んだ事は言うまでも無い。多額のローンを組んだが、我ながら大胆な事をしたと思う。ある程度の信用があれば、銀行はそれなりの額を貸してくれる時代だった。妻の両親を始め、身内の者は、さぞかし心配しただろう。
庭の細部までとことん自らが設計した。景石の配置なども、一切妥協しなかった。それなりに勉強していたから出来たのだ。参考にしたのは、大和郡山の慈光院の庭園だ。何度も訪ねた。「大刈り物」に憧れをもった。
ご存知のとおり、いい加減なところも多い性格だが賭け事は一切しない。当たり前だが、仕事も真面目にやってきた。運も味方したのだろう、50歳までにローンの支払いは終えた。妻の尽力に負うところが大きかったことは言うまでもない。
足立美術館庭園
さて、足立美術館庭園の事を知ったのは遅く、20年くらい前である。ただ実際に見学・鑑賞したのは10年くらい前だ。赤松とサツキの刈り込み物が印象的だった。私は手入れで植木業者の手を煩わせたことは現在まで一度も無く、コツコツと日本庭園としての格を上げてきた。黒松の手入れも盆栽で磨いたので本物である。
足立美術館庭園の事を知ってすぐ頃に、主庭の大改造をした。苗木から育てて来たサツキを生かした庭にしていこうと考えたのだ。主庭からは、背の高い樹は取り除いた。尤も、大木に成長したモミジが道路側から大きく伸びて来ていい風情を醸し出しているが。
7~8年でサツキの刈り込み物がいい感じになってくれることを想い描いたが、思ったより早く5~6年で想定に近いものになった。
足立美術館庭園のサツキの刈り込み物を常に意識して来た。人には「足立美術館庭園に負けない庭を」と嘯いて来た。「何を阿呆なことを……」と笑われる方も少なく無い。もちろん、規模に天と地ほどの差があり、赤松も伊予の青石のひとつも無い。だが、手入れだけは負けたくないの思いで手入れをして来た。
自慢の手入れ
自慢できるのは、花が終わった後に刈り込はさみを使って刈り込むが、その後は大久保はさみなどの手はさみで徒長した芽を摘む。7月から10月末まで、そして春になって開花寸前までそれを繰り返す。7月末から8月中旬にかけてできる花芽を摘まないようにして、樹形を維持する。花芽ができてから後に、刈り込みはさみは使わないことを徹底するのだ。そして、2月中旬から10月末にかけて、8~9回の害虫予防のための薬剤散布を行う。そして、夏場はもちろん、冬場でも5日も晴天が続くならば、水やりを欠かさない。47年の経験から言うと、「花木は冬場の水やりが大事である」と思っている。
聞くところによると、足立美術館庭園では、秋にも3月にも全体を軽く刈り込むと。年中、大勢の人が鑑賞に訪れる。「少しでも崩れた樹姿をお見せすることは出来ない」という方針からだ。樹形を重視するのだ。刈り込み物の名庭園と呼ばれる所は、同様である。ゆえに、花どきに2~3割しか花をつけない。
蓮路苑では、姿や形も美しく、びっしりと花をつける。これは、他のツツジ(ヒラド、キリシマ、クルメ)も同様である。「足立美術館庭園に負けない庭を」が実践出来ているのだ。
20代で庭いじりを始めたときから、それなりにずっと学び続けて来た。樹木について、庭づくについて。何の資格も持たないが、手入れに関しては並みの庭師よりは数ランク上の自負がある。
サツキは見ごろに
いよいよ今年もサツキの見ごろが近づいて来た。15日頃からが見ごろだが、赤一色では無いので見ごろは25日頃まで続く。お近くにお越しの節はお寄りいただければと思う。千客万来だ。なお、「蓮路苑」の由来だが、蓮路は私の号である。私のペンネームは、伊豫於 蓮路(いよお れんじ)だ。
(令和6年5月11日 4:30)
5年ぶりに総会を開催
令和6年度がスタートした。
4月23日に主賓として木谷 慎一郎 新町長をお迎えし、5年ぶりに「総会」を開催した。「生駒郡生き生きクラブ連合会」松井会長のご出席も賜った。多数の会員にご出席いただいた中、初めての試みとして、酒井 久夫 (毅朴会会長)氏による『講演』の時間もとった。『楽しく生きるヒント』をテーマに、示唆に富んだお話であった。
さて、早いもので会長として6年目に入った。「光陰箭の如し」である。惰性に流れることなく誠心誠意努める覚悟に、揺るぎは無い。「三生連」の結束をさらに図り、飛躍の年にする。
会員の皆様には、これまでにも増してご協力を賜りたい。よろしくお願い申し上げる。
第1回支部長会
4月5日に、本連合会の最高議決機関である『支部長会』の今年度第一回を開き、別掲のとおり、決算・予算等が承認された。
コロナ禍は完全に一掃されたわけではないが、マスク着用の義務がごく一部を除いて無くなったことはうれしい限りだ。何かと活動しやすくなった。
支部長の皆様には、いつも何かとお世話をお掛けしているが、なお一層のご支援とご協力を仰ぎたい。
会員数は725名
3月末日をもって、「サンクラブ」(会員8名)と勢野第一(19名)の両支部が解散となった。大きな痛手だ。「支部長の後継者が居ない」ということが主な理由である。他支部との合併も模索したが叶わなかった。一部の会員は、直属会員となられた。他の方もぜひそのようにと願う。
4月1日現在の本連合会の会員数は、725名(男316名 女409名)となった。昨年比68名の減である。減少数は、生駒郡4町で最も大きかった(安堵町44名・平群町53名・斑鳩町44名)。会員減は、甚だ残念なことだ。なお、支部別の会員数は別掲のとおりだ。
会 旗
総会では、壇上背景に国旗・町旗と並べて2年前に制作した会旗を掲げた。これまで支部長会や「友愛のつどい」の折には披露してきたが、総会では初めてだった。どの市町村連合会も「会旗くらいは……」と思うが、県老連も持たないようだ。見たことがない。
覚えておいでだろうか9年前までは、総会時に国旗を掲揚していなかった。国歌斉唱もなかった。私は支部長として出席したが、大勢が出席しているのに「締まりのない総会」というのが印象だった。
顧問の片岡 雅基 氏退任
片岡 顧問が3月末をもって退任された。副会長1年・会長4年・顧問11年の計16年の永きに亘って、本連合会の発展に尽力された。まだまだご健勝なので慰留に努めたが、90歳を節目としたいということだった
総会において、感謝状と功労金を授与した。なお、カラオケ同好会「さけび」の代表は今後も続けられる。よって、郡生連のカラオケ大会等ではあの美声を引き続きお聞かせいただける。氏のますますのご活躍を祈りたい。
支部長交代
三室支部で、支部長の交代があった。
三室支部
中尾 謹三
↓
山口 明
(敬称略)
退任された中尾氏には、これまでのご尽力に対し心からの慰労と御礼を申し上げる。「もっともっと引き続き支部長を」と思ったが、三室寿クラブの会則が許さなかったのだろう。
そのような中、5日の支部長会で山口新支部長から会則の改定が為されたことをお聞きした。中尾前支部長のご英断に拍手する。これで意欲のある人は継続できるようになった。中尾氏の見事な置き土産である。総会時にお会いできたが、私がバタバタしていたので挨拶を交わすのみだった。
「本部直属会員制度」
先にも触れたが、住んでいる地域に支部が無い方などの受け皿として、令和4年度から「本部直属会員制度」を設けた。希望者は年会費千円を納めて、三生連本部に直属会員として登録していただく。会員としての権利をすべて有するが、「支部長会」には出席できない。なお、在住地区の支部を退会して直属会員になろうとする場合は、本部「役員会」の承認を必要とする。
新規に三人の方が直属会員となられた(4/1現在)。今後増えるだろう。
『矍鑠』の名称は定着
本会報の名称は、第2号から『矍鑠』とした。当時副会長で2代目編集長となった私が提案した。パッと見て聞いて、三生連(当時は三老連)の会報とすぐに分かるインパクトのあるものがよいと考えた。
『矍鑠』の語源・由来は、意味・歳をとっても丈夫で元気のよいさま。
出典・後漢書(ごかんじょ)の馬援伝
古代中国において、62歳という当時としては高齢(現在で言えば、80歳代か)の馬援が敵陣に立とうと光武帝に申し出たが、帝は老齢を気遣い許さなかった。元気だった馬援は甲冑をつけて馬に乗り、威勢を誇示したところ、光武帝は「矍鑠たるかなこの翁は」と感嘆したという故事から来ている。
矍は、眼をきょろきょろさせ、素早く反応するさま。鑠は、輝くさま、あるいは、生き生きして元気がよいさまである。
改称に当たって、一部の方が反対された。「難し過ぎる」「馴染まない」「ひらがな、あるいはカタカナがよい」などと言われたが、納得できる合理的な理由では無かった。私は「…だより」とか「…ニュース」とか、「安易で芸の無いもの」は好まなかった。『矍鑠』は最初は馴染まなくとも、一年、二年と経つうちに必ず馴染んでくるとの確信があった。であるから、反対意見をある種強引に押し切った。今号で27号となったが、結果は言わずもがなである。
現在、郡内、県内はもとより、県外の方からも、「『矍鑠』とは大したネーミングだ」との声を多く耳にする。月日を経るごとに馴染み、確実に定着したと思われる。当時反対された方は、今どのようにお思いだろうか。
さて、私はしばらく編集から離れていたが、お気づきのとおり、今号から再登板した。これまでご尽力をいただいた大浦 幹文編集長(副会長)には、心からご慰労申し上げる。
今後も「よりよき」をめざして努める。会員諸氏の積極的な寄稿に期待する、
会報のカラー刷りは
より鮮やかに、会員の皆様がより読みやすいようにと、今号からカラー刷りにしようと模索した。結論から申し上げると、残念であるが断念せざるを得なかった。経費の問題である。
会報『矍鑠』は、第2号から町文化センター印刷室の輪転機を使わせて貰っている。とても有り難いことだ。昨年度までは、使用料はセンターのご好意で無料だ。町内の高齢者のためにボランティアとして努めていることを評価していただいているのだろう。カラー刷りに当たっては、インク代をお支払いしようと町社会福祉協議会の事務局長補佐に試算して貰ったが、枚数が多いだけに、予想以上の金額となった。とてもお支払いできるような額では無かった。おうちでプリンターを使用されている方はご存知のとおり、インクはとても高価である。業務用輪転機の場合は、想像以上となる。
会員の皆様に今号からカラー刷りの「矍鑠」をお読みいただければと考えたが、叶わなかった。残念だが仕方がない。
今までどおり白黒だが、編集子をはじめ役員は「よりよき会報」をめざしてこれまで以上に汗をかくつもりである。会員のご協力を得て、他に誇れる、羨ましがられる会報にしていく。なお、今年度、『矍鑠』は年4回の発行とする。どしどし、寄稿願いたい。今号は、お陰様で20頁となった。
春のハイキング
12月5日に「社会見学」と合併して実施した昨年度の「秋のハイキング」は、とても好評だった。今年度も秋は、あのような形で実施できればと考えている。
春のハイキングは開催日が迫っているが(5月13日・参加申込者29名)、『山の辺の道』を歩く、参加者全員の協力で以て楽しい行事にしたい。好天になることを祈る。
三生連のホームページ
三生連のホームページを立ち上げて5年になる。多くの方がスマホをお持ちであるのに、まだ一度も、「三生連のホームページ」をのぞいたことがないという会員が多いのは残念だ。『会長から』などを、できるだけ更新するように努めている。ぜひお訪ねいただきたい。初めてだという方向けに訪ね方を説明する。
➀ 音声入力で「三郷町生き生きクラブ連合会」と検索する。もちろん、文字入力でもよい。
➁ 「三郷町生き生きクラブ連合会」と出てきたら、それをクリ
ックする。
➂ 三生連の説明をずっと下げていくと、「News」や「会長挨拶」「事業方針」などが出て来る。
➃ 今度は、一番上まで戻る。
➄ 左の上の方に「Menu」が出ているので、これをクリックする。
➅ すると、縦にメニューが出て来る。ここで興味のあるものを見ていただく。ほぼ毎日更新しているのは「会長から」である。
➆ この要領で、「Menu」からお好きなものを選んでいただく。
わりと簡単である。時間のあるときに、ご覧いただきたい。今回の説明を見ても分からないという方は、分かる方にお聞きするのが早い。尋ねられた方は、面倒臭がらずにご教授を……。
町文化祭に多数の出展を
前号でもお願いしたが、毎年、秋に開催される「町の文化祭」に一人でも多くの方の出展を強く希望する。衰退しつつあるとも言える「町の文化祭」を、『三生連』が核となって昔のような賑わいを取り戻す。
協力の度合いが特に顕著な支部には、何らかの形で厚遇したいと考えている。総会出席者の会員比割合の高かった支部にに対しても同様だ。
文化祭への出展については、今現在すでに前向きで建設的な意見・要望をいただいている。有難いことだ。
新町長を表敬訪問
4月2日午後、木谷 慎一郎 新町長の就任お祝いのご挨拶のため、恒川副会長とともに町長室にお訪ねした。
先ずは、当選お祝いを申し上げた後、本連合会の現況をご説明した。その後、幾つか要望をお伝えした。
新町長には、前町長以上に、「高齢者福祉の充実」に努めていただけるだろうと期待している。とても有意義な訪問になったと思う。
(5/10発行 会報「矍鑠」第27号 巻頭言から)
現在、小雨が。予想していなかった。早い時間に止むのだろうか。
今日は午後から、会報「矍鑠」第27号の印刷をする。
スムーズに進むことを願う。
(令和6年5月7日 5:20)
近鉄奈良駅から東大寺方面にかけての人込みは尋常では無かった。8割は外国人のような気がした。白人が多い。昨今の来日客の特徴は、白人が多いことだ。「戎橋筋」や「心斎橋筋」でも同様だ。
秋の『正倉院展』では1時間くらい並ぶのは普通であり、「今日も40分くらいは……」と覚悟したが、意外にも10分程度で入場できた。館内は、かなりの人だったが。
他の事と同様、空海(774~835年)についても私は勉強不足で、これまで人並みにしか知らなかった。『遣唐使の一員として中国で仏教を学び、それを持ち帰って真言宗の祖として仏教を広めた。高野山も開いた。能筆家としての名声も高く、「三筆」として現代でも称えられている。最澄に宛てた手紙として遺る国宝『風信帖』(ふうしんじょう)は、中学校の教科書にも出てきた。後世の人が弘法大師と呼んだ』といった程度だった。
本展のホームページには、
「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、わが願いも尽きなん。」(『性霊集』巻第八)(この世の全ての物が消滅し、仏法の世界が尽きるまで、私は人々が救われることを願い続ける)
「衆生救済を願った空海が人々を救うためにたどり着いたのは密教だった。空海は中国・唐にわたり、師匠の恵果(けいか)から密教のすべてを受け継いだと言われる。密教がシルクロードを経由し東アジア諸地域、そして日本に至った伝来の軌跡をたどることにより、空海が日本にもたらした密教の全貌を解き明かす。また、多数の仏像や仏画により、空海が「目で見てわかる」ことを強調した密教の「マンダラ空間」を再現するとともに、各地で守り伝えられてきたゆかりの至宝を一堂に展示し、空海と真言密教の魅力を紹介する」と。
ウィキペディアには、『天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教の大勢が今日称される奈良仏教から平安仏教へと転換していく流れの先頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家でもあり、嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなのはやなり)と共に「三筆」のひとりに数えられている。仏教において、北伝仏教の大潮流である大乗仏教の中で、ヒンドゥー教の影響も取り込む形で誕生・発展した密教がシルクロードを経て中国に伝わった後、中国で伝授を受けた奥義や経典・曼荼羅などを、体系立てた形で日本に伝来させた人物でもある』と。
空海は、香川県で生まれたという説が有力で、14歳のときに平城京に上り、論語・孝経などを学んだ。その後の修行についてはさまざまな説があるが。31歳のときに遣唐使の一員として入唐した。その直前に得度したという説が有力である。このときの遣唐使の一行には、この時期すでに当時の仏教界に確固たる地位を築いていた最澄もいたが、空海はまったく無名であった。
本日は、約90分をかけて鑑賞見学した。最近何かと忘れっぽくなり、家人から「お父さん、大丈夫」と『認知症』を疑われている。そのような私の大脳では、なかなか「眼からうろこ」のようには深くは理解できない。だが、最近何かで知ったが、2~3ヵ月に一度は美術館や博物館、コンサートなどに出掛けることがボケの進行に多少なりブレーキをかけることになると……。「庭いじり」や「菜園づくり」も有効だろうが、これに加えて文化的な刺激も大事であることに疑いの余地はないだろう。電車に乗って出かけるのは億劫だが、たまには出かけて行かねばと思うのである。
記している最中、妻から声がかかった、「くうかい」と。夕食の位置に着けと言う合図だろうが、自らが出展した美術展に行かず「空海展」に赴いた皮肉だろう。
(令和6年5月5日 18:45)
本日は「昭和の日」だ。
昭和の前半は「天長節」(昭和2年〜22年)、その後は「天皇誕生日」(昭和23年〜63年)、昭和天皇崩御後は自然の恩恵に感謝する「みどりの日」(平成元年〜平成17年)になり、さらに「昭和の日」(平成19年〜)と変わった。
「天長節」と呼ばれた天皇誕生日
昭和前半まで天皇誕生日は「天長節」と呼ばれていた。「天は長く地は久し」(老子)からとった言葉で、天地が永久であるように天皇の治世も続くようにという意味が込められている。天皇誕生日を天長節として祝う慣習は8世紀から続く伝統だった。そのため天長節は、明治天皇の誕生日(11月3日)、大正天皇の誕生日(8月31日)、そして昭和天皇の誕生日(4月29日)という具合に天皇が代替わりすると日付が変わった。
自然の恩恵に感謝する日
昭和23年に国民の祝日に関する法律が制定されると、それまで「天長節」と呼ばれた日が「天皇誕生日」に改められた。
昭和天皇が崩御されると、天皇誕生日は明仁上皇の誕生日(12月23日)に移動した。それまでの天皇誕生日だった4月29日は「みどりの日」という祝日になった。祝日法に「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」と定められた。
昭和の時代を顧み、将来に思いをいたす
「みどりの日」は、平成17年の祝日法改正で「昭和の日」に改められ、平成19年から施行された。
「昭和の日」は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」と祝日法に定められている。戦前の「天長節」から数えると3回目の名称変更である。
玉突きで押し出された「みどりの日」
18年間続いた「みどりの日」は、玉突きで押し出されたかっこうで5月4日に移動した。 中国の古典『中庸』では、人はうまれついた能力によって修養に「生知安行」「学知利行」「困知勉行」の三段階があるとされる。
この三つは道が違うのみで結果は同じであるから、才能の劣った者でも大いに努力すべきであるとも言われる。
素質に恵まれているのは幸いなことだが、生まれてから後に如何に「努力」を積み上げていくかが人生において、より大事であると考える。
素質に恵まれていてもそれに安住して努力を怠ったり、それを他者のために生かさない人が多いのではないか。
「生知安行」「学知利行」「困知勉行」、三つそれぞれについて記す。
生知安行(せいちあんこう)
生まれながらにして、人の履み行うべき道を熟知し、心安んじてそれを行うこと。
「生知」は、生まれつき仁道を理解していること。「安行」は、心安んじて行うこと。また何の努力もせずに道を行う意。
学知利行(がくちりこう)
人が履み行うべき道を、生まれてから後に学んで理解し、そのよさを認め、意識的に仁道を実践すること。
「学知」は道を学び習って知ること。「利行」は役に立つと認めて実行する意。
困知勉行(こんちべんこう)
苦しんで学び、努力して物事を実行すること。
「困知」は、「苦しみて知る」意で、才能が聡明でないために心を苦しめて悩み抜いたあげくにやっと知ることができること。
「勉行」は、ひたすらに努力を重ねて実践すること。
何れも『中庸』から
物事がうまく行かなくとも、挫けず諦めることなく、不撓不屈の精神で努力し続けることが大事だ。
「困知勉行」の姿勢を忘れず、保ち続ける。そうありたい。
(令和6年4月26日 18:45)
庭いじりなどをしない人は、「盆栽と鉢植えの違いについて説明を」と言われても難しいだろう。
盆栽も鉢植えも、「植物を鉢に入れて鑑賞する」という点では同じだ。では、その違いとは何か。
鉢植えは、草花、樹木、全てに適用し、あくまでも「植物」が主役となる。 それに対して「盆栽」は、鉢を含めた全ての景色を大自然として投影し、景色そのものを楽しむものである。自然というものは、必ずしも美しく綺麗なものとは限らない。時に枯れた枝があり、造形的に美しくない場合も少なからずある。そこに存在するのは、確実に木々が経てきた「時間」そのものでもある。
盆栽は、「植物と鉢を含めた景色をデザインすること」とも言える。盆栽の要件は、樹木を鉢に植えて自然の景色を表現するために美しく仕立てることだろう。
樹木をただ鉢に植えただけだと「鉢植え」だが、そこから手を加え、形を整えて、大きな自然を小さな鉢の中に再現していく作品が「盆栽」である。
初めから「盆栽」としてスタートする樹は、ごく稀だ。最初は鉢植えとして出発し、人が丁寧に手を入れていくことにより、徐々に盆栽としての要件を満たしていく。盆栽においては、まったく同じ親から生まれた植物でも、手入れをする人によって、その姿は大きく変貌していく。大きく奔放に育てる人もいれば、小さく切り戻して作っていく人もいる。そこが一つの面白さであり、盆栽はその人を表すと言われる所以だ。
そして、大切に育てて貰うことができれば、200年300年先まで生き続けるのだ。盆栽ならではの表現として「席(せき)」と呼ばれる空間の単位がある。盆栽自体だけでなく、その空間のどこにどうやって配置するかを考えることで、そこにないものまで想像させるという点が重要なポイントとなる。
鉢植えでは、植物の生長に合わせて鉢の大きさを一回り大きくしていくが、盆栽では明確に目指す樹形があるため、鉢は植木よりも小さい傾向にある。また大きさのみならず、形や色合いについてもその樹に合ったものを選ぶことも醍醐味のひとつである。
とにかく、盆栽は奥が深いと言える。
(令和6年4月24日 18:55)
ご出席ありがとうございます。
木谷三郷町長と生駒郡連合会の松井会長を来賓にお迎えし、五年ぶりに総会が開催出来ました事は大きな慶びです。
お二人には、ご多用のところご臨席を賜りまして、まことにありがとうございます。心から感謝を申し上げます。
さて、コロナ禍は完全に一掃されたわけではありませんが、ほぼ元の生活に戻られたでしょう。体調の事とかさまざまな阻害要因もおありでしょうが、百花繚乱の清々しい季節、おうちに閉じこもらず可能な限り外へ出ていただきたいと思います。
地元の支部におかれましても、今年度はいろいろな行事を企画しているでしょう。本連合会でもさまざまな取り組みをしていきます。会員のみなさんの積極的なご参加を望みます。
みなさんにとりまして、また三生連にとって、令和六年度も輝かしい一年にしていきましょう。
甚だ簡単ではありますが、開会の挨拶といたします。
(令和6年4月24日 12:35)
一つの行事を企画・運営するのには、大きな労力を要する。
現在、萬治 仙明理事が中心となって、「春のハイキング」の企画をしている。町図書館に通ってガイドブック等を何冊も読まれたり、2回にわたる下見など、奮闘されている。念には念を入れるため、30・31の土日には、3回目の下見も予定されている。
ぜひ一人でも多くの方のご参加を賜りたい。
(令和6年3月28日 7:45)
「和た与」のういろ餅
近江八幡を生まれ故郷とされる友人から、老舗菓子輔『和た与』の「ういろ餅」を土産に貰った。これまで何度もいただいている。とても味わいのある餅菓子だ。
友人の話では、名古屋の「ういろう」が有名だが、近江八幡が本家本元であると……。
「ういろ餅」は、米どころ近江の美味しいお米だけを使い、柔らかな食感が身上である。職人の技術で米粉に空気を含ませ、セイロで1時間蒸し上げることで、噛むほどに味わえるもっちりとした味わいを作り出すという。
香り高い宇治抹茶と白、そして、黒糖の中でも最上級と言われる沖縄波照間島産の黒糖をふんだんに使用した「黒ういろ餅」がある。今回いただいたものは、宇治茶と白だった。
蒸しあげたものを冷ましてからは、三味線の糸を使い手作業で切り分けていると。季節やその日の天気に応じて、材料のさじ加減を微妙に調整して作られる。ざらめを熱して溶かした蜜を冷ましながら、米粉を入れるタイミングが難しく、その日の気温や湿度によって時間や火加減も微妙に変えながら、一つひとつ手作業で作り上げると聞く。
今朝、ほうじ茶を飲みながら食したが、もっちりとした味わいで至福のときを過ごした。
『和た与』の商品としては、「でっち羊羹」が「ういろ餅」と並んで二枚看板である。「わた与」では、文久三年の創業以来、「でっち羊羹」発祥の店として、変わらぬ工程を守り続けていると聞く。
海のない近江では手に入りにくかった寒天のかわりに、小麦粉をつなぎに使用した羊羹である。十勝産小豆のこし餡と、砂糖、小麦粉を練り合わせ、上質の竹皮で手包みしたのちにじっくりと蒸し上げている。以前、一度食したが、その竹皮の香りをまとった上品な餡は、小豆の味を引き出すあっさりとした味わいであり、懐かしさを感じる素朴な甘さだった。
日々一定ではない気温や湿度、竹皮の厚みなどにより、練り加減や蒸し加減、包み加減を、職人の手によって微調整しているらしい。天然の竹皮を使っているため、一つひとつの包装も同じものが無い。これらが一体となって、銘菓を形造っているのだろう。
読者諸氏も、ぜひ一度『和た与』の「ういろ餅」と「でっち羊羹」をご賞味あれ。
(令和6年3月19日 8:15)
不撓不屈(ふとうふくつ)
どんな困難やしょうがいをも乗り越える強い意志をもっているさま。
「撓」は、木の枝などがたわむ。転じて、くじける。「屈」は、主義主張などをむりに押さえ込む。「不屈不撓」ともいう。
出典は、『漢書かんじょ』
漢書の「叙伝第七十下」の中に登場する、楽昌侯となった王商という人物の、しっかりとしたどんなことがあっても揺るがない人柄をあらわすのに、不撓不屈は使われている。
類語 「独立不撓」「百折不撓」
「不撓不屈」という言葉が広く知られるようになったのは、平成の大横綱と言われた貴乃花が大関昇進の際に「不撓不屈の精神で相撲道に精進いたします」と口上を述べた時からとも言える。このころ相撲界では大関や横綱への昇進の時に、少し難解な四字熟語を使った 口上を述べることが流行っていた。
貴乃花は、口上の言葉に恥じない相撲ぶりで、ファンを魅了したものだ。
横綱昇進時には、「今後も不撓(ふとう)不屈の精神で、力士として不惜身命(ふしゃくしんみょう)を貫く所存でございます」と。
不惜身命 仏道のために身も命も惜しまないこと。身や命をささげて惜しまないこと。身を顧みないこと。
私の贔屓力士 貴景勝の大関昇進時の口上は、「謹んでお受けいたします。大関の名に恥じぬよう、武士道精神を重んじ、感謝の気持ちと思いやりを忘れず、相撲道に精進してまいります」であった。
貴景勝の「景勝」は、戦国の武将『上杉景勝』からとった。
参考 グー辞書 マイナビニュース
(令和6年3月17日 13:30)
臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
将来の成功を期して苦労に堪えること。薪の上に寝て苦いきもをなめる意から。
「臥」はふし寝る意。「薪」はたきぎ。「嘗」はなめること。「胆」は苦いきも。もとは敗戦の恥をすすぎ仇を討とうと、労苦を自身に課して苦労を 重ねること。
誰もがよく知る故事成語である。
紀元前5世紀の呉と越の国家間の戦争に由来する。この成語の現在確認できる初出は、「嘗胆」のみならば『史記』巻41越王勾践世家であるが、「臥薪嘗胆」と揃った形では蘇軾(1037年 - 1101年)の詩『擬孫権答曹操書』中の句「僕受遺以来、臥薪嘗胆』(11世紀後半に成立)に求められる。
明治時代の日本において、三国干渉が発生した時に、ロシア帝国に復讐するために耐えようという機運を表すスローガンとして広く使われた。
日清戦争の講和条約である下関条約では、一旦清国から日本への遼東半島の割譲が決まったが、ロシア・ドイツ・フランスの三国は、日本は清国に遼東半島を返還するようにと要求した。これを三国干渉(さんごくかんしょう)という。
この三国干渉に日本政府はやむなく従い、日本は清国に遼東半島を返還した。多くの日本国民は三国干渉に反発し、国民たちの間に「臥薪嘗胆」の言葉が流行して、特にロシアへの反発心が強まった。
中国『十八史略』によると、紀元前6世紀末、呉王は先年攻撃を受けた復讐として越に侵攻したが敗れて自らも負傷し、まもなくその傷がもとで病死した。呉王は後継者の夫差に「必ず仇を取るように」と言い残し、夫差は「三年以内に必ず」と答えた。
夫差はその言葉通り国の軍備を充実させ、自らは薪(たきぎ)の上に臥(ふ)すことの痛みでその屈辱を思い出した(臥薪、この記述は『史記』には存在しない)。
間もなく夫差は越に攻め込み、越王勾践の軍を破った。勾践は部下の進言に従って降伏した。勾践は夫差の馬小屋の番人にされるなど苦労を重ねた。許されて越に帰国した後も民衆と共に富国強兵に励み、その一方で苦い胆(きも)を嘗(な)めることで屈辱を忘れないようにした(嘗胆)。
その間、強大化したことに奢った呉王 夫差は覇者を目指して各国に盛んに兵を送り込むなどして国力を疲弊させた。また、先代以来尽くしてきた重臣を処刑するなどした。ついに呉に敗れて20年後、越王勾践は満を持して呉に攻め込み、夫差の軍は大破した。夫差は降伏しようとしたが、条件とした王への復帰を勾践が認めなかったために自殺した。
私の母校愛媛県立宇和島東高校のボート部は、これまでインターハイや国体などで何度も優勝している。そのボート部の応援歌「思えば過ぎし」にも、『臥薪嘗胆』の故事成語が使われている。ボート部のみならず、全校の応援歌となっている。当然、甲子園でも歌われる。
「臥薪嘗胆」の類語
辛酸をなめる
「辛酸をなめる」の「辛酸(しんさん)」には、つらく苦しい思いという意味がある。その「辛酸」をなめることから、つらく苦しい思いを味わう、経験するという意味になる。
捲土重来を期す(けんどちょうらい)
「捲土重来」とは、一度失敗してもすごい勢いで盛り返すことを示す言葉である。「けんどじゅうらい」と読まれることもある。「捲土重来を期す」は、再起を期待するときに使うのが一般的だ。
漆身呑炭(しっしんどんたん)
「漆身呑炭」とは、仇を討つことや、復讐するためには苦しみや苦労をいとわないという意味を持つ。「臥薪嘗胆」と意味が重なるため、単純に置き換えて使うことも可能である。
堅忍不抜(けんにんふばつ)
「堅忍不抜」とは、何があっても動じずじっと我慢し、堪え忍ぶこと。
「臥薪嘗胆」の対義語
再起不能(さいきふのう)
「再起不能」は、病気が治る見込みがないという意味。転じて、失敗や挫折から立ち直れない状態の表現として使われることもある。
一蹶不振(いっけつふしん)
「一蹶不振」は、失敗や挫折をして再起できないという意味。「蹶」はつまずく、「不振」は勢いがなくなる様子を表す。
参考 ウィキペディア、コトバンク他
(令和6年3月17日 4:40)
新入幕の尊富士(たけるふじ)が、ただ一人7連勝の勝ちっ放しだ。立ち合いにスピードがあり、相撲に勢いがある。上背はそれほどでもないが筋骨隆々、発達した肩の僧帽筋は隆の里(元横綱・故人)を彷彿とさせる。千代の富士が苦手とした、あの隆の里だ。
明後日9日目あたりから前頭上位との対戦となるだろう。楽しみだ。早い時期に、大の里との対戦が組まれるかも……。
霧島の今日の相手は苦手とする隆の勝だったが(今日の一番を含め、1勝10敗)、為す術も無く5敗目を喫した。明日から休場の可能性も高い。気力の充実しないあまりにもみっともない相撲は、ファンに対して失礼である。
(令和6年3月16日 18:50)