三郷町生き生きクラブ連合会
(三生連・さんせいれん)

会長の呟き

困ったときの親切

 つい先日、四国の田舎で法事があり、車で帰省した。久しぶりに故郷の空気を吸い、親族などとのふれあいで心が和んだ。

 復路、松山付近でアクシデントが生じた。高速道路(松山道)上で急に車の調子が悪くなり、トロトロ走りになってしまった。車の構造や整備には疎く、えらいことになったと先ずは脇に止めた。そして救急隊に助けを求めた。同時に保険会社にも連絡をした。

 20分くらいで警察や救急隊に駆けつけていただき、レッカー車で一般道に降ろして貰った。警察も救急隊も、そしてレッカー車の方にはとても親切にしていただき、有難く思った。

 盆で修理・整備して貰える所が無かった。奈良まで搬送すると、その代金は保険では出ないとのこと、結局、松山に車を置き修理することにした。7~10日間は要するだろう。松山から自宅まで電車を利用したが、早く対応していただいたので比較的早く戻れた。

 困ったときに親切にしていただけると、本当に有難い。この思いを困っている人のために引き継ぎたい。感謝の連鎖となろう。

「山奥に住んでる奴は……」  経営科学出版

 かつて、日本は世界から賞賛される国でした。焼け野原にされた地獄から復興する力がありました、、、なぜそれが今、失われているのでしょうか? かつて日本に存在した、先人たちの情熱と勇気、それを失った日本はどうなるのか?

 「山奥に住んでる奴は住む場所を変えろ」
 アナタは覚えていますか?2020年の夏に起きた九州豪雨被害を...特に熊本県では球磨川(くまがわ)水系が氾濫・決壊するなどし、65名もの方が帰らぬ人となってしまいました。この悲惨な災害に対し、元大阪市長の橋下徹氏はとある情報番組で次のように語りました、、、 「今は一生に一度とか、 50年に一度の雨が頻繁に起きていて、 治水計画の前提がもう狂っていると思うんです。 人間が自然をコントロールするという 前提はもう変えていかないといけない」「今、被害にあわれている方には 政治がお金を使って全力で復旧していくのは 当たり前の話なんですが、今後、令和以降の時代を考えた際は一歩進めて、危険が生じたから逃げるでなく、そもそも住む場所を変えていくことが必要」
 一見、もっともらしいように聞こえるこの意見。とんでもない「3つの闇」が潜んでいました。
 1つ目の闇は、安易に「住む場所を変えろ」と言ってしまっていることです。これは地元に何の愛着も持たず、カンタンに住む場所を変えられる「カネ持ち」の論理ではないでしょうか?
 たしかに、大阪市長の座につき、今もコメンテーターとして引っ張りだこで、7人の子供を養うほどの経済力のある橋下氏ならカンタンに住む場所を変えられるでしょう。しかし、あの災害で被害に遭われた方の全員がそのような余裕があるとは限りません。にもかかわらず、「住んでいるところが悪いのだ」という自己責任論として結論づけられているのは、いかがなものでしょうか?

 2つ目の闇は、「そもそも日本の国土というものは、 どこにいても大災害に遭う可能性がある」という大前提を忘れていることです。橋下氏は「危険がある場所からは逃げろ」と言っていますが、だとするならば、日本国民は全員、日本から逃げ出さねばなりません。というのも、日本は海外と比べて、無数の河川が縦横無尽に走っており...四方を海で囲われているため、多くの場所で水害のリスクがありますし日本の国土面積は世界の0.25%なのに対し、マグニチュード6以上の地震は世界の20%、活火山の数は世界の7%を占めています。
・北海道
・東北
・関東
・東海
・関西
・中国
・四国
・九州
・沖縄

 全ての場所で大地震が起きる可能性があるとともに、火山の噴火だって起きる可能性があります。数十年以内に「南海トラフ巨大地震」が来ると言われていますが、大阪に住んでいる橋下氏は逃げ出さなくても良いのでしょうか?

 3つ目の闇は、「人間が自然をコントロールするという前提を変えなければならない」という敗北主義です。さきほどもお伝えしたとおり、日本国土は全ての場所において災害を受けるリスクがあります。にもかかわらず、自然とどう対峙するかを考えないというのはいったいどういうことでしょうか? 「完全にコントロール」するのは不可能なことかもしれませんが、少しでも被害を減らすように働きかけるのは必要なことではないでしょうか?
 そもそも、2020年7月の熊本県球磨川決壊も、実際は防げた可能性が高いものだったと言われています。なぜなら、この球磨川は日本三大急流の1つとして数えられ、これまで多くの水害をもたらしていたのに対し、上流に「ダム」を建設して災害を防ぐ計画が立てられていたからです。しかし、過去の熊本県知事が「ダムに頼らない治水」という空虚なキャッチコピーで建設に反対。計画は白紙に戻され、「ダムに頼らない治水」というのも何ら具体的な策が進められないまま、あの災害の日を迎えてしまったのです。
 もし、ダムを建設するなど、しっかりとした対策を打っていればこれほどの被害にはならなかったはずです。(実際、あの災害の直後に「川辺川ダム建設」の再検討が始まりました)橋下氏はこういったことを考えずに「自然に立ち向かうこと自体がオカシイ」と言っているのですが、、、もし自分や家族、大切な人たちが同じような災害に遭ったら「ダムを建設してさえいれば大丈夫だったかもしれないがそもそも自然に立ち向かうのは間違っているから仕方ない...」と納得できるのでしょうか?
 そんなことはないでしょう。どうせ何も対策を打ってこなかったことに対し、血相を変えツバを飛ばしながら批判するに決まっています。...いったいなぜ、橋下氏も過去の熊本知事にしろ、これほど危機意識がないのでしょうか?
  
 実は、これは現代日本特有の問題です。というのも、過去の先人たちは、ダムや道路の建設などを「最優先」と言ってもいいくらい重要視していて、文字通り命がけで国土を整備してきました。(黒部ダムでは、171名の方が殉職しています) 結果、戦後、瓦礫の山となっていた日本でも今では非常に快適に暮らせるようになったのですが、、逆にこのことが私たちの認識を歪めてしまったのです。

株式会社 経営科学出版


愛国心と誇り   西鋭夫

 国破れて、占領が始まった1945(昭和20)年の真夏から、「無敵の日本帝国がなぜ負けたのか」と国民は自責の病に冒され、惨敗の理由探しに苦しんだ。
「精神力では勝っていた」と占領の屈辱を耐えた。飢餓寸前の食糧危機の中で自分を慰めるかのように、この念仏を呟き、「富」の蓄財に奔走した。「富」の魔力に惑わされ、「富」に真の幸せがあると錯覚し、日本国民は形相物凄く「富」を追求した。

 戦勝国アメリカが「世界一素晴らしい」アメリカ国内市場を日本の企業に提供してくれた。「日本のために」「経済復興のために」と。しかし、「富」という甘い麻薬への代償は、日本が最も大切にしていた「大和魂」を失う事だったとは国民誰1人として気づかなかった。この危ない絡繰に気づいて警告を発した人がいたとしても、「極右」とか「軍国主義者」と罵倒を浴び、無視されただろう。
 アメリカにモノを売って日本は金儲けをした。アメリカにとっての見返りは、日本人の服従。日本人の勇敢さ、戦闘心、「武士道」。脈々と絶えることなく流れ続けた日本国の歴史。歴史に育まれ、成長してきた愛国心と誇り。即ち、日本人の「魂」。この無形の「見返り」をまんまと日本から取り上げたアメリカは、「また、勝った!」と思っている。銭では計れない、赤字・黒字決済簿に出てこない「誇り」を、アメリカは敗戦直後の虚脱状態にあった日本国民の心の中から、永久平和と民主主義という甘い言葉で誘い出し、アジア・太平洋の「征夷大将軍」マッカーサー元帥の密室で扼殺した。その死体が、憲法第9条。

 憲法9条と平和教育
 第9条は「愛国心」の墓。富める国の真っ只中にありながら、忘れ去られた墓。誰も訪れない無縁墓地。ブランド物の美しい服で着飾り、美味しいものを食べ、多額の金を使い世界へ物見遊山に行き、またハイ・テクの小道具で日常生活を楽しんでいる富国日本の人々の心の中にはペンペン草が生えているのだろう。
 己を顧みず、国の歴史となんの絆も持たず、国の栄光と失望、夢と後悔、誇りと反省などには目もくれず、ひたすら「物・富」を追いかける今の日本の姿は、飢えていた5歳の私と同じではないのか。我々の「誇り」は第9条の中に埋葬されている。日本国民は、戦後、第9条があるから日本が「平和」でおられたと信じている。そのように教育されてきた。今でも、そう教えこむ。
 アメリカは自国の国益を護るため、自国の安全を確保するため、あの猛勇日本、あの「神風特攻隊」を生み出す日本、国のために玉砕する日本人を2度と見たくなかった。我々日本人から「命をかけても護らなければならないもの」を抹殺しなければ、いつまた日本が息を吹き返し、強い国になり、太平洋で、アジアで、アメリカの進出を邪魔するかもしれない、アメリカに報復するかもしれないと恐れていた。日本の文化から、日本の歴史から、日本人の意識から、「魂」を抜き去り、アメリカが「安全である」と吟味したものだけを、学校教育で徹底させるべし。マッカーサー元帥の命令一声で、日本教育が大改革をさせられたのは、アメリカの国防と繁栄という最も重要な国益があったからだ。
 アメリカが恐れ戦いた「日本人の愛国心」を殺すために陰謀作成された「洗脳」を、日本は今でさえ「平和教育」と呼び、亡国教育に現を抜かしている。

<著者紹介>
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士)。

J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。また、2016年3月より同研究所小川忠洋フェロー。

 西氏は、私が若い頃務めていた職場の先輩(大変お世話になった)の、奥様の弟さんである。

また円安ドル高の方向にじわじわ  藤井厳喜

 Q.なぜ突然円高に転じたのか?  ということですが単純に言えばこれは、「アメリカ経済が悪い」「本格的に景気後退に入ったのではないか」というアメリカ経済の先行き不安からドルが売られ、その反動で他の通貨(円など)が買われた結果だと思います。
 残念ながら私もこのタイミングでこれほど大きな「円高ドル安」が来るとは予測できませんでした。申し訳ありません。
 しかし、大きなトレンドは変わってないと見ています。実際、7月27日にFRBが0.75%利上げを実施しましたがこれはほぼ予測通りです。これ自体は織り込み済みということで、為替相場もあまり反応はありませんでした。これが1%の利上げであればかなり反応はあったと思います。
 大きく相場が動いたのは、その翌日です。7月28日、アメリカの商務省の統計が発表され 今年の第二四半期(4月〜6月)の経済成長率がマイナスだったのです。これがかなり市場を驚かせました。前の1月〜3月期もマイナスだったので、今度はプラスに上がると予測されていたのです。しかし、そうはなりませんでした。米国では景気後退の定義とされる「2つの四半期続けてマイナス成長」となり、影響が大きくなりました。
 ですが、面白いことは、この悪い数字が出て逆に7月28日に株は上がったことです。これはどういう心理かというと、、すでに景気が悪くなっているから、FRBはこれ以上は金利を上げないであろう。インフレの天井もここまでだと。そういう見込みでむしろ株価は上がったということです。
 しかし、長期的な日本経済については・日本経済の行き詰まり
・岸田政権の消極財政
・日本の貿易赤字が拡大
 ということで、円安要因は変わっていません。これは残念なことですが、長期的な日本経済の衰退というのは、外貨を稼ぐ力が落ちているということ、それを補うような経済政策が出ていないということが、大きな理由でした。これは一朝一夕で改まるとはとても思えません。ですから、基本的な円ドル関係の構造は変わっていません。
 また円安ドル高の方向にじわじわ戻り始めるというふうに予測します。

国際政治学者:藤井厳喜


医食同源は良い言葉?  林 建良 

 日本では医食同源というのは、良い言葉だと考えられています。では、日本人が考える医食同源とはどういう意味なのか。
 医というのは医療です。食というのは食事あるいは食材です。要するに口に入れるものが体を整えてくれるという意味になります。食事のときに体に良いものを食べると、自然治癒力で自分の体を治す効果を持っているというのが、日本の医食同源の考えだと思います。
 この考えは極めて正しいと思います。当然ながら口に入れるものは体に関係していて、場合によっては自分の体に良いものもあれば、悪いものもあるということです。ですから食べ物にはやっぱり注意しなければいけません。何かを食べると何らかの免疫力が増進することがあり、あるいは血管の柔軟性が保たれる
という効果もあると考えられています。

 ■本当は怖い医食同源の真相
 ところが中国人が考える医食同源は日本人とはまったく別次元の問題です。
実をいうと、僕も漢方薬について学んだことがあります。中国の漢方医療は基本的に自然科学とはかなり違った発想です。中国の漢方医は、宇宙の摂理に合わせるという発想を基本にしています。その発想自体、僕は悪くないと思います。
 それぞれの食材は、熱性のもの、温性のもの、冷性のもの、寒性のものというふうに分けられています。例えば生姜は温性のもの、唐辛子は熱性のもの、白菜や大根は寒性のものというふうに分けられていて、さらに陰と陽に分かれます。陰陽五行というのがあって、木金水土火とか、五行という概念で物を処方します。
これが漢方薬の基本になります。
 しかしながら医食同源の最も基本な部分というのは、例えば豚の肝臓は人間の肝臓に良い、豚の脳は人間の脳に良い、腎臓を食べると腎臓に良いというものです。だから究極的にはその臓器が人間に近ければ近いほど良いと考えられています。どうしても手に入らないものであれば、形だけでも人間に似ているほうが良いとされています。
 例えば朝鮮人参ですが、足が2本に体があり、人間の胎児に似ています。人間に似ているものは人間に良いというのが、医食同源の発想です。中国人が興味を持っているのは、金以外には食べるものと性に関するものです。中国古来の精力剤には犬あるいは虎のペニスが用いられてきました。乾燥した犬のペニスが今でも売られていて、中国人はこれを煎じて飲んでいます。
 そして中国では今でもやっていることなんですが、広東省では猿の脳みそを
食べることがあります。どうやって猿の脳みそを食べるかというと、テーブルの真ん中に穴を開けて、生きたままの猿をそこに縛り付けて、頭蓋骨をかち割って生きたままの猿の脳みそをスプーンですくって食べているわけです。なぜ猿の脳みそを食べるかというと、猿は霊長類で人間に近いから。だから猿の脳みそを食べると、脳に良いと考えられています。人間に近ければ近いほど良いということになると、究極的には人間を食べるのが最も良いということになります。

 ■究極の薬膳料理「赤ちゃん鍋」
 だから中国には今でも赤ちゃん鍋があるんです。赤ちゃん鍋については実は台湾の週刊誌でも報道されていて、2001年10月18日発売号の香港資本の雑誌「壱週刊」に掲載されています。そこでは、報道陣が赤ちゃん鍋の料理の手順から鍋になるまでの過程をずっと撮影してきて、実体験をレポートしています。赤ちゃんと言っても、胎児と言ったほうが良いかもしれません。

つい最近まで中国は1人っ子政策をやっていました。中国では少なくとも
年間1500万人の胎児が殺されているというか、中絶されています。先ほど申し上げたように、金銭至上主義の中国人が1500万人の胎児を無駄にすることはないでしょう。胎児の場合は妊娠6か月以上経過すれば、はっきりとした赤ちゃんの形になっています。妊娠6か月以上から満月になるまでの胎児のほか、場合によって生まれた直後の赤ちゃんを使って鍋にするということです。
 赤ちゃん鍋は、中国の究極の薬膳料理と考えられています。これが医食同源という考えです。

<著者紹介>
林 建良(りん けんりょう)
 1958年に台湾台中に生まれ、1987年、日本交流協会奨学生として来日。東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。

2007年、「林一洋医師記念賞」受賞、2017年、「二等華光専業奨章」受賞。
医師としての仕事の傍ら、台湾民主化の父:李登輝とともに台湾建国運動を精

力的に展開。台湾においてパスポート表記を「中華民国 REPUBLIC OF CHINA TAIWAN」から「台湾 TAIWAN」に変更する「台湾正名運動」の発案者。
 現在は栃木県在住。台湾独立建国連盟 日本本部・委員長を務めている。
 『日本よ、こんな中国とつきあえるか?』 『中国ガン』(並木書房)の2作を通して、日本人が気づいていない、中国の本質を暴く。2019年にはJCPACにも登壇、台湾の未来について演説・討論をおこなった。


人生を変えた出来事  丸谷元人

 私の人生を大きく変えてしまったのはパプアニューギニアでの経験でした。若い頃、日本軍の戦績調査のために防衛大学の教授のお付きの通訳として2週間パプアニューギニアに行きました。実はその後、日本に帰国してすぐに一部上場の商社への入社が決まっていました。しかし、パプアニューギニアで頭を打たれるような経験をした私は帰国後に商社の内定を辞退することになります。
 パプアニューギニアについて一発目に衝撃を受けたのは、地元の方が今でも日本軍人の墓に花をお供えしているということです。周りがジャングルで大雨が降っていたにも関わらず日本兵の墓にハイビスカスの花をお供えしてくれていました。

 ①子供たちの大群
 日本陸軍の戦闘機隊がいたブーツ飛行場の調査に向かったときにはたまたま車を降りて休憩していると岡の上から子供たちの大群がウワーっと向かってきたことがあります。
 なんだなんだと思っていると「ジャパンだ!ジャパンだ!」というふうに
すぐに車を取り囲まれました。現地人はニコニコしながら「ジャパン、文通しよう」と言うのです。文通をするのか?と戸惑いましたが悪い気はしないので、どうして文通をしたいのかを聞いてみたら「我々はジャパンが大好きだ」というわけですね。「なんで日本が大好きなの?」と聞くと、「ジャパンは我々を助けてくれた いじめられてた我々と一緒に戦ってくれた」「ジャパンの兵隊が可愛がってくれた」と口々に言うわけですね。日本人をこんなによく思ってくれているのかともうびっくりしてしまいました。

 ②偶然見つけた日本軍の遺物
 また別のところでは、教会から帰ってくる現地人の方を眺めていると、あるものを首からぶら下げているのに気づきました。「ちょっと見せて」と声をかけるとなんと旧日本軍の認識票だったのです。じっくりと見ると第何部隊のHさん(仮名)と書いてあるではありませんか。びっくりしてしまい800円くらいで買い取らせてもらいました。厚生労働省に問い合わせをするとその3ヶ月後にご遺族の方につながりました。
 その方が3歳のときにお父さんが戦争に向かったらしく戦闘機のパイロットだったそうです。認識票は無事にご遺族の手元にお届けできたのですが現地人に「その認識票、どこで見つけたの?」と聞くと「うちの村の外れに墜落した日本軍の戦闘機がある。そこで拾ったんだ」と教えてくれました。実際に見にいくと「飛燕」という戦闘機の残骸があってHさんはこの場所でお亡くなりになったと分かりました。

 ③日本人を待っている現地の人々
 また別の日に日本とオーストラリア軍が激戦を繰り広げたアイタペと言う場所に行くと現地のおばあさんとすれ違いました。そのとき「あんたはチャイナか?コリアか? それともマレーシアか?」と聞かれたので、日本人だと答えるとおばあさんはびっくりしたような顔をしてガラッと態度が柔らかくなりました。
 その後しばらく歩いてふと後ろを振り返ると、なんと30人くらいの現地人が
行列をつくって後についてきているではありませんか。私たちは現地住民に取り囲まれ「ジャパンの兵隊は優しかった」「おじいちゃん、おばあちゃんから聞いている」と戦争時代の話をたくさん聞かされました。さらに「日本軍はいつ帰ってくるんだ?」と質問をされる機会が何度もありました。気になって尋ねると
「日本の兵隊さんは撤退するとき 必ず帰ってくると約束してくれた。我々は今でも待っている」と言われてびっくりしてしまいました。
 その後、考えたこと

「すみません。いけません」2週間の戦績調査ツアーから帰ってきた私は
内定先の会社に連絡をして入社をお断りしました。今でもこの決断は間違っていないと思います。商社の面接では「あなた男芸者できますか?」と言われていました。仕事をした後、取引先の接待をするわけですね。最初は「がむしゃらにやってやろう」と思っていたのですが、パプアニューギニアに行ったあとは「商社で良い成績を出せる人はたくさんいる。けどパプアでこの現状を見た日本人はそう多くない。私は私にしかできないことをやろう」そう思ってパプアニューギニアで活動することを決めました。
 私たちの先人である日本兵たちのお墓を、戦後60年以上が経ってもなお
彼らは守り続けてくれている。さらには、なんと数百人もの現地人が、日本兵を助けたという理由だけで、その後、裁判もなしに連合国によって処刑されたという事実も聞かされました… しかし、彼らはそれを恨むどころか、私が日本人というだけで周りを取り囲み、踊り狂わんばかりに歓迎してくれたのです…その気持ちを嬉しく思う一方、私は強烈な怒りや悲しみに包まれていました。なぜ、今まで誰も来なかったのだ!なぜ、こんな不条理が許されているのだ! ここに眠る戦没者たちのおかげで、今の日本がある。それなのに我々戦後の日本人は、
バブルだ、高級車だ、住宅だ、キャリアだ、収入だ、海外旅行だ、と騒いでいただけ…その間、これらの戦没将兵たちは、異国の冷たく暗い土の下でずっと我々を待っていたのにもかかわらず…しかし、私たちはそのことを完全に忘れてしまっているのです…
 私は、英霊たちに恥じない生き方をしたいと強く思いました。日本で骨をうずめることが出来なかった人たちの想いを絶対に踏みにじらない生き方を。そういう人を思い出して、感謝して、全ての骨の回収はできないかもしれないけれど、
想いだけは忘れずに馳せること。英霊の方たちが守りたかった「日本」に対する想いを、繋いでいくような生き方をしたいと思ったのです。        
 そうして、私は危機管理の専門家として、数多くの危険地帯で様々な任務を遂行する道を歩み始めました。時にスパイと情報戦をし、騙されたり、騙したりもしました。 常に駆け引きのある世界で、「人間」の表と裏もよく見えるようになりました。時に大切な人を守れず、「人殺し」と呼ばれた日もありました。私自身も何回も三途の川を渡りそうになり ました。 

 

危機管理コンサルタント  丸谷元人

この子を養子にして…  丸谷元人

 「この子を養子にして、日本に連れて帰ってやりたい…」
 私がどうしても忘れることの出来ない記憶を今日は少しだけお話します。

 【少年との出会い】
 これは昔、私が仕事で、ある国を訪れた時の話です。私は、50 代の白人の欧米人男性が経営する宿に泊まっていました。気さくな普通のおじさんだと思っていたのですが、なぜか彼の周囲には、常に10 歳~15 歳の男の子たちが何人かいるわけです。近くには小学校もあって、制服を着ている子どもたちが校庭で遊んでいるのが見えるのに、平日でもその男の子たちは学校に行っておらず、ホテルの掃除やお手伝いをしているのです。その時は、「貧しくて学校に行けない子もいるんだろう…」くらいに思っていました。
 その後、たまたま 1 日時間が空いたので、私は朝から海に飛び込んで、魚を追い掛けたりしていました。すると、例の 15 歳くらいの男の子が、カヌーで近くを通り掛かったので、「ここにいる魚って何よ?」とか、「サメって出るの?」みたいに声を掛けて仲良くなったのです。その後、私の方が「君、将来何になりたいんだ?」と聞いたら、「いつかパイロットになったら日本に行きたい。大きなビルがあって、トレインというのが走っていると聞いたことがある。見てみたい」こんなことを言うんです。
 それで「だったら今から勉強しておかないとダメだよね。でも何で君、学校行かないの?」と聞いたら、「行きたいけど行けない。だからここで働いているんです」と。「じゃあ、もし行けるとしたら、行きたい学校ってあるの?」と聞いたら、「やっぱりパイロットになりたいから、違う島に工業高校というのがあって、そこに行きたい」と言うんです。それで、「その学校、お金いくらかかるの?」と聞くと、1年間で、寮とか込みで20 万円ぐらいだと。その地域の平均月収が 1万とか2万とかそのぐらいだったので、「やっぱり貧困なんだな」と思って、それ以上私は聞けませんでした。その日は半日、彼と一緒にカヌーをこいだり、魚を捕ったりして遊びを楽しみました。

 【少年の秘密】
 その翌日、あまりに部屋が暑かったので、私は目の前にあるビーチに出て、少し涼んでいたのです。すると、前日一緒に遊んだ男の子が、満月のものすごく明るい月明かりに照らされながら、例の、このホテルのオーナーのおじさんに手を引かれて、オーナーの住んでいるホテルの部屋に連れ込まれていくのが見えたのです。
 「もう夜の 10 時ぐらいなのに、あの子は家に帰らず何をしているんだろうな?」と不審に思ったので、翌日その近くにいる地元民に「何で子どもたち、あそこに夜遅くまでいるの?」と聞いたら、地元の人がこう言ったのです。「ああ、あそこの白人のご主人様は男の子が大好きで、少年を何人も囲ってるから」と、それを聞いて私はもうびっくりしてしまいました。つまりその少年たちは、そのホテルオーナーから虐待をされていたということです。

 そんな現実を見てしまって、私もショックを受けてしまい、それからしばらくして、再びその少年とビーチで会った時に、思い切って言ったのです。「この前の晩、君があのオーナーと部屋に入っていったの見たけど、君はあれでいいの?」と。そうしたら、彼は最初ニコニコ顔で来ていたのですけれど、びっくりした目でこちらを見て、やがて恥ずかしそうに下を向いてしまいました。そして黙ってしまって、しばらくして首を横に静かに振って、ポツリと「僕はあれが好きじゃないです」と言うわけです。

 こちらは完全に胸を痛め、頭にきてしまいまして、「いいか、嫌なことをさせられているなら嫌とはっきり言えよ。絶対に従う必要なんかないんだ。男の子だったらいつか戦わなきゃいけないときがあるんだから。何だったら俺が一緒に行って、あのオーナーとけんかしてやってもいいんだからな。嫌だったらはっきり言っていいんだから」と言ったのです。そうしたら、彼は大変困った顔をして、「それだけはやめてください」と言ったわけです。
 「何で?こんなこと許されないんだよ。許されちゃいけないんだよ」と言うと、彼はこう言ったのです。「自分がここにいることで、オーナーは自分の家族に毎月お金を払ってくれて、養ってくれているんです。だから感謝してるんです」と、泣きながら言うわけです。こちらはそれでもう何も言えなくなってしまいまして、その当時、私は 20 代終わりで30歳ぐらいでしたけど、本当に「この子を養子にでもして、日本に連れて帰ってやろうか」と思ったぐらいでした。

 しかし、この子には両親や兄弟がいる。「その支払われたお金で、下の弟か妹か何かを小学校に行かせている」みたいな話がある…ですから、そんなことは絶対にできなかったのです。そんな時というのは、もう掛ける言葉がなくて、2 人で黙っているしかありませんでした。

 【別れの日】
 その翌日か翌々日に、私の出国の日がやってきました。そこで、彼とお別れをするために会いにいったものの、彼はどこにもいません…すると、別の小さな男の子が「ねえ、ミスター。ミスターが今日帰ってしまうから、彼は悲しんじゃってどっか行っちゃった」と。「じゃあ、このTシャツを彼に渡してあげて…」手元にあったTシャツを託し、私はチェックアウトして空港行きのバスに乗ったのです。すると、バスが出発してホテルの方をふと振り返ると、何とあの少年が、私のあげた T シャツを握りしめて大泣きしながら追い掛けてくるのです。

 私も泣けて泣けて仕方なかったのですけれど、何もできないのです。「この子はこれからどうやって生きていくんだろうな」などと思いながら、その地を去りました。
 その後もやはり、私はそのことがあまりに衝撃で、もう頭から離れなかったので、思い切って、人を介して例のホテルのオーナーに連絡を取ってもらいました。当時の自分が自由に使えたお金、精一杯の貯金をはたく形なのですけれど、「とにかく 2,000ドル(約20万円)送るから、あの少年を工業高校に行かせてやってくれ」とお願いしたのです。そうしたら、半年ぐらい何の音沙汰もなかったのですけれど、やがて人づてに「その少年がオーナーの許しを得て、別の島の行きたかった工業高校に行って、今では寮に入って一生懸命勉強している」という話が聞こえてきたので、ホッとしたということがありました。この話も結局、旧植民地の支配者や地元の有力者による非道なのです。

 少し長くなりましたが、あの時、本当に自分の非力さというか、この世の汚さみたいなものを感じました。この一件だけでなく、私はこうした世界の裏側や汚い世界を数多く見てきました。

 

危機管理コンサルタント  
丸谷元人(まるたにはじめ)

   世界の危険地帯を渡り歩き、危機管理・テロ対策現場の第一線で活躍するプロフェッショナル。オーストラリア国立大学卒業後、オーストラリア国立戦争記念館の通訳翻訳者を皮切りに、長年、通訳翻訳業務に従事。その後、パプアニューギニア、ナイジェリア、中東など、毎週のように誘拐や人殺しがあるような治安が悪い地域での企業の事業展開支援・危機管理業務を数多く請け負ってきた。時には自ら防弾車に乗り、銃を片手に現地部族との交渉・要人の警護の業務を行なった経歴を持つ。自らのネットワークを活用して独自の情報を集め、安全対策・政治経済の動向など幅広く分析を行う。
 現在は、危機管理コンサルタントとしてグローバル外資系企業を中心に活動
しつつ、自身の運営する「月刊インテリジェンスレポート」にて国際情勢の最新分析を発信している。

 

免疫が弱ったりすると  丸谷元人


 「丸谷先生は、 九死に一生の体験を したことがありますか?」と聞かれることがあります。答えは「Yes」。海外の危険地帯をめぐる中で何度も死にかけてきました。ただ、多くの人の想像と違うことがあります。実は1番怖かったのは、銃で撃たれることでも、拉致されて拷問されることでもありません。実際、私がこれまでで一番死を意識したのは「病」のときです。
 南洋諸島で活動している頃、 熱帯性潰瘍とか、デング熱も含めてありとあら
ゆる熱帯病に感染しました。10回以上マラリアになりましたし、一番致死率が高いというのも含めて様々な病を経験していて、最後は自分の尿が墨汁のようにまっ黒になってしまったこともありました。

 人間だったら、相手もいることだし何とか抵抗の余地があるのですけれども、
病気はそういう訳にはいきません。マラリアで気を失ったことは何回もありますし、錯乱しかけたこともありました。ひどいときはもう本当に垂れ流しの状態で3回ぐらいは病気で死にかけています。「よく今まで生きてきたな」と自分のことながら思います。 
 免疫がしっかりしているときはこのような病気にかからないですけれども、
少し免疫が弱ったりすると、一発でかかってしまうのです。特に私の記憶に残っているのは部下の現地人と共にパプアニューギニアのオーエンスタンレー山脈を歩いていたときのことです。あれは、本当に不思議で、そして死を意識した体験でした…
 そこは日本軍と連合軍が悲惨な激闘を繰り広げた地…日本軍がポートモレスビーまで100キロの道のりを戦っていった場所ですけれども、500メートル登って400メートル下がって600メートル上って 500メートル下がってみたいな、こういう峠の繰り返しなのです。高低差のある100キロの道のりを3日間で強行するので朝の5時から夜の7時まで歩きます。さらに季節は雨季で大雨が降っていて、ものすごい泥道を歩きました。当然、泥の中に足がはまります。それを抜くのを繰り返していたら、足の筋を痛めて歩けなくなってしまったのです。仲間の現地人の背中におんぶしてもらって、その長い泥地帯を抜けられたのですが「日本の兵隊さんもこうやって現地人に助けてもらったんだな」いう追体験になりました。その後、足の様子を見るため休憩をすることにしたのですがすると、何やら森の向こうから人の声が、ザワザワと聞こえてくるのです。

 明らかに何かがおかしい…途中に村などは何もないし、こんな人里離れたところに、人などいるわけがないからです。すると、一つ気づいたのが、この場所は大戦中に野戦病院があった場所…多くの日本兵が亡くなっている場所ということでした。
その後、すっかり日も落ちてしまい、ご飯を食べながら、私たちは怖くなって
しまいました。大雨が降りしきる中、とりあえず、電気だけはつけたままにしようと…恐怖に気を取られていた私は、そこでふと、気づきます。1匹の蚊が私の腕にいるのです。「やられた…!!」そう思った時には遅く、私は、その1匹に噛まれてしまいました。刺されたのはその一発だけなのですが、完全にこちらは疲労困憊しているわけです。普段、街とかちょっとしたところにいるときは、マラリア蚊に刺されても平気なぐらいになっていたのですが、完全に疲労困憊している時にやられたので、それからちょうど1週間後、ポートモレスビーに帰った時に、マラリアの症状がボーンと出て倒れてしまいました。高熱で意識を失い、生死を彷徨っていました。がどうすることもできません。命からがら現地の方に助けられなんとか一命をとりとめることができました……。

危機管理コンサルタント  丸谷元人(まるたにはじめ)
 世界の危険地帯を渡り歩き、危機管理・テロ対策現場の第一線で活躍するプロフェッショナル。オーストラリア国立大学卒業後、オーストラリア国立戦争記念館の通訳翻訳者を皮切りに、長年、通訳翻訳業務に従事。
 その後、パプアニューギニア、ナイジェリア、中東など、毎週のように誘拐や人殺しがあるような治安が悪い地域での企業の事業展開支援・危機管理業務を数多く請け負ってきた。時には自ら防弾車に乗り、銃を片手に現地部族との交渉・要人の警護の業務を行なった経歴を持つ。自らのネットワークを活用して独自の情報を集め、安全対策・政治経済の動向など幅広く分析を行う。現在は、危機管理コンサルタントとしてグローバル外資系企業を中心に活動しつつ、自身の運営する「月刊インテリジェンスレポート」にて国際情勢の最新分析を発信している。


唯一信じられるもの  丸谷元人

 私が譲れないものがあるとしたら、「何人だから善い人だ。悪い人だ」ということはないです。どこの国の人でも、腹を割って話し合えば、絶対に理解し合えます。
 例えば、相手がネオナチだろうが何だろうが、人種差別主義者であろうが、
関係ありません。私なんかオーストラリアで人種差別主義者にたくさん会いましたし、殴り合いもしました。しかし、最後は結構仲良くなるのです。
 韓国人
とはよくやり合いましたけれども、みんな仲良くなってしまって、ナイジェリアである時に、土曜日の夜の仕事終わりに、韓国人と日本人何人かで飲んでいました。そうしたら、1 人が酔っ払い始めて、竹島の話をし始めたのです。それで、「おまえらは俺たちのおばあちゃんのことをレイプしやがって」みたいなことも言い始めたのです。竹島と、それからいわゆる慰安婦問題です。
 その
場にいた日本人はみんな黙っていたわけですが、韓国人も「まあ、まあ」と言っているわけです。それで、日本人に叫びかけるのだけれども、みんな知らん顔しているのです。大体そこでみんな黙っているから、「こういう時に言わなきゃいけないだろ」と思って、言ったのです。「だってな、おまえのおばあちゃんを 俺はレイプなんかした覚えはねえ。そうしたら おまえは、もしかして俺の孫か? このやろう」 みたいな話を言ってしまったのです。向こうもカーッと怒って、それでその時にガーッと言って、韓国語混じりでよく分からないし、しかも「独島が何だ」とか、「竹島が何と」と言うから立ち上がると韓国人は「まあまあ座れ」と言うのですけれども、向こうがいきり立ってワーッとなるではないですか。 それで、その時に周りの日本人も「丸谷さん、やめた方がいいよ」と言うのですけれども、「いや、こういう時は言わなきゃいけないんですよ」「俺とおまえが、 ここで竹島を巡って殴り合いをして、竹島が返ってくるんだったら、俺はいくらでもやってやるよ」と言いました。
そこで 2 人でケンカして、「アフリカのこんなへき地で、同じような東洋
から来たわれわれが 殴り合いのケンカをして、それで解決すると思うか?」という話になったのです。 
 それで、「もう少し深い話をしようか。おまえと
俺でケンカしてもしょうがないけど、言いたいことあるなら言え」と言って、「まあまあ」と止められたのですけれども、わざわざ向こうのテーブルに回って、韓国人と2 人でとことん飲んだのです。そうしたら翌日、向こうが部屋に来て、「昨日はすいませんでした。良かったら一緒にジム行きませんか?」みたいな話になって、結局仲良くなってしまったのです。 
  結局、向こうも言いたいのです。彼らも、そういった教育を受けているから、日本人に対して知らないけれども、知らない分うっぷんもあるし、何
かいつも日本人は自分たちのことを見下してるんじゃないか」みたいな気持ちもあるから、ケンカをしたいのです。ですから、私はいつもケンカしたふりをして、言いたいこと言わせてやって、「でもな」と話をするので。 昔からよく言っていたのですけれども、韓国人がワーッと言ってくると、「でもな、言いたいことがある。ケンカしてもいいけど、俺とおまえと、日本と韓国、チャイナもだけど、ケンカすることによって 誰が得してると思う? 私たち東洋人をケンカさせて、喜んでそこから利を得ようとしてるやつがほかにいるんだぞ?それが分かんないのか」という話を常にしていました。 
きちんと時間をかけて、論理的にしっかりと、しかも我慢強く話せば、分か
り合えないことはないと、それだけは間違いないです。 しかし、みんなその作業をやらないで、なおかつメディアという、これは大手マスコミがそうですけれども、非常に意図的な、恣意的な、一方的な情報を流して対立を煽ります。それが、この世のがんの 1 つだなと、私は思っています。そうでなかったら、私たち個人的には相手は何人であろうが、対立するとか、ケンカする理由がないのです。
 ロシア人とウクライナ人がケンカするのは、別にわれわれに
は関係ないけれども、個人的に見れば、ウクライナの人々は、それはものすごくかわいそうです。一方で、この過去 8 年間、ウクライナ軍とかネオナチみたいなやつらに殺されてきた東部 ウクライナのロシア語話者の住民だって、同じ人間ですから、それはかわいそうです。しかし、「なぜウクライナ系の人たちだけがかわいそうで、 東部ウクライナの人たちの話は 話題にもならないのですか?」という話です。 「それはおかしいだろう」と、私は言っているだけであって、どちらとも友達になれると思います。
 私が送り込んだ調査要員も、ウクライナ人にすごく良くしてもらいましたか
ら、分かり合えないことは絶対にないです。 ただ、そこに政治だ、金だ、権力だ、無知だ、支配欲だと、そういったものが絡んでくるから、おかしくなってしまうのです。ですから私は、人間というものに関して、根本的には愛想を尽かしていますけれども、最後にどこかで信じています。それはあります。どんなに悪い人でも、話し合えば 99%は分かり合えるのです。

<著者紹介>
危機管理コンサルタント  丸谷元人(まるたにはじめ)

 世界の危険地帯を渡り歩き、危機管理・テロ対策現場の第一線で活躍するプ
ロフェッショナル。オーストラリア国立大学卒業後、オーストラリア国立戦争記念館の通訳翻訳者を皮切りに、長年、通訳翻訳業務に従事。
 その後、パプアニューギニア、ナイジェリア、中東など、毎週のように誘拐
や人殺しがあるような治安が悪い地域での企業の事業展開支援・危機管理業務を数多く請け負ってきた。時には自ら防弾車に乗り、銃を片手に現地部族との交渉・要人の警護の業務を行なった経歴を持つ。自らのネットワークを活用して独自の情報を集め、安全対策・政治経済の動向など幅広く分析を行う。現在は、危機管理コンサルタントとしてグローバル外資系企業を中心に活動しつつ、自身の運営する「月刊インテリジェンスレポート」にて国際情勢の最新分析を発信している。

グローバリスト・国際金融資本と中国、ロシアのホントの関係  北野幸伯

   こんにちは!北野幸伯です。皆さん、「中国を育てたのは、国際金融資本だ!」という話、聞いたことありますか? 
 なんか「トンデモ陰謀論」みたいに聞こえますね。実をいうとこれ、「トンデモ陰謀論」ではなく、本当の話なんです。
 ざっくりお話しします。1970年代初め、アメリカと中国は、共通の敵ソ連に対抗するため、「事実上の同盟関係」になりました。この「事実上の同盟関係」というのは、キッシンジャー大統領補佐官、後国務長官の言葉です。
 ところが、米中関係は、1980年代末から1990年代初め、危機的状況になりました。理由は二つ。一つは、1989年の天安門事件。これは、わかりますね。
 もう一つは、ソ連崩壊。なぜソ連が崩壊すると、米中関係がピンチになるのでしょうか? 米中は、「共通の敵ソ連に対抗するために」事実上の同盟を組んでいた。ところが、共通の敵ソ連が崩壊したので、同盟をつづける意味がなくなったのです。米中関係悪化。困ったのは、アメリカではなく中国でした。中国は、まだまだアメリカの資金と技術を必要としていたからです。
 中国は、どうしたのでしょうか? 国際金融資本、グローバリストと組んだのです。どういう話でしょうか?
 中国は1990年初め当時、世界一の人口を抱えながら非常に貧しかった。つまり、「世界一巨大なノビシロ」があった。中国は、国際金融資本、グローバリストに、「投資すれば必ずもうかりますよ!」と持ちかけました。そして、実際国際金融資本、グローバリストは、中国投資で莫大な利益を上げつづけたのです。
 結果、国際金融資本、グローバリストの投資によって、中国経済はどんどん成長し、近代化が進んでいきました。だから、「国際金融資本、グローバリストが中国を育てた」というのは事実です。

国際関係アナリスト  北野幸伯

 「卒業生の半分は外交官、半分はKGBに」と言われたエリート大学:ロシア外務省付属モスクワ国際関係大学を日本人として初めて卒業。その後、カルムイキヤ共和国の大統領顧問に就任。大国を動かす支配者層の目線から世界の大局を読むことで、数々の予測を的中。自身のメルマガは、ロシアに進出するほとんどの日系大手企業、金融機関、政府機関のエリート層から支持されている。

中国の軍隊は本当に強いのか   林建良

中国軍の独自制度「銃弾分離」とは?
 中国が台湾に手を出す場合、実は非常に危険なことが1つあります。今の中国の軍内部の事情についてはほとんど周りに知られていませんが、中国は軍のシステムとして武器と弾薬は別々のところに保管しているということです。つまり大砲を持っている部隊は砲弾を持っていないということなのです。
 なぜこの2つを一緒に置いてはいけないかというと、大砲と砲弾を一緒に持つと兵士が反乱を起こすかもしれないからです。では、大砲は何のための大砲なのか? それは、見せ物です。見せるための大砲なのです。
 例えば中国ではどんな軍事基地であろうが、政府機関であろうが、ガードマンが銃を持って立っています。その銃の中には絶対に弾が入っていません。弾は別のところにあって、別の人間が管理しているのです。これは中国の独特な制度で、「銃弾分離」と言います。

 軍隊の反乱に怯える中国政府
 そして、もし実際に戦争になると、この制度は意味をなさなくなります。そのときに最も恐怖に脅えるのは、実は政権当局です。軍が銃を持ち、大砲を持ち、砲弾を持てば、兵士たちが言うことを聞かなくなってしまう可能性があるからです。だから開戦の直前になるまで、中国政府は砲弾や弾薬をおそらく補給しないと思います。
 さらに、反乱を起こされるのが怖いわけですから、中国軍では軍事演習はたまにしかやりません。演習になると実際に砲弾を使うわけですから、指導者にとっては怖いのです。実際の戦争では、ギリギリまで弾薬が支給されない、しかも、普段の軍事演習では実弾を使った訓練ができていない。こんな軍隊が、果たして実戦で戦えるでしょうか?

 兵器を売り払う最強の"汚職軍隊"
 さらに、中国での演習は兵士たちの金儲けの手段になっているという側面もあります。なぜ金儲けになるのか? 一つだけ例を挙げますと、演習する際には戦車などの燃料として必ずガソリンを使います。すると、ずる賢い兵士は、演習では戦車を使わないで、「戦車を◯回使用して、ガソリンを◯リットル消耗した」と上に報告します。実際はそれを使わずに、ガソリンを密売するわけです。これが軍の金儲けの一例です。
 それだけではなく、銃弾分離の制度があるため、中国軍では実弾はたまにしか撃ちません。保管する人たちのなかには、例えば大砲の部品をバラしてクズ鉄として売ってしまうとか、金になる部品を売ってしまうとか、とにかく密売をするわけです。ですから大砲のほとんどが使い物にならない可能性があります。砲弾も同じです。あるいは拳銃や弾も密売します。もし戦争になるとすれば、そのときにどのぐらいの砲弾が残っているのか、帳簿に記録されている砲弾数と倉庫に保管されている砲弾数が合っているのかどうかを点検するために、上の人間が視察に訪れます。しかし中国ではこのような倉庫視察の際に、必ず火災が起きるわけです。「火災で燃えてしまったから、点検してもしょうがないよ」とお茶を濁すわけです。
 ですから中国軍の腐敗体質を勘案すれば、果たして倉庫には弾薬があるのか
どうかすら疑わしいのです。

 中国軍が必ず反乱を起こすワケ
 中国はそのぐらいの腐敗体質です。中国軍では階級が上にいくほど、演習するたびに一儲けします。どんな武器でも金になり、拳銃などはそっくりそのまま売れます。その金を上のランクの人たちがみんなで山分けをしているわけです。ですから中国の軍事予算は毎年伸びていますが、この予算が多ければ多いほどいいんです。
 中国の軍事予算が多ければ多いほど、要するに中国の軍が腐敗体質にどっぷりと浸り、軍人が大儲けする。そして、中国の軍人が金持ちになればなるほど、
戦意は消え失せていきます。そんな裕福な人間が戦争になったときに果たして戦うでしょうか? 戦争をしなければ、これらの実態は明らかにされません。ところがいざ戦争となれば、上の人間が視察に訪れるから隠せなくなるわけです。
そのとき軍人からすれば、台湾軍と戦うよりも、自分の上司に拳銃を向けたほうが安全ではないでしょうか?
 彼らは、自分の持っている武器が実は戦場では使い物にならないことを知っています。戦場に駆り出されると死ぬかもしれない。そうであれば、残っている武器で反乱を起こしたほうが自分の身の安全のためになると考えてもおかしくない。だから上の人間の「さあ、戦争しなさい」という命令が、ある意味で「反乱しなさい」という命令になってしまう可能性があるのです。

林建良 台湾独立建国聯盟・日本本部委員長


  今朝(8/5)の読売新聞朝刊に寄れば、一面見出しで「中国『台湾封鎖』演習開始」などとあり、一般読者は怖くなるだろう。他の中国ウォッチャーなどからは、「ペロシ議長が台湾を出てからの事で、犬の遠吠えだ。空母二隻も出動したというが間に合わなかったし、準備した戦闘機も古い型のものだった。米軍に太刀打ちできなかっただろう。米国を恐れていることは明白だし、長く実践経験が無いので……」などと酷評されている。林建良氏の言われることを裏付けているとも言える。
 とにかく、日本も台湾も中国の脅しに負けてはならない。

 最近の中国共産党の、他国の人権を無視した『覇権主義』の様子を見て、「戦前の日本のようだ」と言われる人が居る。これは全く異なる。
 当時、アジアのインドをはじめとした諸国は、英仏・オランダ・スペイン・ポルトガルなどの植民地となっていた。東アジアにおける独立国は、日本・満州・中華民国(今の中国では無い)・タイの4か国のみであった。どの国もヨーロッパ諸国の搾取に苦しんでいた。白人が有色人種であるアジアを蔑ろにしていたのだ。
 日本はそういった様子を見て、植民地として喘いでいる状況を何とかしてあげたいと思った。もちろん、石油などの資源に乏しい日本は、アジア諸国の資源に食指を伸ばしたことも事実であろう。しかし、それはヨーロッパ諸国の植民地主義とは異なる。
 日本は、アジア諸国が植民地から解放されることを望んだ。アジア諸国を助けてあげたいと思った。それが、「大東亜共栄圏構想」であろう。
 
 大東亜戦争の緒戦、日本が米英に伍して戦う姿を見て、アジアの人々は大いに勇気を得た。その事実は、さまざまな形で今も残る。戦後、アジアの諸国が独立を果たしたことはご存知のとおりである。日本がきっかけをつくったことは間違い無い。
 戦後、GHQは先の戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことを禁じ、「太平洋戦争」と言わせた。『憲法』を押し付けられたことと同じ理屈だ。その名残で、現在も「大東亜戦争」という呼び方をすると、『戦争賛美』に結びつけようとする一派が国内に居る事は残念の一語だ。そういう訳で、私は気にせず「大東亜戦争」と呼ぶ。
 私は「自主憲法を一刻も早く」と願う一人だ。申し上げて置くが、「戦前の事がすべて正しい」などとはまったく思っていない。
 あくまでも、是々非々の立場である。

令和4年8月5日
谷口利広



ウクライナ戦争の情勢  藤井厳喜

 ウクライナ戦争ですが、残念ながら、現在の情勢はロシアに非常に有利に傾いています。その理由は、いくつかありますが、その中から3つ取り上げようと思います。

 ①ジョンソン首相辞任と英国崩壊の危機
 まずは、イギリスのジョンソン首相の辞任です。イギリスは、一番ロシアを挑発して扇動し戦争を起こす側に立ち、侵攻後は、ウクライナを一番熱心に応援していました。
 ウクライナを応援する政策をとってきた本人が辞めてしまうので、ウクライナにとっては不利な状況です。そして、保守党の党首が変わるだけであればまだ良かったのですが、今、イギリスという“連合王国”が解体されるような状態になっています。イギリス連合王国の解体とは、一体どういうことか? 1つは、北アイルランドが、イギリスから離れたアイルランド共和国と一体になりそうな勢いであること。

 もう1つは、スコットランドがいよいよ独立しそうなのです。これは、来年の秋に独立の住民投票がもう一度行われます。過去には否決されましたが、今回は可決されそうなのです。すると、連合していた王国から、スコットランドが独立。北アイルランドはアイルランド共和国と一体になってしまえば、イングランドとウェールズだけが残ります。つまり、Great BritainならぬSmall Britainになってしまうという、今、英国が解体プロセスに入ったこと。自身を応援してくれていた国が崩壊の危機に陥っていることも、ウクライナにとっては不利です。

 ②ウクライナ政府の内部崩壊
 2つ目は、ウクライナ政府が内部崩壊を起こしそうな状況であることです。7/17、ウクライナのゼレンスキー大統領がベネディクトワ検事総長とバカノフ保安局長官、この2人を解任すると発表しました。解任理由は、2人の所属する保安局と検事局の中に、ウクライナの国家公務員でありながらロシア側に協力した職員がたくさんいるからだそうです。そして、ロシアに寝返った職員を捜査している案件は651件もあるとゼレンスキー大統領自身が発表しています。
 要するに、国家の中枢部に敵のスパイ工作員がたくさん入り込んでしまっているのです。

 ③米大使館の退去警告
 3つ目は、 7/14、ウクライナにある米大使館がウクライナにいる全ての米国民に即座に国外退去するよう促したことです。これは、今後、ウクライナ領土内での戦争が激しくなって、今安全な土地もロシア軍の攻撃を受けるかもしれない。あたかも、ウクライナ軍が総崩れになる可能性がある、と示唆する発表です。
 これは、ウクライナにとって非常に良くない状況だということだと思います。
 ゼレンスキー大統領は一生懸命に愛国心を鼓舞して、領土的妥協のような案は受け入れないと言っていますが、この状況では、その頑張りがいつまで続くのかは分からないでしょう。

国際政治学者:藤井厳喜


中国移民が大量に押し寄せる国   藤井厳喜

 いよいよチャイナという巨大帝国のバブル崩壊の影響が見えつつありますが、追い込まれて困った時、中国共産党、習近平は何をするでしょうか?  
 普通の国では考えられない手段に出るでしょう。大きく4つの可能性が考えられます。
 まず、バブル崩壊の影響が本格化してくると中国共産党には伝家の宝刀があります。政治力・経済力を行使して問題が表面化する前に、他の問題に転化させるのです。国民の不満が表面化しないようにします。しかし、それでも抑えきれない問題が経済面で出てきます。それが「失業者」です。バブル崩壊の影響が出てくると、失業者が溢れます。そのまま放っておくと、社会不安になります。

 今、中国では、年間数万件の暴動が起きているのです。そこで、習近平がするのが、経済難民の”意図的な”流出。海外に、意図的に移民・難民として送り出すのです。ターゲットになるのは、力の弱い国でアフリカの方に大量に出しています。東南アジアの国も弱いので、マレーシアには100万人規模の新しい新華僑を送り込んでいます。ラテンアメリカのチリやアルゼンチン、ブラジルでもそうです。世界各地に中華街ができています。そして、地理的に近い日本は決して他人事ではありません。大挙して経済難民がやって来るでしょう。共産党が意図して流出させるのです。
 彼らは、恐ろしい破壊力をもって各国を経済的に侵略していくでしょう。

 国際政治学者・藤井厳喜

世界から尊崇の念を

 あなたは、日本の皇室が世界中からどれだけ敬意を払われているのか知っているだろうか。2012年の、英国におけるエリザベス女王即位60周年を祝う行事では、日本の天皇陛下の席が、エリザベス女王の左席に用意されていた。つまり、栄誉ある席に、欧州の王室を差し置く形で、アジアから招待された天皇陛下が選ばれたのである。

 他にも、昭和天皇の「大喪の礼」には、世界164カ国、ECおよび27の国際機関の元首などが参列した。その参列者のレベルは史上例のないものだった。国家行事として喪に服した国はインド、パキスタン、バングラデシュなど34カ国にも及んだ。

 日本の皇室がこれだけ世界から尊敬を集め、慕われているにもかかわらず、日本人の多くは、皇室の権威の大きさを知らない。なぜ日本人の多くは、皇室の権威の大きさを知らないのだろうか。それは大東亜戦争後、アメリカによって意図的に消されてきたからだ。

 今、日本では、「皇室なんて、必要ではない」「皇室に税金を使うな」と言ってしまう人がいる。本当に日本に皇室が必要ないのだろうか。ここまで、読んで頂いた読者諸氏にはもうご理解いただけたように、日本の皇室は世界でも例を見ない歴史と伝統を誇り、他国が羨ましく思って止まない存在なのだ。世界中の国々が羨む皇室をなぜこのように批判するのだろうか。それは、現代の日本人が皇室に対して、あまりにも無知だからである。

 戦後の日本人は、天皇陛下について学校で習っていない。それは、アメリカが教育改革という名の下に、天皇陛下についての教育を禁止したからだ。天皇陛下を中心とした日本の強さを恐れたアメリカは、日本が二度とアメリカの脅威とならないように、日本人から「天皇」に関する知識と理解を奪ったのである。

   皇統の歴史を学ぶ

 なぜ、アメリカは皇室に関する知識を日本人から奪ったのか。それは、天皇を中心とした戦前の日本はあまりに強かったからだ。

・強い愛国心
・国家に対する滅私奉公の精神
・日本人としての誇り

 アメリカはそのような日本の強さを恐れていたのだ。その得体のしれない日本
の強さの根源は「天皇」であるとして、アメリカは日本人と皇室との繋がりを断ったのである。そのせいで私たち日本人は、自国の成り立ちも、日本の一番の誇りである皇室のことも、日本は天皇を中心として国家の安寧を保ってきたことも、全て忘れてしまったのである。

 それにもかかわらず、自分は日本人なのだと胸を張ることができるだろうか。日本の一番の誇りである皇室について、何も分からないままで良いのか。自分たちの子供に、「天皇陛下とはなにか」と聞かれても、答えられないままで良いのか。それは、日本人として恥ずかしいことではないだろうか。
 
 そこにつけ入るかのように、日本の天皇陛下が邪魔で邪魔で仕方がないと思っている中国共産党が、皇統断絶のための工作を仕掛けているのか、皇室の周りで不穏な動きが頻発している。中国のように、世界では国家を乗っ取るため、王室を狙うことは当たり前のことだった。世界の王室の歴史を見ても、スペイン王の座をフランス人が奪ったり、イギリス王の座をドイツ人が奪ったりと王室は常に標的とされていたのだ。しかし、国民の多くは皇室についての正しい知識を持っていないので、知らないうちにそうした動きを後押ししてしまい、自ら自国の中心である皇統の断絶を支援してしまっている例すらあるのだ。
 
 このままでは、私たちの祖先が命をかけて2000年以上に渡って連綿と受け継いできた世界最古の日本の皇統を、私たちの代で消滅させてしまう可能性すらある。それだけではなく、最悪の場合、先人たちから受け継いだ日本の皇統を中国に乗っ取られてしまうかもしれない。そんな最悪の事態は防がなければならない。

 そのような、皇室の存続が危ぶまれる今だからこそ、日本が守り続けてきた神話と、日本とは違った歴史を歩んだ世界の皇室の視点から、学校や教科書が教えない、アメリカがなんとしてもでも日本人の記憶から消し去りたかった皇統の歴史を学ぶことが求められているのである。




 この一文は、(株) 経営科学出版編集部が作成したものを元に、谷口の責任において加筆したものである。


真の美の姿   田中英道

 「仏像といえば、インドも中国も朝鮮も日本も みんな同じように思っている人が多いのですが、それはとんでもない話です。
 日本には、仏師と呼ばれる仏像を作る職人がおり 仏教をよく知った工人が仏像を作ることは当たり前のことでした。 飛鳥時代に活躍した「止利仏師」が代表するように、彼らは古代から尊敬され、社会的にも高い地位を得て日本に数々の高貴な仏像を残していきました。
 しかし、実をいえば中国にも、朝鮮にも「仏師」という言葉はありません。仏教を深くは知らない工人などが片手間に作っていた、といっていいでしょう。この特殊性は非常に重要なことであり、我が国の仏像と、朝鮮や中国、インドの 仏像とを比較すると、一目瞭然です。

 日本の仏像は、非常に作りが精巧であり技術も非常に高いのです。例えば、皆さんがよく知っている東大寺にある日光・月光菩薩は本当に素晴らしく、インドや、朝鮮・中国、さらに古代ギリシャでも到達することのできなかった“真の美の姿”が表されています。
 
 その姿が世界的に評価されたのが、「モナ・リザ」ですが、日本の仏像は「モナ・リザ」よりも早くに“真の美の姿”を達成することができたのです」

東北大学名誉教授  田中英道

安心の一言

 三生連の会務についてはさまざまな業務があり、それぞれに重要だ。その中でも会計業務は煩雑であり、大変な仕事であると思っている。いい加減な性格の私などには、とても務まらない。

 当然のことだが、会計業務は会長が兼務してはならない。出来る事ならば、副会長も兼務しないのが望ましい。三生連では、現在のところ理事の中で会計を担っていただける方がなく、致し方なく西村副会長(女性部長・夕陽ケ丘支部長代行)が担当している。氏は持病で足腰が不自由だが、てきぱきと激務をこなされる。大した方である。そして、恒川副会長にも会計業務をサポートして貰っている。両副会長に大きな負担をお掛けしている現状がある。
 お二人の仕事ぶりは素早く、適切、的確であり、安心してお任せできる。

 また、他の役員・顧問もきちんと役務を果たされており、これまた「安心」の一言である。実に有難いことである。

中国共産党は天皇陛下を政治的に利用した

 中国共産党が「昭和天皇抹殺計画」を企んでいたということを知っているだろうか? 一体どういうことなのか? 

 それは、昭和47年に発見された「日本解放工作」という、日本侵略計画を記した極秘文書に書かれていた内容である。その文書には、日本解体計画の『第三期目標』が「天皇制の廃止」とされ、昭和天皇の処刑が最終目標であると書かれていたのだ。
 中国共産党が日本の天皇陛下を狙ったのはこれだけにとどまらず、昭和天皇が崩御され平成になってすぐにも、次のような事件を起こしている。あの「天安門事件」である。

 天安門事件とは、中国共産党政府が政府批判のデモ活動で広場に集まった市民を弾圧するために、戦車で轢き殺した事件である。
 死傷者数は数百とも数千とも言われる。中共は事件後、弾圧に寄り「天安門事件」を闇の中に葬っている。この事件により、多くの国は「中国のような酷い国とは付き合ってはいけない」と中国との交流や経済取引・援助などを全面的に中断した。 当然の事だ。
 世界中から総スカンを喰らい、中国共産党最大のピンチが続いた。
 そこで、この状況を解決するために中国が目をつけたのは、日本の天皇陛下だったのだ。日本政府を騙し、天皇陛下を呼び寄せて日中友好を強調しようという策略を立てたのである。でもなぜ天皇陛下を中国に招くことが打開策になったのだろうか。

 平成4年宮沢内閣のとき、日本で異論の声が渦巻く中、天皇陛下の訪中が実現した。明らかに、宮沢内閣は騙されたのである。欧米各国はこれを見て、日中友好化により日本だけが中国の市場を独占することを恐れ、掌を返すように中国への制裁を中止した。まさに中国の思い通りに事が進んだのだ。
 
 このように、中国は天皇陛下を政治的に利用した。そしてこれは過去の話ではなく、現在でも続いている。中国は戦後、日本を弱体化させる方法として「皇室と神社を日本人から隔離すべし」という革命戦略の実行を画策していたことが明らかになっている。最近でも、不審な中国人男性が、およそ1時間にわたって皇居に侵入しスパイ活動を行なっていたという話もある。

 しかし、私たち日本人は、天皇陛下がそれほど日本の安全保障に関わる存在だということを知らない。中国が日本を侵略するために天皇陛下を利用しようとしていたことも、天皇陛下の存在が日本の安寧を守ってきたということも、知らない人があまりにも多い。そればかりか、愛子さまを「クソガキ」と呼ぶ皇宮警察官が存在していたり、「なぜ皇室なんてあるのかが分からない」「皇室を廃止すべきだ」などという無知無毛の日本人が居たりする。

 自民党の中にも、「親中」「媚中」の政治家の少なくない中、今のままでは私たちが知らない間に中国に利用され、知らない間に日本のである皇室を破壊されてしまうかもしれない。そうならないためにも、GHQによって一度は消し去られてしまった「皇室の歴史」を真摯に学ばなければならないと思うのである。
 日本人の一人ひとりが、目覚めなければならない。

この一文は、(株) 経営科学出版 編集部が記したものを元に、谷口が加筆したものである。

チャイナの成長はもう終わった  藤井厳喜

  私がなぜ、これほどまでにチャイナ経済の崩壊について警鐘を鳴らしているかというと、経済崩壊の過程が特殊だからです。チャイナバブルの崩壊シナリオは、普通の国のバブル崩壊とは全然違うのです。アメリカ・日本・ヨーロッパのバブル崩壊と同じパターンだなと思っていると痛い目に遭います。
 ビジネスでも、投資でも判断を大きく間違えるでしょう。日本人の中には、いまだにチャイナの経済が良かった時代のことを信じていて、この先もずっと、それが続くんだと思っている人がいるわけです。何度も申し上げますが、それは大変な間違いです。
 「チャイナ企業にもっと 投資すれば儲かるんじゃないか」「上海ロックダウンをやったけど、これは一時的なもので、元に戻れば また成長する時代が来るんじゃないか」そう思っている方もいらっしゃるかもしれませんが、もう完全に潮目が変わったわけです。これは、例えるならそれまでの道路が右側通行だったのに、ある日突然、左側通行に変わってしまったような歴史的な転換です。

 チャイナの成長はもう終わったのです。

 

国際政治学者:藤井厳喜

日本はどれくらいロシアに投資してた?  藤井厳喜

 ロシアと共同開発を進め、日本企業も投資していた石油・ガス複合開発事業、サハリン2。そのサハリン2の運営会社:「サハリンエネルギー」は、以下の4社が出資しています。
・ロシア国営会社のガスプロム
・イギリスのシェル社
・三井物産
・三菱商事

 しかし、設立してからどれくらいお金を投資してきたのか?という話はあまり出てきていません。今年のロイターの3月4日の記事でも、正確な数値は出ていませんが、三菱商事は2,000億円単位 三井物産も2,500億円単位ではないかと言われています。

 総額4,500億円が一瞬でゼロ価値に……
 では今回の一件で、「サハリンエネルギー」はどうなってしまうのか? 日本経済新聞も言っていませんが、はっきり言うと、完全に会社を乗っ取られたわけです。ロシア政府によって接収されたと言っていいでしょう。今まで民間ビジネスをやっていましたけど、この企業は全て国のものになりました。え? と言われても国が決定したことなので逆らえません。日本はロシアに対して経済制裁をやっているのだから、報復として、国家の命令でこのお金を全て接収しますと言われて取られてしまいました。
 だから今までは株の価値が2,000億円、2,500億円あったけど、価値はゼロになったわけです。三菱商事は2,000億円、三井物産は2,500億円、最低取られたことになります。そこに注ぎ込んできたお金は全部無駄だったと、博打で擦ったのと同じです。
 それも日本人のお金です。もちろん今まで、儲けてきた分もあると思います。天然ガスが毎年1,000万トン取れまして、そのうち600万トンを日本向けに輸出する権利も持っていたのです。日本の液化天然ガス輸入の10%近くはここから来ていました。
 安定供給できて、毎年利益が上がるわけですから、それによって三井物産も三菱商事も利益を得ていたでしょうし、2,000億円、2,500億円全て損したとは言えません。しかし、とても初期に投資したお金を全て回収できるほど儲けていなかったでしょう。こういう危険があると思ってください。
 
 イギリスと日本、対応の違い
 一方、イギリスのシェルは2月末には撤退方針を明らかにしていました。これは戦争が起きた途端に維持できないと判断したからです。もちろん、ただ撤退するだけではお金を回収できないので、インドのエネルギー企業連合に権益(株券の分)を売却する交渉を進めているそうです。インドの企業は僅かな額でもシェルから株券を買えば、そこで自分の国に輸入できる権利も出てくるということでしょう。

 日本も、ロシア経済制裁を始めた時にこうなることは予測できたわけです。しかし、それを粘って天然ガス輸入は大事だから最後まで諦めないと言っていました。諦めないと言っても、プーチンがこれを取ると決めたら取られてしまいます。だから今更文句を言っても何も変わりません。モスクワの仲裁裁判所に申し込んでも、向こうの司法で対応するのですから、どうしようもありません。三井物産も、三菱商事も、企業としては大損することになってしまいます。これが厳しい世界の常識であり現実です。

 サハリン2から日本人が学ぶこと
 これはロシアだけではなく、チャイナ投資も同じことではないでしょうか。何百億円投じて作った最新鋭の自動車工場でも様々なハイテク企業の製造工場でも、チャイナで中国共産党政府が接収すると言えばおしまいです。「我が国に反抗した企業である」とか、「スパイ行為を働いた」とか難癖をつけられて、当然そういった行為をしていなくても通用しません。
 初めはチャイナの方から来てほしい、工場作ってほしいなどと三拝九拝していました。しかし、向こうの立場が優位になってしまい、「これを接収します。 チャイナの国内法に従って合法です」と言われたら、日本企業はどうしようもありません。

 私はそのうち全部取られると思います。その時は人質も取れてしまうわけです。向こうにいる駐在員とかその家族もいますが、その人たちも命があって帰って来られるだけでもいいだろうということになると思います。そうなった時に生きて帰って来れるのか、安全に帰って来れるのかも分かりません。せめて家族だけでも早く帰しておいた方がいいと、私はずっと言い続けているんですけど、いつ何をされてもおかしくありません。

 チャイナの方がもっとロシアより怖いです。日本に対して直接領土を取ると主張しています。そういう国と安心して経済上のお付き合いはできないのではないでしょうか。

国際政治学者:藤井厳喜


日本はどれくらいロシアに投資してた?  藤井厳喜

 ロシアと共同開発を進め、日本企業も投資していた石油・ガス複合開発事業、サハリン2。そのサハリン2の運営会社:「サハリンエネルギー」は、以下の4社が出資しています。
・ロシア国営会社のガスプロム
・イギリスのシェル社
・三井物産
・三菱商事

 しかし、設立してからどれくらいお金を投資してきたのか?という話はあまり出てきていません。今年のロイターの3月4日の記事でも、正確な数値は出ていませんが、三菱商事は2,000億円単位 三井物産も2,500億円単位ではないかと言われています。

 総額4,500億円が一瞬でゼロ価値に……
 では今回の一件で、「サハリンエネルギー」はどうなってしまうのか? 日本経済新聞も言っていませんが、はっきり言うと、完全に会社を乗っ取られたわけです。ロシア政府によって接収されたと言っていいでしょう。今まで民間ビジネスをやっていましたけど、この企業は全て国のものになりました。え? と言われても国が決定したことなので逆らえません。日本はロシアに対して経済制裁をやっているのだから、報復として、国家の命令でこのお金を全て接収しますと言われて取られてしまいました。
 だから今までは株の価値が2,000億円、2,500億円あったけど、価値はゼロになったわけです。三菱商事は2,000億円、三井物産は2,500億円、最低取られたことになります。そこに注ぎ込んできたお金は全部無駄だったと、博打で擦ったのと同じです。
 それも日本人のお金です。もちろん今まで、儲けてきた分もあると思います。天然ガスが毎年1,000万トン取れまして、そのうち600万トンを日本向けに輸出する権利も持っていたのです。日本の液化天然ガス輸入の10%近くはここから来ていました。
 安定供給できて、毎年利益が上がるわけですから、それによって三井物産も三菱商事も利益を得ていたでしょうし、2,000億円、2,500億円全て損したとは言えません。しかし、とても初期に投資したお金を全て回収できるほど儲けていなかったでしょう。こういう危険があると思ってください。
 
 イギリスと日本、対応の違い
 一方、イギリスのシェルは2月末には撤退方針を明らかにしていました。これは戦争が起きた途端に維持できないと判断したからです。もちろん、ただ撤退するだけではお金を回収できないので、インドのエネルギー企業連合に権益(株券の分)を売却する交渉を進めているそうです。インドの企業は僅かな額でもシェルから株券を買えば、そこで自分の国に輸入できる権利も出てくるということでしょう。

 日本も、ロシア経済制裁を始めた時にこうなることは予測できたわけです。しかし、それを粘って天然ガス輸入は大事だから最後まで諦めないと言っていました。諦めないと言っても、プーチンがこれを取ると決めたら取られてしまいます。だから今更文句を言っても何も変わりません。モスクワの仲裁裁判所に申し込んでも、向こうの司法で対応するのですから、どうしようもありません。三井物産も、三菱商事も、企業としては大損することになってしまいます。これが厳しい世界の常識であり現実です。

 サハリン2から日本人が学ぶこと
 これはロシアだけではなく、チャイナ投資も同じことではないでしょうか。何百億円投じて作った最新鋭の自動車工場でも様々なハイテク企業の製造工場でも、チャイナで中国共産党政府が接収すると言えばおしまいです。「我が国に反抗した企業である」とか、「スパイ行為を働いた」とか難癖をつけられて、当然そういった行為をしていなくても通用しません。
 初めはチャイナの方から来てほしい、工場作ってほしいなどと三拝九拝していました。しかし、向こうの立場が優位になってしまい、「これを接収します。 チャイナの国内法に従って合法です」と言われたら、日本企業はどうしようもありません。

 私はそのうち全部取られると思います。その時は人質も取れてしまうわけです。向こうにいる駐在員とかその家族もいますが、その人たちも命があって帰って来られるだけでもいいだろうということになると思います。そうなった時に生きて帰って来れるのか、安全に帰って来れるのかも分かりません。せめて家族だけでも早く帰しておいた方がいいと、私はずっと言い続けているんですけど、いつ何をされてもおかしくありません。

 チャイナの方がもっとロシアより怖いです。日本に対して直接領土を取ると主張しています。そういう国と安心して経済上のお付き合いはできないのではないでしょうか。

国際政治学者:藤井厳喜


日本はどれくらいロシアに投資してた?  藤井厳喜

 ロシアと共同開発を進め、日本企業も投資していた石油・ガス複合開発事業、サハリン2。そのサハリン2の運営会社:「サハリンエネルギー」は、以下の4社が出資しています。
・ロシア国営会社のガスプロム
・イギリスのシェル社
・三井物産
・三菱商事

 しかし、設立してからどれくらいお金を投資してきたのか?という話はあまり出てきていません。今年のロイターの3月4日の記事でも、正確な数値は出ていませんが、三菱商事は2,000億円単位 三井物産も2,500億円単位ではないかと言われています。

 総額4,500億円が一瞬でゼロ価値に……
 では今回の一件で、「サハリンエネルギー」はどうなってしまうのか? 日本経済新聞も言っていませんが、はっきり言うと、完全に会社を乗っ取られたわけです。ロシア政府によって接収されたと言っていいでしょう。今まで民間ビジネスをやっていましたけど、この企業は全て国のものになりました。え? と言われても国が決定したことなので逆らえません。日本はロシアに対して経済制裁をやっているのだから、報復として、国家の命令でこのお金を全て接収しますと言われて取られてしまいました。
 だから今までは株の価値が2,000億円、2,500億円あったけど、価値はゼロになったわけです。三菱商事は2,000億円、三井物産は2,500億円、最低取られたことになります。そこに注ぎ込んできたお金は全部無駄だったと、博打で擦ったのと同じです。
 それも日本人のお金です。もちろん今まで、儲けてきた分もあると思います。天然ガスが毎年1,000万トン取れまして、そのうち600万トンを日本向けに輸出する権利も持っていたのです。日本の液化天然ガス輸入の10%近くはここから来ていました。
 安定供給できて、毎年利益が上がるわけですから、それによって三井物産も三菱商事も利益を得ていたでしょうし、2,000億円、2,500億円全て損したとは言えません。しかし、とても初期に投資したお金を全て回収できるほど儲けていなかったでしょう。こういう危険があると思ってください。
 
 イギリスと日本、対応の違い
 一方、イギリスのシェルは2月末には撤退方針を明らかにしていました。これは戦争が起きた途端に維持できないと判断したからです。もちろん、ただ撤退するだけではお金を回収できないので、インドのエネルギー企業連合に権益(株券の分)を売却する交渉を進めているそうです。インドの企業は僅かな額でもシェルから株券を買えば、そこで自分の国に輸入できる権利も出てくるということでしょう。

 日本も、ロシア経済制裁を始めた時にこうなることは予測できたわけです。しかし、それを粘って天然ガス輸入は大事だから最後まで諦めないと言っていました。諦めないと言っても、プーチンがこれを取ると決めたら取られてしまいます。だから今更文句を言っても何も変わりません。モスクワの仲裁裁判所に申し込んでも、向こうの司法で対応するのですから、どうしようもありません。三井物産も、三菱商事も、企業としては大損することになってしまいます。これが厳しい世界の常識であり現実です。

 サハリン2から日本人が学ぶこと
 これはロシアだけではなく、チャイナ投資も同じことではないでしょうか。何百億円投じて作った最新鋭の自動車工場でも様々なハイテク企業の製造工場でも、チャイナで中国共産党政府が接収すると言えばおしまいです。「我が国に反抗した企業である」とか、「スパイ行為を働いた」とか難癖をつけられて、当然そういった行為をしていなくても通用しません。
 初めはチャイナの方から来てほしい、工場作ってほしいなどと三拝九拝していました。しかし、向こうの立場が優位になってしまい、「これを接収します。 チャイナの国内法に従って合法です」と言われたら、日本企業はどうしようもありません。

 私はそのうち全部取られると思います。その時は人質も取れてしまうわけです。向こうにいる駐在員とかその家族もいますが、その人たちも命があって帰って来られるだけでもいいだろうということになると思います。そうなった時に生きて帰って来れるのか、安全に帰って来れるのかも分かりません。せめて家族だけでも早く帰しておいた方がいいと、私はずっと言い続けているんですけど、いつ何をされてもおかしくありません。

 チャイナの方がもっとロシアより怖いです。日本に対して直接領土を取ると主張しています。そういう国と安心して経済上のお付き合いはできないのではないでしょうか。

国際政治学者:藤井厳喜


世界の神話の中でも最も重要な記紀神話  田中英道

 和銅5(712)年に『古事記』が、養老4(720)年に『日本書紀』が完成します。戦後、この二書は『古事記』は天武天皇が天皇家の権力を、『日本書紀』は藤原家が摂政の権力を肯定するためにつくらせた偽書、あるいは捏造された歴史書だと批判され、無視されてきました。
 二書を否定する人たちは、代わりに中国で四世紀に書かれた『魏志倭人伝』を使って日本の古代を論じようとしました。ところが、今日では『古事記』の編者である太安万侶の墓が発見される一方、卑弥呼や邪馬台国はその存在自体が疑われています。
 この二書を比べると『古事記』では神代から推古天皇までの歴史が語られ、『日本書紀』は神代から持統天皇の時代までの歴史が書かれています。これ以降は『日本書紀』を第一の書として、六国史という形で国の歴史が年代別に書かれることになります。
 また、『古事記』には物語の割合が多く、『日本書紀』には事実が記述される傾向があります。とはいえ推古天皇以前の時代には記録自体が文字として残っていませんから、『日本書紀』にもフィクション的な書き方がされている部分は多くあります。
 そのため『日本書紀』も不正確であり歴史の史料に値しないといって、高天原の時代はもちろん神武天皇の存在も含めてフィクションだと否定する意見もあります。しかし、この二書は国家成立を目的として神話をつくったわけではありません。そこには外国の神話に共通するパターンがたくさん入っています。たとえば死んでしまった伊邪那美(イザナミ)に会うために黄泉の国に行った伊邪那岐(イザナギ)が伊邪那美の「振り返ってはいけない」という忠告を聞かずに振り返ったために怒り狂った伊邪那美に追いかけられたというエピソード、因幡の白兎の話、海幸彦・山幸彦の話などは、外国にある神話と非常によく似た要素が入っています。
 なぜそうなのかといえば、共通の神話のタイプをもつ民族あるいは人間の記憶が書き込まれていると考えられます。それは天皇家を高め、正当化するためにつくられたエピソードでも神話でもないのです。太古、世界の各地から日本にやってきた人たちのもっていたそれぞれの地域の神話の記憶が織り込まれているのです。

 私が日高見国の存在を唱えるのは、高天原という概念が宙に浮いたものとして、あるいは垂直方向にある天国の話としてつくられたフィクションであるという考え方を批判して、それが東国に住んでいた日本人の記憶の反映だと考えるからです。
 日本の神話は天津神と国津神を分けながらも結局、日高見国の記憶を反映したものなのです。そう見ていくと、神話と現実にある考古学的な発見が次々に合致していくことに気づきます。そういう新しい歴史は神話を読み解くことと同時に、そこにある種の物語性を含めていくことによってつくられます。だから、鹿島と香取、鹿島と鹿児島、東(アヅマ)と薩摩(サツマ)といった言葉の連想が現実の歴史の中に組み込まれているのです。
 『日本書紀』にはたくさんの注が入っています。「一書に曰く」(一説によれば)という形式で、場合によっては十も二十も注が出てきます。それは一つの出来事に対する人々の記憶がそれぞれ違うということを意味しますが、それらを比べていくと現実にあったと思われる歴史が透けて見えてきます。
 同時代に二つの歴史書ができたことは、この時代の知的レベルの高さ、歴史家の認識力の深さを感じさせるもので、多少の齟齬をあげてそれを否定するべきではありません。それどころか、世界の神話の中でももっとも重要な書として『古事記』と『日本書紀』を推薦したい気持ちでいっぱいです。

 田中英道
1942年生まれ。東京大学文学部卒業。海外旅行すら珍しい時代、24才で単身ヨーロッパへ留学し、西洋美術の研究に没頭。以来50年以上、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、フェルメールなど、数多くの有名美術家に関する国際的な新説・新発見を次々と発表。フランス語や英語で書いた論文は、一流学者が引用する国際的な文献となり、「西洋美術史の第一人者」と呼ばれる。
 作品の形や模様などから、芸術家のもつ思想や哲学、宗教的背景までをも読み取る、「形象学(フォルモロジー)」という独特の学問手法を体得。その観点から、日本美術の世界的価値に着目し精力的な研究を展開している。さらに日本独自の文化・歴史の重要性を指摘し、「日本国史学会」「新しい歴史教科書をつくる会」の代表を務めるなど、真実の“日本通史”を国民の元へ届けることをテーマに研究をしている。


2022オレゴン世界陸上男子マラソン観戦記 北川 聖司

 米国オレゴン州ユージン7月17日午前6時、気温17.1℃、湿度61%夏のマラソンレースとしては絶好の気象条件、一周14㎞を3周する周回コースを参加選手62名によって競われる。日本からは、西山と星が出場、本来なら日本記録保持者の鈴木も出場するはずだったが、直前の新型コロナ検査の結果が陽性となり残念ながら欠場となった。

 スターターは、あの往年の名ランナー フランクショーターさんだった。雄姿が懐かしく思い出された。

 この気象条件であればスタートからハイペースで進んでいくと読んだが、5㎞、10㎞と平均3分8秒程のスローペースで進んだ。有力選手はいつものように、記録より勝負にかけているように思った。その分、後半驚異的なペースアップが予想された。日本選手二人が、どのように対応できるかが課題となるだろうと思った。

 序盤、アフリカ勢が前に出ず、集団の後方に構えているのが不気味であった。コースについては、国際大会には珍しく道幅が狭いのには驚いた。

 10〜15㎞では、1㎞3分を切るペースに上がり大集団も30人程に絞られた。有力選手が少しずつ前の方を窺って来た。日本選手は位置取りも良く、落ち着いて走っているように感じられた。15〜20㎞ではペースの上げ下げがあり、落ち着かないものとなった。特に

 18〜19㎞では2分52秒と急激にペースアップされ、星が集団から離れかけたが必死に堪えていた。前回金メダルのエチオピアのテシサが苦しそうな様子を見せ、連覇は難しそうな走りとなった。

 ハーフ(21.0975㎞)を、トップ集団が1時間4分8秒で通過。後半ペースアップされることを考慮すると、ゴールタイムは2時間7分台が予想された。これからアフリカ勢の揺さぶりが始まるだろうが、二人の日本選手のフォームは崩れず、落ち着いて走っているように感じられた。25〜28㎞、ここで1㎞毎のペースが3分を切るほどに上がり、28㎞過ぎで星が集団から離れてしまった。集団から離れ単独走になると集中力も徐々に薄れ、追いつくのは難しくなってくる。

 トップ集団は30㎞を1時間31分9秒で通過した。30〜31㎞は2分52秒。31〜32㎞は2分50秒、西山も集団から離れてしまったが、再度追い付こうとする粘りと何とか入賞をの気力は感じられた。何とか入賞を目指して、引き続き集中してほしいと願った。

 エチオピアのトラが、33〜34㎞を2分43秒の驚異的なペースアップで抜け出し、34〜35㎞は2分51秒と刻んだ。このまま行くと2時間5分台の大会新記録も可能なペースだった。33〜38㎞の5㎞は、14分5秒のラップを刻んだ。後半こんなにペースアップされたマラソンレースを観た覚えがない。40㎞を過ぎてもまったくペースが落ちず、そのままゴールに飛び込んだ。2位にもエチオピアのグレメウ選手が入り、エチオピア勢が1位、2位を独占した。

 2時間5分35秒の大会新記録。8位入賞者が2時間7分38秒のハイレベルな高速レースの大会となった。西山は2時間8分36秒、13位でゴールした。世界陸上、日本人最速タイムの大健闘だった。星は、2時間13分44秒の38位でゴール。二人ともいい経験ができ、今後が期待できる走りであったと思う。

 レース全体を振り返ると、新しいマラソンの型が出現したと言える。それは日本選手にとっては厳しい、ますます世界レベルから離れてしまうような型とも言える。西山と星は、描いていなかったレース展開だったと感じているはずだ。序盤はスローペースで入り、中間走ではペースの上げ下げが激しく、後半は驚異的なハイペースになった。今後、世界陸上、オリンピックのようなタイムよりメダルを争うレースでは、このようなレース展開になって行くと考えられる。世界に伍して戦うには、トラックの1万㍍で27分10秒〜26分台で走れるスピード持久力を養うことが求められるであろう。解説の大迫が言われていたが、高地トレーニングだけでなく他国の選手との合宿を積極的に取り入れることも必要であろう。

 パリオリンピックまであと2年、三浦や佐藤などの若い芽も確実に育ちつつある。高校生、中学生にも逸材が……。今回欠場となった鈴木も、次回での雪辱を誓っていることだろう。悲願の五輪でのメダル獲得には、我が国の長距離界が一丸となって課題克服のために更に努力を積み重ねる必要があることを痛感したオレゴン世界陸上であった。

北川 聖司(きたがわ しょうじ)
医療検査機関 検査技師
大阪狭山市で、小学生などのランニング指導を実践している。

日本人の食を守るために何が必要か  西 鋭夫

 日米和親条約の真相
 私たちは学校で、「日本の近代化は黒船来航から始まった」と習ってきました。ペリー提督が日本に来て、空大砲を撃ち、「徳川幕府よ、開国せよ。鎖国をやめろ」「開国せねば、江戸城を潰すぞ」と圧力をかけた。黒船に驚いた江戸幕府のお殿様たちは恐れ慄き、圧力に屈した。そして米国との間で不平等条約を結ばざるを得なかった。
 これが一般的に信じられているストーリーです。
 しかし、なぜペリーたちは、大砲を打ち鳴らして脅しまでかけたのに、結局のところは軍事基地などを作るわけでもなく、水や食料、燃料を求めたのでしょうか。そもそもペリーたちはなぜ遠く離れた日本までやってきたのでしょうか。これらの疑問に教科書は答えてくれません。

 鯨を求めた欧米諸国
 ペリー提督が日本にやってきた大きな理由は捕鯨です。捕鯨をジャンジャンさせてくれる海域と港が必要だった。米国の次にやってきたのは英国でしたが、英国もまた捕鯨をさせてくれるところを探していたわけです。民主主義や自由貿易なぞ美辞麗句に過ぎない。アメリカもイギリスも捕鯨という強欲に駆られて日本にやってきた。この流れの延長線上で、ペリーが日本海域に派遣されたのです。
 ペリーが日本にやってきたとき、通訳者としても、アメリカのことをよく知る知恵袋としても、大抜擢された人物がおりました。ジョン万次郎です。

 ジョン万次郎を救った捕鯨船
 ジョン万次郎の日本名は中浜万次郎と言います。彼は、江戸と今の和歌山のあたりを行ったり来たりしていた、小さな船会社の乗組員でした。それが15、6歳の時、台風にあって鳥島というところに流されます。鳥島にはアホウドリがたくさんいました。アホウドリは、人間が近寄っても逃げないのでアホウドリとか言われる。ジョン万は、その鳥を食べて、生き延びていた。
 その様子をたまたまアメリカの捕鯨船が見つけて、ジョン万を含む7人をホノルルへ連れて行った。当時のジョン万は15歳でしたが、船長がその資質を見抜き、アメリカ東部の自分の家へ連れてゆき、学校に行かせたわけです。彼は優秀で、英語を習得し、学校でも最優等生として卒業しました。その後は、捕鯨船の副船長に任命され、大西洋と太平洋で捕鯨をしていました。そんな彼が1851年に日本へ帰ってきた。ペリー来航の2年前のことでした。

 調査捕鯨
 日本がIWC(国際捕鯨委員会)の顔色をうかがいながら進めている「調査捕鯨」という言葉は、その響きも、示唆されることも良くない。日本のこれまでの捕鯨の歴史を知る人からすると、「調査をするために鯨捕します」というのは、国際社会の笑いものです。誰も本気で信用していないのではないか。日本ほど調査力が進んでいるところで、今後、何百年、調査を続けるのでしょうか。捕鯨をしていて、「調査です」と言い続けることは非常に難しい。日本は嘘をついているのではないかと思われる。「捕鯨をしています」「捕鯨が必要です」となぜ言えないのでしょうか。
 日本は、捕鯨という分野で世界一の優れた技術を持っていますし、鯨という資源を食べ物としても道具などとしても、余すところなく全て使っています。そうした技術や方法を伝授しましょう。そう言える日本外交であって欲しい。

 高タンパク源
 欧米諸国はかつて、単に鯨油のためだけに捕鯨を行なっておりました。肉は一切食べません。しかしその肉は高タンパク源として、日本人にとっては必要不可欠な栄養源でした。日本の南極捕鯨が始まったとき、それはGHQ支配下でのことでしたが、マッカーサーは日本人の腹を満たす鯨の重要性を無視できなかった。戦後の食糧難の時です。飢えた日本人がたくさん出てしまっては何が起こるか分からない。反乱が起きてはまずいわけです。そこでマッカーサーは許可せざるを得なかった。しかし日本人が復活し、どんどんと強くなり、経済的にも豊かになることは避けたかった。
 故に1951年にIWCに加入させた。日本からお金をぶんどりつつも、日本の捕鯨を監視することとした。

 食糧安全保障
 日本が「捕鯨」という文化を失うことは、日本の食糧安全保障にとっても深刻な影響を与えます。鯨を獲るための優れた技術も失います。世界的な戦争が起きた時、あるいは世界的な干ばつや大地震が起きた時、謎のウィルスが世界に蔓延した時、今まで日本に食糧を運んできた国が突然、運んで来なくなる可能性もある。経済封鎖だけでなく、災害などのために、輸送船が容易に海を渡れないこともあるかもしれません。
 皆さん、そんな無茶な話をと考えるかもしれませんが、これらは近未来に十分にあり得る話です。その時、食糧の多くを海外に頼っている日本は大打撃を受けるでしょう。五百円で買えたものが、五千円、一万円なることもあるかもしれない。日本人の食を守るために何が必要か、再考すべきではないでしょうか。

 

西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士)。J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。また、2016年3月より同研究所小川忠洋フェロー。


今年6回目の

 8月に入ってから庭木や盆栽に薬剤散布をする予定だったが、ヒラドツツジにグンバイムシが発生したため、昨夕、予定を早め「逸ノ城」の優勝を確認後、約1時間かけて散布した。今日も雨は降らないようなので、よいタイミングとなった。今年、6回目である。
 ツツジ類は、ぼちぼち花芽が形成される時期に入った。薬剤散布は出来る事ならば避けたい作業だが、緑を美しく保ちより多くの花をつけるには欠かせない作業のひとつである。

自国の平和や幸福を願わないとは

 本日、7月23日は、2022東京五輪の開会式が行われた日である。

 みなさん覚えておられるであろう。昨年春から初夏にかけて、偏向報道の甚だしいマスメディアや一部野党が、コロナ禍にかこつけて毎日のように「開催反対」を叫び続けた。そういった報道を鵜呑みにする一部の国民も動揺して、「無理して開催しなくても」と思い始めただろう。だか、結果はご存知のとおりである。

 組織委員会は見事なまでの運営をやってのけ、大成功のうちに幕を閉じた。開催中にコロナウィルスが蔓延するなどは無かった。

 最近、世界の機関などから「東京五輪の総括」がさまざまな形で発表されている。どこからも、「東京だから出来た」「日本だから見事なまでにやってのけた」の大きな賛辞が贈られている。

 一部野党やマスメディアの態度は、「日本が混乱することを喜んでいる」としか思えない。「中国や北朝鮮などが繫栄すればよい」と思っているとしか……。自国の平和や幸福を願わないとは、悲しいことである。

 

 今日は記念日である。早朝の「ラジオ体操会」には、組織委員会公認の「東京五輪応援Tシャツ」を身に着けて参加した。シューズは、「聖火リレー」のときに履いたものである。鮮やかな朱は、「広場の草の青」に映えた。ラジオ体操参加者にも喜んで貰った。

広場 指揮台の前で

凶弾に倒れた安倍元首相  林建良 

 7月8日、安倍晋三元首相が凶弾に倒れました。今でも信じられない気持ちでいっぱいです。

 事件が起きた時、私は外来の診療中だったのですが、台湾の友人から電話をもらって、その時に初めて事件のことを知りました。その後、次から次へといろいろな台湾の友人から「今はどうなっているんですか?」「安倍さんは大丈夫なのですか?」と連絡を受けました。それだけ、台湾人は今回の銃撃事件にショックを受けています。
 ご逝去の一報を受けて、台湾の一番高いビルの台北101では、安倍さんに対する追悼と、これまでの感謝のメッセージを映し出しました。全ての台湾人が、彼を失って大きな喪失感と悲しみに包まれています。
 世界各国の首脳が、追悼のコメントを発表していますが、おそらく、今回の事件で日本の人々と同じように深く悲しんでいるのは、台湾だけだと思います。安倍さんは、台湾にとってそれだけ特別な存在なのです。

 なぜ台湾にとって安倍元首相が大切なのか?
 ここまで、台湾人が安倍元首相のことを大切に思う理由は3つあると思います。

  • 戦後初めて台湾と向き合ってくれた日本の政治家

 安倍さん以外にも、台湾を好きな日本の政治家はたくさんいます。しかし、台湾に訪問したときは友好的であっても、彼らのほとんどは政治の場になると台湾のことを口にしなくなります。中国に配慮して、なるべく台湾の話題を避けようとするのです。しかし、安倍さんは違います。彼はインド太平洋戦略を打ち出し、中国と戦う路線を明確にしました。そして、その戦略は台湾の存在なしには語ることができません。安倍さんは、今まで他の政治家が避けてきた台湾の話題を堂々とコメントしてくれるようになりました。
 2016年に台湾・台南の地震が起きたとき、真っ先に救援を送ってくれたのも安倍元首相でした。

②李登輝の存在
 安倍さんは、かつて台湾の李登輝さんを自分の政治の師だと語ったことがあります。実際に彼は李登輝さんと頻繁に話をし、アジアの情勢や政治の大局観を色々と学んでいたのです。彼らはまさしく、一種の師匠と弟子の関係にありました。
 そして、歴史的には台湾と日本も同じように師弟の関係にあったのです。師である日本と、弟子である台湾。一方で、安倍さんと李登輝さんは逆の関係です。この師弟の絆は、台湾人と安倍さんの間にも深い絆をつくりました。

 ③安倍さんの台湾に対する深い愛情
 安倍さんが2回目の首相に就任する1年前に、台湾のある安全保障会議に参加してこんな発言をしました。「私は過去に何度もこの地を訪れていますが、飛行機を降りるたびに故郷に戻ってきたような気持ちになります。私が祖国日本以外で心の底からそのように感じる場所は世界で台湾をおいて他にありません」これは、政治家人生の中で台湾を日本の友人として大切にしてくれた安倍さんの本心ではないかと思います。
 
 台湾を深く愛してくれた安倍さんは、台湾人にとってはいわば家族の一員であり、かけがえのない存在でした。

林建良 台湾独立建国聯盟・日本本部委員長

参院選でよかったこと  藤井厳喜

 今回の選挙の場合、岸田政権が信任された形になりますので、増税、親中外交路線がとられてしまう危険性が出てきてしまいました。しかし、その中でも良かった点を探してみると、3点あります。

 小野田紀美氏が圧勝
 岡山選挙区で小野田紀美さんという自民党の候補が圧勝しました。この方は
憲法9条改正や国防に関してしっかりした考えをお持ちで、全国から注目されていました。

 小野田さん自身「自民党は、公明党と連立を組んでいるから、憲法改正ができないんだ」とはっきりと発言されています。しかしそれによって公明党から嫌われてしまい、なんと公明党は、反対派であるはずの野党候補を岡山では応援していたのです。もちろん彼女は公明党の推薦なしで出馬していました。そういった点で、日本中が注目していたのですが、そんな公明党の敵対行動を物ともせず、小野田候補が圧勝しました。これは非常に心強いニュースだと思います。

 選挙区によっては、どうしても公明党の支援が欲しいという人たちもいると思いますが、いざとなれば、公明党の支援なしでも勝てるんだということを示したわけです。非常に大きな勇気を自民党の中の保守派の人たちに与えるものだったと思います。

 反日派の落選
 立憲民主党の有田芳生氏や、白眞勲氏といった、反日派の候補者が落選したという点も日本にとって良かったことでした。

 NHK党が引き続き国政政党に
 NHK党が総得票数の2%をとって、国政政党として生き延びたということ。そして東谷義和さん、通称ガーシーさんが当選したということです。私はNHK党が、今後の政治に大きな風穴を開けるのではないかと思っています。
 東谷さんが言う芸能界スキャンダルなどには私は興味がないのですが、そうではなくて、政権の中枢に「マスコミに対して圧をかける存在」が現れたということ。この点は非常に大きなインパクトがあります。
 このNHK党の選挙戦略は、今回も非常に見事でした。NHK党の立花党首は、国防問題でも非常にしっかりとした見識を持った方です。「憲法9条では国を守れない」「日本は核武装も考えないといけない」ということも言っています。ただし、今はNHK問題に一点集中して、政治を動かし、支持者を広げていく。そういった戦略です。

 ですから、今後大きな政党になった時には明らかに改憲派でしょう。その点でも大いに期待できると思います。

 本当に改憲しようと思うと、自民党と公明党の連立を壊さないと実現できません。しかし今は、公明党なしでも自民党が安定してやっていけるような、連立パートナーとなりうる政党がいくつか出てきています。自民党以外の保守系の政党が強くなることで、憲法9条改正に進めるような状況。これが望ましいのではないかと思います。

国際政治学者  藤井厳喜


植民地主義の中国  藤井厳喜

 チャイナは、西洋の国が19世紀にやったような昔流の植民地主義を今もやっています。
 皆さんも、一度は聞いたことがあるかもしれませんが、「一帯一路」のことです。「陸と海のシルクロード」とチャイナは言っていますけれども、実態は、陸と海に自分たちの拠点を築き一帯一路の対象国を植民地化しようという計画です。
 「港がないなら、造ってやろう」「飛行場がないなら、造ってやろう」「高速道路がないなら、造ってやろう」と言ってお金を貸し付けます。貧しい国ですから、造ってもらうのはありがたいけれども完成した後は、お金が返せなくなります。お金が返せなくなったら、造った港や飛行場を借金のカタにとり、軍港化します。そういうことを、平気でやっているのです。

 これは借金の罠で、そういうあくどい高利貸のようなことをやってはいけないと、日本やアメリカ、ヨーロッパが非難しても聞く耳を持ちません。そして、すでにチャイナの国内化に飲み込まれてしまったのがウイグル人です。ウイグルはもともと、東トルキスタンという独立国でしたが、中国共産党が侵略し、乗っ取ってしまいました。これはもう、公然たる植民地支配です。

 チャイナは100万人のウイグル人を強制収容所に収容していると言われています。世界中に非難されるナチスドイツの強制収容所のようなことを、ウイグル人に対してやっているのです。そして中国は、台湾にも侵略の手を伸ばしています。

 米中対立において、アメリカの敗北は台湾を取られることです。台湾を取られてしまうと、日本は、地政学的に非常に不利であって、常にチャイナの脅威を受け続けるような、脆弱な国になってしまいます。長期的に言えば、親中派政策も増長していき日本の独立が危うくなってきます。下手をすると、そのうち日本も中華人民共和国に併合されて、ウイグルやチベットのように、中華人民共和国の日本自治区のようになってしまうかもしれません。
 最悪の場合そういうことも考えられるということです。

国際政治学者  藤井厳喜

美術は歴史を映す鏡  田中英道

 私は、1965年にフランスに留学して以来、60年近く、世界各国の美術品・文化遺産を数多く見てきました。  
 大学ではずっと“美”を理解する「美学・美術史学」という学問に取り組んできたためです。これは“カタチの美”を観察し、そこから作者の思想や哲学などを汲み取ることを主とした学問です。
 しかし、「美術史」というのは、ただ“美しさ”を論じるものではありません。「人類の歴史」を知るための重要な手がかりでもあるのです。
  というのも、人類史において、文字が発達していなかった時代、人々がコミュニケーションの媒介として用いたのは「絵」でした。
 世界で「文字」が誕生したのは、約5,000年前。日本に「文字」が伝来したのは約1,700年前だと言われています。それ以前の文字なき時代、人々は何かを伝えたいと思ったとき、絵画などの美術作品を用いていました。かつての美術は、現代よりももっと「誰かに何かを伝える」という機能を強く持っていたのです。
 また、文字の登場以降の世界でも、絵や建築、立体的な造形による人々の表現はたゆまなくおこなわれ、文字では表すことのできない、さまざまな思想や信仰を形にしてきました。美術はまさに、その時代・土地の「精神」を映す鏡なのです。

 さまざまな時代や土地の美術を比較していくことによって、人類の精神の歴史が浮かび上がります。「嘘も100回言えば真実になる」という言葉があるように、文字は必ずしも本当のことを伝えてくれるわけではありません。文字だけに頼らず、「美術」という切り口から世界文明を見ていくことで、全く新しい歴史が見えてきます。

東北大学名誉教授  田中忠道

専修寺と六華苑

 専修寺(せんじゅじ)は566年前の創建で、親鸞聖人の教えを受け継ぐ浄土真宗高田派(全国に600余)の本山寺院である。国宝の如来堂・御影堂や法宝物、その他数多くの重要文化財を所有している。

 六華苑は、山林王と呼ばれた三重県桑名の実業家 二代目諸戸清六(もろと せいろく)の邸宅として大正2年に竣工した。洋館部分は、「鹿鳴館」などを設計した「日本近代建築の父」と呼ばれたジョサイア・コンドルが手がけた。創建時の姿をほぼそのままにとどめている。桑名市は、平成5年に「六華苑」(ろっかえん)という名称で一般公開するようになった。建物は国の重要文化財に、池泉回遊式庭園は平成12年に国の名勝に指定された。

 (上2つの写真は、恒川副会長の撮影)

六華苑で 三生連の役員・顧問
専修寺の蓮の花
洋館
座敷から雪の庭園を

日本国民の魂への攻撃   藤井厳喜

   安倍晋三元総理の暗殺は、日本国民の魂への攻撃です。
 日本の自由と伝統を守る最も誇り高い侍を、我々は奪われてしまいました。しかし、ここで落胆すれば、日本国を破壊しようとする内外の敵を喜ばせるだけです。我々が絶望すれば、
テロを実行させた勢力の目的は達成されてしまいます。

 「日本を取り戻す」その目的を果たせずに、安倍元総理は命を奪われました。いつまでも悲嘆にくれていることは許されません。我々は、安倍さんの理想を継承して、日本を取り戻さなければなりません。安倍さんの魂は、この世にあって荒ぶる御魂として、我々と共に戦い続けてくれると確信します。

国際政治学者:藤井厳喜

安倍元首相 凶弾に

 8日11時半頃、近鉄西大寺駅前で選挙の応援演説中に奈良市在住の41歳の元自衛官の男に背後から銃で撃たれた。救急ヘリで病院に搬送されたが、心肺停止状態が続いた。失血を止める事と輸血の緊急処置が継続されたが、当日午後5時過ぎに帰らぬ人となった。67歳という若さであった。 

 犯人の供述によれば、「政治的信条への怨みではない」と。「母親がある宗教団体に財産を注ぎ込み破産した……。関わりがあると思われる安倍元首相を……」とも。理解に苦しむ。自宅からは、自作と思われる銃が数丁見つかったと

 暴力やテロによって言論を封殺しようとするやり方は、到底許されるものではない。私たちの奈良県内においての凶行、それも手を下した者が奈良県在住であるという事に対し、悲しみや怒りが倍加しているし、奈良県民として恥ずかしさを禁じ得ない。

 安倍晋三氏は、2期8年8カ月に亘り首相を務めた。最長記録である。その間、教育基本法の改正や安保法制の制定など大きな功績を遺された。中国に対するインド・太平洋包囲網の構築にもリーダーシップを発揮し、望ましい方向に進めた。新聞やテレビなどのメディアの偏向報道により、国内では正当に評価されない面もあったが、世界での評価は極めて高い。世界の首脳から続々と届いた弔問メッセージが、それを如実に物語っている。

 戦後の首相の中では、「段突ピカ一」だと私は思っている。信念の政治家であった。北朝鮮の拉致被害者5名が帰国できたのは、当時の小泉首相ではなく、副官房長官であった安倍氏の手柄である。平壌の滞在先ホテルで盗聴されていることを逆手にとって、「もう帰りましょう」と大声で叫んだことで金正日主席が態度を変えたのである。
 ロシアのウクライナ侵攻後、プーチン大統領と関係を深めたことが批判されているが、北方領土を何とか取り戻したいとの一念だっただろう。ただ、周近平 中国共産党総主席を国賓で迎えようとしたが、これには、私も疑問視する。深い所で考えるところがあったのもかも知れないが。今となっては分からない。とにかく、日本にとって大きな損失である。

 さて、「安心・安全な選挙」に努めるのは、行政のトップである首相の責任である。このような極めて残念な事態に陥ったのは、突き詰めれば首相の責任ということになる。岸田首相は、会見で自らの責任には触れていない。残念である。

 「要人の警護」について触れるが、今回は至近距離から、それも背後からの発砲を許してしまった。あってはならないことを生起させてしまったのだ。警護の大失敗と言えよう。警視庁や奈良県警などは、今回の失態をきちんと整理し、このような事態を二度と起こしてはならない。
 奈良県警本部長は9日の記者会見で、「急な日程変更だったが、如何なる場合でも万全の体制をとらなければならない。言い訳は許されない。大きな責任を感じている」と。立派な態度である。大したものだ。それに比べて……。

 参院選2日前に生起した訳だが、投票行動にどのように影響するかは全く予断を許さない。


 東信貴ケ丘福寿会 会報「燦燦」第88号 巻頭言から抜粋

安倍派を徹底排除する岸田政権  藤井厳喜

 日本では選挙の度に安全保障の問題が話題になりますが、その争点の一つとなるのが、国防費。安倍さんを中心に、「GDPの2%まで国防費を増やして 防衛力を強化しよう」という案が出ているのですが、実はこの案を今、岸田首相が潰そうとしています。「安倍派潰し」とも言える人事が行われ、ある意味、自民党内でクーデターに近いことが起きているのです。
 
 例えば、今度の内閣改造では、安倍さんの実の弟である岸防衛大臣を更迭して、新たな防衛大臣には、財務省出身者といった「岸田派」を任命しようとする動きがあります。

  私は、今度の選挙でどの党に入れたらいいかという話はしません。しかし、現岸田政権を早く権力の座から引きずり降ろさないと、日本の国防体制が危うくなってしまいます。もちろん、極左の政党には勝ってほしくないと思いますが、保守の補完勢力となる野党も存在します。そういうところが若干勝ってもらって、大きくはブレないようにする。そして自民党が過半数割れのようなことになれば、岸田退陣のシナリオというのも可能になるわけです。
 そうすれば、増税路線が阻止できますし、「国防費2%案」を潰そうとする彼らの動きを阻止することもできると思います。

 国防費2%潰しの黒幕
 岸田政権のキーパーソンの一人に、木原誠二さんという官房副長官がいます。財務省の出身者で、財政規律派・増税派という財務省の標準的な考え方の人です。この人が「国防費2%潰し」の中心的な役割を果たしている人間の一人じゃないかと思います。
 木原誠二さんは、東大法学部を出て財務省に就職して、今は東京20区の衆議院の出身です。当選回数5回、学歴的にも何の遜色もない典型的な財務省出身のエリートということになります。そして官房副長官というのはなかなか大事な役職です。安倍さんもかつて、小泉内閣で官房副長官を長いことやっていました。官房長官が目立ちますが、その下にいて、これから若手中堅で伸びるような人が就くポジションです。
 そんな木原さんは、どういうお考えの方かというと、例えば憲法に関しては、基本的に9条の改正は反対で、専守防衛は堅持すべきだ、という立場です。そして敵基地攻撃能力の保有については賛成している一方、日本の核武装については、「将来に渡っても検討すべきでない」と主張されています。典型的な自民党内のリベラル派なのです。

 

 日本よりイギリスを重視?
 そして彼はどうやらイギリスとの関係が深いんですね。私は彼を、「英国守旧派」と岸田政権を繋ぐパイプ役をやっている人ではないかと見ています。「英国守旧派」というのは、イギリスで唯一残っているビッグビジネス:タックスヘイブンを何とか守っていこうとする派閥です。今で言えばジョンソン政権に直接結びついている勢力です。
 
 木原さんの経歴をもう少し見ると、東大に行って大蔵省に入った後、1995〜97年にイギリスに留学し、その後、1999〜2001年まで2年間、イギリス大蔵省に出向しています。そして2002年にはその経験から、『英国大蔵省から見た日本』という本を文春新書から出版しています。おそらくこの辺りでイギリスとのコネがついたのでしょう。
 タックスヘイブンの利権を守ろうとするジョンソン政権とのパイプ役をやられているのではないかと思います。こういう方が政権の中枢に入っているところを見ると、日本のためを思うと要注意人物ですね。こういった方が大活躍されるような国だと、日本は良い方向にいかないということです。

国際政治学者・藤井厳喜

 この藤井氏の文章は、安倍元首相が凶弾に倒れる以前に書かれたものだ。

日帰りを繰り返した習近平   林建良

 香港返還25周年の式典が開かれるので、6月30日と7月1日の2日間、習近平は香港を訪問しました。普通に考えると1泊2日の2日間、香港で過ごすのですが、なぜか、今回は1泊2日ではなく、2回の日帰りでした。
 香港では泊まらず、わざわざ、広東省の深センに戻ったのです。そして翌日の朝に、再び香港に戻って、返還式典、新行政長官の就任式に参加したのです。
 せっかく香港に来たのだから、ゆっくりと休んで晩餐会にも出席し、みんなと挨拶し、意見交換をしたりしてですね、翌日の式典に参加するのが普通ではないでしょうか。
 実際、習近平が国家主席として香港を訪問するのは今回が初めてではないんですね。2017年の香港返還20周年のときにも訪問していました。その時の訪問では、一応、香港に泊まったのです。
 もちろん泊まったホテルは、全て貸し切り。そしてそれだけではなく、隣のビルまで全部貸し切りにしたわけです。そのぐらい慎重にして、かなりの厳戒態勢で香港を訪問していました。

 飛行機ではなく、異例の陸路で香港入り
 2017年の時にも、香港警察3万人を動員して、ものすごく厳しい警戒態勢の中で訪問したんですけれども、今回は、それ以上に厳しい体制をとったんですね。
 なんと今回は、高速道路で入ったわけですね。普通は遠く離れた香港に飛行機で行くのですが、今回は高速道路で入って、そこで簡単なスピーチをしたんですね。
 せっかく国家元首が来るわけなので、たくさんの人間が集まって、旗を振ったりして、そして歓迎するはずです。新聞記者も含めてその場でいっぱいの人間が国家元首のスピーチを聞くわけですよね。

 普通であればあれそうなんです。ところが、6月30日の15時に香港の高速道路の駅に着いたらですね。彼のスピーチを聞く人間はたったの4人でした。しかも、その4名との間に、もう何メートルも距離をとってがらんとしたところで、スピーチをしたのです。もちろん、新聞記者がいないわけではありません。
 新聞記者達は、さらに20メートルも離れたところで写真を撮っていました。非常に滑稽な光景だったのです。
 今回の習近平の香港訪問に関して、・飛行機ではなくて高速道路・そして1泊2日ではなく、日帰りを2回・なぜか晩餐会をキャンセルしても、外部に全く公開しない。このような不思議な点があるのですが、一体なぜなのでしょうか?
 はっきり言って、その理由はたった一つです。それは、習近平の恐怖なのです。何に対する恐怖かといえば、いろいろとありますが、一つは飛行機に対する恐怖です。飛行機に対する恐怖心と言うと、習近平が特殊なわけではなく、実はあの毛沢東にもあったんです。
 毛沢東は実は1950年以降は、一度も飛行機に乗ったことがないんです。どこに行くのも鉄道でした。そして北朝鮮の金一族も同じというのは有名ですね。金一族は基本的には飛行機に乗らないんです。たまに乗るんですけれども、基本的には外国への訪問まで鉄道です。なぜかというと、やはり飛行機は万が一墜落すると、もう生きることはできないわけです。しかも、飛行機の場合はたったひとりのパイロットが何らかの決心をする、その意志さえあればもう全員道連れにおおせることができるわけです。
 実際、今年の3月21日に中国の民間航空会社、東方航空が広西省で墜落事件を起こしました。乗客乗員計132人全員が死亡した事故で、いまだにその墜落原因は発表されていませんが、実は、パイロットによる自殺行為ではないかと今推測されているのです。というのも、もう落ち方が垂直で一直線に墜落したわけなんです。なので、飛行機だとパイロット1人が誰かに買収されたり、脅かされたりすれば、墜落する可能性があるのです。
 もちろん、そのようなことをできるのは、一般の人間ではありません。かなりの力がなければ、かなりの敵対勢力でなければ、そういうことはできこないわけですね。ですが習近平も他の独裁者と同じようにそういったリスクを恐れているのです。

台湾独立建国聯盟・日本本部委員長  林 建良


祇園祭と秦氏  田中英道

 京都の三代祭と言われる「祇園祭」は、代表的な日本のお祭りといっていいでしょう。祇園祭とは、京都で毎年7月に行われる祇園・八坂神社の祭礼であり、各地で流行した疫病を鎮めるために行われているとされていますが、単なる疫病や災害から人々を救うためという話ではありません。もっと奥深い、秦氏と関連する歴史があるのです。
 秦氏とは、応神天皇の時代に、弓月国から渡来した氏族のことであり、私は自身の研究から、秦氏は「ユダヤ人」でありイスラエルから日本にやってきたと考えています。そして、どうやら京都の「祇園祭」にもその影響が残っているようです。

①「祇園祭」の「ギオン」は ヘブライ語だった?
 祇園祭の「祇園」(ギオン)は、イスラエルの公用語:ヘブライ語の「シオン」から転じた、という説があります。シオンとは、シオニズムのことを表すので、*シオニズム...イスラエルの地・パレスチナに ユダヤ人の民族的拠点を設置しようとする思想・運動、つまり、中心地エルサレムへの巡礼を擬しており、神輿や山車で祇園社に向かってみんなで巡礼するという意味だといえるのではないでしょうか。

②「祇園祭」の山鉾に描かれた宮殿
 また、祇園祭の山鉾には、ディテールまで細かな模様があしらわれていますが、そこには意外なことに西欧のものが記されています。これにはさまざまな説があり、江戸時代に日本に入ってきた宣教師や南蛮文化の影響であるとか、支倉使節がスペインやイタリアに行った際にもってきた西洋の品々の影響である、などというものです。 
 しかし私は、秦氏がもち込んだタペストリーではないかと考えています。シルクロードを渡ってきた秦氏が、ペルシアの絨毯やコーカサスの織物などをもってきたのではないでしょうか。フランスのゴブラン織りやベルギーのタペストリーなども、商人として扱っていた可能性があります。おそらく、そうした模様や柄を山鉾に張りつけたのではないでしょうか。それらを見ると、まるで世界のいろいろな図像の展覧会を開催しているかのようです。

 ローマからシルクロードを通ってきた秦氏は、そのような世界各国のモチーフを知っており、日本へもそうした織物を供給してきた秦氏の部隊がいたというわけです。

③「祇園祭」とノアの方舟
 もう一つ、祇園祭のピークが七月十七日である理由も、「ノアの方舟」が関わっているといわれています。*ノアの方舟...旧約聖書(ユダヤ教、キリスト教の聖典)に出てくる舟旧約聖書の「創世記」を見てみましょう。そこには、洪水は四十日間続き、水は百五十日間勢いを失わなかった。と、記されていますが、ノアの方舟がアララト山(トルコ)に到着したのが七月十七日でした。

 祇園祭も七月十七日にクライマックスを迎えますが、それはこの伝説を意識しているというわけです。私もアララト山に行ったことがありますが、標高約五千メートルもある、富士山のように立派な山で、中東の山のシンボルとして崇敬されています。
 
 このように考えると、祇園祭には『旧約聖書』のイスラエルの影響があると言えるでしょう。ここで私が紹介したのは、日本と秦氏の関係を示すほんの一部に過ぎません。日本のお祭りや遺跡を見ると日本と秦氏には深い関係があることがわかってくるのです。

東北大学名誉教授  田中英道

東京裁判

 東京裁判は、戦勝国が「支配者」として一方的に敗戦国を裁いた屈辱の裁判である。不公平、不平等の、許されない酷い裁判であった。

 法廷は、ナチス・ドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判の法廷を模して作られ、昭和21年5月3日から23年11月12日まで「日本=侵略国、米国=正義」というGHQの世論操作のもとで開かれた。連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーが、自らを「極東の統治者」として演出するための政治ショーでもあった。そのずさんさは数えれば切りがない。検事団も判事団も戦勝国のみだった。

 A級戦犯の「平和に対する罪」は、戦後編み出された誤った概念にすぎない。被告側の戦勝国に不都合な証言は通訳を停止し、記録に残さなかった。しかも被告の選定には、戦勝国の利害が露骨にからんだ。
 私たちは、真実をきちんと把握しなければならない。

 

 昭和21年4月10日、GHQはA級戦犯26人を確定した。ところが、遅れて来日したソ連検事団が、日ソ間の協定で解決済みの張鼓峰事件(13年)とノモンハン事件(14年)を蒸し返し、元駐ソ大使の重光葵と元関東軍司令官の梅津美治郎の追加をねじ込んだ。重光が禁錮7年の刑となったことには首席検事のジョセフ・キーナンにも自責の念があったようだ。後に重光の弁護人に「重光が無罪になることを期待する十分な理由があり、有罪となって非常に困惑した」と手紙で吐露している。

 そのような戦勝国の一方的な裁判に正面から異を唱えたのが東条英機だった。 キーナンによる東條への尋問は22年12月31日から23年1月6日まで続いた。

 

 キーナン「米国は日本に軍事的脅威を与えたのか?」

 東條「私はそう感じた。日本もそう感じた」

 東條はこう語り、米国にハル・ノートを突きつけられ日米開戦が避けられない状況だったことを縷々説明し、キーナンの「対米侵略戦争論」を跳ね返した。

 東條は尋問直前に提出した口述書でも「この戦争は自衛戦であり、国際法には違反せぬ。(略)勝者より訴追せられ、敗戦国が国際法の違反者として糾弾されるとは考えたこととてない」と主張。その上で「敗戦の責任は総理大臣たる私の責任である。この責任は衷心より進んで受諾する」と結んだ。

 自らも認めた通り、東條が大戦時の指導者として多くの兵や国民を死なせた責任は大きい。陸相時代の昭和16年1月に「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」の一節を含む戦陣訓を示したことを非難されても仕方がない。逮捕時に自殺を図ったことも不評を買った。東條の指導力や先見性にも疑問符がつくが、GHQが貼った「日本のヒトラー」というレッテルはあまりに酷だろう。少なくとも東條が昭和天皇を守る盾になる一心で東京裁判に臨んだことは論をまたない。

 占領軍は、戦死者の霊を祭る靖国神社を国家神道の中心と考え、その焼却を計画した。だが、進駐軍司令長官付き補佐官として同行していた駐日ローマ教皇庁代表のイエズス会のビッテル神父は、「いかなる国家もその国家のために命を捧げた人々に対して敬意を払う権利と義務がある。戦死者を慰霊する儀式は、世界各国で行われている。その行為は先人たちへの敬意と誇りとして当然のこととされている」と、連合国軍総司令部のマッカーサー元帥に進言したことで、靖国神社は焼失を免れた。

 

 東京裁判における東條英機の死刑執行に際しての遺書 

 開戦の時のことを思い起こすと、実に断腸の思いがある。今回の処刑は個人的には慰められるところがあるけれども、国内的の自分の責任は死をもって償えるものではない。

しかし国際的な犯罪としては、どこまでも無罪を主張する。力の前に屈した。自分としては、国内的な責任を負うて、満足して刑場に行く。ただ同僚に責任を及ぼしたこと、下級者にまで刑の及びたることは、実に残念である。

 天皇陛下および国民に対しては、深くおわびする。元来、日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志により行動すべきものであったが、一部あやまちを生じ、世界の誤解を受けたるは遺憾である。日本の軍に従事し、斃れた人および遺家族に対しては、実に相済まぬと思っている。

 今回の判決の是非に関しては、もとより歴史の批判に待つ、もしこれが永久の平和のためということであったら、もう少し大きな態度で事に臨まなければならぬのではないか。

 この裁判は、結局は政治裁判に終わった。 勝者の裁判たる性質を脱却せねばならない。

 天皇陛下の御地位および陛下の御存在は、動かすべからざるものである。天皇陛下の形式については、あえて言わぬ。 存在そのものが必要なのである。それにつきかれこれ言葉をさしはさむ者があるが、これらは空気や地面のありがたさを知らねと同様のものである。

 東亜の諸民族は、今回のことを忘れて将来相協力すべきものである。東亜民族もまた他の民族と同様の権利をもつべきであって、その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。インドの判事には、尊敬の念を禁じ得ない。 これをもって東亜民族の誇りと感じた。

 今回の戦争にて、東亜民族の生存の権利が了解せられはじめたのであったら、しあわせである。列国も排他的な考えを廃して、共栄の心持ちをもって進むべきである。

 

 現在の日本を事実上統治する米国人に一言するが、どうか日本の米国に対する心持ちを離れしめざるように願いたい。また、日本人が赤化しないように頼む。東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにしなければならぬ。実は、東亜の多民族の協力を得ることができなかったことが、今回の敗戦の原因であると考えている。

 こんご日本は米国の保護の下に生活していくのであるが、極東の大勢はどうであろうか。終戦後わずかに三年にして、アジア大陸赤化の形勢はかくのごとくである。今後のことを考えれば、実に憂なきを得ぬ。 もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上ないではないか。

 日本は米国よりの食糧その他の援助を感謝している。しかし、もしも一般人が自己の生活の困難や、インフレや、食糧の不足などを米軍の日本にあるがためなりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。実際にかかる宣伝をなしつつある者もあるのである。よって、米軍は日本人の心を失わぬように注意すべきことを希望する。

 米国の指導者は、大きな失敗を犯した。日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。いまや満州は赤化の根拠地である。 朝鮮を二分したことは東亜の禍根である。米英はこれを救済する責任を負っている。従って、その意味においてトルーマン大統領が再任せられたことはよかったと思う。

 日本は米国の指導にもとづき武力を全面的に放棄した。それは一応は賢明であるというべきである。しかし、世界が全面的に武装を排除していないのに、一方的に武装をやめることは、泥棒がまだいるのに警察をやめるようなものである。私は、戦争を根絶するには、欲心を取り払わねばならぬと思う。現に世界各国はいずれも自国の存立や、自衛権の確保を説いている。これはお互いに欲心を放棄していない証拠である。

 国家から欲心を除くということは、不可能のことである。されば世界より戦争を除くということは不可能である。結局、自滅に陥るのであるかもわからぬが、事実はこの通りである。それゆえ、第3次世界大戦は避けることができない。第3次世界大戦において、おもなる立場に立つものは米国およびソ連である。第2次の世界大戦において、日本とドイツが取り去られてしまった。それゆえ、米国とソ連が直接に接触することになった。米ソ2国の思想上の相違はやむを得ぬ。 この見地からいうも、第3次世界大戦は避けることはできぬ。

 第3次世界大戦においては、極東がその戦場となる。この時にあたって、米国は武力なき日本をいかにするのであろうか。米国はこの武力なき日本を守るの策をたてなければ、また何をかいわんや。そうでなしとすれば、米国に何らかの考えがなければならぬ。

 米国は、日本8千万国民の生きてゆける道を考えてくれねばならない。およそ生物としては、生きんことを欲するのは当然である。産児制限のごときは神意に反するもので、行うべきではない。

 なお言いたきことは、最近に至るまで戦犯容疑者の逮捕をなしつつある。今や戦後3年を経ておるのではないか。新たに戦犯を逮捕するというごときは、即時にやめるべきである。

 米国としては、日本国民が正業につくことを願い、その気持ちでやって行かなければならぬ。戦犯の逮捕は、我々の処刑をもって、一段落として放棄すべきである。

 戦死傷者、抑留者、戦災者の霊は、遺族の申し出があらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出征地にある戦死者の墓には、保護を与えられたし。従って遺族の申し出あらば、これを内地に返還せられたし。戦犯者の家族には、保護を十分に与えられたし。

 青少年の保護ということは、大事なことである。近時いかがわしき風潮は、占領軍の影響からきているものが少なくない。この点については、わが国古来の美風をも十分考慮にいれられたし。

 今回の処刑を機として敵、味方、中立国の罹災者の一大追悼会を発起せられたし。もちろん、日本軍人の間に間違いを犯した者はあろう。これらについては衷心、謝罪する。これと同時に、無差別爆撃や原子爆弾の投下をなしたことについて、米国側も大いに考えなければならぬ。従って、さようなことをしたことについては、米国側も大いに悔悟すべきである。

 最後に軍事的問題について一言するが、我が国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。あれでは陸海軍一本の行動はとれない。兵役については、徴兵制によるか、傭兵制によるか考えなければならぬ。我が国民性を考えて、再建の際に考慮すべし。

 教育は精神教育を大いにとらなければならぬ。忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任感をゆるがせにしてはならぬ。この点については、大いに米国に学ぶべきである。学校教育は、人としての完成を図る教育である。従前の醇朴剛健のみでは足らぬ。 宗教の観念を教えなければならぬ。欧米の風俗を知らせる必要もある。俘虜のことについても研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。

 我ゆくも またこの土に 帰りこん 国に報ゆる事の足らねば

 一方的な自己弁護ではなく、「反省すべきこと、感謝すべきこと」がきちんと網羅されている。
 読者はどのように感じるだろうか。

「米国株と円安の行方」  藤井厳喜

   以前より「ダウ平均は3万ドルくらいまで下がる」という予測をしてきましたが、実際に今のダウ平均は3万1,000ドルあたり、一時は3万ドルを切るレベルまで下がりました。これから更にアメリカの株は下がる可能性が大きいと考えます。
 というのも、インフレが収まらず、FRBが更なる引き締めをせざるを得ない状況にあるためです。別の言い方をすると、景気が悪くなってくれないとインフレが収まらないということです。
 この責任はすべてバイデン政権にあります。トランプ政権下では、インフレなき経済成長でアメリカ経済は絶好調でした。それを実現不可能な夢物語であるグリーン・ニューディール政策をやろうとしたことで、ウクライナ戦争前からガソリン、石油、ガス価格は値上がりし、さらに福祉関係などへのカネのバラマキ、加えて、ウクライナ戦争で大赤字覚悟の戦費投入。これではインフレが起きるのは当たり前ですね。

国際政治学者:藤井厳喜

水と文明  西 鋭夫

 私たちが知っている文明文化は、水のあるところから、すなわち大河の周りで発祥しました。世界の四大文明も大きな川の流域で発生しています。

 メソポタミア文明はチグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域で、エジプト文明はナイル川に沿った地域で生まれました。インダス文明もインダス川に沿って、中華文明は黄河と長江を中心として生まれました。

 黄河はイエロー・リバーと呼ばれます。上流の黄色っぽい土壌が、長い年月をかけて川で運ばれてきて、時に大洪水などを起こしながら、広大な流域に肥沃な土砂が溜まっていきました。その上で農業をやるわけです。作物はグングンと育ちました。
 黄河のもっと北へ行くと、ゴビ砂漠があります。水がないゴビ砂漠では文明は発達しませんでした。ここに水があったら、中国は世界最大の農業国となっていたでしょう。

 神道と水
 日本においても水はとても大切です。例えば、日本に昔からある神道は、水と切り離して考えることができません。
 神道では「禊」(みそぎ)という言葉を使います。これは、水で体を清めること、水で諸々のことを清めることを表します。神道とは、水が豊富にある国の宗教であり、人の生き方と言えます。
 「水」という観点から世界を見ると、日本は世界一の水大国です。どこにでも、きれいで飲むことのできる水があります。水で困ったことがない民族がいるとすれば、それは日本人のことでしょう。

 衝突
 水は、生命の源であり、人の生き方に直結するものです。しかし、ブルー・プラネットと呼ばれる地球全体で考えると、ほとんどが海水で、淡水は非常に少ない。人口が少なければ少ない淡水でも問題は起きませんでした。

 ところが、人口が増えるとどうなるのか。己の生存をかけて、水の豊富なところに襲撃するわけです。争い、紛争、戦争が引き起こされました。21世紀のいま、人口はますます増え続けています。そんな中、限られた水をめぐっての世界規模での戦いがすでに始まっております。水面下ではかなり進展していますが、幸いなことに武器はまだ使われていません。しかしこれも時間の問題かもしれません。

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士)。
J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。また、2016年3月より同研究所小川忠洋フェロー。


マッカーサーの回顧証言

 何年も前から、米国において「大東亜戦争」前後の公文書が公開されるようになり、歴史の真実が徐々に明らかになってきた。

 しかし、残念ながらそれらの内容を多くの方が知らないという事実がある。例えば、「大東亜戦争」という言い方をすると、それは偏った考え方の持ち主だと思われることがいまだにある。「『大東亜戦争』の呼称は使うな」は、「日本を復活させてはならない」というGHQの方策であり、それを「日本を赤化させたい」と考える一派がもっともらしく支援・宣伝した。あの戦争は、米英をはじめ、白人から虐げられているアジアの人々を解放しようとした戦争であり、まさに「大東亜戦争」なのである。日本にとっては、自衛の戦争であった。

 私たちは「自虐史観に汚されることなく」歴史の真実を学ばなければならない。
 その一端を紹介していく。

 

『朝鮮戦争がもたらした、マッカーサーの気づき』

 日本の敗戦と共に、無政府地帯となっていた朝鮮半島の大韓帝国に先を争って進駐したアメリカ軍とソビエト軍が領土の分割協議を行い、北緯38度線を境に朝鮮半島を南北に分割占領した。その後、昭和23年に北部には、朝鮮民主主義人民共和国、南部には、大韓民国が建国された。

 ソビエトと同盟関係をとる中国軍は、北朝鮮を後押しすることで朝鮮半島全域の共産化を画策し、北朝鮮軍を南下させた。ソビエトと中国はもとより、北朝鮮までが共産主義の赤い旗で埋め尽くされて、その赤い旗の群れが南朝鮮までも飲み込もうと南下しはじめたことに、アメリカは慌てた。そこで急遽、アメリカは、マッカーサー率いる在日米軍を朝鮮半島へ派遣し、南進する共産党軍にあたらせることとなった。日本との予測をはるかに超えた戦争の余韻がいまだ癒えない中、東アジアでの想定外の急速な共産化がもたらした朝鮮戦争が昭和25年6月に勃発した。

 朝鮮軍をはじめ中国、ソ連軍はソウルの南まで侵攻。主力の米軍は友軍である韓国軍の弱さも手伝い14万以上の死傷者を出した。韓国にとっては、北朝鮮は勿論だが、中国、ソ連(現ロシあ)もこの戦争が現在なお収束していないことから侵略国(敵国)なのだ。

 

 その戦場へ赴いたマッカーサーは、先の東京裁判にて自らが裁いた東条英機をはじめとするA級戦犯たちが、『大東亜戦争は、連合国による経済封鎖からわが国を守るための自存自衛の戦いであり、また支那大陸における戦いは、わが国を共産主義から守る勢力防衛戦争であった』との供述を、自らが共産党軍との苦戦をしいられた戦闘の中で納得せざるを得なかった。

 

 朝鮮戦争を辛うじて休戦状態にまで持ち込んで帰国したマッカーサーは、昭和26年アメリカ上・下院軍事外交合同委員会にて、「先の東京軍事裁判は、インドのパール博士が主張したように、その判断に大いなる過ちがあった。日本国の立場に立って、先の大戦を振り返って見ると、安全保障上、あの戦争は、ソビエトと中国の国際コミンテルンによる極東アジアの共産化及び連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、やむをえず戦争に走ったと認識する」と、マッカーサー自身が、「東京裁判は戦勝国による一方的に行われた不誠実な裁判であった」と回顧し、そう述べた。

 また、「われわれは日本を包囲しました(注2)。日本は8千万人という膨大な人口を抱え、4つの島にひしめいていました。その半分が農業人口で、半分が工業生産に従事していました。日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接していたいずれにも劣らぬ優秀なものです」

 「日本の労働者は、人間は怠けているときよりも、働き、生産しているときの方が幸福なのだということ、つまり労働の尊厳を持っていました」

 

 6年間日本人を観察したマッカーサーの率直な言葉が発せられた。マッカーサーは、この会議で次のようなことも述べている。

 「これほど巨大な労働力を持っているということは、彼らには何か働く材料が必要だということを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました」

 「しかし、彼らは手を加えるべき原料を得ることができませんでした。日本は絹産業以外には固有の産物はほとんど何もないのです。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、スズがない、ゴムがない、その他実に多くの原料が欠如していました」

 「そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです(注3)。もし、これらの原料の供給を断ち切られたら、日本では1千万から1200万人の失業者が発生し、亡国と化するであろうことを日本政府・軍部は恐れていました。したがって日本が戦争を始めた目的は、大部分が安全保障(セキュリティー)(注4)と国民の生命財産、生活を守るためだったのです」

 

 注
(2)包囲とは、ABCD包囲網のこと。Aはアメリカ、Bはブリテイン英国、Cはチャイナ、Dはダッチ=オランダの頭文字。米国は日露戦争後から日本人への人種差別を強化、昭和14年以後、鉄・クズ鉄など対日禁輸を強め、ついに昭和16年7月に日本の在米金融資産凍結、8月には決定的な「石油」の対日全面禁輸に踏み切った。これは米国の日本への宣戦布告に相当する。

 

(3)日本軍は開戦直後の昭和17年に資源を求めて南下したが、略奪・収奪のためではなかった。フィリピンから米国を、インドシナ半島から仏国を、インドネシアからオランダを、シンガポール・マレー半島から英国を撤退させ、欧米の植民地支配から解放し各民族の独立の道を開いた。

 昭和18年、ビルマのバー・モウ総理大臣、タイのワンワイタヤコーン殿下(首相代理)、フィリピンのホセ・ラウレル大統領、中華民国の汪兆銘行政院長、満州国の張景国総理大臣、インドの自由インド仮政府・チャンドラ・ボース首班らの首脳会議「大東亜会議」(日本の東条英機首相の主催)で、「人種差別撤廃」「互恵精神でアジアの共存共栄」を宣言した。

 インドネシアの独立の闘士・スカルノとハッタはまだ独立していないため、正式参加できなかったが、会議直後に来日し昭和天皇より皇居に招かれた。東南アジアやインドは「日本が侵略した」とは言っていない。反対に「欧米を追放してくれて日本に感謝する」と言っている。アジアから有色人種の日本によって、追い出された白人の欧米が「侵略」と決めつけたのである。

 

(4)安全保障とは「自衛」という意味。自衛戦争は現在でも国際法で認められている。マッカーサーは戦後6年を経て、それまでの主張を180度逆転し、東京裁判での東条英機元首相の日本は「自衛のために戦った」「あの戦争は米国が仕掛けた」という『宣誓供述』を認めたのである。

 

 このマッカーサー証言を、戦後の「自虐的歴史教育」「日本侵略国家論」「日本の伝統否定」「反皇室教育」を是正するために広く周知するべきである。

 このアメリカ議会におけるマッカーサー証言が、戦後六十数年を経てやっと、日本の一部の高校の日本史の教科書の副教材に掲載されるようになった。

 (東京都立高校の地理歴史教材に平成24年度より掲載)

 

 「日本は自衛戦争」マッカーサー証言 都立高教材に掲載 贖罪史観に一石

 日本が対米戦争に踏み切った理由について、連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官だったマッカーサーが1981(昭和26)年、「主に自衛(安全保障)のためだった」と述べた米議会での証言が、東京都立高校独自の地理歴史教材の平成24年度版に新たに掲載された。日本を侵略国家として裁いた東京裁判を、裁判の実質責任者だったマッカーサー自身が否定したものとして知られる同証言を、公教育の教材がはじめて取り上げた。このマッカーサー証言の公教育での教材化は、戦後日本の在り方に一石を投じそうだ。

 都の教材は、この部分の証言を英文のまま掲載し、《この戦争を日本が安全上の必要に迫られて起こしたととらえる意見もある》としている。

 (産経新聞掲載記事より抜粋)

年間13.3リットルの  吉野敏明

 この数字が何かわかりますか? これは、日本人が1年間に摂取するサラダ油の量です。このように、われわれ日本人が日常的に使っているサラダ油ですが、アメリカでは使用が禁止されていることをご存知でしょうか? その理由は、FDA(米食品医療局)がサラダ油に含まれる「トランス脂肪酸」が危険とし使用を全面的に禁止したからです。ちなみに、アメリカではトランス脂肪酸は「狂った油」と呼ばれがん、動脈硬化、心臓疾患などの原因になるとされています。
   また、アメリカのみならず、EU諸国も使用上限を決めるなどトランス脂肪酸は全世界で規制の流れに動いています。ですが、日本ではいまだに規制されることはなく…
・サラダ油
・マーガリン
・コンビニの揚げ物
・菓子パン/ドーナツ
・ファストフードのポテト 
   などなど、さまざまな場面でトランス脂肪酸を含む油が使用されています。

 実は、厚労省もトランス脂肪酸の危険性を認めていて、「トランス脂肪酸の過剰摂取により、心筋梗塞などの冠動脈疾患が増加する可能性が高いとされています。また、肥満やアレルギー性疾患についても関連が認められています」と言っています。(引用元:厚労省公式HP)


   危険性を理解しているにも関わらず、未だにこの問題を放置している日本。厚労省や政府は、われわれ国民の健康を考えていないのでしょうか……? 実は、この問題、日本人が健康になると困ってしまう、『ある勢力』が関係しているのです。

誠敬会クリニック銀座クリニック院長
吉野敏明医師

ヒノキ(桧)は最高の材

 ヒノキ(桧)とは、ご存知のとおり、ヒノキ科ヒノキ属の常緑針葉樹のことである。耐久性や品質で世界最高レベルの建築木材と言われる。
 理由は、ヒノキの内部に含んでいる油性成分やアロマ効果や殺菌効果、構造強度など、いろいろな特性によるqだろう。 
 古くから日本人はヒノキとの関係が深く、まな板、寿司屋の飯台やカウンター、ひしゃくや桶、枡といった日用品としても慣れ親しんできた。スギの木と比べて資源量が少ないため、昔から高級材として扱われてきた歴史もある。

 日本書紀には、「スギとクスノキは舟に、ヒノキは宮殿に、マキは棺に使いなさい」と書かれているそうだ。ヒノキは古くから宮殿建設用として最適で、最高の材であることが知られていた。「ひのき」という名の由来は「火の木」の意味で、古代に火おこしに使われたという説と、尊く最高のものを表す「日」をとって、「日の木」という説もある。

 ヒノキは神社仏閣を建てるための木材として、古くから用いられて来た。ヒノキは伐採してからも200年間は強くなり、その後1000年かけて徐々に弱くなると言われている。ヒノキで建てられた法隆寺や薬師寺の塔は、1300年経った今も維持されている。

 日本最後の宮大工と呼ばれた西岡常一棟梁は、ヒノキのことを「湿気に強いし、品がいい、香りもいい、それでいて細工がしやすい。ヒノキはいい木です」と語った。その弟子で、全国各地の寺院の修理・改築を行っている小川三夫氏は「1300年経ってもヒノキを削ればよい香りがするし、使うこともできる」と言われる。

 ヒノキ材の特長については、以下の4つが挙げられる。

  • 木目の美しさ
  • 耐久性が圧倒的
  • 香り、アロマ効果
  • 抗菌効果


 木目の美しさ

 ヒノキは表面の非常に美しい木目が特長だ。高級感があり、光沢のある見た目は長年使うことにより、表面に艶や味といった風味が現れる。そのため、長く使えば使うほど、風合いの魅力を楽しめる。見た目は空間がパッと明るくなる木目の白さが特長で、心材はどちらかというとピンク〜黄色味を帯び、芳香に優れている。
 その美しさは時代を超え、木目の綺麗さは人々の心を魅了し続け、癒し続けてきた。

 耐久性が圧倒的

 ヒノキは、何と言っても耐久性が圧倒的に優れている。前述のとおり、日本最古の木造建築である法隆寺にも使われている。1300年経っても当時と変わらない状態で維持し続けていることが、その耐久性を示している。世界中の人が驚く。
 このようにヒノキは保存性や耐久性に優れているため、宮殿や社寺のような歴史的建築物に向いている。シロアリや腐朽菌にも強いため、建築木材として最適なのだ。また、鉄筋コンクリートの耐久年数は30~50年程度と言われており、この数字からもヒノキがいかに保存性と耐久性に優れているかが分かる。


 香り、アロマ効果

 ヒノキの香りには、強壮作用と鎮静作用がある。ヒノキの香りには気分を前向きにしてくれたり、心が落ち着かせたり、疲れが和らいだりといったアロマ効果があると言われる。例えば、桧風呂や桧酒器など、日常生活の中でいろいろと活用されている。また、桧に含まれるαピネンという香り成分を吸収することで副交感神経が刺激され、リラックス効果があることが実証されている。その効果は森林浴に近いと言われる。そのため、アロマオイルや芳香剤にも桧の香りが活用されている。


 抗菌効果

 ヒノキに含まれる成分のαカジノールには、抗菌効果があると。具体的にはαカジノールは木材を腐らせる腐朽菌の増殖を抑え、ダニやシロアリを防ぐ効果がある。
 例えば、カーペットや布団の下に敷く防ダニシートには桧精油が使われており、ダニは桧の木屑の中で死滅することも分かっている。そのほか、ヒノキ精油には高い消臭効果もあり、実験により97%のアンモニア臭を消せるという実証結果も出ている。

 

 このようにヒノキは建築材として最高なので、ヒノキをふんだんに使って家を建てることはひとつの夢だろう。最近の若い人はそうでもないのかも知れない。それは、「ヒノキについて知らない」ことに起因していると思われる。私などは、やはり木の香のする家に住みたいと思って来た。

 約40年前に自宅を新築した際(昭和58年)、もちろん構造材や柱にはヒノキを使って貰った。予算は当然限られたが、棟梁が親戚筋で幼馴染という利点があった。リビングなどの床も無垢のヒノキを使いたかったが、予算が乏しくそれは断念せざるを得なかった。
 自分なりに研鑽し細部まで自ら設計したので、ある程度は満足する家となった。しかし、無垢のヒノキのフローリングにできなかったことは、残念に思っていた。

 11年前に定年退職した時、退職金を使って玄関ホール約3畳を無垢・無節のヒノキに張り替えて貰った。その際、リビングもと考えたが、その時点で新築からまだ28年、傷んではいなかったので「贅沢過ぎる」と決心がつかなかった。
 無垢のヒノキに張り替えた玄関ホールは、自分で蜜蝋を丁寧に塗って磨いた。あれから11年が経過したけれど、直射日光が当たらないので今でも灼けることなく白く美しい。木目も然りだ。これから年数を重ねるにつれ、徐々に飴色となっていくだろう。楽しみである。
 無垢のヒノキ、それも無節は最高である。特に素足で歩いた時の感触は、言葉では言い尽くせぬものがある。

習近平の生前葬ビデオ  林 建良 

 中国の国営メディア、新華社通信が先月、習近平の一生を振り返るドキュメンタリーを制作しました。これは、全50回の短編シリーズで「足跡」というタイトルが付けられていて、ある意味で、まだ生きている習近平を偲ぶ、「生前葬」を意識しているかのような内容となっています。
 通常の生前葬であれば、友人や家族だけで行いますが、習近平の場合は、自分の人生の素晴らしさを中国全土に放映しているのです。

■習近平が乗り越えた「5つの難関」?
 その初回放送で取り上げられたのは、習近平が15歳の頃の話です。当時は文化大革命によって都会の若者が農村に送られる「下放(かほう)」という政策があり、彼も北京から陝西省の田舎に送られて、そこで農村生活をすることになります。
 ビデオの中では、そのときに若き習近平が乗り越えた「5つの難関」が紹介されていました。さぞ苦しい境遇を耐えてきたのかと思いきや、その内容は、

・ノミにかまれて大変
・食事がまずい
・自分のことを自分でしないといけない
・農作業をしないといけない
・田舎者と付き合わないといけない

 など……
 当時の中国の農村では、ノミがいるのは当たり前ですし、農村なのですから農業に従事するのも当然です。つまり、このビデオは都会からきた「お坊っちゃん」が田舎の生活にただ文句を言っている内容でした。それを偉大な習近平の「足跡」として大々的に宣伝したのです。

■なぜここまで宣伝活動を焦るのか?
 なぜ、こんな残念な内容を習近平の功績として公開しているのでしょうか?
それは、習近平にはどうしても今自分を宣伝しなくてはならない事情があるからです。彼にとっての一番の関心事は、今年秋の共産党大会で三期目に選出されるかどうか。現在、中国内部ではアンチ習近平派が経済の不振を理由に「習近平おろし」に躍起になっています。
 実際、今年3月のウォールストリートジャーナルでは3期目を目指す習近平に対して、朱鎔基(しゅようき)元首相など、かつて政権を握った中国政治の長老たちが反対していることが報じられています。秋までの残りわずかな期間、ますます激しくなる中国の内部闘争。もし習近平がそこで負けてしまえば、制作されたビデオは本当に習近平の「追悼番組」になってしまうかもしれません。

林 建良(りん けんりょう)

台湾独立建国聯盟・日本本部委員長

1958年に台湾台中に生まれ、
1987年、日本交流協会奨学生として来日。東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。
2007年、「林一洋医師記念賞」受賞、
2017年、「二等華光専業奨章」受賞。
 医師としての仕事の傍ら、台湾民主化の父:李登輝とともに台湾建国運動を精力的に展開。台湾においてパスポート表記を「中華民国 REPUBLIC OF CHINA TAIWAN」から「台湾 TAIWAN」に変更する「台湾正名運動」の発案者。
現在は栃木県在住。台湾独立建国連盟 日本本部・委員長を務めている。
『日本よ、こんな中国とつきあえるか?』
『中国ガン』(並木書房)の2作を通して、
日本人が気づいていない、中国の本質を暴く。
2019年にはJCPACにも登壇、
台湾の未来について演説・討論をおこなった。

参院選前に   藤井厳喜

 こんにちは、藤井厳喜です。今日は7/10の参院選前にぜひ知っていただきたいことがありまして、選挙に関するお話をお届けしたいと思います。
 選挙が近づいていきますと、私も色々な方から「どこの党に投票した方がいいんだ」あるいは、「野党に投票して本当に意味があるんですか」といったことを聞かれます。それに対して、私も精一杯お答えしております。
 しかし、政治を良くしようと思って皆さんは投票所に向かわれますが、そのとき、やはり基本的に「政治ってどうやって動いているんだ」とその仕組み、知識を持っていないと正しい判断はできないと思います。
 よく政治家というのは国民のレベル以上の人物は出ないと言います。別の言い方をすると、国民全体がレベルアップしていく中でしか、政治家のレベルも上がっていかないのです。例えば、「議院内閣制」と「大統領制」違いを説明できますか? 「一院制」と「二院制」違いを説明できますか? 歴史的になぜ二院制が生まれたのでしょうか。そして世界では、なぜ一院制の国が多いのでしょうか? それから「比例代表制」と「小選挙区制」の違いはなんですか? なかなか説明するのは難しいのではないでしょうか。
 それから、そもそも憲法って何でしょう? 憲法9条は改正するの? しないの? という議論がありますが、憲法はないと政治ができないのですか? 国家が成立しないのでしょうか。
 それから、日本に大統領はいないですよね。日本でなぜ大統領制がダメなのですか? 内閣総理大臣がいるのはなぜですか? 大統領制というのは日本に導入できるんでしょうか? たまに剽軽な人が「日本に大統領制を導入しろ」と言ってますけど、こんな人はまったく政治に対して無知で、基本的に国家とか政治に対してものを知らない人ということになります。
 そういう人には絶対投票しない方がいいと思います。ですが本当は、高校から大学の一般教養ぐらいで勉強してないといけないことなんです。民主政治というのは「国民が主人公」の政治のはずですから、その主人公の知的レベルを上げていく。ですからこのタイミングで政治とは何か? を学ぶのは、今回の選挙がどうなるこうなるではなくて、政治というものを根本的に考え直す良い機会になると思います。
 そういった思いもあり、参院選までに、政治のしくみについて考えるきっかけとなるような情報をまたお届けしたいと思います。

国際政治学者  藤井厳喜


トヨタ系列の製造業が狙われたのかも  藤井厳喜

 藤井です。今日はトヨタ系列の製造業が「狙われた可能性がある」という話をいたします。

 これはニュースでも取り上げられましたが、5/23 愛知県内のダム貯水池で大規模な漏水が発生して工業用水の供給が停止しました。この影響で、東京電力と中部電力が出資する『JERA』の碧南火力発電所の一部が停止することになりました。碧南火力発電所というのは日本最大の石炭火力発電所です。それによりこの地域での工業用水、電気の供給が不十分になってしまいました。

 この地域で最大の製造業はトヨタとその傘下が非常に多いので、ここが一番の被害を受けたのです。ここで大事なのはトヨタがホンダと異なり、全面的な電気自動車への移行戦略をとっていないことです。これをよくは思わない勢力が今回のことを企てた可能性は十分にあります。

 まず自動車産業は非常に大事な国防産業の一角を担っている柱になります。皆さんも考えて頂くと分かるのですが、戦車や装甲車を電気自動車で動かすことはできません。大きな軍艦に関しても同様です。ジェットエンジンや、ロケットエンジンも物を燃焼させて推進力を得る推進機関で造られていますから、これらの燃料は全部石油です。この石油が無かったら軍隊は動きません。つまりカーボンニュートラルでは軍隊を動かすことはできないのです。
 一般車で電気自動車が普及しても、長距離の旅行や移動、あるいは重量品の長距離輸送……やはりディーゼルエンジやガソリンエンジンは欠かせません。そういった意味でも石油技術で車を作り続けることは非常に大事なことであり、国防上も大切なことだと思います。それから特に過激な環境主義者が一番敵視しているのは火力発電所です。こういった点からも、電気自動車に全面移行しないトヨタを攻撃する動きは国際的にも存在するのではないかと思います。

 今回のことは単なる事故かもしれませんが、こういった謀略を働く勢力がトヨタを狙っているということは十分にあり得ると私は考えます。とにかくトヨタは日本を支えている企業の一つですから、十分防衛体制を敷いていただきたいと思います。日本は岸田内閣である限り国が頼りになりませんから残念ながら自分で自分を守らないといけない状況です。トヨタ関係者がご覧になってるなら、企業防衛には十分気を付けて下さいと申しておきます。

国際政治学者・藤井厳喜


神話から祖先の考え方を知る  松浦光修

 私たち日本の神話には、国土・民族の成り立ちを表す多くの話が語られています。
 確かに、それをそのまま「歴史事実」として捉えることは不可能かもしれま
せん。しかし、神話はただの作り話で古代人の夢や信仰に過ぎないというわけでもありません。そこには、古代における私たちの祖先のものの感じ方や、考え方が顕著に表れています。それは、科学の発達した現代に生きる私たちとは随分違っていたはずです。物事を客観的に分析するということより、天地万物、全ての存在が神秘的であり、その背後に目に見えない大きな力があると信じていたのです。それを「神様」として、仰いでいたのではないでしょうか。
 そうした古代の人の感じ方、考え方が表れているものこそ神話なのです。  
 今を
生きる私たちも、古代の日本人のDNAや遺伝子によって、性格やものの考え方が引き継がれています。なので、神話から祖先の考え方を知ることは、私たち自身を知ることにも繋がるのです。

皇学院大学教授  松浦光修

聖徳太子は「日本のお釈迦さま」 松浦光修

  第三十二代崇峻天皇が弑される(君主が家臣に殺される) という前代未聞の大事件のあと、皇位を継がれたのが、第三十三代・推古天皇です。はじめての女性天皇(女帝)として知られています。父君は、第二十九代欽明天皇ですから、むろん「男系の女帝」です。なお、いまだに 「女帝」と「女系」の区別がつかないという方がいらっしゃいますので、一言申し上げておきます。
 「女帝」は歴史上、八方十代いらっしゃいます。しかし、「女系の天皇」など、お一方もいらっしゃいません。畏れおおいことに今時は、そのような建国以来の皇位継承の伝統を、破壊してしまおうとしている人々もいますので、まずは、その歴史的事実を国民が、ちゃんと覚えておくことが大切です。
 さて、この推古天皇の御世、天皇をお助けして、わが国の政治を動かされたのが聖徳太子です。
 「冠位十二階の制定」「十七条の憲法の制定」「『天皇記』『国記』 の編纂」「遺惰使の派遣」「『三経義疏』の著述」などは、学校の教科書にも書かれていることですから、皆さん、よくご存知のことか、と思います。それらについて、一つ一つのことは、もう申し上げません。ただし、私には今、気がかりなことがあります。
 学校の歴史教科書は、戦後ずっと 「反天皇・反日本」の色彩が強いのですが、近ごろ、ますますその傾向が極端になってきていいます。

 たとえば、平成二十六年から使用される高校の歴史教科書のなかに、「聖徳太子は実在したか」というコラムを書いているものが登場するのです。昔から歴史の学問の世界には、とんでもない珍説を唱える人がいます。それも、そのたぐいの珍説にすぎません。むろん、どんな説でも唱えるのは自由です。しかし、だからといって、そんなものを学校で子供たちに教えてよい、ということにはなりません。それだけではなく、じつは今、学校の教科書からは、「聖徳太子」 というお名前さえ消えつつあります。「厩戸皇子」と書かれるようになったのです。日本人になじみのある「聖徳太子」をやめて、なぜなじみのない「幼名」を、わざと使うのでしょうか?
 
 要するに、歴史教科書をつくっている人たちの多くは、そもそも日本が嫌いで、皇室が嫌いで、したがって、皇太子であった聖徳太子を称える「聖徳」という言葉自体が、そもそも気に入らない、ということなのかもしれません。そういう教科書で日本史を習った子供たちは、やがて、まじめな子供ほど「聖徳太子」といっても、ポカンとすることになるでしょう。そして、その状態を放置しておけば、やがて日本人全員が「聖徳太子」のお名前さえ知らない、という時代がくるにちがいありません。恐ろしい話です。

 私たち一人ひとりが見識をもって、声をあげていなければ、知らない間に、日本は日本でなくなってしまうでしょう。浄土真宗の開祖・親鷺は、聖徳太子のことを、「和国の教主」と言っています。「日本のお釈迦さま」というような意味です。聖徳太子は、それほど仏教を尊ばれた方なのです。
 しかし、だからといって、日本の神々を粗末にされるようなことは、けっしてなさいませんでした。その証拠に、推古天皇十五年、推古天皇は「神祇鎮祭の詔」というものを出されていて、そこには、こういうことが書いてあります。
 「私は聞いています。 昔、先祖の天皇たちが世を治められる時は、天地に対して、 自分の身の置きどころがないほど畏まれ、あつく神々を敬い、すべての山や川をお祭りされたそうです。今、私の治世になって、神々の祭りを意るようなことがあっては、けっしてなりません。ですから役人たちも、心を尽くして、神々をお祭りしなさい」
 そしてこの年、聖徳太子は、朝廷のすべての役人たちをひきいて、神々をお祭りされています。用明天皇の皇子らしく、聖徳太子は神道も仏教も、ともに大切にされていたのです。
(つづく)
皇學館大学教授 松浦光修

※松浦教授の文章は平成25年に記されたものであり、松浦教授など良識ある人たちの意見が通り、現在も聖徳太子は教科書に「聖徳太子」として掲載されている。他の事でも同様に「筋の通らない事に対して、私たち一人ひとりが見識をもって、声をあげていなければ」ならないのである。

仏教の伝来   皇學館大学教授 松浦光修

 伊勢神宮の式年遷宮で、もっとも重要な儀式は、ご神体をお遷しする「遷御の儀」ですが、その日時をいつにするか、ということは、天皇陛下がお決めになることです。それでは、その式年遷宮というのは、いつからはじまったことなのでしょう? 
 古代の歴史をふりかえりつつ、そのことについて、お話をしてまいります。

 第二十九代欽明天皇の時代、日本に仏教が伝わりました。そのあと、仏教を広めようとする蘇我氏と、それを排除しようとする物部氏との間の争いが、しだいに激しくなり、とうとう戦いにまで発展してしまうのですが、そのような不穏な時代の行方を心配するあまり、用明天皇二年(西暦五八七年)には、伊勢神宮に 「天下泰平」を祈る使いが派遣されています。
 
 外国では今でも頻繁に見られる(…というよりも今、ますます激しさを増している)「宗教戦争」というものが、日本では、長い歴史を通じて、ほとんど見られません。そのことは、日本が世界に誇るべき歴史であると、私は思っているのですが、仏教伝来のころは、かなり険悪な状況でした。しかし、そのような状況のなか、用明天皇は、次のようなご姿勢で神仏に臨んでいらっしゃいました。

「天皇は仏法を信じられ、神道を尊ばれている」(『日本書紀』巻第二十一)

 外国の宗教である仏教を信じるからといって、けっして日本古来の神道を粗末にするようなことはしない、それどころか、ますます神道を尊ぶ… それが用明天皇のお考えで、皇室は、それ以後、ずっとそのようなお考えでこられたのではないか、と私は思っています。「神」と「仏」は共存共栄できる、ということです。たぶん、そのような皇室のお考えが、長い歳月のあいだに、日本人そのものの考えになっていったのでしょう。ほかの国ではあまり見られない日本人の信仰に対する寛容な姿勢は、おそらく皇室に由来するのではないでしょうか。もっとも、「自分たちの信仰だけが正しい、それ以外の信仰は滅ぼす」というような、独善的で戦闘的な信仰だけは、さすがの日本人も受け入れていません。それは、たとえば、こういうことでしょう。
 人の「自由」は基本的に認められます。しかし、いくら 「自由」が認められるからといっても、「他人の自由を奪う自由」だけは認められません。そんな「自由」を認めてしまうと、「自由」そのものがなくなってしまうからです。日本人が、独善的で戦闘的な信仰だけは、断固として拒否してきたのは、そうしないと、さまざまな信仰が共存共栄できなくなることを、直感的によく知っていたからではないか、と思います。
 さて、蘇我氏と物部氏との戦いは、蘇我氏の勝利に終わり、用明天皇のあとは、第三十二代の崇峻天皇が即位されます。しかし、驕り高ぶった蘇我氏は、崇峻天皇を弑する(主君を殺す)という、前代未聞の大罪を犯すのです。皇室に危機が迫っていました。その時、まるで神仏の使いのようにあらわれたのが、聖徳太子というお方です。

皇學館大学教授 松浦光修


地球は寒冷化しているのでは  国際政治学者・藤井厳喜

 今、マスコミは押し並べて地球温暖化と言っていますから、地球が寒くなっているというニュースはことごとく報道したがらないのです。それに対して温暖化しているというニュースは喜んで報道します。
 ですから、テレビなどのニュース
を見ていると「地球はどんどん暑くなっている」と思ってしまいますが、これは大間違いです。今で言うと、インドが猛暑であることは確かです。しかし、冷えているところもあるのです。

 4/1、フランスやベルギーでは大雪が降っていました。地中海に
あるコルシカ島では、なんと数十センチの雪が積もったほど。4/2のコルシカ島の最低気温は-8度、最高気温-2度という、真冬日だったのです。
 4/11、アメリカのオレゴン州でも、あちこちで道路が封鎖されるほどの大雪に。
オレゴン州で4月に雪が降るのは、なんと82年ぶりだそうです。  
 4/16にはテキ
サス州で手のひらサイズの雹が降ったと大きな話題になっています。他にも、4月以降、アメリカのワシントン州、バージニア州、オハイオ州、ペンシルベニア州、カナダのミネソタ州など各地で大雪となり、記録的な寒波に襲われました。
このように、調べていきますと地球が寒冷化しているニュースはたくさんあ
ることから、地球は寒冷化しているのではないか、と私は思っています。
 マスコ
ミを見ていると「今年の夏も暑くなる」というニュースばかりですが、実際、どうなるのでしょうか。寒くなったニュースは報道されませんので、私はこれから時々、地球寒冷化ニュースを集めて皆さんにお届けしたいと思います。
国際政治学者・藤井厳喜

藤井厳喜(ふじい げんき) 

国内外の大企業・投資家からも信頼される国際政治学者

ハーバード大学大学院博士課程修了。日本のマスメディアでは決して報道されない、欧米政府が扱うレベルの政治・経済の動向。そして市民レベルの情報も踏まえて、文化、思想、宗教など多方面から分析し未来を的確に見抜く予測力は、内外の専門家から高く評価されている。著書は第1作の『世界経済大予言』(1984年)以来、年間数冊のペースで出版され、70冊を上回る。また、秘匿性の高い、年間20万円の会員制レポートは35年間毎月発行され、「正確な情報が命」とも言える、旧三井信託銀行、旧日興証券などの金融機関や大手企業・個人投資家を中心に「世界情勢を読み解くバイブル」として支持されている。また、国連集会に派遣団として参加したり、1999年には米ブッシュ政権との架け橋として、リチャード・アーミテージ元米国務副長官、ロバート・ゼーリック世界銀行総裁(共に当時は民間人)らに掛け合い、外交の裏側を取り仕切るなどの国際的・政治的な活動も行ってきた。

江戸時代の農民は虐げられていたのではない  田中忠道

 江戸時代というと、「水戸黄門」などのドラマでは、貧しい農民が悪代官に虐げられていたようなシーンがよく描かれているが、田中英道氏(東北大学名誉教授)によれば、「実は、当時の民たちは、決してそのような弱い立場ではなく、むしろ高度な生活を営んでいたことがわかってきた」と言われる。  
 一体どういうことなのか。江戸時代の民は、どのような暮らしをしていたのか。

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 江戸時代というと何を思い浮かべますか? 封建社会。士農工商。そんなところではないでしょうか。「身分が定まっていて、大名、代官、大地主たちが町民や農民を苦しめ、それに耐えかねて、人々はしばしば一揆を起こした」実際、こんなふうに述べている歴史書もたくさんあります。しかし最近は研究が進んで、人々は意外に自由で、「身分に縛られて経済的に苦しめられるような立場ではなかった」という江戸時代の姿が明らかになってきています。
 近代以前の封建的な暗黒の時代。そういう観念が江戸時代の暗いイメージをつくり上げているのでしょう。歴史を観念で見てはなりません。イデオロギーで思い込んではなりません。将軍や大名は決して大土地所有者ではないのです。領内から徴税して、それでもって行政に当たる、そういう立場でした。
 土地を所有していたのは町人や農民でした。そしてその土地を自由に売買することができました。土地を売ってその代金を資金にし、たとえば酒造や織物の仕事をすることもできました。人々は農奴のように身分を固定されていたわけではなく、資本家として活動することもできたのです。
 少数ながら、土地をもたない小作人もいないではありませんでした。しかし、彼らは収穫の二分の一を取得する権利をもっていたのです。そして努力して収穫量を上げれば、小作人をやめることができました。
 
 テレビドラマなどに登場する代官は、だいたいが人々を苦しめる悪代官と相場が決まっています。まあ、そういう代官がまったくいなかったとはいえないでしょう。しかし、それは本来の代官の姿ではありません。農事改良を指導したり、村民教化に努めたりして生産を上げ、徴税を滞りなくおこなう地方公務員といったところが代官の役割だったのです。
 
 幕府の政治も将軍の独裁などではなく、評定(会議)によって行われました。「百姓は大御宝」という農民重視の思想が根底にあって、さまざまな施策がとられました。農民は副業を営むことができ、それは課税されませんでした。 だから、幕末の寛永のころには、農民が納める年貢率は全収入の一割、多くて三割になっていました。その年貢は主に、人々の暮らしをよくするための公共施設の基盤整備に使われました。大河川の氾濫に備えた堤防の構築や、物資輸送のための道路整備や港湾施設の拡充などです。
 
 武士の特権に「斬り捨て御免」というのがありました。しかし、これも中期以降は不可能になります。武士に非があれば、奉行所が処分しました。百姓一揆が起こっても、それが一方的に抑えられ、処断されるようなことはありませんでした。事情やいきさつがくわしく調べられ、原因をつくった責任者は罷免や没収などの改易に処せられました。一揆を起こした側も、首謀者以外は無罪放免になるのがほとんどでした。
 
 士農工商は当初、社会安定のために設けられました。しかし、実際は流動化していきました。人々はそれぞれにさまざまな生き方をしているのですから、そうなっていくのは当然です。
 例えば石田梅岩は農民の出です。しかし彼は、京の商人の家に奉公に行きました。そこで勉強し、商人や農民が武士に劣るものでないことを知って、上下関係を重んじる朱子学を中心に、仏教や老荘を取り入れ、それぞれに社会的職分があって、その役割には隔てがないことを説き、心学の祖といわれるようになりました。
 長岡藩では藩士が支配を商人に委ね、農村復興に効果を上げました。農民でも名主になり、帯刀を認められることがありましたし、姓を公称することもできました。武士である御家人の子が町家に養子に入ったり、武家と富農が婚姻関係を結ぶこともよくありました。庶民がお金で武士の身分を買うこともありました。そして学問、武芸、技術に秀でていれば、十分に取り立てられることもあったのです。
東北大学名誉教授  田中忠道

このままでは日本が第二のウクライナに    惠 隆之介

 ウクライナ東部ルガンスク州では、ロシア軍による激しい攻撃が続いています。「ロシア軍による街の破壊は 雪崩のように増加している」ウクライナのゼレンスキー大統領は、こう話し、ロシアによる攻撃が今週さらに激化するとの見方を示しました。そのような中で、ウクライナは戦争の被害に加え、さらに苦しい状況に陥っています。

 世界銀行は、ウクライナの今年の実質成長率がマイナス45%に陥ると予想。ウクライナ経済は取り返しのつかないほどの打撃を受けているというのです。
 一体どうして、このようなことになってしまったのでしょう?
 実は、ウクライナは世界第5位の小麦の輸出国。ヨーロッパのパンカゴと言われたウクライナにとって、穀物の輸出は国を支える大きな財源でした。しかし、その大半を輸出していたオデッサやマリウポリといった港のある黒海・アゾフ海沿岸が、ロシア海軍によって制圧され収穫した小麦のほとんどを運び出すことができなくなっています。これはウクライナだけでなく、世界中、そして日本にも大きな影響を与え始めていました。ウクライナからの輸出が滞ったことで世界的に小麦やトウモロコシなどの国際価格が急騰。岸田首相は15日の会見で、この価格の上昇について、「ロシアのウクライナ侵攻による、有事の価格高騰」との認識を示しています。

 ウクライナの戦争は我々の家計にまで影響を及ぼしており、今や、世界的な食糧危機に発展する可能性も叫ばれるようになったのです。しかし、ウクライナ戦争の日本への影響は食糧価格の高騰だけではありませんでした。日本はその地政学的な理由から、さらなる危機を迎えようとしていたのです。

 日本に迫る2つの脅威とは

 ウクライナが今になってこのような経済的な痛手を負ってしまったのは、一体どうしてなのでしょうか。それは、ウクライナがロシアにシーレーン(海洋交通路)を取られてしまったから。国内でいくら多くの小麦が獲れようとこのシーレーンが機能していなければ安全に船を運航することができず、輸出入が行えなくなってしまいます。多くの国が貿易を通して経済を成り立たせている現代において、海を奪われてしまうことはその国の経済基盤を奪われることと等しいのです。
 全貿易量の99%以上を海上輸送に依存するわが国にとってはさらにその海の重要性は増します。日本は海に囲まれており、日本中のどこからでも自由に輸出入ができるように見えますが、実際はそうではなく、日本への石油などのエネルギー、食物、日用品などのあらゆる輸入品の海上交通路(シーレーン)は一定してある場所を通っています。
 それが沖縄沖……。もし、沖縄で有事が発生し、このシーレーンが脅かされるようなことがあれば、エネルギーも物資も不足し、日本の経済は一気に衰退してしまうでしょう。そんな日本の命綱とも言える沖縄で、今、大変なことが起こっているようです。もはや日本は、ウクライナを他人事として眺めていることのできるほど、安全な国ではなくなってしまっていました。

 元海上自衛官  惠 隆之介

なぜ古墳はつくられたか?  田中英道

 古代ローマと同じ頃、3〜6世紀にかけて、日本では古墳が数多く作られました。その規模はピラミッドよりも大きく、もちろん古代ローマの五賢帝のうちの一人、ハドリアヌス帝のお墓として建てられたカステル・サンタンジェロよりも大きい規模で作られています。
 全国で16万基以上といわれるほどの数がありますが、その建築技術の高さだけではなくて、人々がそういうものを作り出すエネルギーの中心に、「天皇」という存在があったことを思わないわけにはいきません。

 ローマ皇帝と天皇
 ローマは皇帝を中心にしてヨーロッパ中に多くの植民地を作りました。それは現在のフランス、ドイツ、イギリスにまで及ぶ強大な力でした。まさにローマの皇帝権力の強さを示しているわけですが、これは日本で天皇陵というものが多数作られると同時に、非常に多くのさまざまな形の古墳が作られたことと重ねて考えることができます。つまり、皇帝崇拝天皇崇拝の強さです。

 ローマと日本の共通点
 そういう共通性だけではなくて、多神教的な考え方が日本と古代ローマに共通して見られます。またローマでは堅牢な石造文化が作られましたが、日本の古墳文化も石をたくさん使っています。古墳文化は“石の文化”といってもいいくらい、建造物としては堅固な構造を持っています。こういう巨大な建築文化というものも、ローマと日本の共通性として感じます。

 “形”の比較で見えてくる歴史
 古代ローマは建設の時代でした。そして日本の古墳時代もまた、建設の時代だったといっていいでしょう。これは必ずしも文書に残されているわけではなく、形の文化として成り立っているというのが特徴です。古墳について触れられている文章は『古事記』にも『日本書紀』にもないのです。不思議といえば不思議ですが、それが形の文化の自律性を示しているということでもあります。

 このように 私たちが建設の時代として古墳時代を捉えることができるのは、同じ頃に古代ローマという大建築を作った文化があるからです。双方の文化を比較検討することによって、こうした見方を得ることができるのです。

東北大学名誉教授  田中英道


沖縄の今   惠 隆之介

 ウクライナ戦争が長期化しています。ロシアとウクライナ、どちらも一進一退の攻防ですが、全く終わりの見えない情勢です。しかし、ウクライナ戦争で今、ウクライナやロシアに目がいきますが、本当に日本にとって身近な危機なのは中国ではないでしょうか?
 沖縄出身の元海上自衛隊幹部で海軍戦略、日本の海洋戦略に詳しい惠 隆之介氏によると、これまで沖縄では人民解放軍のスパイが堂々と活動していたと言います。

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 中国友好連絡会というのをご存知でしょうか? よく「友連会」と自衛隊とか公安が言っていますけれど、これは人民解放軍の工作機関で、沖縄でも公然と諜報活動をしています。
 まず中国大陸に来る自衛隊のOBとか有名人を食事に誘って 「沖縄には富裕層を自分たちで送るから、1日も早く基地経済から脱却してください」と明確に発言しているのです。そして、「万が一のときに沖縄の基地から中国側に攻撃が飛んで来たら、間違いなく反撃します」という恐怖感も与えているのです。 
 実際、この友連会のメンバーが頻繁に動いていて、尖閣のある石垣市長のところにも来ているのです。友連会のスタッフが、「尖閣諸島を共同開発しましょう」と札束を見せながら色々なことをしています。そういう感じで、中国は経済で正面攻撃に出てきているのです。富裕層の旅行客も大量に送り込まれています。
 沖縄のリゾートホテルのマネージャーなんかに聞いたら、「中国の旅行客のおかげでスイートルームから部屋が埋まっていく」と言います。風紀が乱れるから本当は受け入れたくないけれど、この連中は札束を持っているから受け入れざるを得ないと言っていました。
 この友連会のトップは中国投資バイヤーのお嬢さんで、習近平さんの奥さんがナンバー2。そして、中国軍の将官クラスが主要メンバーです。当然、沖縄の政財界のトップとつながっています。それだけではありません。中国資本は沖縄の土地も狙っています。宮古島の近くの下地島空港というのがありますけれど、
 その近隣の土地の値段が高騰しているのです。付近に宮古海峡というのがあります。これは国際海峡ですから、中国はそこを押さえようとしているのです。彼らは素性を名乗らず日本企業名で来るものですから一般の人たちはすぐに信用してしまいます。しかも、多額の現金を積むのです。どこかで売買の話を聞いたら、すぐに日本人のバイヤーが現金を持って現れるのです。彼らが好き勝手に暴れられるのははっきり申し上げて日本政府がだらしないからです。
 那覇はスクランブルで飛んでくる飛行機で満杯状態なのです。何とか下地島にスクランブルの戦闘機の1個飛行隊でも動かすべきだということを提案したことがありますが、わが国の政府は辺野古の問題で手いっぱいで動こうともしません。全くやりきれないです。
 話が飛躍して恐縮ですけれど、まさに昨今の情勢は幕末のようなもので、
今の自民党体制はこれからの乱世で国家を守れるのか? と思います。新生保守の勢力が立ち上がらないと、日本は本当に危うい方向に向かっていくと感じています。
 沖縄の最前線で少し実情を見れば、諸外国の工作が目前に迫っているのが分かるのでしょうけれども、そういった方は少ないのが現実です。沖縄の左翼活動家はとにかく今の日本の体制を破壊すればそれで済むわけです。破壊して赤い旗が立つのか、国家革新に燃えている人もいるのか、あるいは中国の手先になって、中国政府のバックアップの下に琉球共和国を作ろうと思っているお花畑のような思想の人もいるでしょう。いずれにせよウクライナ侵攻の影響で沖縄は今後、これまでにない非常に危険な状態に陥ることになります。
 尖閣諸島問題、沖縄振興予算、そして米軍基地移設問題。様々な課題が山積みですが沖縄本土復帰50周年になる今、国民1人1人に沖縄の諸問題を考えていただけると幸いです。

元海上自衛隊  惠 隆之介

ストーンヘンジと秋田・大湯(おおゆ)環状遺跡  田中英道

 イギリスの世界文化遺産 ストーンヘンジは、紀元前3000〜1500年ごろに作られたと言われる巨石遺跡だ。
 この遺跡とは遠く離れた土地で、奇妙な共通点を持つ遺跡がある。それが日本の秋田県にある大湯(おおゆ)環状遺跡である。これら2つの遺跡には、どのような共通点があるのか。

 東北大学名誉教授:田中英道氏の解説


 巨石は何を語っているのか

 ストーンヘンジは、イギリスにある巨石遺跡です。高さ4.5メートル、重さは
25トンもある巨大な石が、直径30メートルの円周上に並び立ち、その上に約7トンの石が乗せてあります。

 この巨石の配置は、太陽の運行に関係があると推測されています。当時の人々にとっても、太陽が時間の観念を与える大きな手がかりであったと想像されます。

 日本にあった“ストーンヘンジ”

 これと似た遺跡が実は日本にもあります。青森県の三内丸山遺跡の近くにある大湯環状遺跡(秋田県鹿角市)です。
 この環状遺跡も、とても規則正しくつくられています。ストーンヘンジほど大規模なものではありませんが、太陽をいかに観測するかということを日本人が縄文時代に行っていたことがストーンヘンジと同様に推測されます。
 
 この時代に、東洋・西洋に共通して、石による文化遺産がつくられ、それらは共に太陽の運行と関係しているということが分かるのです。

 誰がつくったのか?

 ストーンヘンジをつくったのは、原ヨーロッパ人とも呼ぶべき人々です。ストーンヘンジで私が注目するのは、この時代の人々が土地や自然と深く結びついて暮らしていたということです。
 日本列島では、縄文時代の人々が、自然と常に融合しながら暮らしていたわけですが、ストーンヘンジを見れば、それと近い文化がヨーロッパにもあったということが分かってくるのです。ここに日本の縄文時代との共通性を見ることができます。
 このような共通性は、遠く離れた日本とヨーロッパでも、共通する信仰があったのだろうということを予想させます。



 このように歴史を知る手がかりは、必ずしも文字史料だけでは無い。残された遺跡や発掘品を丁寧に読み解いていくことで、文字すら存在しないはるか昔の世界がどんな姿をしていたのか、少しずつ浮かび上がってくる。

 このほかにも、世界に残された謎はたくさんあると田中教授は。

・ピラミッドはなぜ作られたのか? なぜか古墳とソックリな理由とは。

・縄文土器に“動物”が描かれないワケは。 西洋では“動物ばかり”なのにな

ぜ?

・偶像崇拝のミステリー 神道はNG、仏教は〇  宗教ごとに違うのはなぜか
 

 などなど。

 これらの歴史ミステリーは、“カタチ”に着目することで解明できると田中教授は語る。一体どんな歴史の真実が見えてくるのか。

ガンの原因はタバコ・飲酒か  吉野敏明

   ガンの原因はタバコ・飲酒だとよく言われますが、これは嘘です。

 「厚生労働省のホームページでは、ガンの原因、第1位はタバコ。第3位が飲酒と書かれていますが、よくよく調べてみるとガンとの関連性は薄く、むしろ〇〇が原因だとわかりました」こう語るのは、医療法人社団誠敬会会長   吉野敏明 医師です。


 吉野氏はこう語ります。

 「日本人のガンの原因は喫煙が1位。3位が飲酒となっています。
日本では、かなり力を入れて国民の禁煙を促しています。その甲斐あってか、昭和と比べるとかなり喫煙者が減りました。喫煙者は昔の方が多かったですよね。にも関わらず、昭和40年代と比べてガンの死亡率は4倍にもなっています。特に、肺がんの死亡率は10倍にもなっているんです。おかしいことに、禁煙すればするほど、肺がんが増えています。これはどう説明すればいいのか。他に原因があるのではないか。そう思って、僕はいろんな文献を調べました。何千何万の論文を読みました。

 そうして分かりました。ガンは食源病なんです。食品添加物とガンの発症率の研究結果から明らかです。加工食品が食事の中に1/4占めている人と加工食品がほとんどという人を比べると、ほとんどという人の方がガンの発症率が高いのです。どれだけ加工食品をたくさん食べているのか、割合はどのくらいかによって、ガンの発症率は変わります。これは大変重要な話なのですが、なぜか日本では知られていません。

 なぜなら、日本語で食品添加物、ガン、悪性腫瘍とGoogleなどで調べてもこのような情報は出てきません。しかし、英語でこれらの単語をGoogleや論文サイトで調べると、何百とか何千の論文が出てきます。日本人は情報規制を受けているのです。大きな問題です。

医療法人社団 誠敬会会長  吉野敏明

織田廣喜と村田省蔵

   若いときに或る画家の作品に出合い感銘を受け、時代と共にその画家の評価がますます高まる。それはなかなか言葉では言い表せぬ、うれしいことである。
 自分では描けない私だか、たまたまなのか、少しは観る眼があったのだろうか、そういった画家が二人居る。故人となられたその油彩画家は、「織田廣喜」(おだ ひろき)と「村田省蔵」(むらた しょうぞう)の両画伯だ。大きな賞も手にされ、芸術院会員にもなられた著名なお二人なので、絵画に興味のある方はご存知の方も多いだろう。

 織田廣喜(大正3 – 平成24年)は、福岡県出身で日本美術学校西洋画学科卒、第53回二科展で総理大臣賞受賞、第56回二科展で東郷青児賞受賞。平成7年に恩賜賞、日本芸術院賞を受賞、日本芸術院会員に。二科会理事長も歴任した。また、フランス政府芸術文化勲章・シュヴァリエも受章。晩年は、奥さんのリラさんをモチーフにした「少女」を描き続けた。
 織田は現実世界をそのまま描くのではなく「想像し嘘をつく」ことが絵の制作には必要であると語った。デフォルメされた幻想的な作品で、多くのファンを得た。織田の「少女」は、洗練されたレストランや喫茶店などでよく目にする。

 25年くらい前、大丸心斎橋店で開かれた個展で、念願叶いお会いできた。そのときに購入した織田の著書「絵筆とリラと」の表紙裏に「少女」を描いていただくという幸運に恵まれた。現在、織田の油彩「少女」2作品を所蔵している。

 村田省蔵(昭和4年 - 平成30年)は、。石川県金沢市出身。金沢美術工芸専門学校洋画科卒業。上京し、小絲源太郎(こいと げんたろう)に師事。昭和34年、東京都保谷市にアトリエを構えた。昭和43年、第11回日展で菊華賞受賞。平成10年第30回改組日展で「春めく」が内閣総理大臣賞を受賞。平成18年、第37回日展にて恩賜賞日本藝術院賞受賞、同年日展理事、日本藝術院会員に。平成12年に金沢学院大学美術文化学部教授。「多彩かつ濃厚な色彩と緊密な構図は村田様式」 と評された。
 晩年は稲架木(はさぎ)の風景をモチーフにすることが多かったが、冬の田圃に雪をかぶって立つもの、春先に秋の実りを待つもの、これまでの人生を稲架木に託して描いているかのようだった。この稲架木の景色を新潟の旧岩屋村で見て、強く惹かれたと聞く。「内閣総理大臣賞」を受賞して以後、3月の日展巡回展(大阪・天王寺美術館)では、広い会場のメインの場所に展示された。身内の事のように誇らしく思ったものだ。

 私は村田に、30年程前に梅田阪急百貨店での個展でお会いできた。そのとき、油彩「三色すみれ」SMを購入したが、しばしお話しでき二人での写真を撮って貰った。私には大きな記念となった。なお後年、村田の油彩「伊豆・稲取海岸」10号を所蔵することになった。これら村田の2作品は、織田の「少女」と共に私の宝である。

 織田、村田のお二人には「文化功労者」に、そしてゆくゆくは「文化勲章」受章をと密かに念じたが、残念ながら叶わなかった。

「美術」という切り口から世界文明を 田中忠道

 私は、1965年にフランスに留学して以来、60年近く、世界各国の美術品・文化遺産を数多く見てきました。大学ではずっと“美”を理解する「美学・美術史学」という学問に取り組んできたためです。これは“カタチの美”を観察し、そこから作者の思想や哲学などを汲み取ることを主とした学問です。

 しかし、「美術史」というのは、ただ“美しさ”を論じるものではありません。「人類の歴史」を知るための重要な手がかりでもあるのです。というのも、人類史において、文字が発達していなかった時代、人々がコミュニケーションの媒介として用いたのは「絵」でした。

 世界で「文字」が誕生したのは、約5,000年前。日本に「文字」が伝来したのは約1,700年前だと言われています。それ以前の文字なき時代、人々は何かを伝えたいと思ったとき、絵画などの美術作品を用いていました。かつての美術は、現代よりももっと「誰かに何かを伝える」という機能を強く持っていたのです。

 また、文字の登場以降の世界でも、絵や建築、立体的な造形による人々の表現はたゆまなくおこなわれ、文字では表すことのできない、さまざまな思想や信仰を形にしてきました。 美術はまさに、その時代・土地の「精神」を映す鏡なのです。 さまざまな時代や土地の美術を比較していくことによって、人類の精神の歴史が浮かび上がります。

 「嘘も100回言えば真実になる」という言葉があるように、文字は必ずしも本当のことを伝えてくれるわけではありません。文字だけに頼らず、「美術」という切り口から世界文明を見ていくことで、全く新しい歴史が見えてきます。 

田中忠道 東北大学名誉教授

製薬会社 抗がん剤の闇

「抗がん剤は無意味」・・・アメリカ国立ガン研究所
抗がん剤を使わない欧米でガンが減っている?
日本の製薬会社がひた隠す、抗がん剤の闇。

 「抗がん剤を使っているのは日本くらいですよ」こう語るのは、誠敬会クリニック銀座院長の吉野敏明先生である。なんと、アメリカやイギリスでは、ほとんど抗がん剤が使われていない。さらにはガンが減っているというのだ。では、なぜ抗がん剤を使いガンの減少に努めている日本では患者数が増え続け、日本人の死亡原因1位のままなのか?

吉野敏明先生:
 「抗がん剤とは、体の中のガン細胞の増殖やガンの進行をおさえる薬です。抗がん剤治療は1940年代から行われていて、日本でもメジャーな治療法ですよね。しかし、世界を見てみるとアメリカやヨーロッパでは抗がん剤、ほとんど使われていないんです。もちろん、ずっと使っていなかった訳ではなく近年になって徐々に使用量が減っています。そして、意外なことに抗がん剤の使用量が減っているのに1999年くらいから欧米ではガンが減少し続けています。なぜかというと、ガンが食源病だとわかったのでオーガニックというように農薬や食品添加物、遺伝子組み換えを使わなくなったからです。
 先進国でガンの患者が増えているのは日本だけです。そして、抗がん剤をたくさん使っているのも日本だけ。

 除草剤〇〇〇〇アップの話は聞いたことありますか? アメリカで訴訟があって欧米で使えなくなったので日本に輸出する小麦やとうもろこしに使って在庫処分している訳です。それと同じで、アメリカで使えなくなった抗がん剤はどんどん日本に輸入されています。日本は食料や薬の最終処分場になってしまっているのです。もちろん、輸入するのにもお金がかかります。抗がん剤治療などの医療費に50兆円の税金がかけられています。この税金のほとんどが外国資本に流れていっている……。これが日本の現状です」



 一体なぜ、このような話が知られていないのか。吉野氏は「医療の問題はタブーなので誰も話すことができない」と言われる。

 体に悪いものを食べされられ、がんになり高価な「抗がん剤」を投与されているのが我々日本人なのか。
 製薬会社や日本医師会は、真実を公にすべきである。

 

中国高官の海外逃亡

 中国において、90年代以降、 判明しているだけでも、海外逃亡した政府高官は2万人以上にのぼり、不正に持ち出したお金は10兆円を超えているという。それも、1人あたり平均13億円の公金あるいは不正蓄財を海外に持ち逃げしているというから驚く。
 
 元温州市副市長の楊秀珠なる高官は、判明しただけでも3兆4,350億円も汚職で手に入れ、海外逃亡したと伝えられる。そこで、中国共産党は2010年1月、中央規律委員会監察部、公安部、司法部、外交部合同で 「汚職公務員による海外逃亡防止会議」を作って、高官の海外逃亡に対する防止策を練っている。世界広しといえども、高官の海外逃亡を防ぐ組織は中国以外にない。こんな恥さらしの組織を作らなければならないほど、中国では高官の海外逃亡問題が深刻なのだ。

 高官たちの手口は共通している。不正蓄財 子女を海外留学させる 資産を海外に移転 家族を海外に移住 本人が海外逃亡 渡航先国の法を盾に帰国拒否 という手順である。
だから高官子女の留学は、海外逃亡へのワンステップであり、安全弁の一つなのだ。ちなみに、中国の最高決定機関である中央政治局の常務委員9人のうち、子や孫を米国に留学させている者は、 少なくとも5人いる。習近平の娘も、ハーバード大に留学中である。普通の国なら、これはゆゆしき問題だ。なぜなら、国の指導者たちの子供や孫が他国に人質をとられているようなものだからである。しかし、中国の指導者たちにとって、国のことよりも逃亡先の確保の方が大切なのである。

(中略)

 高官たちが逃げ出す理由
 それにしても、なぜ成功者であるはずの高官たちは母国から逃げなければならないのだろうか? その最大の理由は、中国は法治国家ではなく人治国家だからである。世界でも指折りの法治国家に住む日本人には想像しがたいことかもしれないが、法治国家なら、権力闘争に負けたくらいで牢屋に入ることはない。

 だが、人治国家である中国の場合は、権力闘争に負けることは致命的で、命を取られるか、投獄されるかのどちらかしか道はない。

 そもそも中国の法律とは、搾取や権力闘争に使う道具でしかない。だから、権力闘争に負けると、一族郎党まで牢屋に入れられてしまう。これも中国特有の「蘇九族」(親族は皆殺し)という報復文化の特徴だ。勝者はどうなるかというと、高位高官にのぼるほど権力も強くなるが、彼らに打ち負かされた敵も多くなる。ある意味で、高位になればなるほど危険なのだ。

 毛沢東に負けた林彪(りん ぴょう)と劉少奇(りゅう しょうき)の悲惨な末路はそのいい例だ。2012年3月に失脚した薄熙来(はく きらい)もその典型的な例と言える。まるで映画のような失脚事件だったが、中国ではこのような熾烈な権力闘争は決して珍しいものではない。高官のポストは、並みの神経の持ち主ではまず務まらない。邪魔者を消すくらいは平気でやりかねない。だから、彼らは権力の座についたその日から、明日は我が身と海外逃亡の準備もしなければならないのだ。

林 建良(りん けんりょう 台湾人 日本在住の開業医)

中国の人口14億は嘘  林 建良

 世界で一番人口が多い国はどこでしょうか?

 中国の人口をGoogleで調べてみると、その人口はおよそ14億人と、全世界で1位を記録しています。しかし、この中国発表の「人口14億人」というデータ、実は全くのデタラメだということをあなたはご存知でしたか?

 2020年の5月、中国が国勢調査の結果を発表しました。すると、「明らかに数字がおかしい!」と世界中からツッコミが入ったのです。

 例えば、14歳以下の子供の人数。政府の発表によると、人数は2億5,338万人とのことですが、同じ期間で子供が産まれた数を足してみると、2億3,900万人。その差は【1,438万人】にも上ります。

 数字が大きすぎてピンとこないかもしれませんが、これは東京の人口よりも多いです。つまり、それだけの人数を中国政府は水増ししていたということ。

 こんな不正が行われているので、統計学者の間では、「人口14億という数字も、実際は12億くらいしかいないのでは?」と言われているのです。そうなると、人口世界1位も嘘になります。

林 建良 (りん けんりょう 台湾人 日本で開業医として活躍)

日本に同化したユダヤ人

 田中教授(東北大学名誉教授)は、次のように言われる。

 『ユダヤ人なしに日本の古代史は語れません。なぜなら古代日本が唯一ユダヤ人を受け
入れ、彼らと同化した国であるからです。もともとユダヤ人たちは、国を滅ぼされ離散した民族ですが、各地で迫害を受けていました。大陸の厳しい気候では食料は豊富に取れませんし、その取り合いで戦争が絶えない環境ですから、ユダヤ人たちが助けを求めても、「敵がきた」「異端の怪しい者たちがきた」と認識され、排除されたのです。ですが古代の日本は違いました。大陸と違い、温暖な気候で食料も豊富にとれますし、争いになることもほとんどなく、穏やかな性格をした人々が住んでいました。ですから、ユダヤ人たちを快く受け入れましたし、彼らを差別することもなく、住む土地や政治的な地位まで与えました。これらのことは大陸で虐げられてきたユダヤ人たちにとっては衝撃だったでしょう』

 日本に感謝をした彼らは日本人と手を取り合い、世界に誇る日本独自の文明を作り上げ、国家の繁栄に大きな貢献を果たした。例えば、その一つが巨大古墳の築造である。ユダヤ人たちは、大陸で培った最先端のテクノロジーを駆使して、ピラミッドや秦の始皇帝の墓よりも巨大な世界一のお墓・仁徳天皇陵を作り上げた。 彼らの痕跡を丁寧に辿っていくことで、古代日本国家がどのように繁栄していったのか? どのような文化を育んできたのか? 国の歩みともいえる、日本繁栄の過程が紐解けてくる。

秦(はた)氏と伏見稲荷大社  田中英道

 田中英道氏は、古墳時代前から活躍の見られる秦(はた)氏は、渡来したユダヤ人だといえ説を従来から唱えている。古墳の築造や神社の立ち上げなどに尽力したと言われる。以下は、田中氏が記されたものである。


 稲荷神社は、京都の代表的な神社で、近畿地方では初詣で最も多い参拝者を集め、全国に3万社以上ある神社です。稲荷山の神は山の神として古くから信仰されてきましたが、総本山である伏見稲荷大社の創建には秦氏が大きく関わっています。秦氏が社殿を建て、「伊奈利社」として祀ったのです。
 奈良時代初期の「山城国風土記」は、なぜ「イナリ」と呼ぶのか、その由来を語っています。すでに秦忌寸(はたのいみき)など大勢の秦氏が京都にいましたが、その遠い祖先である秦伊呂具(はたのいろぐ)が稲作をして裕福な生活を送っていました。ある日、伊呂具が米でつくった餅を的として矢を射ったところ、その餅が白鳥に変わって飛び立ち、神社のある山に降りて稲が成長したため、「稲成」から「稲荷」という名が付いたということです。
 これが伏見稲荷大社のはじまりであると「山城国風土記」には書かれています。 漢字の「稲荷」は、稲の魂を担っているという意味にもとることができます。つまり、豊穣を表しているのです。そのため、今では稲ばかりではなく、漁業や大漁祈願など、さまざまな糧、多くの利益を望む人々に祈られています。ですから、会社の神棚はだいたい稲荷神社なのです。
 「山城国風土記」によると、「イナリ」の表記はもともと「伊奈利」という字を当てていました。この「伊奈利」は万葉仮名で、漢字ではありません。万葉仮名で書くということは、「これは外来の言葉である」ということを示しているわけです。外国の言葉を使うことで、わざと日本人ではなかったということを強調したと考えられます。イナリの語源が、秦氏の祖であるユダヤ人原始キリスト教であること、稲荷神社の鳥居が赤いのはキリストの血の色だという解釈もありますが、秦氏の一族は神社を使って日本人をキリスト教化しようという意図はもっていませんでした。

日本の思想の源流は「縄文精神」と「やまとごころ」ですから、西洋のキリスト教が入る余地はなかったのです。「記紀」に書かれているような自然信仰、天皇家を中心とした社会に別の神をもち込むのは不可能だということに、秦氏は気づいたのでしょう。そのため秦氏は、逆にしっかりとした日本の思想体系の中に入り込み、それを強化するという、非常に知恵の深い思慮で日本に定着したのです。
田中英道(東北大学名誉教授)

マッカーサーの気づき

 日本の敗戦と共に、無政府地帯となっていた朝鮮半島の大韓帝国に先を争って進駐したアメリカ軍とソビエト軍が、領土の分割協議を行い北緯38度線を境に朝鮮半島を南北に分割占領した。
 その後、昭和23年に北部には朝鮮民主主義人民共和国、南部には大韓民国が建国された。

 ソビエトと同盟関係をとる中国軍は北朝鮮を後押しすることで朝鮮半島全域の共産化を画策し、北朝鮮軍を南下させた。ソビエトと中国はもとより、北朝鮮までが共産主義の赤い旗で埋め尽くされて、その赤い旗の群れが南朝鮮までも飲み込もうと南下しはじめたのには、アメリカは慌てた。そこで急遽、アメリカはマッカーサー率いる在日米軍を朝鮮半島へ派遣し、南進する共産党軍にあたらせることとなった。

 日本との予測をはるかに超えた戦争の余韻がいまだ癒えない中、東アジアでの想定外の急速な共産化がもたらした朝鮮戦争が1950年(昭和25年)6月に勃発した。

 朝鮮軍をはじめ中国、ソ連軍はソウルの南まで侵攻。主力の米軍は友軍である韓国軍の弱さも手伝い14万以上の死傷者を出した。韓国にとっては、北朝鮮は勿論だが、中国、ソ連(現ロシあ)もこの戦争が現在なお収束していないことから侵略国(敵国)なのだ。

 その戦場へ赴いたマッカーサーは、先の東京裁判にて自らが裁いた東条英機をはじめとするA級戦犯たちが、『大東亜戦争は、連合国による経済封鎖からわが国を守る為の自存自衛の戦いであり、また支那大陸における戦いは、わが国を共産主義から守る勢力防衛戦争であった』との供述を、自らが共産党軍との苦戦をしいられた戦闘の中で、納得せざるを得なかった。

 朝鮮戦争を辛うじて休戦状態にまで持ち込んで帰国したマッカーサーは、昭和26年アメリカ上・下院軍事外交合同委員会にて、「先の東京軍事裁判は、インドのパール博士が主張したように、その判断に大いなる過ちがあった。日本国の立場に立って、先の大戦を振り返って見ると、安全保障上、あの戦争は、ソビエトと中国の国際コミンテルンによる極東アジアの共産化及び連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、やむをえず戦争に走ったと認識する」と、マッカーサー自身が、「東京裁判は戦勝国による一方的に行われた不誠実な裁判であった」と回顧し、そう述べた。

 また、「われわれは日本を包囲しました。日本は8千万人という膨大な人口を抱え、4つの島にひしめいていた。その半分が農業人口で、半分が工業生産に従事していた。日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接していたいずれにも劣らぬ優秀なものだった。日本の労働者は、人間は怠けているときよりも、働き、生産しているときの方が幸福なのだということ、つまり労働の尊厳を持っていた」と。

 6年間日本人を観察したマッカーサーの率直な言葉が発せられた。マッカーサーは、この会議で次のようなことも述べている。


「これほど巨大な労働力を持っているということは、彼らには何か働く材料が必要だということを意味した。彼らは工場を建設し、労働力を有していた。しかし、彼らは手を加えるべき原料を得ることができなかった。日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何もなかった。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、スズがない、ゴムがない、その他実に多くの原料が欠如していた。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのである。もし、これらの原料の供給を断ち切られたら、日本では1千万から1200万人の失業者が発生し、亡国と化するであろうことを日本政府・軍部は恐れていた。したがって日本が戦争を始めた目的は、大部分が安全保障(セキュリティー)と国民の生命財産、生活を守るためだったのである」

 
 マッカーサーは戦後6年を経て、それまでの主張を180度逆転し、東京裁判での東条
英機元首相の日本は「自衛のために戦った」「あの戦争は米国が仕掛けた」という『宣誓供述』を認めたのである。このマッカーサー証言を、戦後の「自虐的歴史教育」「日本侵略国家論」「日本の伝統否定」「反皇室教育」を是正するために広く周知するべきである。


 このアメリカ議会におけるマッカーサー証言が、戦後60数年を経てやっと、日本の一部の高校の日本史の教科書の副教材に掲載されるようになった。

 (東京都立高校の地理歴史教材に平成24年度より掲載)

                           (産経新聞掲載記事より抜粋)

クロマツの手入れ

 少し早いが、昨日(6/13)は庭の黒松の手入れをした。午前中2時間、午後から2時間の計4時間。あと4時間はかかりそうだが、大分すっきりした。

 三室に住んでいた頃、河合町の大和川沿いをランニングしていたとき造園業者の畑に黒松が何本か植わっていた。気になったが事務所なども無く、いつも誰も居なかった。ある時持ち主らしい人がおられた。好みの一本の値段を聞いてみた。法外なものではなく、交渉の末、買う事に決めた。はっきり覚えていないが、12~13万円だったと思う。当時でも、黒松の成木には相当の価格がついていた。30歳前で小遣いは乏しく(現在も変らないが)、私にしては思い切った決断だった。

 以来、誰にも触らせず自分で手入れをしてきた。これは、庭の管理全般にわたってのことだ。名人と言われる人の本を読み、多くの人のアドバイスに耳を傾けた。黒松の培養技術(短葉法など)が確立したのは、昭和30年代の末だ。私が黒松を手掛けるようになってから受けたアドバイスには、「常識のウソ」も少なくなかった。
 自分なりに試行錯誤を重ねた。若い頃は、「国風展」(東京)や「大観展」(京都)などの、超一流の盆栽展にも足を運んだ。もちろん、名庭園と言われるところへも……。東京への往復は、夜行バスを利用した。もちろん、交通費を節約するためである。

 黒松を購入してから、もう45年以上にになる。試行錯誤を続ける中、確固たる培養技術を身につけていった。

 拙庭にやって来た時より、樹格が3~4ランクは上がったことは間違いない。私に譲り渡してくれた業者がご健在で現在の姿を目にされたなら、「ここまで育てたか」と驚かれ、喜んでいただけるだろう。

 「マツの手入れは難しい」「素人が触る樹ではない」「下手にいじると樹格を落とす」などと一般に実しやかに言われるが、これこそ「常識のうそ」である。努力すれば誰でもできる。「やる気」があるか無いかの問題である。

 クロマツをお持ちの方は、根気よく学んで、取り組んでいただきたい。「学び」に年齢は関係ない。手入れが終わり、それを眺めながらのお茶が格別なのは申し上げるまでも無い。

日本人の成立は  斎藤成也

 日本人の成立には3種類の仮説があります。
 
 1つは置換説で、縄文人と弥生人が置き換わったというもの。第1の移住者の
子孫は先住民、そして系統の異なる第2の移住者の子孫が現在の日本人である。すなわち先住民は完全に死に絶えて先住民のDNAは我々には伝わっていない。置き換わった=置換説です。
 かつて世界の人類学では人間が交代する、人種が交代するという置換説が当たり前の考え方でしたから、その流れの中で出てきた説ですが現在は否定されています。


 次に変形説です。これは、第1の移住者の子孫が時間的に変化して現在の日本人になっていったという説です。この変形説は時代的には一番新しく登場して、かつて私が大学生だった
1970年代、あるいはその前の1960年代は一世を風靡していた説です。
 東京大学人類学教室を創られた長谷部先生、その跡を継いで主任教授を務められた鈴木尚先生が支持したことで研究界に広がりました。

 実際に江戸時代〜明治時代、それから現在までさらに大きく、身長がどんどん伸びており...『短頭化現象』というのですが、顔の形もそれなりに変わっています。そういう発見から、縄文時代〜弥生時代以降の人々はやはり同じ人々でいつの間にか顔が変わっていったのではないか? ということを指摘されていました。

 しかし残念ながら現在では否定され....科学の点から見ても滑稽としか言えない説となっています。日本の人類学、自然人類学をずっとリードしてきた東京大学のお二人が支持していたということで、弟子たちも「なんかおかしいな」と思いながらも、それに従ったことで1960,70年代はこの説が学会全体を支配しておりました。

 そして最後に混血説です。これは第の1移住者の子孫に、それ以降の移住者が混血して現在の日本人となったという説です。もっとも古く提唱されたのはいわゆるお雇い外国人教師として帝国大学の医学部の内科を担当していたドイツ人のベルツによるものですが...現在では私の研究グループをはじめ次々に縄文人のDNAが解析され、現代の日本人と比較可能になったため科学的に証明されるようになりました。

 日本人・中国や朝鮮などのアジア人そして縄文人のDNAを比較すると...はっきりと私たちとのつながり、そして他地域との関係が見えてくるのです。彼らはいつやってきたのか? 我々にはどのくらいそのDNAが残されているのか?

 骨のかたちなどではなかなか証明することは難しかったより詳細で複雑な日本人の起源史が、DNAが明らかにな
ったことで紐解かれつつあります...

国立遺伝学研究所 特任・名誉教授 斎藤成也

世界の人々が認めた天皇陛下の権威

 昭和50年頃、天皇陛下に対するアメリカ国民の反応は、大変冷ややかなものだった。しかし、この時期に天皇陛下が訪米された。その時に語られたお言葉により、その態度が一変した。

 昭和50年、天皇皇后両陛下がご訪米された時のことである。このご訪米までのアメリカ国民の天皇陛下や日本に対する反応は 、「冷淡」「無関心」というものがほとんどであった。ご訪米が1カ月以内に迫っても、アメリカのジャーナリズムでは天皇陛下の訪米はほとんど話題にもならなかった。まして、一般のアメリカ国民は天皇陛下の訪米自体ほとんど知らないし、関心を持っていなかった。アメリカ国民の日本に対する関心は経済面に集中しており、それ以外のことはほとんど関心がなかったのである。

 ところが、ご訪米されてからその様相は一変した。それまで「ニューヨーク・タイムズ」には、日米首脳会談のニュースでさえ一面に掲載されたことはなかった。ところが、天皇陛下のご訪米後は6日間連続トップ記事で、それも写真入りで掲載されたのだ。このように、天皇陛下がアメリカに到着され、陛下を目の当たりにするようになってから、全米で日を追って訪米歓迎の空気が盛り上がった。なぜ、このように、訪米前と180度違う対応になったのか。

 実は、アメリカ国民が心から感動し、天皇陛下を尊敬するきっかけがあったのである。それは、ホワイトハウスでの公式歓迎晩餐会における天皇陛下のお言葉だった。

 

 [天皇陛下の感謝のお言葉]

 「私は多年、貴国訪問を念頭にしておりましたが、もし、そのことが叶えられた時には、次のことを、ぜひ貴国民にお伝えしたいと思っておりました。

 と申しますのは、私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争の直後、貴国がわが国の再建のために、温かい好意と援助の手を差し伸べたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べることでありました。

 当時を知らない新しい世代が、今日、日米それぞれの社会において過半数を占めようとしております。しかし、たとえ今後、時代は移り変わろうとも、この貴国民の寛容と善意は、日本国民の間に、永く語り継がれていくものと信じます」

 

 天皇陛下は、一体何に感謝しているのだろうか。それは、敗戦後の日本が直面した大きな問題、何と言っても食料難であった。昭和20年の米の収穫量は平年の6割という、明治38年以来の不作。それに加えて、外地からの引き揚げ者、復員軍人などの人口増で、食糧難は悪化するばかりだった。国民の窮状を心配された天皇陛下は、このように言われた。

 

 「皇室の御物(ぎょぶつ:代々日本の皇室の私有品となっている絵画・書跡・刀剣など)の中には、国際的価値があるものが相当あるとのことだから、これを代償としてアメリカに渡し、食料に代えて国民の飢餓を1日でもしのぐようにしたい」

 

 このように言われて、侍従に御物目録をつくらせた。しかし、この話を聞いたアメリカ側からは、御物を求められるどころか、無償で食料を提供した。

 「御物を取り上げて、その代償として食料を提供することなど、自分とアメリカの面目にかけてもできない」

 陛下の考えに感激した連合国軍最高司令官マッカーサー元帥はこのように言われ 、アメリカ本国に食料緊急援助を要請し、これが実って日本の食料危機は大幅に緩和されたのだった。

 天皇陛下ご訪米当時、アメリカ国民は国際政治や外交に自信をなくしていた。この半年前に、世界史上に残る大きな屈辱、ベトナム戦争の敗北を経験していた。第二次世界大戦後、アメリカは西欧や日本、そしてアジアに多くの援助を行ってきた。ところが、中には感謝の言葉どころか、反米運動さえ起こっている国もあったのだ。そのような時期に天皇陛下が訪問し、今までのアメリカの援助に感謝を表明され、しかも日本国民の間に永く語り継がれていくと述べられたことは、アメリカ国民の心に、救いと大きな喜びを与えた。

 恩を恩として感じ、いつまでも忘れない、そういう天皇陛下のお心が、米国人を感動させたのである。

 

80年前の人種平等サミット、大東亜会議

 日本の敗色がやや感じられるようになった昭和18年11月、アジア7カ国の代表が東京に集まって、史上はじめての「アジアサミット」を開催した。
 当時の東南アジアの人々の人種差別や欧米植民地支配への憤りを共通の課題として、その解放を目標に日本を核として大東亜戦争に勝利し、独立を果たし、共に支え合う経済圏を確立する大東亜共栄圏の確立を共にめざそうというのがこの会議の主旨だった。

 欧米の植民地支配からのアジア各国の独立と共存共栄、白人による人種差別を許さないことを東京にアジア各国を代表する7人が集い、宣言したのである。会議の舞台は、帝国議会の議事堂、現在の国会議事堂だった。

 出席した首脳たちは、

・中華民国の汪兆銘行政院長

 <辛亥革命の志士で、日本は彼の政権(南京政権)に対して治外法権を撤廃し、租界を返還した>

・タイのワンワイタヤコーン殿下

 <戦後、外相、副首相、国連総会議長になった>

・満洲国の張景恵国務総理

 <清朝の軍人から中華民国の閣僚を経て満洲国のナンバー2になった人物>

・フィリピンのホセ・ラウレル大統領

 <戦後、上院議員として活躍した>

・ビルマ(現ミャンマー)のバー・モウ国家元首

 <ケンブリッジ大などに留学した弁護士、哲学博士で、イギリスに抵抗する独立運動に身を投じ獄につながれた>

・日本の東条英機首相

・オブザーバー出席の自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボース

 <独立運動の指導者としてガンジー、ネールとともにインドの国会議事堂に肖像画が掲げられる英雄である>

 アジアを代表する錚々(そうそう)たる顔ぶれだった。

 

 昭和18年11月といえば、日本の敗色が感じられるようになった時期である。それでも命の危険を顧みずアジア7カ国の代表が東京に集まった。ちなみに、「大東亜共同宣言」を発したこの7カ国の中で、大東亜戦争開戦前の時点で独立国であったのは、日本国、中華民国(支那)、タイ王国、満州国の4カ国だけだった。この時期の世界で、有色人種の独立国というのは、実はこの4カ国だけだったのだ。

 後に、大東亜戦争の開戦により日本陸軍の南部フランス・インドの進行作戦の成功によりビルマとフィリピンが独立を果たしていることが、まさに大東亜会議によって発せられた【大東亜宣言】の実効性を裏付けるものではないか。ではこの時期アジア以外の、アフリカ、中近東、南米などの地域ではどうだったのかといえば、すべて白人たちの植民地だった。国でさえなかったのである。

 

 胸を張って「大東亜戦争」と

 植民地だったこれらのアジア各国の首脳を集めたアジアで初めての国際会議。それが大東亜会議であり、この会議をもとに各国が互いに支え合って独立を誓い合ったのである。この大東亜における「共に支えあい共に栄えてアジアに立とう」を目指した7人の侍たちの思いを歴史に残すことは、戦勝国が戦後、再びアジアを自分たちの都合の良い経済戦略下に組み入れるためには抹消しておかないとまずいと考え、大東亜戦争の呼び名が「太平洋戦争」へと一方的に呼称、変更されたのだ。  
 GHQ「連合国指令本部」、米国の方針であった。現在、「大東亜戦争」と口にすれば、一部では「偏向した考えの持ち主・軍国主義者」などと思う人がいるが、とんでもない話なのである。欧米諸国からアジアの人々を解放しよう、そして「共に支えあい共に栄えよう」とした貴い考えからの呼称である。私たちは、胸を張って「大東亜戦争」と呼ぶべきなのである。

 改めて言って置くが、けっして戦争を賛美する立場ではない。世界平和を願っている。歴史の真実を学んでほしい、知ってほしいのである。

 

 日本は「大東亜戦争」でアメリカに負けた。しかし、東南アジアの人たちは、日本兵の戦いぶりをしっかりと見ていた。欧米人が日本軍に蹴散らされた様子を。欧米人は、4~5百年の長きに渡り東南アジアの人々を抑圧支配してきた。東南アジアの人々は過去において幾度も反乱を試みたのだが、そのたびに失敗に終わっていた。とても欧米人にはかなわないと、独立をあきらめてきた。しかし、その欧米の白人たちが、自分たちの目の前で、日本軍に敗れ、逃げたり捕虜になったりしたのを目の当たりにしたのである。アジアの同じ人種日本人に、たった半年で。
 東南アジアの人にとっては「奇跡」だったのだ。

 東南アジアの人たちは、日本軍の奇跡からしっかりと学んだ。軍とはこのように動かすものなのか、国のために戦う精神とはこういうものなのかなど、目の当たりにし目覚めたのである。

 昭和20年8月15日以後、現地において敗残兵となった日本兵の中には、祖国日本への帰国を断念して東南アジアの国々の独立運動家たちの願いを受けて、再度植民地化を目論む欧米諸国との戦いに挑むために残留義勇兵として身を捧じた。東南アジアの国々の独立のために、現地の人々と共に戦った日本人たちが少なからずいたのである。

 敗戦後のインドネシアでは、再度の植民地化のために侵攻してきたオランダ軍に対して2千人以上、ベトナムではフランス軍の侵攻に対して600人以上の残留日本軍兵士が独立戦争に関わった。まさに、若き日本兵たちの戦いの胸の内は「白人支配からの同胞たちの解放への思い」だったのである。
 東南アジアの国々は、日本の敗戦後の動揺を乗り越え、その後独立を勝ち取っていった。
東南アジアの国々が独立を果たすと、これがきっかけになって世界中の植民地が立ち上がった。自分たちもできるはずだと。そして第二次世界大戦後、次々と独立していったのである。

日本の古墳時代、古墳文化は、過小評価されてきた    田中英道

  ローマ帝国や秦・漢王朝が繁栄していた時代に、日本は弥生〜古墳時代を迎えていました。前方後円墳とよばれる形態の同じ古墳が、岩手から鹿児島まで、多数つくられ、また、円墳、方墳、八角墳、その他さまざまな形の古墳が全国につくられました。その数は16万基を超えると言われています。

 古墳を作り上げた土木工事の技術、また、それを可能にした組織、共同体、あるいは国家というものは、それを率いる統治者、大王あるいは天皇がおられたということでしょう。

 仁徳天皇陵や応神天皇陵の規模の巨大な前方後円墳は、それを雄弁に物語っています。前方後円墳では、円の一番上、一番高いところに棺がおかれます。前方後円墳の山の頂は、エジプトのピラミッドの頂点を連想させ、山の頂上の上に棺を置くということが、日本人の御霊信仰を表しています。そして前方後円墳は、濠に囲まれており、仁徳天皇陵などは三重の濠がめぐらされていました。
 この濠には、橋がありません。橋がないということは、人々はそこに渡ることができません。つまりそこが、聖域だということを意味します。聖なるものがある、つまり神がいるということであり、古墳は、日本の神道の内実をよく表しています。 
 死者の霊を神として祀るのは、御霊信仰であり、古墳とは、神道の結晶といっても過言ではありません。そして、この世界最大級の墳墓である古墳をつくりあげた当時の人々の土木工事の技術は、これも世界レベルであったことは間違いありません。


 仁徳天皇陵は、大林組の試算によれば、これをつくるのに、1日2,000人の人が働いて、約16年かかっただろうと言われています。こうした大事業を成し遂げるにためには、統一された政治権力・国家、統一された度量衡、人々の技術と組織力、人々に共通する精神・信仰が必要だったことはいうまでもありません。
 このことを、古代ローマ・秦、漢帝国と比べてみるとどうなのだろうと考える人はほとんどいません。しかし、それは数や規模、さらにはその質的な高さ(統一性・均質性)からいっても、十分、ローマ帝国や秦・漢帝国に匹敵するものであったといえるでしょう。
 例えば、ハドリアヌス帝の墓、秦の始皇帝の墓、さらにはクフ王のピラミッド、
これらよりも、仁徳天皇陵のほうがその規模は大きいのです。ローマ帝国、秦・漢帝国、日本(倭)……それぞれの国土の大きさから考えてみれば日本の古墳の大きさは際立っているとも言えます。

東北大学名誉教授  田中英道

金印は本物か偽物か、それとも

 今からおよそ2000年前の弥生時代に中国の皇帝から与えられ、江戸時代に見つかったとされている国宝の金印「漢委奴国王」。多くの人は、その“史実”を疑う余地などないと信じてきた。しかし、この金印をめぐる根本的な議論がなされている。偽物説があるし、存在自体がまやかしであるという説もあるのだ。

 金印は、本物なのか。4年前に、真偽を問うシンポジウムが、出土の地、福岡で開かれ、それぞれの立場をとる研究者が激論を交わした。

 

 弥生時代の交流を示す国宝

 歴史の教科書でおなじみのこの金印は、江戸時代の中頃、現在の福岡市の志賀島で水田の溝を修理していた農民が土の中から見つけたとされている。
 正方形の印面は1辺が2.3センチ、重さ108グラムの純金製で、とぐろをまいたような蛇の形をした「つまみ」があり、印面には「漢委奴国王」の5つの文字が3行にわたって彫り込まれている。所蔵する福岡市博物館によると、読み方は諸説あるが、「漢の委の奴の国王(かんの・わの・なのこくおう)」すなわち「漢に朝貢する、倭の中の奴国の王」という意味だとする考えが通説となっている。

 中国の古代王朝は周辺の国に対して主従関係の証しとして印を与えた。中国の歴史書「後漢書」には、西暦57年に「後漢に貢ぎ物を持って挨拶に来た倭の奴国に対して皇帝が印を与えた」という記述がある。志賀島の金印はこの記述に相当するという見解が定着し、九州北部の「奴国」が中国の王朝と交流していたことを物語る歴史的価値の高い資料として、昭和6年に国宝に指定された。

 

 出土状況は謎だらけ

 この金印、発見以来、後世に作られた偽物ではないかとする疑問の声がつきまとっている。金印の発見時の様子が分かる古文書は複数あり、発見した農民の口上書のほか、当時、随一の学才をと言われた福岡藩お抱えの学者の鑑定書も残っている。にもかかわらず、発見されたとされる場所は不明確でそれらしい遺構もなく、出土品も他には無い。さらには、金印を発見した農民「甚兵衛」が実在したかどうかを怪しむ声もあるほどだ。

 長年くすぶり続けているこの話題に火をつけたのは、千葉大学の三浦佑之名誉教授である。12年前に「江戸時代に作られた偽物だ」とする説を発表し、以後、考古学や金属加工の専門家を巻き込んだ論争が続いている。

 

 「偽物説」の根拠

最大の論点は、この金印が「いつ」作られたかである。金属製品など古代の工芸技術に詳しいNPO 工芸文化研究所の鈴木勉理事長は、金印に残る彫り痕の特徴が古代中国で作られたとされる印と大きく異なっていると指摘し、後世の偽造ではないかと考える。

 鈴木氏によると、志賀島の金印は、文字の中心線を彫ったあと、別の角度からも「たがね」を打ち込んで輪郭を整える「さらい彫り」という技法が使われている。
 この金印とほぼ同じ時期のもので特徴もよく似ているとして「本物説」の根拠の1つとなっている、中国で見つかった「広陵王璽」という印は、たがねで文字を一気に彫り進める「線彫り」と呼ばれる高度な技法で製作されているということだ。
 さらに、前漢から後漢の印の多くは1つの線がほぼ均一の太さで彫られているのに対し、志賀島の金印は中央から端に向かって太くなる特徴があるうえに、印面に対する文字の部分の面積がほかの印と比べて突出して大きいと。

 鈴木氏は「さらい彫り」やこうした文字の特徴は江戸時代の印によく見られるとして、「金印は江戸時代に作られた偽物の可能性が非常に高い」と指摘する。

 

 「本物説」の根拠

 明治大学文学部の石川日出志教授は、「本物説」の根拠として、彫られた文字の特徴や飾りの形、それに金の純度などを挙げている。石川教授は弥生時代の考古学が専門で、これまでに中国で見つかっている古い時代の印の外見や刻まれた文字の特徴との比較などをもとに研究を進めてきた。
 それによると、志賀島の金印は、「漢」の字の「偏」の上半分が僅かに曲がっている点や、「王」の真ん中の横線がやや上に寄っている点が、中国の後漢初期の文字の特徴をよく表していると。また、蛇の形をした「つまみ」について、中国や周辺の各地で発見された同じような形の印と比較すると、後漢はじめごろに製作されたものが最も特徴が近いとしている。
 さらに、志賀島の金印に含まれる金の純度は90%以上と古代中国の印とほぼ同じだと指摘。「江戸時代に金の純度をまねてまで作ることはできず、後漢のものだとして何ら問題がない」と主張する。

 

 白熱のシンポジウム

 シンポジウムには本物と偽物それぞれの立場をとる研究者が招かれ、金印の文字やつまみの形などをめぐって激しい議論が交わされた。しかし、双方とも最後までそれぞれの主張を譲らず、様子を見守っていた地元の歴史ファンの受け止め方も、「本物説の方が信頼性があった」「偽物説の方が論理的だった」などとさまざまだった。
 今回は「引き分け」に終わったが、両者は今後さらに主張の根拠を固め、将来、別の舞台で決着を図ることを約束した。

 

 新たな視点も

 一方、シンポジウムでは、これまでとは違う視点からの研究も紹介された。
 福岡市埋蔵文化財課の大塚紀宜さんは、金印の「つまみ」が途中で作り変えられているのではないかとする自説を発表。蛇の形をしている金印の「つまみ」は、もともとラクダの形をしていたのではないかと指摘した。

 確かに、つまみの部分をよく観察すると、前足や後ろ足があるようにも見え、一般的にイメージされる蛇とはほど遠いデザインであることに気付かされる。大塚氏によると、つまみの形と印が見つかった場所との関係を調べてみると、当時、「蛇=南」「ラクダ=北」という区別があったと推測できるということだ。
 大塚氏は、漢は奴国が北にあると思い込んでラクダにしたものの、途中で間違いに気付き、あわてて蛇に変えた可能性があるとする。

 

 史実とは何かを考える

 金印は本物だとする立場を変えていない福岡市博物館が、なぜこのようなシンポジウムを開いたのか。

 有馬学館長は「歴史的な価値が確定したかのように思われている資料でさえさまざまな見方ができ、学問的な根拠がぶつかっている。こうした議論があることを多くの方に知ってもらうことで、文化遺産についての理解がいっそう深まると思います」と話している。

 1つの小さな資料でありながら、研究の手法が異なれば全く違った見解になる。そして、論争があるからこそ研究が深まり、新説も生まれてくる。“史実”とは何かを考えさせられ、歴史をひもとくことの魅力や奥深さを感じる。


 田中英道氏(東北大学名誉教授)の説

『魏志倭人伝』にしか登場しない「卑弥呼」・「邪馬台国」。なぜ「卑弥呼神社」は日本国内に存在しないのか? 『魏志倭人伝』はどのように書かれたのか? 
 どの角度から考察しても、邪馬台国は存在しなかったと田中氏は言われる。

 田中氏は、『魏志倭人伝』や「卑弥呼」・「邪馬台国」や『金印』は、中学校の教科書にも掲載されていたし、その存在の「九州説」「畿内説」など多くの本が出版されている。その『邪馬台国』は、『魏志倭人伝』の著者『陳寿(ちんじゅ)』のフィクションだったとも言われる、大胆不敵な、日本中の全歴史家を敵にまわしかねない考察である。
 そもそも『魏志倭人伝』は、中国で三世紀に編纂された歴史書とされる、『三国志』の中のほんの一部である。   
 『三国志』の三国とは、184年に黄巾の乱で「漢」が乱れてから、280年に「西晋」が再統一するまでの約100年間の覇権を争った『魏』『蜀』『呉』の三国を指している。三国間の内乱状態の時代が、後に「三国時代」と呼ばれて、大勢の英雄が群雄割拠した。そこから邪馬台国へ、陳寿は飛躍させたのたぢろうか。


 三国志には、この『魏(ぎ)』『蜀(しょく)』『呉(ご)』の歴史がまとめられている。『三国志』は、『陳寿』という官僚が編纂した。『魏志倭人伝』は400字原稿用紙5枚、僅か2,000字程度の書き物である。陳寿は最初、『蜀』に仕え、263年に『蜀』が滅びた後、統一王朝「西晋」に仕えて三国志を編纂した。統一王朝「西晋」にとっては、『魏』が元々の国である。

 田中英道氏は、日本の神社を全部調べたようだが、『卑弥呼神社』がどこにもないというのである。従って邪馬台国も卑弥呼も、存在しなかったと結論づけている。そもそも邪馬台国も卑弥呼も、「蔑視」用の字である。邪馬台国の「邪」はどういう意味か。中国語では「正しくないこと、よこしまなこと」「道に外れていること」という意味である。
 卑弥呼の「卑」は、「いやしい」「賤しい」であるから、最大の軽蔑語である。「日本の王は、いやしい女であった」と言っているのだ。

 本質的に邪馬台国論争とは、「日本の歴史の根幹は天皇である」ということを否定するための論争である。この論争のケリをつけない限り、日本の歴史を無視するような左翼的な「歴史認識」が続くことになる。実際に今も、相変わらず「邪馬台国」論争は、九州説・畿内説が相乱れているだけで、調べれば調べるだけ、魏志倭人伝には、デタラメばかり書いていると言うことが明らかになる。
 魏志倭人伝は、これまで金科玉条のような扱いを受けてきた。これは「中国の歴史書は信頼すべきだ」とする、日本人学者の奇妙な信仰から来ている。『呉』が滅亡して『西晋』統一した280年から『陳寿』が没する297年の間に出来上がっている。『魏志倭人伝』はすべて伝聞で書かれている。陳寿は、日本へやって来て取材した上で『『魏志倭人伝』を書いたわけではない。

 田中氏によれば、「金印」自体がまやかしなのであろう。田中氏の著書は、これまでの、「仮説」と「妄想」しか書かれていない本が氾濫している理由を教えてくれる快書と言えよう。

中国の状況

 中国の状況(政治・経済)については、世界に及ぼす影響が大きいので、注視せざるを得ない。
 新聞やテレビでの中国に係る報道が少ないこともあり、ネットでの情報が主となる。さまざまな見方があり、どれを信じればよいのか難しいところだ。ただ習 近平の力が弱まり、李 克強の影響力が強まっていることは衆目の一致するところだ。経済状況が最悪であることが原因である。国内の大手メディアは報道しないが、中国の経済状況はひどい状況にあるらしい。周に任せていては……という流れが強まっている。
 だが、11月に予定されている党大会で周の3選が阻止されるかどうかについては微妙である。ただ、もし3選が阻止され他の者が主席に就任したとしても、中国共産党(以下、中共)の独裁政治が終焉しない。周 近平が引き続き居座り中国経済が破綻する方が、一時的な混乱が生じたとしても世界にとってはよいと思われる。もちろん日本にとってもだ。
 中共が崩壊し、中国が「覇権主義」を捨て、民主的な国家に生まれ変わることを切に望む。

縄文土器の縄目紋様にどんな意味があるのか  田中 英道

   縄文土器の多くには、表面に縄目の文様がつけられています。そこから、縄文土器と呼ばれています。なぜ縄目の文様がつけられたのでしょうか。

 学者たちは記録がないからと、はっきりしたことを答えてくれません。そのころは文字を必要としなかったのだから、記録がないのは当たり前です。しかし、古くから日本人の暮らしの中にあるものを通して、推測することはできます。

 縄で思い浮かぶのは、神社の拝殿の正面に飾られている注連縄(しめなわ)です。神木とされる巨木の幹にも注連縄が巻かれているのを見かけます。お正月の玄関飾りも多くは縄で出来ています。これらは張られた縄の内側が清らかで神聖であることを示しています。縄は外から穢れたものが入ってこないようにする境界でもあったと思われます。

 貯蔵用にしろ煮炊き用にしろ、土器の内側に入れられるのは大切な食べ物です。穢れ、非衛生的なものが入ってはなりません。縄目の文様はそれを防ぐ意味があるのでしょう。また、土器が、清らかで神聖なものだという気持ちを表していると思います。祖先たちは清らかなものを大切にする気持ちが強かったのです。

 縄文土器の中には、火焔土器(かえん・どき)と呼ばれるものがあります。装飾性の強い、炎を思わせるダイナミックで躍動的な造形が特徴です。私は世界中の博物館をめぐり、数え切れないほどの土器を見ていますが、火焔土器のような造形的にすぐれた素晴らしいものはほかにありません。火焔土器は日本最初の芸術作品といっていいでしょう。

 縄文土器には炎だけでなく、水の動き、雲の動き、大鹿の角などを思わせるものもあります。自然に親しみ、おそれ敬い、それを形にとらえて表現した祖先たちの心が感じられます。

東北大学名誉教授 田中英道


米・豪・印首脳来日、連携強化を確認

   23日、岸田首相は来日中のバイデン米大統領と会談し、日米同盟の抑止力と露・中への対処力を強化する方針で一致した。それに係わり、「防衛費」の増額確保の決意を伝えた。またバイデン大統領は。台湾有事の際の軍事介入を明らかにした。

 24日午前、日・米・豪・印の枠組み「クアッド」は、首相官邸で対面の首脳会談を開き、中国を念頭にルールに基づく海洋秩序の重要性を強調し、「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向けた連携強化を確認した。

怨みを匿して……

   論語に「怨みを匿して其の人を友とするを恥ず」(うらみをかくしてそのひとをともとするをはず 公冶長第五)とある。怨みをかくして、友として親しく交わるのを恥じる、という意味である。

 「憤慨するような事をされ内心ひどく苦々しく思っているのに、それを抑えてその人と親しくつきあうようなことは恥じるべきだ」ということだろう。

 一般には、「いやなことがあっても、それを抑えてにこにこする」という態度が大人の対応とされるが、いかに不利益を蒙ることになろうとも私にはそれはできない。孔子も同様であった。
 「いやなことがあっても、それを抑えてにこにこする」は、慇懃無礼にも繋がるだろう。

3大関の捲土重来に期待する

   大相撲夏場所は照ノ富士が7回目の優勝を果たし、昨日幕を閉じた。中日までに3敗を喫したのだが、後半は7連勝だった。両膝が悪い中での踏ん張りは、横綱としての責任を十分に果たしたと言えよう。

 一方、3大関は「皆勤大関全員負け越し」という不名誉で恥ずかしい記録は免れたものの、「大関の責任」という観点からは情けないものだった。故障を抱えているなどそれぞれに事情はあるだろうが、土俵にあがる以上言い訳は許されない。御嶽海と正代は、次場所はカド番となるが、貴景勝を含め奮起を促したい。

 大栄翔の関脇昇進は必至だが、来場所も10勝をあげるよう期待する。気迫に溢れた相撲は、好感が持てる。鋭い立ち合いに、さらに磨きを……。ここ最近最も力をつけてきたのは、若元春である。弟の若隆景の活躍に刺激を受けているのだろうが、力強い押っつけなどしぶとい相撲は玄人好みだ。これから上位を脅かすおもしろい存在になりそうである。体が小さいだけに、もっと筋力をつけることが求められる。

 阿炎は負け越したが、何とか小結に止まるだろう。肘の状態も戻ってきたようだし、もっと激しい相撲をとって欲しい。これは琴勝峰や王鵬にも言えることだ。取り口が優しすぎる。気迫をもっと前面に出さなければならない。この点、琴ノ若はましだが、若干むらがある。時折、無気力ととられるような相撲がある。それを直せば、大関もそう遠くない。

 以上、私なりに夏場所の総括をしてみた。

サツキを観る会

 5月21日(土)、拙宅に仲間が集まり「サツキを観る会」を開いた。天候に恵まれ、見ごろとなったサツキを鑑賞して貰いながら歓談した。
 これらのサツキの刈り込み物は、45年くらい前から、5センチ程の苗を大事に育てて来た。であるから、一般に地植えのサツキは赤一色が普通なのだが、赤・ピンク・白・薄紫・絞りなど色とりどりである。

木を植える日本人と木を伐る中国人 林 建良

 阿里山鉄道は掠 奪資源の運搬用だったと教える国民党教育
 
 台湾の中央に、2000メートルを超える山々からなる中央山脈と呼ばれる山岳地帯がある。そのなかに阿里山という山があり、この阿里山には、台湾人が「神木」と呼ぶ樹齢何千年という檜(ひのき)や杉の巨木がたくさんそびえていて、日本でもよく知られている。
 この阿里山でもう一つ有名なのは、台湾で唯一の高山鉄道「阿里山森林鉄道」である。阿里山森林鉄道は日本時代の1912(明治45)年に敷設された鉄道で、当時、日本初の山岳鉄道だった。われわれ戦後世代の台湾人はこの阿里山森林鉄道について、学校では「日本が台湾の貴重な檜や杉を伐採するために敷いた鉄道だ」と教えられた。
 国民党教育では、日本は台湾の資源を掠奪するために作った鉄道だと教えていた。当時の私はこの教えを信じて疑わなかった。日本が台湾を領土としたのは、台湾の資源を持ち出すためだったと思っていた。
   しかし、日本に来て、日本人の自然に対する対応を見ていて、日本人は植物を大切にする民族であることを強く感じた。日本人は猫の額ほどの小さな庭でも、木や草花を植えている。土地さえあれば植えているという印象だった。しかも、無造作に植えているのではなく計画的であり、また非常にていねいに手入れをする。あたかも家族に接するように大切にしているのである。

 このような日本人を見ていて、果たして私が受けた教育は本当だったのだろうかと疑いはじめた。われわれ戦後世代の台湾人は、恥ずかしいことだが、台湾の歴史についてはほとんど無知に近いといってよい。
 私は日本に来てはじめて台湾に関する歴史資料などを読み漁った。そこでわかったことは、清朝が台湾を統治していた約200年間、木を伐採することはあっても、植林はいっさいやらなかったという事実だ。入りにくい高山は除いて、平野の森林をことごとく伐採してしまったのである。逆に、清朝のあと1895(明治28)年に台湾を統治した日本は、日露戦争に勝った1906(明治39)年から造林事業を奨励していたのだ。

 台湾総督府では毎年、100万本余の苗木を無償で配布し、補償金まで交付して造林事業に力を入れていたのである。このように、日本が統治する以前の台湾では樹木がほとんど伐採されてしまったため、山の保水力が極端に落ち、ちょっとした雨でも大水が出たり山崩れが起こったりしていた。「イラ・フォルモサ(麗しの島)」と呼ばれた台湾の面影は消えてしまっていた。
 ところが、日本はどんどん造林し、たとえば1943(昭和18)年には507カ所で植林していて、阿里山鉄道にしても、伐採した檜を運搬する役目も果たしたが、それは決して掠奪するためではなかった。また植林・造林事業に果たした役割も大きかったのである。
 今の日本でも自然を維持しながら伐採し植林しているが、当時もほぼ同じ姿勢で臨んでいたのである。

   美しい並木を伐ってしまった蒋介石軍
 歴史から見ても、たとえば鎮守の森に見られるように、日本人は木を植え、木を育てることを大切にしてきた民族である。
 台湾に関して言えば、台湾総督府の都市計画に基づいて作られた台湾の都会の道路という道路は美しい並木道だったという。ところが、1950年代、私が小さいころにはそのような並木道はほとんどなくなっていた。戦後、中国から蒋介石の軍隊が台湾に入ってきたとき、この並木を伐ってしまったのである。
 蒋介石軍がまず最初に取りかかったのが並木の伐採だった。木の陰に誰が隠れているかわからないから危険だ、という訳だ。伐った並木は薪にもできるから一石二鳥、という理由だった。これが中国人の考え方なのである。こうやって中国人は資源を破壊してきたのである。
 中国には人を励ますときによく使う「人定勝天(ズンディンスンテン)」
ということわざがある。人間は天に勝つように定まっている、すなわち「難題は必ず克服できるから頑張れ」と言って励ますのである。だが、この言葉の原義は、人間は「天」すなわち自然を征服できるという意味であり、

   中国人は、自然は人間に利用されるためにある、征服されるためにあると考えるのである。

 外にも触れたように、生き物はすべて食べ物とするのが中国人である。植物にしてもいかに利用するか、それ以外なにも考えていない。自然を尊重し、自然と共生するなどという概念はなく、そういう発想もしないのが中国人なのである。

   林 建良 著 『日本よ、こんな中国と付き合えるか?  』より引用


なぜ、日本では恋愛に関する古典が多く誕生したのか    田中忠道

 『万葉集』において何より注目するのは、詩型の多様さに加えて、語彙の豊かさ、題材の豊富さです。
 天皇の国見の歌から恋の歌、生活の歌など、題材の豊富さは世界的に見ても稀です。また、歌を詠んだ作者の多様性にも驚くものがあります。
 天皇がいます。役人がいます。防人がいます。地方の人がいます。農民もいます。遊行女婦から物乞いまで歌を詠み、それが万葉集に選ばれているのです。もちろん、男女の別もありません。
 日本の古代がいかに平等な社会であったかということです。
 しかし、これを言うだけでは不十分です。私が『万葉集』でもっとも重要だと考えるのは、歌に現れている個人主義です。ほとんどが自分の感慨、感情、経験など、個人のことをうたっています。
 山部赤人は自然と自分との交わりをうたいました。大伴旅人は妻の死を悲しんで詠みました。山上憶良は生活の貧しさを率直に詠みました。名もなき男女が恋の喜びをうたい、遠くの恋人に思いを馳せ、恋の思いが通じないことに苛立ち、恋人の心変わりを嘆き、恋に執念を燃やします。出会いに満面の笑みをたたえ、別れの悲しみに打ちひしがれます。
 そこにあるのは闊達に、自由に、思いのままに自己を表現している姿です。これはまさに個人主義です。
 しかし、現代に見られる個人主義とはちょっと違います。闊達に自分を和歌で表現できるというのは、個が確立しているからにほかなりません。個の確立は個人主義の基盤です。自分が何者なのかがしっかりと把握できているのです。
 では、いま個人主義といわれているものはどうでしょうか。自分が何者なのかを自覚できないままに自分の利だけを主張する。それが個人主義だとされていないでしょうか。
 万葉の歌人たちに自分は何者なのかを自覚させたものは何か。それは共同体です。日本という国です。共同体があり、その中に自分は生きているという自覚、あるいは認識。それが万葉の人々に個を確立させ、闊達にしていたのだと思います。
 その代表格が繊細な自分の感情をうたい、憂鬱な気持ちをうたい、同時に、天皇は神であるとうたい、天皇のために死んでも悔いはないとうたった柿本人麻呂であり、大伴家持であるのです。共同体の中に生きている自分。これをしっかり把握することが、真の個人主義なのです。このことを私たちは万葉の人々から学ぶことができるのです。

東北大学名誉教授 田中英道

不利益になる報道は……

 田中角栄内閣のとき、昭和47年9月に日中友好回復が成った際、中国側から日本側報道機関に北京に支局を置く場合は、「中国に不利益になるような報道はしない」を約束するように求められた。

 あり得ないことだが、サンケイ新聞社以外はその要求を飲んだのである。

 そういった経緯があるので、以後テレビ・ラジオを含む日本の報道は、中国(中国共産党)に対してひどく遠慮するようなものとなっている。多くの日本人は、その事を知らない。私も半年前まで知らなかった。

 確証はないが、そのうえに、多くの報道機関に裏金が渡されているということも聞く。購読者が激減する中、各新聞社とも経営は厳しい。しかし、報道は公平でなければならない。

 後ろめたいことをしておれば、真実が報道される筈がない。私たちは、厳しい眼で監視しなければならないと思うのである。

無視と軽視

 4月後半から5月5日までの4回にわたる公の幹部会議での李 克強首相の発言内容に、習 近平を無視するようなことがあった。また、先日の韓国の大統領就任式に出席した以前は周 近平派と見られていた王 岐山(序列第2位)の、就任式前日の退任した前大統領との会談の中で、習近平のことを3回にわたって「彼」と呼び、公の場で軽視した。
 これらのことはこれまでには考えられなかったことであり、権力闘争が激烈であることを示し、反習 近平派の勢力の著しい増大を意味しているだろう。

実態把握は極めて困難

 中国の政治情勢については、「習 近平の指導力に陰りが見られることは事実だし、反習 近平派の影響力が増していることに疑いの余地は無いが、実権は依然として習 近平が握っている」という見方をする中国ウォッチャーが多い。

 中国共産党がすべてを牛耳るあのような独裁国家なのでなので、実態を正確に把握することは極めて困難である。

(5/15 20時)

中国の政変

 一昨日、中国で政変が起きているとの情報があると記したが、疑いのない事実のようだ。
 つい少し前まで、中国共産党(以下、中共)最高幹部は周 近平派が圧倒的に多くを占めていた、が、ここに来て、周 近平の息のかかった者が引退したり、閑職に追いやられるケースが目立っている。逆に李 克強派と思われる者が重職を担うことが増えて来た。これは実質、権力が習 近平から李 克強に移ったことと捉えるのが妥当だろう。

 さまざまな要因が考えられるが、一番は「中国経済の破綻」だろう。誰もが知るとおり、中国の発表する数字には嘘が多い。各種経済指標についても例外では無い。相当に深刻な状況にあると。「習 近平に任せてはおられない」との危機感が「長老」を含めた中共幹部間の共通認識となったのだろう。
 こういった状況を踏まえ、今後の日本の舵取りがますます難しくなってきたと言えよう。

注視する必要が 中国の情勢 (5/13)

 拓殖大学元教授の澁谷 司氏によれば、中国では経済の破綻や戦狼外交の行き詰まりなどが理由でクーデターが勃発、中国共産党の習 近平主席が事実上退任、軍は江 沢民元主席が掌握し、李 克強首相が政権を握ったと言う。

 中国では面子を何より重んじるため公にはせず、11月の党大会で正式決定されると。

 事実であれば、ロシアのウクライナ侵攻以上の世界情勢を揺るがす大ニュースである。注視しなければならない。

5/13  10:15現在 報道されていない

モン・サン・ミシェルと厳島神社   田中英道

    モン・サン・ミシェルといえば、海の上に浮かんだように見える姿で知られるフランスの修道院建築物です。フランス西海岸のサン・マロ湾にある小島の上に建てられていて、高さは八十メートルもあります。

 この島自体は小さな花崗岩の円錐形の岩山で、その上にトゲ刺すように塔が建っている姿が特徴的です。海に囲まれた海と建築物との見事な調和は日本人にも非常に人気があります。
 この小島にモン・サン・ミシェルが建築されたのは708年のことでした。アヴランシュの司教オベールの夢に大天使ミカエルが現れ、岩山の上に聖堂を建てるようにというお告げを受け、それに従って礼拝堂を建てたのが発端になったといわれます。以来、この島は聖地となって、巡礼者が訪れるようになりました。


 

 一方、厳島神社(広島県)も海の中に建ち、海と調和しているという意味で、モン・サン・ミシェルと同じ趣があります。建築物が海の中にあるという例は、世界でも数少ないといっていいでしょう。
 この厳島神社は、瀬戸内海の広島湾に浮かぶ宮島にあります。周囲三十一キロメートルの小島ですが、標高五百三十メートルの弥山という山があり、島全体が信仰の対象になってきました。こうした山の麓にある神社ですから、やはり聖なる場所として崇められてきました。


 厳島神社は、最初、推古天皇元年である593年に創建されたといわれています。現在の姿に整えられたのは1168(仁安3)年、平清盛の時代です。
 平安時代の寝殿造の建築様式を巧みに取り入れた華麗な社殿に特徴があります。まるで海を敷地としているような、海と調和した厳島神社の姿は、モン・サン・ミシェルとよく似ています。
 厳島神社は満潮のときは島となり、干潮のときは地続きとなるような場所に建てられています。潮が引くと鳥居のそばまで歩いていくことができます。このように潮の干満によって姿が変わるという点はモン・サン・ミシェルも同様で、干潮時には島までの道が出現します。
 厳島神社は干潮のとき以外は海水に床柱が浸っているため、台風や高波と満潮が重なると、海水が廊下の上にまで達することもあります。海の状態によっては危険な状態にもなりうるというのは、モン・サン・ミシェルも同じでしょう。
 これも両者の類似性として挙げてもいいように思います。
 厳島神社の沖合200メートルの海上に建つ朱塗りの大鳥居は、高さ16メートルあります。四本の控え柱を持つ両部鳥居の形式をとっています。楠木の自然木が使われていて、モン・サン・ミッシェルの石造りの城と比べると華奢に見えますが、木というものが本来の建築のもとであることを考えると、それを維持している厳島神社の美しさに私はより心を惹かれます。


 私は両方を何度も訪ねたことがありますが、海と調和するその姿を見ると、これらの建物が自然との調和を図っているように感じます。むろんモン・サン・ミッシェルは石造りで、そこには自然を支配しようとするヨーロッパの伝統的な感覚がありますが、島の城壁の外には木が繁っていて、決して単なる人工の島ではありません。海と樹木、そして建物が遠い地平線の先で孤立するかのように建っている姿は、現代の目から見ると、自然の中に生きた建築となっていることに注目したいと思います。
 ゴシック建築というのは、もともと樹木を真似しています。尖塔にしても柱廊にしても、木が空に向かって伸びる様をイメージしています。それを考えると、石の建築でさえも、もとは木であるという見方ができるわけです。
 そういう意味でも、厳島神社の木の建築と重ね合わせて考えることができるのです。さらにいえば、モン・サン・ミッシェルは都であるパリから離れた場所に位置しています。厳島神社も、奈良あるいは平家の都であった福原(現在の神戸市)から離れたところにあります。この「都からの隔絶性」も類似点の一つとして挙げてもいでしょう。


 そういう様々な類似点を考えると、日本人にとって厳島神社は、海と調和した建築として見るべき価値があるのではないかと思われます。


東北大学 名誉教授
日本国史学会 代表理事
ボローニャ大学・ローマ大学客員教授
田中 英道


モン・サン・ミッシェル
厳島神社 大鳥居

干天の慈雨

 しばらく晴天の日が続き、ラジオ体操で使っている自治会館の広場の土も乾き埃ぽっくなっていた。周りの樹木も水を欲しがっていた。昼前から久しぶりの雨で、雨量は大したことなかったが干天の慈雨となった。拙宅の庭木たちも喜んでいるようだった。庭石も同様だ。

 さて、サツキはまだ二分咲きといったところである。見ごろになるには、あと10日は要するだろう。今、ツバキの新葉がとても美しい。

サツキを育てる

 

 サツキはツツジ科ツツジ属に分類される。他のツツジに比べ1ヶ月程度遅い5~6月頃、一斉に咲き揃うところからその名が付いたと言われている。奈良県では、一般的には5月20日頃から月末にかけてが見ごろとなる。他のツツジ類と比べて花形や樹形についてほとんど相違ないが、開花期が異なるために園芸的に区別されている。

 関東地方・富山県以西、四国、九州南部の屋久島までの範囲に分布し、南限の屋久島では多数の自生のサツキを見ることができる。ツツジ類としては葉が固くて小さく、茎には這う性質が強い。自生するものは渓流沿いの岩の上に根を張って生育し、増水時に水をかぶっても引っかからないような低い姿勢で生育する。このように、渓流植物の特徴を備える。山間部の農村では、棚田の段差部の石垣に生えることもある。草刈りにも強く、石垣の間に根を下ろし、背の低い群落を形成し、初夏に一面に咲く。水際に自生するだけに根が水に強く、加湿を嫌う他のツツジとは対照的である。刈り込みにも強く花が美しいことから栽培が盛んであり、園芸種は多数ある。耐寒性も比較的あり、丈夫で育てやすい。
 栽培は、鉢植えで行われることが多い。強い酸性土壌を好むため、培養土は一般に、鹿沼土と山ごけをほぼ等量ずつ混ぜたものを用いる。繁殖は普通、鹿沼土の単品に挿木する。

 サツキは、「岩つつじ」の名前で万葉集にも登場する。ツツジ科の中でも岩場に性質が強かったため、この名になった。よく知られた歌に和泉式部の岩つづじ折り持てぞ見る背子が着し くれなゐ染の衣に似たれば」がある。愛する人の着ていた衣と、手折った岩つつじの赤いイメージが鮮烈だ。奔放な恋で知られた和泉式部らしい情感あふれる歌である。他にも、従者が亡き草壁皇子への思いを詠んだ「水伝う磯の浦みの岩つつじ 茂く咲く道を またも見むかもなどがある。

 サツキは日当たりを好む。ただし、真夏の直射日光は避けたい。鉢植えの場合、夏以外は日なたで育て、気温が高くなってきたら半日陰へ移動させる。地植えの場合は真夏に半日陰になる場所へ植えつけるのがよい。サツキの植えつけ適期は3月~6月、9月~10月だ。ただし、開花している間は植えつけ作業を避ける。鉢植えの場合、植えつけ前に根鉢をほぐし、古い土を3分の1ほど落とす。鉢に苗を移したら、少しずつ新しい土を入れていきます。サツキは土の表面に近い場所へ細い根を張り巡らせるため、深植えしないように気をつける。
 地植えの場合は、土を10cmほど盛ったところにサツキを植えつけるむ。根についた古い土は、2分の1程度落とす。地植えのときも深植えしないように注意する。植えつけの際には元肥を混ぜ込む。植えつけが完了したら、水をたくさん与える。根がしっかりと張るまでは水を切らさないよう、最低でも2週間はこまめに様子を確認し水をやる。水やりの際に、時折根の活着促進のため植物用活力剤を希釈して与えると良い。

 花が咲き終わったらお礼肥を与える。花後から7月上旬ごろまでに施肥する。9月~10月になったらサツキの株が充実するため、もう一度肥料をを与える。また、2月になったら寒肥を施す。サツキは乾燥に弱い。とくに鉢植えは水切れを起こしやすいため、土が乾く前に水をやる。地植えの場合は、5~6日晴天が続いたら水をやる。冬場も、土が乾いていたらみずをやる。私の経験では、「冬場の水やりが特に大事」と強く思う。

 花を毎年たくさん咲かせるために欠かせない作業が剪定だ。サツキは新しく伸びた枝に花芽をつける。株自体が元気なら古い枝にも花を咲かせるが、できるだけ若い枝がたくさん育つように剪定するのがよい。剪定の時期は花後の5月~6月である。サツキの花芽は6月末~7月末に形成されるため、それまでに剪定を済ませなければならない。花が咲き終わったら、できる限りすみやかに剪定する。混みあっているところの余分な枝や、極端に細い枝、ひょろひょろと徒長している枝は切り取る。ただし、太くがっしりとした枝を深く切り詰めてしまうと、サツキへの負担が大きくなってしまう。枝の先端を少しずつカットする程度にとどめたほうがよい。

 鉢植えのサツキは、2年~3年に1回の頻度で植え替えを行う。適期は植えつけと同じく開花時期を除いた3月~6月、9月~10月だ。剪定と同時に植え替えを済ませても大丈夫である。根鉢を崩して土を半分ほど落とし、新しい土の入った鉢へ植え替える。元肥として肥料を少し混ぜ込む。

 サツキは-10℃程度でも耐えられる耐寒性をもつ。ただし、冬の寒風に当てすぎると株が弱ってしまうため注意する。生育が停滞するため、当然だが、水やりの頻度も夏より少なく抑える。

「あなたの安全を私が担う」

  ビルメンテナンス等の業務に携わる私の教え子でもあるTさんが、定年(60歳)後の再任用2年目に当たり、会社に提出した文章を紹介する。
 こういった真摯な気持ちでもって職務に専心する人たちによって、日本は支えられているのだ。
 

   定年後も、本社で勤務させていただいていますことに深謝申し上げます。

 入社以来、本日ここまで「粉骨砕身、会社のために努めてきた」の自負があります。また、『生を求めて、以て仁を害すること無く、身を殺して、以て仁を為すことあり』(論語)の気概をもって勤務してまいりました。 

 高校卒業と同時に国鉄(現JR)に勤務し、保線区に配属されました。線路の保守点検であり、日々快適かつ安全な運行がなされるように全力で努めました。ある時、子ども連れの顧客が私たちを指さして「しっかり勉強しなかったら、こんな仕事にしかつけないのよ」と聞こえよがしに言われました。腹は立たなかったです。なぜならば、「あなたが乗ろうとする電車の安全運行は私たちが担っている」の自負があったからです。現在のビルメンテナンスの業務にも通じる事です。 

 論語に『剛毅朴訥、仁に近し』(ごうきぼくとつ じんにちかし)という有名な章句があります。通釈すると、「剛健な意思、毅然たる表裏のない質朴さ、粉飾のない訥々たる言葉、こうした資質は、最高の徳たる人に近い」です。また、日蓮大聖人は「陰徳あれば陽報あり」と述べられています。私はこれらの言葉を胸に日々の業務に邁進しています。これからも何ら変りません。そのことが、会社の業績向上につながり、ひいては社会貢献つながると信じるからです。もちろん、家族の幸福にも。

 最後に、座右の銘としている論語の章句を挙げます。

『人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患えるなり』

足立美術館の庭園

 日本一と言われる(世界一)足立美術館の庭園を鑑賞された方は、さぞかし多いことだろう。とにかく、美しいの一言である。

 足立美術館の5万坪の日本庭園は、米国の日本庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」による庭園ランキングで、19年連続日本一に選ばれている。これは、「いま現在鑑賞できる日本庭園としていかに優れているか」を基準に調査・選考されており、広大な庭園の細部にまで維持管理がゆきとどいている点が高く評価されているのだ。高い評価を得ている背景には、専属の7名の庭師による管理はもとより、毎朝開館前に事務職員も含めた総出で約1時間かけて掃除をするなどの、徹底した「おもてなし」の姿勢がある。年中無休のため掃除は365日休むことなく続けられ、雨の日にもカッパを着て行われる。

 サツキなどの刈り込みものも素晴らしいが、私は特に赤松に魅かれる。これだけの赤松の名木は、他では見られないからだ。年中美しい姿を観ていただくため、夏季には専属の庭師による赤松の剪定作業が集中して行われる。古葉を手作業で摘み落として樹形を整え、最後に竹製の手箒でこすって古皮をはがしていく。こうすることで、赤松の鮮やかな幹肌が現れる。毎年7月末から約2ヶ月かけて行われる。園内には赤松が約800本植わっているが、太くなり過ぎたり状態が悪くなった際にすぐ交換できるよう、別の場所にスペアが用意され、赤松だけでも約400本があるそうだ。スペアが用意されているのは、他の樹種についても同様だ。

 足立美術館は、実業家として成功した足立 全康氏の「郷土に恩返しがしたい」という思いから、昭和45年に設立された。横山大観をはじめとする日本画に深い思い入れを持つ足立全康は、まず日本庭園を通して四季の自然の美を感じてもらい、その感動をもって横山大観などの作品にふれることで、日本画の魅力を理解してもらおうと考えた。館内に入るとまず「枯山水庭」や、「白砂青松庭」など趣の異なる美しい庭園が広がっているのはこのためだ。

 私は庭いじりを趣味とするが、いつも足立美術館庭園のサツキの刈り込みものを目標にしている。そう言うと、多くの人が笑う。もちろん規模・広さが比べ物にならない。言うまでもなく、足元にも遠く及ばない。だが、サツキの刈り込みものに係わっては樹形と花付きの両方でひけをとらないようにと、年間を通して心がけている。

 拙庭のサツキのほとんどが、45年程前に100~150円くらいで購入したポット苗を育てたものだ。一般に地植えのサツキは赤がほとんどだが、拙庭のものは、さまざまな種類である。足立美術館庭園に限らず、名庭園のサツキは3月にも剪定して樹形を整える。鑑賞客がいつ訪れても美しい姿を見る事が出来るように、花よりも樹形を重視するからだ。春先に剪定すると、多くの花芽を落としてしまうことになる。実際、花は2~3割しか咲かないのである。

 私は樹形だけではなく、花付きも大事にする。より多くの花を見ることが出来るように年間を通して腐心している。花が咲き終わるや否やすぐに剪定をする。その後飛び出た芽を、大久保はさみでチョっチョっと切る。花芽を落とさないように注意を払う。それは咲き始める直前まで続く。家人から「いい加減にしたら」と飽きられる。もっとも、11月から2月までは、芽は伸びない。その結果、樹によっては葉っぱがみえないくらいに花をつけることも……。

 ご存知のとおり、足立美術館庭園のサツキの刈り込みものを実際に鑑賞するのは70㍍以上離れた所からである。狭い拙庭では、すぐそばからとなる。わずかなでこぼこが、すぐに目立ってしまう。より丁寧で緻密な手入れが求められるのだ。そうでないと、美しい樹形を保つことはできない。

 恐れ多くも、足立美術館庭園のサツキの刈り込みものを目標にしていると言っているが、サツキの刈り込みものに関しては、樹形も花も拙庭の方が上だとの自負がある。45年以上、年間を通してそれだけの時間と労力をかけてきたのである。あと2週間程でサツキの見ごろとなる。今年も多くの方に鑑賞していただきたい。

赤松 足立美術館庭園
白砂青松  足立美術館庭園
館内から  足立美術館庭園
谷口邸庭園

故郷を思い出させる懐かしい逸品

   高校の同級生が舗この連休に、四国 宇和島に帰省した。土産に、銘菓舗『百波』(もなみ)の銘菓「伊達候」「栗饅頭」「密饅頭」を貰った。

 「伊達候」は、宇和島藩十万石を治めた名君にちなんで命名した最中だ。餡は北海道産大納言を氷砂糖と和三盆糖で仕上げた上品な甘さの粒餡であり、香ばしい金沢産の最高級加賀種に手詰めしてある。
 「栗饅頭」は選りすぐった大粒栗を北海道産の小豆を使った上白餡で包み、焼き上げている。
 「密饅頭」は、愛媛ミカンの花の蜂蜜を使い北海道産の小豆を漉し餡にして、焼き込んでいる。地味豊かである。

 『百波』の菓子に使用している卵は、無農薬資料を与えて放し飼いで育てた地鶏の卵だと聞く。

 早速賞味したが、何れも故郷を思い出さずにはおれない懐かしい逸品であった。

遠藤日向(住友電工)快挙

 陸上競技の、日本グランプリシリーズ延岡大会の「第33回ゴールデンゲームズinのべおか」が昨日(5/4)、宮崎県延岡市の西階総合運動公園競技場で行われた。

 コロナ禍で3年ぶりの開催となった今大会は男女の5000mがグランプリ種目として実施され、男子B組に出場した遠藤日向(えんどう ひゅうが住友電工)が13分10秒69で優勝。このタイムは日本歴代2位で、今年7月に行われるオレゴン世界選手権の参加標準記録(13分13秒50)も破った。6月の日本選手権で3位以内に入れば自動的に代表に内定する。

 このレースには、国内の実業団に所属する外国選手も多数出場したが、ラスト一周のスパートで全員に後塵を浴びせての圧勝だった。ラストスパートで外国有力選手を置き去りにするなどは、瀬古選手以来のことである。
 ユーチューブで生中継を見ていたが、感動を覚えた。遠藤選手は5000mに関しては国内におけるトップ選手だが、最終選考会で力を出し切れず東京五輪代表を逃した。今後さらに精進して、パリ五輪で大輪の花を咲かせて欲しい。

 さらに昨日は、B組で15着に入った佐藤圭汰(駒大)が13分22秒91でゴール、吉居大和(中大)が2020年に樹立した20歳未満日本記録(13分25秒87)を更新。昨年10月に13分31秒19の高校記録を打ち立てた大物ルーキーが、大学に入って初の5000mで新たなレコードを樹立した。高校は、洛南高校だった。

 拙宅はY紙を購読しているが、「遠藤選手の快挙」が本日の朝刊にはまったく触れられていなかった。「連休中で取材体制が手薄だろう」とは言え、陸上競技ファンにとって大ニュースだけに残念極まりない。Y紙には、猛省を促したい。

遠藤日向 あっぱれ
外国勢に後塵を 遠藤ゴール

日本は一大文明国  田中忠道

 日本のように一つ所に、同じ領域に、同じ民族が住み続け、2000年以上もの歴史を積み重ねてきた国はほかにありません。

 ヨーロッパを見てみましょう。古くはケルト人が住んでいました。カエサルの『ガリア戦記』 に見るように、そこにラテン民族のローマ人がやってきて、ケルト人を蹴散らします。そのころ、中央アジア、中央ヨーロッパでは、フン族の圧カに押し出される形で、ゲルマン民族が西へ移動していきます。
 ゲルマン民族のさまざまな種族がヨーロッパ各地に定着し、それがヨーロッパのさまざまな国の原型になったといわれています。それだけでは終わりません。十三、十四世紀になるとモンゴル族が侵入してきます。ヨーロッパは大きく動揺しました。国境線が西に東に、南に北に移動しました。これはアジア大陸でも同じことです。中国の歴史はいくつもの王朝の交代の歴史でした。そして、王朝と王朝との間にはほとんど連続性がありません。断絶しているのです。
 秦王朝の兵馬備の技術は、その後の中国の彫刻になんら影響を与えていません。それは単に王朝の名称が変わっただけというのでなく、漢族から鮮卑族へ、モンゴル族へ、満州族へ、という支配的民族の交代であったのです。そこには戦乱がありました。他民族に侵略され、追われて移動し、故郷を失い、消滅し、あるいは新たな故郷を求めるということが繰り返されて、現在ある国が定まっていったのです。

 世界の国々はすべて、このような変化、断絶を経験しています。しかし 日本だけにはそのような歴史がありません。一度だけ、モンゴルが攻めてきたことがあります。しかし、日本の国土には侵入できませんでした。
 明治以後を「近代」と呼び、何もかもが変わったように言われます。しかし、何が変わったのでしょう。日本人という民族はそのままです。また、日本はアメリカとの戦争に負けました。しかし米軍は、天皇には関与せず、本土上陸もしませんでした。その結果、基本は変わらなかったのです。
 日本民族は体然として同じ領域に、日本人として暮らしています。そして2000年以上も前から日本が変わらずに、ここにあることを示す何よりのものは、天皇がおられるということてす。明治のいわゆる近代化の波も、戦争も軍年的な敗北だけて、日本を変えることはなかったのです。

 世界史では、近代が国家観を形成し、人々の国民意識を育て、国家が成立したと言われます。しかし日本は大陸から隔てられた島国という条件もあって、自然と一体になって、大八洲がそのまま国土として意識され、早くから巧まずして人々の国民意識を育てることになり、それが途絶えることなく今日まで続いているのてす。

 日本人の変わらない連続性を示すものとして、たとえば「万葉集」を挙げましょう。それは日本の神話が生まれたのと同じ時期から詠み継がれてきたものです。
 あらゆる人々が自然の中で、農耕をしながら、旅をしながら、防人の困難さに耐えながら、あるいはいつに変わらぬ日常生活を営みながら、歌に詠んだものです。それをいま私たちが読んでも、何の違和感もありません。そこに詠まれている感情、気持ちをそのまま私たちのものとして感じとることができます。だから『万葉集」はいまも一般の人に広く読まれ、その歌が愛唱されているのです。

 このようなことは他の国には絶対にありません。日本だけのものです。これは、日本では同じ体制、同じ言語、同じ文化が変わらずに連続しているからにほかなりません。世界には、前世紀の高い文化を示すもの、神殿や劇場、闘技場や水道などがいくつもあります。しかし、それらはすべて遺跡です。廃墟です。その文化は途絶えてしまって、いまは生きていません。

 日本は違います。まだ仁徳天皇陵を拝んでいます。千三百年前にはじまった伊勢神宮のニ十年ごとの遷宮はいまも営まれ、人々は神々しい気分を感じながら玉砂利を踏んで参拝しています。千四百年前の木造建築である法隆寺は、いまもそのままに仏教の法要が営まれています。それらはすべていまも生きているのてす。日本が不易流行の国である現れてす。

 グローバリゼーションの風潮の中で、国家観を薄めるかのような動きが起こっていますが、その流れに押し流されてはなりません。日本が不易流行の国、歴史大国であることを自覚し、その位置に立って私たち日本人の体験・思想を世界に向かってしっかり述べていくことが、日本人が世界に交わっていく道であることを知らなければなりません。

 日本は一大文明の国なのですから。
 

東北大学名誉教授 田中忠道

ゴッホが取り憑かれた浮世絵の魅力とは

 パリにおいて思う存分浮世絵の研究を重ねたゴッホは、同時代の作家の誰よりも深く浮世絵に傾倒し、その研究の成果を自身の画風にも反映させていく。
 浮世絵の何がゴッホをそれほどに心酔させたのだろうか。ゴッホの感性に深く訴えかけたと思われる、3つの要素を取り挙げる。

1 自由で鮮やかな色彩表現   
 浮世絵を研究するため、ゴッホは実際に浮世絵作品を複数模写している。その際、一番惹きつけられたのが、浮世絵の自由な色彩感覚だっただろう。  
 浮世絵では、しばしば実景とは異なる大胆な色調で描かれることがあった。江戸時代の日本人にとっては、こうした浮世絵の自由な色彩感覚は慣れっこだったと思われるが、当時の西洋人には非常に新鮮に映ったのではないか。実際、以後の画業で、見えた風景の色彩を100%見えたままに描くことにはこだわらなくなった。それよりも、自らの感性が捉えた色彩で風景を表現するようになっていく。
 たとえば、本来、青系統で描かれることが多い空は黄色に、黄色や褐色で描かれることが多い麦畑は紫に光っている。一般的な空と大地の色のイメージが逆転しているわけだ。こうした自由な色彩感覚は、ゴッホが浮世絵を学んで得た成果だったと言える。

2 平面的な画面   
 色彩の鮮やかさに加え、ゴッホを虜にしたのが浮世絵の持つ平坦な色面表現だっただろう。
 ルネサンス期以降、西洋の画家たちは、透視図法や空気遠近法など、様々な描画技術を駆使して奥行きのある立体的な空間を絵の中に表現しようとしてきた。ゴッホもまた、オランダでの修行時代では、西洋の伝統的な遠近法に忠実に描いていた。一方、日本伝統の大和絵から派生した浮世絵は、写実的な遠近表現よりも、デォルメされた人体表現や、モチーフの装飾性を重視する。くっきりとした輪郭線を使って、線に囲まれた各領域を単色で描くことで印象的な構図を作ろうとしていたのだ。この点にもゴッホは強い影響を受けた。
 友人への書簡で「僕は現場で仕事し、素描で本質をつかもうとしている。本質とは、存在しようと存在すまいと、僕が感じ取った(物体の)輪郭で囲まれた面のことだ。そして僕はこの面を、単純化された色調で塗りつぶすんだ」と。
 ゴッホの作品で最も有名な「ひまわり」を見てみよう。所々に太い輪郭線を使って、平面的に描かれている。また、このひまわりには「陰影」がない。同時代のモネが描いた作品(クロード・モネ「ひまわり」1881年 メトロポリタン美術館蔵)と比べてみると、ゴッホが浮絵から多くの影響を受けていることがはっきりと理解できる。

3 大胆な構図    
 ゴッホが浮世絵に惹き付けられたもう一つの特徴が、「構図」の面白さである。庶民向けの商業美術であった浮世絵では、美人画でも名所絵でも、大胆かつシンプルで明快な構図が特徴的である。それぞれの絵師は、最も表現したい部分を強調しつつ、余計な背景は思い切ってトリミングするなど、今で言うところの「ばえる」構図になるよう工夫をこらした。
 こうした劇的で斬新な構図もまた、ゴッホの心を捉えたと思われる。ゴッホが浮世絵から感銘を受けたポイントの一つが、しばしば作品の前景で大きくクローズアップして描かれた生き生きとした植物などだった。ゴッホが模写を重ねた歌川広重の作品を見てみたい。「富士三十六景 武蔵小金井」では、桜の老木の幹が画面の上下に突き抜けるようにして、作品の左半分を覆い尽くしている。穴が空いていたり、根本が2つに枝分かれしたりと、エキセントリックな老木の幹は、作品に向き合う鑑賞者に強いイメージを与えている。「名所江戸百景 堀切の花菖蒲」では、咲き誇るアヤメが画面手前で非常に大きく描かれている。
 また。前景の強調に加えて、ユニークな視点設定も見逃せない。まるで地上を這いつくばる小動物や虫が、地面スレスレの位置からアヤメを下から見上げているかのように描いている。広重は、前景の対象物を単に強調するだけでなく、視点をずらすことでより強い印象を与えるように構図を操作しているのだ。
 ゴッホは、広重が試行錯誤を繰り返して編み出した構図上のテクニックを、余すことなく吸収して自分の作品に反映した。
 実際に絵を示さないと分かりにくいが、その集大成とも言える作品、末期の作品である「草地の木の幹」は、画家の周囲に広がる草地の微細な表情だけに焦点を当てて描かれた作品だ。通常、風景画といえば眼前に広がるパノラマを描くものだが、ゴッホは足元の地面にも興味を持ち、生き生きとした色彩とユニークな構図で描いてみせた。前景には、画面の外側へと斜めに伸びる2本の木の幹が大きく描かれている。幹は木版画のような太い輪郭線で囲まれ、黄色や水色など自由な色彩で配色されている。もう少し観察してみると、この絵は上から地面に向かって見下ろすような、特殊な視点で描かれていることにも気付かされる。つまり、広重の風景画と同じエッセンスが詰まっているのだ。

ゴッホは北斎の浮世絵に

 色鮮やかで情熱的なその作品と生涯が、今なお世界中の人々を魅了し続けるポスト印象派の画家、フィンセント・ファン・ゴッホ。日本でも非常に人気が高く、展覧会は毎回大きな反響を呼ぶ。厚塗りでうねるように描いた作品はインパクト抜群である。ゴーギャンとの奇妙な同居生活の顛末や、わずか37歳で迎えた衝撃の自死など、数々のドラマチックなエピソードとともに、彼の画風は世界中の絵画ファンを虜にしている。
 そんなゴッホだが、最初から激烈な作風だったわけではない。1880年頃に画家を志してからしばらくは、彼の祖国・オランダの同時代の画家たちの影響を色濃く受けた、比較的地味な作品を描いていたのだ。そこから、ゴッホの作風は激変する。
 私たちが今見て「ゴッホらしい」と感じられる作風へとたどり着いたきっかけは、芸術の都・パリへと移住したことだった。画商を営んでいた実弟テオのアパートで同居生活を始めると、ゴッホはパリで印象派やポスト印象派の仲間たちから感化されて、劇的に画風を変化させていった。実は、そこでゴッホの作風に強い影響を与えたのが「浮世絵」だったのである。

 19世紀後半、万国博覧会の開催や美術商の活動などを通して、絵画や工芸など日本文化が本格的に欧米へと知られていくことになる。西洋での伝統的な美術表現とは全く異なる感性の下でつくられた日本の美術工芸品は、西洋の人々に大きな衝撃を与え、「ジャポニスム」ブームを巻き起こした。特にパリでは万国博覧会が合計4回も開催され、新たな芸術表現を探し求めていた次世代の芸術家たちに大きな影響を与えていくことになる。
 その中で、モネやドガといった印象派や、ゴーギャンやロートレックなどポスト印象派の画家たちに強い影響を与えたのが「浮世絵」だったのだ。

 ゴッホも、1886年春にパリへ移住すると、仲間の画家たちを通じてすぐに「浮世絵」に惹かれていった。古美術商サミュエル・ビングのギャラリーの常連になると、ゴッホは、足繁くビングのもとに通うようになる。目当ては、店舗の屋根裏に大量にストックされていた1万枚以上の浮世絵だった。彼は、何度もビングの店を訪れ、心ゆくまで浮世絵作品を研究し尽くしたようだ。

 このように、ゴッホはパリ時代、浮世絵漬けと言っても良いほど浮世絵へと傾倒していった。実際、彼が弟テオと一緒に収集した日本の浮世絵作品は、400点以上にのぼった。しかも収集だけに飽き足らず、ゴッホはなんとコレクターとして浮世絵の展覧会を開催してしまうのだ。

 さて、北斎の浮世絵は、多くの西洋人にキリスト教を捨てさせたと言われている。「そんなまさか? 」と思われるだろうが、本当だ。例えば、『ひまわり』を描いたゴッホ。彼は元々、牧師の家に生まれ、自身も牧師を目指していたほど敬虔なクリスチャンだった。そんなゴッホだが、こんな言葉を手紙に残している。
 〝彼らみずからが花のように、自然の中に生きていく素朴な日本人たちが、われわれに教えるものこそ真の宗教とも言えるのではないだろうか〟
 (アルルにて、弟テオあての手紙)

 不思議ではないか? 熱心なキリスト教徒であるはずなのに、日本人が教えているものこそ「真の宗教」だと述べているのだ。さらに別の手紙には、こんな言葉も残されている。
〝日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気に もっと幸福にならずにいられないはずだ〟
 (アルルにて、弟テオあての手紙)

 ゴッホは晩年、南フランスに移住したのだが、その理由については手紙の中でこんな風に書き記されている。
〝僕たちは日本の絵画芸術が好きなんだ。僕たちはその影響を受けているんだ。では、日本に行かないならどうするか、日本と同じようなところ、南仏だろうか?〟
 (アルルにて、弟テオあての手紙)
 ゴッホは、日本人の感性に衝撃を受け、その感性を「真の宗教」とまで呼び、さらにその感性を理解するために、わざわざ南フランスに移住までしていたのだ。そして、その衝撃の根源こそ、葛飾北斎の浮世絵にあった。東北大学名誉教授 田中英道氏は、このように述べている。
 「ゴッホが追い求めたものこそ、日本であり、北斎であり、自然だったのです」
 ゴッホは、北斎の浮世絵のどこに、これほどの感動を覚えたのだろうか?
そして、熱心なクリスチャンがキリスト教を捨ててしまうほど、思想を揺るがした理由とは? ゴッホの視点を通すことで、世界からみた日本のユニークさが分かり、世界の人々が日本に憧れる理由を理解することができるだろう。


祝祭日に国旗を粛々と掲揚

 大変残念なことに、祝祭日に国旗を掲揚する家が少ない。国旗を常備され、祝祭日には国旗を掲揚していただきたい。

 国旗及び国歌に関する法律(平成11年法律第127号)は、国旗・国歌を定める日本の法律であり、 通称は国旗・国歌法と呼ぶ。 所管官庁は内閣府。  平成11年8月13日に公布、即日施行された。

 反対する人たちは、それまで「日の丸が国旗だとは、君が代が国歌だとは、どこにも書かれていない」と主張してきた。はっきりと明文化されたのだ。

 外国へ行くと、ふだんの日でもあちらこちらに国旗が掲げられている。
 自国の国旗・国歌に敬意を示さないで、他国の国旗・国歌に対して敬意を示すことは難しいだろう。

 祝祭日に、国旗を粛々と掲揚しよう。

 

 

内閣総理大臣の談話(平成11年8月9日)

   本日、「国旗及び国歌に関する法律」が成立いたしました。
  我が国の国旗である「日章旗」と国歌である「君が代」は、いずれも長い歴史を有しており、既に慣習法として定着していたものでありますが、21世紀を目前にして、今回、成文法でその根拠が明確に規定されたことは、誠に意義深いものがあります。
  国旗と国歌は、いずれの国でも、国家の象徴として大切に扱われているものであり、国家にとって、なくてはならないものであります。また、国旗と国歌は、国民の間に定着することを通じ、国民のアイデンティティーの証として重要な役割を果たしているものと考えております。
  今回の法制化は、国旗と国歌に関し、国民の皆様方に新たに義務を課すものではありませんが、本法律の成立を契機として、国民の皆様方が、「日章旗」の歴史や「君が代」の由来、歌詞などについて、より理解を深めていただくことを願っております。
  また、法制化に伴い、学校教育においても国旗と国歌に対する正しい理解が促進されるものと考えております。我が国のみならず他国の国旗と国歌についても尊重する教育が適切に行われることを通じて、次代を担う子どもたちが、国際社会で必要とされるマナーを身につけ、尊敬される日本人として成長することを期待いたしております。

伊勢神宮
靖国神社

中之島美術館「モディリアーニ展」

   2月に開館した大阪・中之島美術館で開かれている「モディリアーニ展」を鑑賞して来た。

   イタリア出身のモディリアーニ(1884 – 1920)はフランスに渡り、エコール・ド・パリの一員としてピカソや藤田嗣治などと共に活躍した。本展では、そうした仲間たちの作品も多数紹介、彼らの交流を紹介している。

 祖国で学んだ絵画技法をもとにパリで個性的な作風を確立し、生涯に多くの肖像画を描いた。モディリアーニによる人物像はデフォルメされた独特のアーモンド型の眼や細長い首をもち、内面的な本質を鋭く捉えていると言われる。自身の彫刻の影響もあるのではと指摘されることが多い。

 35歳で夭折したが、精力的に描いた作品群は世界中で今なお愛好されている。本展では、国内外で所蔵されるモディリアーニ作品を中心に、同時代のパリを拠点に繰り広げられた新しい動向や多様な芸術の土壌を示し、モディリアーニ芸術が成立する軌跡をたどっている。

 本展には世界初公開の肖像画を含め、国内外のモディリアーニ作品約40点が集結した。フランス、イギリス、ベルギー、デンマーク、スイス、アメリカなどからも選りすぐりを集め、さらに国内美術館等が所蔵する油彩画や水彩、素描が一堂に会した。中でも、スウェーデン生まれの伝説的ハリウッド女優、グレタ・ガルボが生涯にわたって愛蔵した『少女の肖像』は世界初公開である。

 訪ねた日がウイークデーで、さらに雨だったこともあり鑑賞客が比較的少なく、ゆったりと鑑賞できたことは幸運だった。ただ、館内の案内掲示が分かりにくいと感じたのは私だけだろうか。

ジャポニスム(仏語)の虜になった西洋の画家たち

 江戸時代の天才絵師・葛飾北斎は、世界中の「憧れの的」だったということを知っている人は少なくないだろう。美術に関心のある人には、比較的よく知られた話だ。

 例えば、フランスの画家・アンリ・リヴィエールは、北斎の『冨嶽三十六景』に憧れ、エッフェル塔を富士山に見立てた『エッフェル塔三十六景』を描いている。
 「光の画家」と呼ばれるクロード・モネは、北斎の浮世絵を23点も所有しており、『冨嶽三十六景』と同じ構図で、しかも“36枚の連作”で絵画を描いた。

 バレエ絵画を多く描いた印象派の画家 エドガー・ドガは、『北斎漫画』の相撲の力士を参考に、バレリーナの姿を描いている。しかも北斎への人気は、一時的なブームというわけではなく、アメリカの有名な雑誌『LIFE』の「この1000年で最も重要な功績を残した100人」という特集記事では、葛飾北斎が日本人で唯一、ランクインしているのだ。欧米では、レオナルド・ダ・ヴィンチの次に有名な画家と言えば、真っ先に出てくるのが葛飾北斎の名前だそうだ。

 これほど多くの人々が葛飾北斎に夢中になったのだが、一体なぜ、遠く離れた国々で、北斎はこんなに愛されるのか。その理由は、北斎の絵に込められた「日本的な思想」が深く関係していたようである。
 一説によれば、その影響力は、西洋人にキリスト教を捨てさせるほどだったと言う。

 

 ジャポニスムとは、日本趣味、すなわち日本の物品,美術品に対する関心のこと。特に,19世紀後半にフランスを中心としてみられたものをいう。  
 19世紀後半に欧米で起こった日本美術ブーム。工芸品と浮世絵を中心とする日本美術への強い興味で、フランスを中心に、ヨーロッパのほぼ全域からアメリカまで、西洋世界の広範囲で生起した。
 幕末に日本が開国して以降、美術工芸品の流出・輸出が行なわれていくなかで勃興し、特に1862年ロンドン万博、67年パリ万博、73年ウィーン万博における日本美術の出品・展示が契機となり流行した。しかし20世紀に入ってフォーヴィスムなどの新しい美術が出現すると、ジャポニスムは1910年代には終息し、欧米では以後、中国美術やアフリカ美術が注目を集めるようになっていった。

 ジャポニスム(英語では、ジャポニズム)は、現在も製造、販売されているフランスのかばんメーカーのルイ・ヴィトンの「ダミエ」キャンバスや「モノグラム」キャンバスも、当時のゴシック趣味、アール・ヌーヴォーの影響のほか、市松模様家紋の影響もかかわっているとされる。

前向きに

   高齢者の会の役員をしたり、「論語教室」で講じたりしていると、多くの人たちと語り合える。そのような機会が多い。有り難いことだ。

 「人生を前向きに生きている人」「他者のために汗のかける人」との出会いは、私に大きな示唆を与えていただくことになる。自身も、他者に「前向きな姿勢」を感じて貰えるような生き方を、したいものだと思うのである。
 簡単な事ではないが、そうありたいと思う気持ちが大事だろう。

佐々木、異次元の投球

 プロ野球千葉ロッテマリーンズの佐々木朗希(ろうき)が10日、対オリックス戦で完全試合を達成した。28年ぶり、史上16人目の快挙である。走者を一人も出さずに完封勝ちする完全試合を20歳5か月で達成したのは、史上最年少だ。

 佐々木は大船渡高(岩手)時代に、高校生最速となる163㌔を記録した。3年時の県大会決勝では、故障を防ぐために当時の監督が登板を回避させ話題となった。
 ロッテに入団後もケガのリスクと向き合いながら、身体の強化に専念してきた。ここに来て、一気に開花した感じだ。10日の試合では、13連続奪三振の新記録も達成した。計19奪三振は、タイ記録である。

 筑波大の川村卓雄教授は、佐々木の高校時代から投球フォームを解析するなど強い関心を示してきた。高校の時もリリース(ボールを離すタイミング)の高さに圧倒され、「あの高さから下向きに、ものすごい角度がついていた」と。当時から、「大谷よりも高いレベルだ」とみていた。
 川村教授は、「異次元の存在であり、170㌔も狙える」とも。

 凄い投手が出てきたものだ。個人的には日本で長く投げ続けて欲しいと願うが、「大リーグで奪三振の記録を更新して欲しい」とも思う。とにかく、しばらくは佐々木の活躍に目を離せない。

辻 前会長(現 顧問)の次兄 辻 二郎氏ご逝去

 三生連の前会長(現顧問) 辻 孝三氏の次兄 辻 二郎(つじ じろう)東京工業大学栄誉教授が、4月1日逝去された。謹んでご冥福を申し上げる。滋賀県出身で、享年95歳であった。

 辻 二郎氏は、昭和2年滋賀県にお生まれになり、彦根工業専門学校(現滋賀大学)を経て、昭和26年京都大学理学部卒業。東レ基礎研究所研究主幹、東京工業大学工学部教授、岡山理科大学工学部教授倉敷芸術科学大学産業科学技術学部教授を歴任。平成23年東京工業大学栄誉教授

 パラジウム触媒を用いた有機合成反応の先駆者で、世界で最初にパラジウム化合物を用いる炭素-炭素結合生成反応を発見された。中でも辻・トロスト反応は有名である。

 主な受賞としては、昭和55年日本化学会賞、平成6年紫綬褒章、平成16年日本学士院賞、平成26年テトラヘドロン賞がある。

会旗 完成

   会旗が出来上がり、本日(4/7)1の役員会でお披露目となった。
 もちろん、明日の支部長会でも皆さんにに見ていただく。
 これは小さい方であり、大きい会旗は、これの3倍以上もある。

中之島図書館「論語塾」

 平成28年4月から大阪市の中之島図書館において、『論語』を講じている。7年目に入っており、90分の講義は110回となった。
 最初の5年間は毎月2回、現在は月1回である。コロナ禍で休講を余儀なくされたこともあったが、今年度の「論語塾」も4/2(土)から始まった。最初は15~25名程度であったが、今年度は初回から定員(50名)の予約が一杯となった。有り難いことである。

平和ボケを捨てて、今からどのような備えが……

   ウクライナが、かつて世界第3位の核武装大国だったことを知っているだろうか。
 それは、今から約30年前のソ連が崩壊した時、ソ連の基地が置かれていたウクライナには、大量の核弾頭が残されていた。その数、1240発。アメリカ・ロシアに次ぐ世界3位の核大国だったのである。

 当時、核保有国を増やしたくないアメリカ・イギリス・ロシアはウクライナに対し、ウクライナに攻め込まないこと、ウクライナが侵略を受けたときには 即座に支援のために国連安保の行動を依頼することなどの取り決めと引き換えに核の放棄を持ちかけた。
 ウクライナが、これら3つの大国の要求を断れるはずもなく、チェルノブイリ原発事故の苦い記憶が核兵器への抵抗感になっていたことも後押しとなり、ウクライナは核廃棄を約束した。核兵器をロシアに移送し、「核を持たない国」になったのだ。

 そして、時は流れ2022年、「攻め込まない」と約束をしていたはずのロシアが、平然と約束を破ってウクライナに侵攻した。連日報じられるように、街は壊され、民間人にも死者を出し、ウクライナの平和はあっという間に崩れ去った。欧米諸国はロシアへの経済制裁やウクライナへの物資支援をしてはいるが、連合軍を出してウクライナを助けに行くこともなく、国連安保理は議決こそ行なったもののロシアの拒否権により動けないままである。  
 現在、ウクライナは、大国ロシア相手にたった1人で戦っているような状況に陥っている。

 もしも、ウクライナが核を持ち続けていたとしたら、今、どうなっていただろう。ウクライナ侵攻は、そもそも起きていただろうか。この話は決してひとごとでは無い。日米安保を頼りに「アメリカに守ってもらう」と言い続け、広島・長崎の原爆のトラウマから「非核三原則」を掲げ、平和憲法を守り続けている、そのような日本の姿は、どこかウクライナに重なる。このままで、日本は本当に大丈夫なのか。

 前日の陸上自衛隊・元陸将F氏はこう警鐘を鳴らす。「実は私たち日本人も「明日は我が身」と 覚悟をしなければならないほど、 我が国を取り巻く情勢は緊迫している」と。
 ウクライナ情勢の裏で、日本に密かに迫る危機とは一体どのようなものなのか。いまだに憲法改正も進まない日本に、今からどんな備えが求められるのか。平和ボケを捨てて、国民の一人ひとりが、真剣に向き合わなければならないのである。

日本を滅亡の危機から救った秀吉

 豊臣秀吉に対してどんなイメージを持っているだろうか。
 恐らく、「世渡り上手、信長に気に入られて大出世した人、キリシタン弾圧を徹底した人」と思われているのではないか。大河ドラマの主人公にも何度もなった、日本で最も有名な武将の一人である。でも、実は秀吉が“日本を滅亡の危機から救った人”だったということをご存知ないのではないだろうか。

 時は戦国時代、豊臣秀吉が全国へ支配を拡大していた矢先、日本は滅亡の危機に瀕していた。ある組織によって“日本植民地化計画”が進められていたのだ。その組織とは、イエズス会である。キリスト教布教を手段として、アジア諸国を植民地化しようとしていたのだ。 例えば、同じ時代、日本の近隣国であるフィリピンはスペインの植民地にされてしまっていた。フィリピンにも布教の名の下に、植民地工作の先兵として宣教師が送り込また。そんな西洋諸国の脅威にいち早く気づいたのが、豊臣秀吉であった。
 フィリピンや近隣国の情報を手に入れていた秀吉は、日本に来ていた宣教師たちの活動に危機感を抱いた。九州征伐の際、長崎の状況をみた秀吉は絶句した。それは、多くの日本人が“奴隷”として海外に売り飛ばされていたからだ。
 一説によると、世界各国に売られていった日本人奴隷は5万人以上とも、40万人以上とも言われている。その日本人奴隷の貿易に、宣教師が関わっていることが分かったのである。「このままでは日本が危ない」そう思った秀吉は、バテレン追放令を出した。これは、キリスト教徒を追い出すのではなく、宣教師を国外追放にするというものだった。
 そしてこの後も、秀吉から徳川家康へキリスト教への弾圧政策は引き継がれる。この秀吉の働きがあったからこそ、日本は植民地化されることなく独立を保つことができたとも言える。
 秀吉ほどの有名な武将でも、現代の教科書を読むだけではその功績のひとかけらしか知ることはできない。そして実は、、そんな意外な一面があるのは秀吉だけではなかった。あの織田信長も、戦後「暴君」のイメージが作り上げられた武将の一人である。信長には、戦で勝った相手のドクロで酒を飲んだり、お寺を焼き討ちにしたりと、神をも恐れぬようなことをした武将というイメージがある。でも、最新の研究によると、信長は、“神社を厚く支援し、神を信仰していた”ということが分かっている。


GHQによる公民館の設置

   日本中にある「公民館」(集会所)がGHQによって設置されたことを知っているだろうか。GHQは、日本が再び米国の脅威にならないことを狙って「日本弱体化政策」を強制した。その政策の1つが公民館(集会所)の設置であった。

 戦前は、地域住民の中心には神社があった。その年の豊作を祈る行事から実りに感謝する秋祭りまで、一年のサイクルを通して人々は神々に感謝した。地域住民は、氏神様を中心として精神的な結束を固めていた。さらには、地元の揉め事の解決から祝い事まで、あらゆる問題は神社で開かれる「寄り合い」で解決されていた。つまり、神社は精神的支柱であると共に、行政拠点の役割も果たしていた。
 これに気づいたGHQは、学校教育などを通して神社参拝を禁止し国民の結束力を奪っていく一方で、神社に代わる国民の中心として構想されたのが「公民館」(集会所)だった。そのような公民館で開かれたのは、映写機を持ち込んでの映画会だった。上映される映画はもちろんハリウッド映画であり、豊かな資本主義社会が描かれていた。欧米の民主主義、自由主義、個人主義、資本主義の浸透が行われたのだ。つまり、GHQは日本国民の地域共同体、つまりは「絆」を、公民館(集会所)設置によって破壊したということである。

鈴木健吾選手の課題と対策 北川 聖司

 鈴木健吾選手(富士通)の走る姿を初めて見たのは、2017年の箱根駅伝予選会だった。

 当時、神奈川大学3回生、小柄ながらダイナミックなフォームであった。上下動が少なく、腰の位置も高かった。腕振りも肩甲骨を上手く使って大きく振られ、その分ストライドが大きかった。強豪大学の多くがアフリカからの留学生を中心として臨む中、鈴木選手は総合順位3位、日本人トップでゴールした。驚いたのは、最後の5㌔、出場選手の中で一番速かったことである。レース後半に勝負ができる凄い選手が出て来たと、思わず興奮してしまった。テレビ中継の中で鈴木選手の出身高校の紹介があり、谷口先生の後輩であるを知った。それもまた、私には驚きであった。

 それからは鈴木選手の動向が楽しみとなり、期待感を持って応援してきた。

 鈴木選手は順調に成績を伸ばし、箱根駅伝2区の区間賞獲得、東京五輪マラソン最終代表選考会MGCにも出場を果たした。代表には僅かながら届かなかったが、終盤トップ集団を引っ張る積極的な力走を見せた。鈴木選手自身も、次のバリ五輪に繋がる走りが出来たと納得した内容ではなかったかと思われる。

 その後、2021年びわ湖毎日マラソンで2時間4分56秒の驚異的な日本記録を達成した。この際も、最終盤30〜40㌔、そしてゴールまでを驚異的なラップで走り切った。この最後の力走はアフリカ勢でもなかなか出せないタイムである。鈴木選手の大きな武器である。この大きな強みを生かしてパリ五輪最終代表選考会MGCを勝ち抜いて欲しいと願う。

 今年、3月6日の東京マラソンでも日本歴代2位のタイムで日本人1位となり、今年7月アメリカで開催される世界陸上の出場を決めた。これは、MGCを突破しパリ五輪でのメダル獲得を目指す鈴木選手にとっては、自分を試す本当にいいチャンスである。世界陸上ではタイムより順位にこだわって欲しい。五輪同様、夏のレースで最初から積極的にトップ集団に入って、中間走での揺さぶりにも対応し終盤で得意の粘りがどこまで通用するかを試してみる絶好の機会だ。ここで課題を自覚し、MGCとパリ五輪までに修正できればと思う。そうすれば、パリ五輪でのメダル獲得も見えて来るように思われる。

 メンタル的にもさらに強くなり、世界で戦う前向きな気持ちを今以上に持って世界選手権に挑んでいただきたい。世界選手権の内容と結果が非常に重要となって来るように思われる。最後に、これまで以上に体のケアに留意し、怪我や故障が無いように順調に仕上げていただくことを切に願う。

北川 聖司

世界の歴史を一つに     田中忠道

 モンゴルはいまでこそ、中央アジアの小国にすぎませんが、元(モンゴル)が、世界をつなげたということを理解しておかなければなりません。
 
 日本では、元冠という事件だけが注目され、日本が神風の味方も得て、元(モンゴル)の侵略を防いだということのみ語られるのですが、このモンゴルこそが、世界の歴史を一つにつなげたということの意義を、認識することが必要です。

 モンゴルは、チンギス・ハンの時代にモンゴル帝国を建てて、次々にユーラシア大陸の各地を侵略していきました。そして、元冠によって日本征服を企てた第五代皇帝フビライ・ハンの時代に、大都(現在の北京)を都にして元と称し、その領土を最大のものとしました。ハンガリーに侵攻し、イタリアの近くまで迫り、最終的にはポーランドまで行っています。

 モンゴル帝国の隆盛とその拡大によって、東西のさまざまな文物が行き交うことになり、東西の文化の交流も進んだという事実、これが重要なのです。それというのも、東洋の文化がイスラムだけではなく、モンゴルを経由して西洋に伝わっていったということです。その典型的な例が絹です。

 絹を運ぶために絹の道(シルクロード)がつくられ、東西が結ばれました。それがモンゴルによって、長いユーラシア大陸を結び付ける駅馬車制として確立しました。そのために、東西の交易がさらに円滑に行われるようになったのです。
 これによって、マルコ・ポーロは日本の情報を西洋に伝えることができたのです。それは、彼の著書である『東方見聞録」の中に黄金の島・ジパングとして紹介されています。これが実は、極めて重要な情報だったのです。

 

 「ジパング(訳註 「日本」の中国音ジーペン・グオの靴り)は東の方、大陸から千五百マイルの公海中にある島である。しかも、まことに大きな島である。住民は色白で、優雅な偶像教徒である。ここは独立国で、彼ら自身の君主をいただいて、どこの国の君主からも製肘を受けていない。莫大な量の黄金があるが、この島では非常に豊かに産するのである。それに大陸からは、商人さえもこの島へこないので、黄金を国外に持ち出す者もいない。いま話したように、大量の黄金があるのもそのためである。また、この島にある君主の宮殿のその偉観について話をしよう。この君主はすべて純金で覆われた、非常に大きな宮殿を持っている。
われわれが家や教会の屋根を鉛板でふくように、この国では宮殿の屋根を全部純金でふいている。その価値は、とても数量で計り得ない。さらに、たくさんある部屋は、これまた床を指二本の厚みのある純金で敷きつめている。このほか広間や窓も、同じようにことごとく金で飾りたてられている。実際、この宮殿の計り知れぬ豪華さは、いかに説明しても想像の域を脱したものである。」(マルコ・ポーロ「東方見聞録」)

 おそらく、平泉の金色堂のイメージが伝わっていたのでしょう。純金で屋根も床もつくられているわけではなく、木造に金箔を張っているだけのことですが、
日本の仏像も同じように金色に輝いており、彼らに強烈な印象を与えたのでしょう。いずれにせよ、このマルコ・ポーロの『東方見聞録」ほど、金に飢えた西方の人々の血をわかせたものはありませんでした。モンゴルは、そういう意味でも日本を西洋に結び付ける重要な役割を果たしたのです。しかし、よくいわれるのは、モンゴル自体には、強大な軍事力以外に大した文化はなかったということです。やはり騎馬民族という蛮族、野蛮な侵略者であったというのです。確かに、宋を滅ぼすと、政治体制的には、完全に宋の仕組みを破壊してしまいました。
しかし、その文化は一応受け継いで、西洋に伝える役割を果たしたのです。

田中忠道(東北大学名誉教授)

ペリーの来航時、日本の経済規模は欧米諸国に匹敵

 「ペリーの黒船」が来日した当時、我が国が「小国」であったと言うのは間違いだ。江戸期の時点で日本経済は欧米を凌ぐほどに大きかった。

 1700年頃、産業革命前だが、日本のGDPは英国よりも大きかった。ドイツよりもである。フランスには負けていたが、それはわずかの差だった。オランダに至っては、日本の四分の一程度の経済規模に過ぎなかった。
 ペリーが来航するおよそ30年前の1820年時点でも、日本のGDPは米国よりもはるかに大きかった。

 さすがに、産業革命を経た1820年時点の英国、フランス、ドイツには追い抜かれることになったが。

自分の国は自分たちで守る

ある著名な国際政治学者が、「自分の国は自分たちで守る、アメリカに頼っていてはいけない。今回のロシアのウクライナ侵攻でそれがはっきりした。ごく近い将来、中国が『台湾侵攻』を仕掛けてくると考えられている。そうなれば、日本にも侵攻してくる可能性は十分にある。『憲法9条があるから……』などは、戯言(たわごと)である。国際法を一切無視するような国に占領されてしまえば、二度と国を取り戻すことはできない」と。

 世界は次なる“大戦争”へと着実に向かっているとも言える。一人の日本人として、中国・北朝鮮・ロシアに囲まれている地政学的状況に、今こそ刮目することが求められるだろう。

 後世の兵学に影響を与えた中国 斉の軍略家 司馬穰苴(しばじょうしょ)の言葉に、「国は大きくても好戦的であれば、必ず滅亡する。天下は安定していても、戦争を忘れると必ず危険が生ずる」と。これは今の世界情勢、日本を取り巻く環境を示しているとも言える。
 
 差し迫る戦争の脅威から我が国を守るための具体的な指針に、耳を傾けることが求められるだろう。 

 私たちの子や孫の世代、未来の日本人に、この「美しい日本」を残せるように、我が国を守っていく術を考えなければならない。

贅沢なひと時

 拙庭のハクモクレンは14日に開花し、気温が比較的低かったためか長く楽しませてくれた。
 昨日の雨で7割程度が落花した。今朝外へ出ると前の道路一面に広がっていた。ラジオ体操に出かける前に掃き寄せ、帰ってからゴミ袋へ。日曜日の早朝、ほとんど車の往来は無く、風も無かったので黙々と作業ははかどった。
 知らない人から見ると「大変だな」と思われるだろうが、掃き寄せながらそれを楽しんでいる自分に気づく。時間にして小一時間だったが、贅沢なひと時であった。作業後のコーヒーは、いつもにも増しておいしかったことは言うまでも無い。

先人たちは知恵を振り絞って日本を守り抜いてきた  富岡 幸一郎

   ー2月24日 突如としてロシアは、ウクライナへ侵攻しました。「明日は我が身だ・・・」危機感を募らせたヨーロッパではある「行動」が取らました。それは「国防」です。
 「我が国は、安全保障にもっと資金を投じなければならない」ドイツのショルツ首相はそう宣言し、すぐさま国防費を大幅に引き上げました。その額なんと「13兆円(1,000億ユーロ)」...ナチスの反省から平和主義が根強いドイツにおいて、国防費UPは異例中の異例といえます。

 「我が国は、従来の立場を変えた」スイスのカシス大統領はそう宣言し、ロシアへの経済制裁を支援しました。スイスは「永世中立国」として長らく中立性を重じてきた国であり、国際問題に口出ししてきませんでした。ところが軍事侵攻を目の当たりにしたことで「このままロシアを野放しにはできない!」という危機感から方針転換していったのです。

 もちろんドイツやスイスだけではなく他のヨーロッパ諸国においてもロシアを牽制する動きが見られました。

 では、肝心の日本はどうでしょうか? ウクライナ侵攻が起こったときに、真っ先にあがった声として...
 ・「プーチンのようなリーダーが出てきても、侵略されないために憲法9条があるんだ」共産党の志位和夫委員長は自身のツイッターでこのように述べました。またネット界隈でも「憲法9条があれば軍事侵攻なんか起きなかった!」という的外れな声も飛び交いました。
 さらに...
 ・「日本の領土が侵略されたら、米軍があらゆる能力で守ってくれる」 林芳正外務大臣は記者会見でこんな無責任な発言をしました。
 さらに...「日米同盟で今後も国民の命や暮らしを守れると信じております」岸田文雄総理大臣は米軍に日本人の命をゆだねるようなトンデモない発言をしていたのです。

 なぜ日本の政治家たちは危機意識のカケラもなく愚かな発言をするのでしょうか? 過去の日本人を振り返ってみると「立派」としか言いようがありませんでした。幕末の「ペリー来航」から「大東亜戦争」に至るまでの百年間…当時力を持っていた「欧米」という存在に堂々と正面から立ち向かっていきました。
 またアジアの他の国とは違って欧米の植民地にならないように、先人たちは知恵を振り絞って日本を守り抜いてきました。先人たちにとって...「国防」を考えることは当然であり、なおかつ豊かな日本を子孫たちにきちんと受け継いできたのです。
 それなのになぜ、いまの日本では体たらくで愚かな発言をするような政治家が出てくるのでしょうか? 実は...ある「キッカケ」を境目に突然ダメになってしまったのです。日本をダメにしたある「キッカケ」とは...

富岡 幸一郎

鈴木選手の活躍に

 マラソンの現日本記録保持者の鈴木健吾選手(富士通)は、高校の後輩である。東京五輪に出場したワコールの一山選手と、昨年末結婚した。今夏の世界陸上のマラソン日本代表に、夫婦そろって選ばれた。更なる活躍に期待する。
 5年前、9期生の近畿同窓会の会報に寄稿依頼があり、鈴木選手の事を記した。「今後の活躍に期待する」と書いたが、順調に、否期待以上の活躍を見せてくれている。後輩がマラソンで日本記録を更新するなどとは、夢にも想像できなかった。拙文をここに掲載する。


 鈴木選手のさらなる活躍に期待する

 

 同窓の方や在校生のみなさんの各方面での活躍には、大いに刺激される。ニュースを耳にする度に、自分も負けずに努力を積み重ねなければと思わずにはいられない。意思の軟弱な自分に、実践できるかどうかは別にして。

 昭和63年のセンバツ甲子園における優勝は、宇東にとって金字塔であり、卒業生でなくとも宇和島の関係者であれば誰もが留飲を下げ、我が事のように、否それ以上に感動したものだ。母校120年の歴史の中で、これほど燦然と輝く出来事はないだろう。

 在学中、私は陸上競技部に所属し、勉強は二の次、三の次で、三年間全精力の8割くらいを費やして練習に明け暮れた。であるから、当時は運動場の縄張り争いや、部活動予算の大部分を野球部とボート部が使っていたことなどから、野球部に対して敬意を表するなどといったことは無かった。最も苦しいトレーニングをこなしているのは、陸上部の長距離班だという自負があった。しかし、昭和63年のセンバツ以来、私はスタンドでの応援を欠かしたことがない(前年夏の初出場は、父の初盆のため行けず)。母校愛というものだろう。甲子園に脚を運ぶことは、近畿在住のОBとして当然の事だ。

 センバツに初出場のとき、大会前に私は毎日新聞に投稿した。「ぜひ甲子園で母校の校歌を」の拙文だ(昭和63年2月6日「みんなの広場」)。抜粋を掲載する。『……在校当時から部員の礼儀正しさ、練習熱心さには感心していた。特に思い出に残っているのは、昼休みのグラウンド整備だ。毎日、かんなで削ったように仕上げていた。その伝統は、今も引き継がれていることと思う。昨年春、父を亡くした。父は大の野球好きで、「一ぺん、東高に甲子園へ出てもらわないけん」が口癖だった。皮肉なもので、亡くなってからすぐに続けて二度の出場だ。生きていたら田舎から呼び寄せ、一緒に応援できるのに(……中略)昨年夏は初出場ということもあり、力を出し切れず、一回戦で敗れた。今回は、ぜひとも甲子園で校歌を聞きたいものだ』。読んだ同期生数名から連絡があった。掲載に気をよくした私は、大会終了後も投稿した(同年4月7日・毎日新聞朝刊「みんなの広場」)。『……、スタンドで家族とともに校歌を聞き、思わず涙した。……ところで、高校で教壇に立っているが、いま学校で、生徒が校歌を歌うのは卒業式の時くらいだ。校歌も満足に歌えないで、卒業して行く生徒が多い。他の学校でも同じようなものだと(……中略)私の教える生徒には、機会あるごとに指導する。工業高校なので、ほとんどの生徒が、即社会人となって巣立つ。「新入社員歓迎会の席では、堂々と校歌を歌いなさい」と言って送り出すことにしている。中学校などで、後者の窓ガラスを割ったり、教師に乱暴したりなどの、悲しいニュースを耳にする。胸を張って校歌が歌える子供に、そんなことは出来ないはずだ。「誇りをもって校歌の歌える子供」を、たくさん育てたいと思う』文中では校歌を聞くとしているが、このセンバツ初優勝のときは勿論のこと、全試合、喉を枯らして歌っていることは言うまでもない。

 前置きが長くなってしまった。前号にも掲載されたが、本年正月の箱根駅伝では、後輩 鈴木健吾(神奈川大)さんの大活躍があった。感動を通り越し、あまりのすごさにしばし呆然とした。箱根駅伝の予選会で日本人トップとなり、相応の活躍をと期待していたが、大きく上回る走りを見せてくれた。
 すぐに平野弘通先輩や宇和島・吉田在住の陸上部の同期・奥山 功さんなどに電話を掛けた。みなさん私と同様に興奮気味であった。「箱根駅伝の区間最高記録賞」くらいで、大袈裟ではないかと思われる方もおられだろう。どっこい、それは失礼ながらも「甚だしき認識不足」というものである。箱根駅伝の2区の区間賞獲得が、どれほど偉大なものであるかをご説明しよう。

 箱根駅伝に出場したいがために、関東の有力大学に全国の力ある長距離選手が集まる。しかし、本大会に出場できるのは一握りである。鈴木さんが区間賞を取られた2区は、別称「花の2区」と呼ばれ、各大学のエースが集結する。当然、ケニアやエチオピアなどからの留学生強豪選手も、この2区を走る。2区の区間最高記録賞を獲得した者は、学生長距離界のナンバーワンと言ってよいだろう。その2区で、私たちの後輩が区間賞を獲得したのである。並みいる強豪に後塵を浴びせたのである。分かっていただけただろうか。センバツ優勝に匹敵するとまでは言わないが、それに次ぐ一大事なのだ。これでお分かりいただけない方には、「大阪屋」にご集合願わなければならない。一献傾けながら、説くとご説明申し上げる。否、駅伝、マラソンの話が聞きたいと言われる方にも集まっていただかねば……。勘定はみなさん持ちで……などとケチくさいことは……。貧乏はしていても見栄は張れるのである。

 鈴木健吾さんは、3年前に全国高校駅伝に出場したときのエースであり、京都・西京極陸上競技場で激励したとき、小柄な体ながら(50キロ未満では)並々ならぬものを感じさせた。4月から4年だが、全日本学生選手権や全日本選手権での活躍が期待できる。もちろん、来年の箱根駅伝でも。それどころか、無駄のない端正なフォームを見るに、東京オリンピックのマラソン代表になるだけの資質を備えていると私は見る。後は、体の手入れを十分に行う中での猛練習である。ご存知のとおり、このところ日本の男子マラソン界は精彩を欠いている。鈴木さんの活躍が起爆剤となって、「マラソン日本」が復活することを念じて止まない。

 箱根駅伝終了後すぐ鈴木さんに、平野さんと前述の奥山さんの3人で僅かばかりの激励金を届けた。すぐに写真(箱根での雄姿)や記念品を添えた御礼の手紙が届いた。コピーではなく、それぞれに自筆だった。電話で平野さんと二人、奇しくも「泣かせるぜ」と……。平野さんは、すぐにその写真を「大阪屋」に飾られたとお聞きする。お客さんに、「これが箱根で区間賞をとったわしの後輩の鈴木君よ。がいな奴やろ」と自慢する光景が目に浮かぶ。鈴木さんが東京オリンピックに出場する際は、9期の先輩諸氏も応援団を結成してこぞって東京へ乗り込まれることだろう。そのとき、私もその末席に加えていただければ望外の喜びである。(谷口さんは宇東20期で、陸上部元主将。在学当時、県を代表する長距離走者。大学でも、全日本学生選手権や全日本大学駅伝等で活躍。卒業後も、びわ湖毎日や東京国際、別大毎日マラソンなどに出場。元大阪府立高校校長。鈴木健吾選手への評価も、彼の経験に基づくものであり確かだろう。平野弘通氏 記)

谷 口  利 広(20期)

あの戦争は西洋近代との戦いだった   富岡幸一郎

 それは昭和45年11月25日1970年です。 作家の三島由紀夫が「楯(たて)の会」の仲間とともに、自衛隊に入りまして、そこで演説をしてその後割腹し自決したという、大変衝撃的な事件がありました。 
 私は当時中学1年生でありました。三島由紀夫という名前も実は知りませんでしたが、大変衝撃を受けたのを覚えています。三島さんと一緒に自決された、
   当時25歳の森田必勝(まさかつ)さんこの2人をしのぶ会を「憂国忌」と名付けまして、その1 年後、2 年後に九段会館で行いました。私はまだ中学の後半か、高校生に入っていたかどうか覚えていませんが、そのころに会に参加いたしました。林房雄はその会の代表発起人でありました。 
 その時控え室におられた林さんと、まだまだ何も知らない、本当に子どものような私がごあいさつをしたのを大変印象深く覚えております。「林房雄がこの戦争をどう捉えたのか?」というのは、そういう意味でも私はその後、大変興味深く見つめてまいりました。林さん自身は「東亜百年戦争」という言い方をしました。
 そしてさまざまな戦争、戦闘はあったけれども、実はその中で日本人は一度として戦争に勝ったことはありませんでした。もちろん日清戦争や日露戦争は勝利したけれども、戦闘に勝ったけれども、大きな意味で日本は戦争に勝っていないのです。これはどういう意味かというと、やはり日本にとってあの幕末以来の西洋の列強、帝国主義との戦いはまさにずっと続いていたのです。 
 「あの戦争は西洋近代との戦いだった」 そういうニュアンスがこの「大東亜戦争」という戦いの中に、込められていると私は思います。「大東亜戦争の正当な評価が、戦後の歴史学者ではなく林房雄というひとりの文学者によって書かれたことは意義のあることだ」文芸評論家として、そして戦後世代として「大東亜戦争」を正当に評価するべく日夜取り組んでおります。

富岡幸一郎

【講師紹介】
1957年東京生まれ。中央大学文学部仏文科卒業。中大在学中の1979年、第22回『群像』新人文学賞 評論部門優秀作を受賞し、評論活動を開始する。以後40年間にわたり「文芸評論」の世界で活躍する。現在、文芸評論家/鎌倉文学館館長/関東学院大学 国際文化学部比較文化学科教授、雑誌『表現者クライテリオン』顧問。

特別寄稿  マラソン 鈴木健吾選手に期待する  竹内 利昭

 マラソンの現在の日本記録保持者である鈴木健吾選手(富士通)は、私の中学校・高校の後輩である。先日の東京マラソンでも、歴代2位の記録で日本人1位となった。パリ五輪をめざす精鋭の中でも、一歩抜きんでていることは、衆目の一致するところだ。順調に成長を続け、ぜひともパリ五輪でメダルを獲得して欲しい。切に願っている。
 私の教え子で元長距離選手でもあった竹内利昭氏(62歳・藤井寺市在住)から、「鈴木健吾選手の課題と対策」について寄稿があった。竹内氏は『論語』を学び、他者のために汗をかくことを厭わない「剛毅朴訥の君子」である。

 

 私みたいな者が意見述べるのはおこがましいですが、メンタル面の向上が第一かと思います。常に日本記録保持者と言われ、追う立場から追われる立場に変わってプレッシャーが相当の事だと思いました。
 ニューイヤー駅伝(1/1)では会社の不祥事でチーム全体の士気が上がらず、鈴木
選手も平凡な記録に終わりました。体調が今一つの中、東京マラソンに出場しましたが、キプチョゲ(ケニア・世界記録保持者で五輪2連覇中)のいる先頭集団に入らず第2集団で勝負することを選びました。パリ五輪に行くためのMGC(精鋭による最終代表選考レース)の出場権利を取るためには致しかない選択だと思います。ゴール後の涙はその故だと私は思いました。
 キプチョゲはペースメーカーを置き去りにして自分のペースでレー
スを運びました。方や鈴木選手は、ペースメーカーにペースを崩されました。キプチョゲは「どうしたら長く活躍できるか」の質問に「プロフェッショナルであること、競技に対して愛情を持つこと」と答えていました。
 鈴木選手は日本記録保持者、琵琶湖で終盤ペ
ースを落とさず反対にペースアップしました。鈴木選手は、日本におけるプロフェッショナルです。自信を持って「飽くこと無く 可能性を求めて」前に進んで行って頂きたい。

 今年の7月、世界陸上のマラソン代表となりましたが、パリに向けて夏のマラソン経験出来るのは大きな事です。世界陸上はペースメーカー付くかどうかわかりませんが、MGCや五輪はペースメーカー付きません。特にMGCは鈴木選手中心に進むと想定されます。自分のペースでレースを作り、代表を勝ち取る力はあります。消極的な意見と取られるかも知れませんが、世界では記録より順位を目指すレースに徹する、そのような練習を取り入れたらどうかと思いますが?
(竹内 利昭)


 自分たちが戦った戦争を何と呼ぶのか 文芸評論家 冨岡 幸一郎


 私は昭和32年の生まれですが、学校の教科書では先の戦争を「太平洋戦争」と記述されていました。最近では、左翼の側はあの戦争を何と呼ぶのか? 大東亜戦争というのは嫌だ! 大東亜戦争にくみしたくない! ということで「アジア・太平洋戦争」などという呼び方をしています。
 また戦後の左翼史観が強かった時代からの呼び名ですが「十五年戦争」という
言い方もされています。しかし、すでに皆さまもご存知のように、あの戦争の本当の名前、私たちの先人たちが「あの戦争」を何と呼んだのかというと、言うまでもなく「大東亜戦争」というのが正しい名前であります。
この「大東亜」というのは、当時「大東亜共栄圏」という言葉がありました。

 「日本を中心にアジアが栄える」「西洋列強の植民地を解放し、東亜の秩序を日本が盟主となって、中心となって築こう」という理念がありました。しかし、戦後アメリカのGHQ占領軍が「東京裁判」を行いましたが、占領軍は日本に進駐してすぐに、「12月15日以降『大東亜戦争』という言葉は使ってはいけない」ということで、以後は「太平洋戦争 (Pacific War)」という、アメリカ人が呼んでいた戦争の名前になったわけです。
 またテレビなど一般的にはまだ「太平洋戦争」という GHQ によって命令され
た言葉が使われているというのは大変残念ですし、遺憾なことだと思っています。
 
 「自分たちが戦った戦争を何と呼ぶのか?」というのは大変大事なことで

す。 例えばロシアですが、18世紀にナポレオンと戦いました。ナポレオンは一時期モスクワを占領しました。しかし「冬将軍」(非常に厳しい寒さ)とロシア軍の執拗(しつよう)な抵抗で、ついに最強のナポレオン軍が敗退していきます。
 ロ
シアではあの戦争を「祖国戦争」あるいは「祖国防衛戦争」と呼んでいます。民族・国民・国家の誇りが、あのナポレオンを打ち破ったというロシア人の誇りにつながっているのです。 

 私はかねてよりこの大東亜戦争について、戦争を体験しない世代あるいは

我々よりももっと若い世代に、ぜひ日本人が死力を尽くして戦った「大東亜戦争」について戦争体験のない若い文学者に大きな歴史小説を書いてもらいたいと思っています。そういう意味でも、この「大東亜戦争」という呼び名は、やはり大変重要な問題になっていくと思っています。 

 冨岡 幸一郎(文芸評論家)

令和3年度も押し迫って

 令和3年度も押し迫って来た。年度内に片づけなければならないことも少なくない。現役のときは必要に迫られ、今日やるべきこと、週内にやればよいことなど、頭の中できちんきちんと整理されていたが、最近はそうはいかない。また、ちょっとしたミスが多くなった。これらは老化現象のひとつであろう。メモ書きをして、整理することが求められる。繰り返し点検することが必要だ。

 わりと「やらなければならない」ことが多い方だが、「やるべきことが多い」ことは、ボケ防止には有難いことだ。そう思って、一つひとつ片づけていきたい。

天皇を天皇にしているものは  松浦 光修

 日本を「日本にしているもの」は、天皇のご存在のみ....つまり、天皇は曰本の「たまの緒」でもある、というお話をしましたが、それでは、さらに考えをすすめて、天皇を「天皇にしているもの」とは何でしょう。

 こういうことを論じるのは、おそれ多いことではありますが、これは日本人として、どうしても知っておかなければならないことだと思いますので、これから、私が考えているところを、すこしお話しします。

 天皇を「天皇にしているもの」といっても、もちろん数え上げていったらきりがありません。けれども、「どうしても、これだけは…」というものが、二つあります。
 まず一つ目は、あたりまえのことですが、初代の天皇である神武天皇のお血すじを引いていらっしゃる・・・ということです。しかも、ただお血すじがつながってさえいればいい、というものではありません。百二十六代におよぶ、長い皇室の歴史をみると、皇位の受け継ぎ方は、じつにさまざまです。兄弟で受け継がれたこともありましたし、なかには息子である天皇のあとを継いで、そのお母さまが天皇になられる(第四十三代・元明天皇)という、めずらしい例もあります。
 けれども神武天皇以来、今の天皇陛下にいたるまで、一つの例外もなく守られている皇位の受け継ぎ方の大原則があります。それは神武天皇の男系の子孫に受け継がれてきたということです。「男系」というのは、父方のお血すじをたどっていけば、かならず神武天皇にたどり着く・・・ということです。
 今の世間には、「女性天皇」と「女系天皇」の区別がつかない、という人がたくさんいらっしゃるようですが、その二つは、ぜんぜんちがいます。女性天皇は、歴史の上では、八方いらっしゃいます。お一方で二度、天皇の位についていらっしゃる方が、お二方いますので、つまり、十代の女性天皇がいらっしゃるわけですが、いずれも、父方のお血すじをたどっていけば、神武天皇にたどりつく方です。
 それとはちがって、もしも女性天皇が、どこか別の家の男性からお婿さんをむかえて、その間に誕生した子供が、天皇として即位したら(その子供が、男子であろうと女子であろうと)、その時、わが国の歴史上、はじめて「女系天皇」があらわれることになります。もちろん、そんな天皇は、これまでお一方もいません。
 たとえば、ある天皇に男のお子さまがいらっしゃらず、女のお子さまだけがいらっしゃった場合、私たちの先祖は、「その女のお子さまが、天皇の位につけばよい」などとは、けっして考えませんでした。たとえ前の天皇から、かなり血すじが離れていても、とにかく神武天皇の男系のご子孫を探してた、天皇の位についていただいてきたのです。

 そのような建国以来のわが国の先祖たちの「神武天皇の男系のお血すじ」への深い敬意と、それにもとづく奇跡のような努力によって、天皇は、今の地球上でたった一人の「皇帝」として、たたえられるようになっています。そういう建国以来の、皇位の受け継ぎ方の大原則を破壊することは、悠久の歴史を刻んできた日本そのものを破壊することです。ですから、私は、あちらこちらで、なんども繰り返して、「皇位の男系継承という大原則を、守らなければなりません」と訴え続けてきました。「けれども、悠仁さまと一人では、将来が心配なのですが・・・」とおっしゃる方も、いらっしゃるでしょう。心配はいりません。「皇位の男系継承」を守る方法は、ちゃんとあります。そのことを、つぎにお話ししましょう。  原文のまま 
(つづく)

皇學館大学教授 松浦 光修

ロゴマーク

 三生連の会章(ロゴマーク)が、出来上がった。
 今後、様々な場面で使用する。


 三郷町を形成する南畑・立野・勢野の三地区の連合をイメージ、三本線は高齢者の会がめざす、健康・友愛・奉仕を表している。

 現在、会章をあしらった『会旗』も製作中である。4月7日の「役員会」、8日の「支部長会」がお披露目となる。
会章

縄文時代から始まった稲作   田中忠道(東北大学名誉教授)

 田中忠道氏の説をご紹介する。


 今までの歴史観では、中国や朝鮮から進んだ文化が日本列島にもたらされ、古代日本が発展したといわれてきましたが、近年の研究で、実はそれがウソだということが判明し、今までの通説が大きく塗り替えられることになりました。


 その例としてあげられるのが、稲作です。稲作は、紀元前5〜紀元前4世紀に、
中国の戦国時代の混乱のため、大陸や朝鮮半島から日本に渡った人たちによっ
てもたらされたと考えられていました。しかし、国立歴史民俗博物館研究グループの調査によると、北部九州から出土した32点の土器に付着した炭化物を、最新の放射性炭素年代という年代測定法で分析した結果、日本における水田耕作のはじまりが約500年早まり、紀元前1000年ごろと推定されるようになったのです。
 つまり、縄文時代にすでに稲作がはじまっており、水田耕作が行われた弥生時代は1000年以上続くことになります。32点、まとめて測定され、ばらつきが認められないとなると、これは確かなことといわなければなりません。いまでも文化の発生は、常に大陸にあり、日本は大陸からの移入文化であるという先入観がありますが決してそのようなことはありません。


 金属器の文化についても同様のことが言えます。弥生文化のもっとも大きな特徴は、鉄器や青銅器などの金属器の使用であるといわれています。とくに銅器はこの時代の象徴です。朝鮮半島には青銅器の小さな鐘がありますが、日本の銅鐸はそれよりもはるかに大型で、祭器として使われていた点でも、朝鮮半島のものとは異なる特徴をもっています。その表面には絵画が描かれ、当時の生活を彷彿させます。
 さらに九州北部では銅剣、銅矛、銅戈などの武器形祭器が使われました。これらは実際の武器ではなく、それが祭器であったところに日本人特有の御霊信仰を感じることができます。このことからも、古代日本の文化は大陸の文化とは似ても似付かないのです。にも関わらず、残念なことにこれ以降の時代も、古代日本は絶えず大陸ありきの歴史だったかのように学校では教えられています。


・中国系・朝鮮系渡来人がより硬質な土器の作り方を伝えた
・朝鮮からきた渡来人によって、巨大な古墳を築く技術が伝わった
・遣隋使・遣唐使が中国の進んだ文化を日本にもたらしたなどなど、


 なぜか大陸の文明の方が進んでいて、日本の文明の方が遅れていたかのように語られています。私は、決してそのようなことはなかったと思っています。
紀元前1世紀の時代から、聖徳太子の時代まで、太古の昔から日本が、自立した高度な文明国家を作り上げていたということ、そしてそんな日本に、実は古代中国人が憧れていたことを私は証明できます。

田中忠道(東北大学名誉教授)


ペリーの来航時、日本の経済規模は欧米諸国に匹敵するほど

  「ペリーの黒船」が来日した時点で我が国が「小国」であったと言うのは、間違いだ。江戸期の時点で日本経済は欧米を凌ぐほどに大きかった。

 1700年頃、産業革命前だが、日本のGDPは英国よりも大きかった。ドイツよりも。フランスには負けていたが、わずかな差だった。オランダに至っては、日本の四分の一程度の経済規模に過ぎなかった。ペリーが来航するおよそ30年前の1820年時点でも、日本のGDPは米国よりもはるかに大きかった。

 さすがに、産業革命を経た1820年時点の英国、フランス、ドイツには追い抜かれることになったが。

術後1か月     両膝人工関節者のフルマラソン完走

 右膝の人工関節置換手術を2月14日に受けたことは、前に記したとおりだ。本日で、術後1カ月である(2月は28日しかなかったので、厳密には28日)。
 まだ腫れは引かないし、動くと少し痛い。2階で寝起きしているが、朝はこわばっているので階段を下りるのにひと苦労する。
  
  退院の翌日から、6時30分からの「ラジオ体操会」に参加しているが、まだ体操はしていない。膝に負担のかかる動きも多いので、自重している。みなさんが体操されている間、周りを歩いているのだが、これは、結構辛いものである。

 昨夜は、しっかり走れるようになった夢を見た。「この調子なら2年後にはフルマラソンの完走もできるだろう」などと夢の中で思った。実際は、困難極まりないだろう。しかし、ネット情報では、両膝人工関節者の60歳代前半の男性による「フルマラソン完走」の記録が残されている。日本人だ。練習中の動画も見ることができる。
 しかし、70歳代による完走の情報掲載は無い。もしかしたら、それは『ギネスブック』ものかも知れない。
 5月の連休明けごろには、かなり動けるようになると思う。そのときに、「飽くこと無く 可能性を求めよう」と思えるだろうか。

日本は「小国」ではなかった

   ほとんどの日本人が勘違いしているが、江戸時代以前から日本は、「小国」ではなかった。
   日本が「小国」だったというのは、自虐史観に染まった我々が抱く印象に過ぎない。

 1750年、米国の人口は、200万人に過ぎなかった。同時期、日本の人口はすでに2800万人を超えていた。
 江戸時代初期、日本は欧米諸国よりも人口が多かった。欧州の人口大国はフランスだったが、それでも2400万人だった。広大なインドネシアを植民地にしたオランダの人口は、200万人だった。
 明治維新の少し前、1850年の日本の人口は3200万人で、人口大国だった。その要因としては、日本は稲作、欧州は麦作だったことが挙げられる。

 同じ土地で養える人口が10倍も違ったのである。

辻堂支部も

 先日の「勢野第2支部」に続き、本日「辻堂支部」(会員数17名)からも『解散届』が提出された。事務所で説得に努めたが「主だった会員が集まり協議した結果」と翻意は叶わなかった。大変残念な事態である。

日本の特殊性   田中忠道

 日本の文化について語るには、その歴史的な積み重ねはもちろんのこと、最初に自然環境の特殊性をしっかり押さえておくことが重要です。日本という国の輪郭、文化の拠って立つ基盤には、自然環境が大きく影響しているからです。

 まず、何といっても日本は島国であるということです。有名な『文明の衝突』を著したサミュエル・P・ハンチントンは、日本を世界の八大文明の一つとし、「日本は孤立しており、 世界のいかなる他国とも文化的に 密接なつながりをもたない」と記しています。
 しかし、日本はハンチントンのいうように、決して〝孤立〟しているわけではありません。ですから、実際に中国や朝鮮から多くの人々が海を渡って日本にやってきました。南方からもやってきました。島伝いでやってくるという人たちもいました。

 日本人の起源については、いわゆる「南方説」というのもあるほどで、太平洋岸の島々から日本に渡ってきた人々もいました。
 そもそも、人類はアフリカに誕生しました。ですから、人類がこの日本までやってくるには、広大なユーラシア大陸を横断してこなければなりませんでした。ユーラシア大陸の東端に位置する日本は、〝日の本〟の名前のとおり、日出ずる処(太陽が昇る国)です。
 先ほど日本は島国だといいましたが、何が重要なのかというと、大陸と適度な距離があるために、簡単に攻められないということです。船に乗ってこなくてはならないので、侵略するのは容易ではない。そういう利点があるのです。
 他民族が日本に入ろうとしても、日本海を渡ってこなくてはならない。それには大変な努力や工夫が必要になるわけです。決して泳いで渡れるような距離ではないので、最低でも、海を渡りきるだけの船をつくらなければなりません。こうしたことは、たいしたことではないと思うかもしれませんが、大事なことです。
 いわば日本列島に住む人々の〝ふるいがけ〟が行われていたということなのです。

 少なくともそうした工夫のできない人たちは、日本には来ることができなくて、そうした努力・工夫というか、才能というか、組織力をもっていた人たちがやってきたのです。これはただ偶然にやってきたということではありません。
 日本人の優秀性というと何ですが、少なくともそうした事情はあったのです。
 それが長い間、およそ一万年前に日本列島が大陸と離れた後は、一貫してそういう日本の特殊性があったわけです。しかも、その日本の風土は、熱帯でも寒帯でもない、ちょうどその中間に位置することから、温帯を中心とした、比較的温暖で、豊かな自然条件に恵まれていました。ですから新天地をめざして、長い間、歩いてきた人たちが、船に乗って日本に渡ってきたときの喜びようというものはたいへん大きかったに違いありません。


東北大学 名誉教授
日本国史学会 代表理事
ボローニャ大学・ローマ大学客員教授

田中 英道


なぜ天皇陛下は、皇居で稲作をされるのか

 「いただきます」、「ごちそうさま」などという日常の言葉にこめられている意味さえ、今の日本人には、わからなくなりつつあります。
 けれども、そんな今の日本にあっても、その言葉にこめられているほんとうの意味を、無言の行いによって、私たちに教えてくださっている方がいます。


 いうまでもありません。天皇陛下です。

 毎年、秋になると、テレビニュースで、陛下が稲刈りをされている光景が映り
ます。「ああ・・・、そういえば・・・」と、記憶のある方も、たくさんいらっしゃるでしょう。

 皇居のなかには、宮中祭祀が行われている「宮中三殿」の近くに、三百平方メ
ートルほどの「田んぼ」があります。そこで陛下は、稲作をされているのです。

 春には、長そでのシャツにズボン姿で、「種もみまき」をされます。初夏になると、「田植え」です。陛下は、長靴をはいて泥田のなかに入り、百株を、一つひとつ手で植えていかれます。

 秋になると、稲刈りで、作業服に長靴姿の陛下が、鎌を使って、お手づから、サクッ、サクッ・・・と音をたてて、百株の稲の収穫をされます。


 一国の君主が・・・、趨味の園芸ならともかく、日々の生活に欠くことのできない食料を生産している・・・などという例を、私はほかに知りません。天皇おんみずからが、稲作をはじめられたのは、近代になってからのことですが、そもそも、なぜ陛下は、みずから泥にまみれて、稲作をなさり、さらに、その作業をするお姿を、国民に見せてくださっているのでしょうか。

 その答えのヒントは、秋に皇居で収穫されたお米が、どこに運ばれるのか、というところにあります。皇居で収穫されたお米は、伊勢の神宮に奉納されるのです。伊勢神宮では、いうまでもなく 一年をつうじて、毎曰、さまざまなお祭りが行なわれています。そのうち、もっとも大切なお祭は、その秋に獲れたお米(お初穂)を、神さまにささげるお祭りです。
 「神嘗祭」と呼ばれているもので、両宮では、毎年十月十五日から十七日にかけて行なわれています。地元の伊勢の人々が、「おおまつり」と呼んでいるのは、この「神嘗祭」のことです。このお祭りの時、天皇陛下が大切に育てられ、収穫された稲束が、神宮に奉納されます。その行いが、どういうことを意味するのか・・・、天皇陛下が、言葉で説明されるということは、もちろんありませんが、「斎庭稲穂の神勅」を知っている人ならば、その行いに、陛下がどのような思いをこめていらっしゃるのか、すぐにピンとくるはずです。なにしろ、お米は、アマテラス大神が、ニニギノ命にさずけてくださったものなのです。
 
 ですから、そもそも陛下にとっては、稲作をされることが、深い信仰にもとづく行いなのでしょう。陛下の稲作には、ほかにも、いろいろな意味があるかもしれません。
 
 近ごろ私は、私の友人の国会議員から、こんな話を聞きました。その議員さんは、自分の選挙区で、しばしば農作業に参加するそうですが、参加しているうち、不思議なことに、農家の方々と何も言わなくても心がかようようになるのだそうです。その話を聞いて、私は、あらためて「ハッ!」と気がつきました。
 陛下は、農家の人々の労苦を、ひいては、額に汗して働くすべての国民の労苦を、まずは、みずからが体験し、そのことをつうじて、国民と心がかようよう、努めていらっしゃるのではないでしょうか。それは、まさに、国民と苦楽をともにするという歴代の天皇のみ心を、言葉ではなく、一つの行いとして、私たちにお示しくださっているのだ、と考えることもできます。

(つづく)

皇學館大学教授 松浦光修


神武天皇などが実在しないとされる理由

 現在の日本の歴史学会においては、初代の神武天皇から9代の開化天皇までの歴史はなかったことになっている。「まったく神話の世界の話であり、実在を信じる説はない」と断定している。説明はない。

 歴史学者たちが「実在しない」とする理由は、神武天皇の没年齢が127歳、考安天皇が137歳、孝霊天皇が128歳、垂仁天皇が139歳、景行天皇が147歳と、諸天皇の寿命が異常に長いためだ(日本書紀による)。

 だが、自虐史家でも存在を認めざるを得ない仁徳天皇の没年齢は、日本書紀によると143歳である。なぜ、仁徳天皇は認め、開化天皇以前は全否定しようとするのだろうか。

 日本書紀に記録された諸天皇の寿命が極端に長いのは、当時は「春秋歴」が使用されていたためだろう。春の耕作期、秋の収穫期にそれぞれ「1年」が始まるとされたのだ。つまりは、各天皇の寿命は現代の暦で換算すると、2倍になっている。

 日本の歴史家は、我が国の「正史」であり、当時の日本人が書いた古事記や日本書紀の内容を、都合に合わせて否定する。日本人以外が書いた「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)については、妙に信頼を寄せる。不思議な事である。

世界の奇跡

 日本国は、世界最長の歴史を誇る国である。2位がデンマークで3位が英国、日本の歴史はデンマークの2倍以上だ。

 国家の始まりがあまりにも古く、建国がいつなのか詳細は分かっていない。

 古事記や日本書紀といった「正史」において、天照大神(あまてらすおおみかみ)や
スサノオノミコト、あるいは伊邪那岐(いざなぎ)や伊邪那美(いざなみ)といった神話の神々から始まっているのが日本国なのだ。

 天照大神(あまてらすおおみかみ)とスサノオノミコトが「誓約(うけい)」<結婚>し、何人かの子どもが生まれた。孫が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)である。
 瓊瓊杵尊は天照大神の命を受け、高天原(たかまがはら)から日向(ひむか)に天下った。いわゆる「天孫降臨」だ。日向の国とは、今の宮崎県である。天孫降臨の地については、鹿児島県の天降川付近という説も有力になっている。高天原は、「鹿島神宮」(茨城県)や「香取神宮」(千葉県)の近くだったとの説も。

 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)一族は、日向でしばらく暮らしたが、曽孫の神倭伊波礼比古命(かんやまといわれびのみこと)が、東に新天地を求めて出発した。いわゆる、神武東征(じんむとうせい)だ。

 和歌山あたりにたどり着き、最終的に奈良県の地に王朝を建て、神武天皇として即位した。今上陛下は、第126代目である。これほどまでに、長期にかつ「男系」で皇統が続いた国の存在は、世界の奇跡なのである。

GHQによる焚書(ふんしょ)

   焚書(ふんしょ)とは、書物を焼却することである。特に,書物に記された思想を禁圧し,その流通伝播を抑止する目的で,為政者,権力者が公開の場で当該書物を焼却する行為儀式だ。

 秦始皇帝の「焚書坑儒」(ふんしょこうじゅ)(紀元前213年)以来,ナチスドイツ書(1933),中国文化大革命の焚書(1966)にも見られるように,歴史的にほとんど途絶えることなく続いている思想・言論弾圧統制手段であり、検閲禁書の極端な形態である。

 書物が大量に安価に生産される時代にあってはすべてを焼却することは不可能だが,弾圧・統制の象徴的な意味を持って行われる。

 大東亜戦争に敗れた我が国は、GHQの「宣伝用刊行物没収指令」により、膨大な書籍が焚書にされてしまった。GHQにより、7769点の刊行物が「没収宣伝用刊行物」に指定され、焚書されてしまったのである。

 文明国が他国に対し焚書を行うなど、どのような言い訳も成り立たない。けっして許されない野蛮な行為だ。連合国側は、我が国に対してそれを行ったのだ。

 GHQの焚書に加え、戦後の日教組や自虐史家たちなどの影響で、日本人は「正しい歴史」を見失ってしまった。新聞やテレビなども情報にフィルターをかけ、真実を伝えていない。多くの日本人が、祖国に対する誇りすら奪われてしまったのである。

 私たちは「正しい歴史」を学び直し、「日本に対する誇り」を取り戻さなければならない。

太陽の恩恵

 今朝、雨上がりの空気を胸一杯に吸い込み、とても気持ちがよかった。

 「ラジオ体操会」には退院翌日(術後14日)から出ているが、実際には体操はまだしていない。ジャンプはともかく、膝に負担のかかる種目もあるので自重している。みなさんの体操を少し離れた所から眺めていて、改めて気づくことも少なくない。今後に生かしたいと思う。

 メラトニン

 さて、朝、日光を浴びると気持ちよく起きられると聞いたことはないか。日光は、朝の目覚めを良くするだけではなく、睡眠全体の質を上げることに役立つ。私たちの体には、メラトニンという体内時計を調整する役割を持ったホルモンがある。メラトニンには眠気を促す働きがあり、メラトニンが分泌されることで眠くなり、分泌が止まることで目覚める。こうして一日のサイクルができあがるのだ。このメラトニンの分泌と密接に関わっているのが太陽の光であり、メラトニンは日光を浴びて14~15時間後に分泌が開始されるという特徴がある。そのため、朝、太陽の光を浴びておくことで、夜に眠気がやってきて気持ちよく眠れるというわけだ。日光をしっかり浴びておくことは、良い目覚めと良い睡眠をもたらしてくれる。

 セロトニン

 日光は、幸せホルモンとも呼ばれる「セロトニン」とも深い関わりがある。セロトニンは、心と体のバランスをコントロールする役割を持っていて、精神面を安定させるうえでとても重要なホルモンだ。このセロトニンも、日光を浴びることで分泌量が増えることが科学的に明らかになっている。秋から冬にかけて気分が落ち込み、春になると改善する季節性うつ病という症状がある。日光を十分に浴びられないことが原因で起こると言われる。改善には日光に近い光を浴びる光療法が取り入れられており、日光が気分を高めることは医療の現場でも認められている。

 ビタミンD

 日光は、私たちの体の中にビタミンDも作りだす。ビタミンDは、カルシウムの吸収を促して骨を強くしたり、免疫力を高めて病気や感染症にかかるリスクを減らしてくれたりする。また、最近の研究では、卵巣がんや前立腺がんなどの予防にも効果があることが分かっている。このビタミンDを日光が作りだしてくれるのだ。

 日光の中にビタミンDが含まれていると誤解している人もいるが、そうではない。皮膚が日光にさらされることで、体内にビタミンDが生成されるのである。だから、日光を浴びるということは私たちの健康を守るうえでとても大切なことなのだ。

 健康面でさまざまな効果のある日光だが、浴び過ぎには注意したい。太陽を浴びるちょうどいい時間というのは、標高や赤道からの距離、あるいは皮膚の色によって違いがあるが、おおよそ1日10~15分程度が適当と考えられている。日光を長時間浴び続けると軽い火傷のような日焼けになったり、シワやシミの原因にもなる。また、有害な紫外線によりガンを引き起こす場合もあるので要注意だ。

 日光に当たって日焼けをすると、肌が老化してシワが増えるらしい。「皮膚がんになる確率も高くなるので、できるだけ太陽には当たらないようにしている」そういう人が増えているように思う。確かに、日光を浴び過ぎるのは良くないが、避けすぎるのも考えもの。なぜなら日光は、私たちを健康にしてくれるものでもあるからだ。日光を適度に浴びることは、私たちの心や体を元気にしてくれる。日焼け止め対策をした上で、まぶしい太陽の下で少し時間を過ごしてみては如何か。

陥りやすい三つの悪文パターン

 私は公立高校の体育の教師を永く務めた。「保健体育」が専門である。壇上や指揮台に立って全校生徒を指揮したり、講話をしたりする機会も多く、そういった面は自然と鍛えられた。一方、教師として文章を書かなければならない機会も少なくなかった。特に、20代後半にして保健体育科で最年長となり、校務分掌の長も任ぜられた。  
 「文章力の向上」は、必須となったのである。生来の勉強嫌いが、文章修行に努めざるを得なくなったと言えよう。

 古書店を回り、「文章の書き方」などに係わるさまざまな書籍を求めた。それらの中には、谷崎や三島、中村真一郎や丸谷才一などの「小説読本・文章読本」なども含まれていた。細かくは数えてはいないが、その数、30冊は優に超えた。繰り返し読み、エッセンスを抜き書きした。もちろん、本を読んだだけで文章力が向上する程、世の中、甘くは無い。学んだことを元に書いた。書きまくったと言えよう。

 そうすると、自分の文章が他者からどのような評価をいただけるかとの思いが募った。新聞社や雑誌社等に投稿するようになったのだ。努力は実るもので、おもしろいように採用された。ちょっとした「賞」も幾つかいただいた。望ましい循環となり、さらに修行に励んだ。併せて、「俳句」や「短歌」もかじるようになった。

 40歳代半ばとなり、上司から「教頭試験」の受験を勧められるようになったが、定年まで一体育教師として貫き通すのが「自分の生き方」と断り続けた。妻も私と同様の気持ちであった。  
 そのような中、断り切れなくなり数年後に受けた。「論文テスト」なのだが、一度で合格した。文章修行が功を奏したのだろう。もちろん、その下地には日々の教育実践があったと、不遜を承知で申し上げる。妻は、「合格で実力は証明されたのだから、今から辞退しては」と……。なかなか言える文句ではない。

 前置きが長くなったが、陥りやすい三つの悪文パターンとして、次の三つを挙げる。少しでも参考になれば幸いである。

 1 事実や印象の羅列により意図がつかめない
 2 読み手が退屈する理屈攻め
 3 読み手 の興味をひかない一般論

 先ず、「文章の意図がつかめない事実や印象の羅列」というのは、要するに思いついたことを手当たり次第に書き連ねてしまうということだ。どうしてこのようなことになってしまうのか。自分の書きたいポイントが絞り込めていないからだ。本当に自分が書きたいこと、訴えたいことが何かを自問するところから始める。

 次に、「読み手が退屈する理屈詰め」だが、これは抽象的なテーマについて書くときに陥りやすい。本当の意味で、自分自身もその内容について良く分かっていないからだ。よく理解していることであれば、理屈っぽくならずに分かりやすく書くことができる。それを誤魔化そうとするところに問題がある。

 最後に、「読み手の興味をひかない一般論」だが、これもよく陥りがちなパターンである。紋切り型の結論に導いてしまう。誰もが思いつくようなことを書いたところで、面白くも何ともない。では、こうした問題はどうして生じるのか。結局、人が読んで面白いと思うのは他人の特異体験なのだ。つまり、書き手にしか書けないことが分かりやすく書かれているからこそ、読者は面白いと感じるのだ。したがって、個人的な体験を大切にし、鋭い観察を元に書くことによって文章は面白くなるのだ。

 よりよい文章を書くためのヒントとして、よく「スキ間風の吹き抜ける文章」ということが言われる。これによって分かりやすい文章が書けると言われる。「スキ間風の吹き抜ける文章」というのは、要するに主観的な説明をするのではなく、対象をできるだけ客観的に詳しく描写することだ。
 「花は美しい」と主観的に説明する代わりに「何という花が、どのような状況の中で咲き、花の色や香りが周囲とどのようにうまく調和しているか」などを細かく客観的に描写すればするほど、花の美しさは読む人に伝わってくるのだ。

 心がけていても、いつも読み手を惹き付ける文章が書ける訳では無い。しかし常に心がけることにより、理想に近づけることに疑いの余地は無い。

ハクモクレンは順調

   2週間の留守中、寒い日が多かったようだが、その間にも「庭の四季」は歩みを止めていなかった。
 モミジの葉芽はまだ小さいのだが、2割は大きくなったように見える。盆梅は満開となり、鉢植えのサクラは蕾が倍くらいの大きさになった。我が家のシンボルツリーとも言えるハクモクレンの蕾も、順調に育っている。3月12日前後には開花するだろう。ご近所の方や行交う人に、今年も喜んで貰える。盆栽たちには留守をする前に施肥をしたが、効き始めているだろう。

 明日から3月、雑木盆栽の芽吹きも近い。 庭いじりや盆栽たちの世話は、これから多用となって来る。わたしにとっては、うれしいことだ。

膝の手術

 変形性膝関節炎で、10年前に左膝の人工関節置換手術を受けた。右膝の痛みも徐々にひどくなり、2月14日に同様の手術を。昨日(26日)、退院できた。術後、12日での退院だ。前回の約半分の日数である。この10年間で、機器・器具、そして技術技能が進歩したのだろう。私の体力は衰えたのに。

 退院したとは言え、腫れが完全に引き、熱をもたなくなるには2か月を要するだろう。両膝とも人工関節になり、さぞかし落胆しているだろうと思われるだろうが、そのようなことはない。今後も精力的にリハビリに努め、療養・静養に努め、以前より『元気度2割アップ』をめざす。
 今朝は、久しぶりに「ラジオ体操会」に出席した(今しばらくは、体操は自重するが)。
 読者の中にも、変形性膝関節炎の膝痛でお悩みの方も多いだろうが、「人工関節置換手術」も対応策のひとつである。





平群町内の黒松に思う

   20代後半から庭いじりを始めた。盆栽培養の世界にも、「サツキ」から入り、すでに46~47年になる。「単に片手間に」の域を超えて、これまでさまざまなことを学び研鑽に努めてきたので、それなりの技術・技能、並びに鑑賞力を身につけたの自負がある。

   皇居において、「名盆栽」「銘盆栽」と呼ばれる歴史のある盆栽を培養していることをご存知だろう。偉そうな言い方をしているが、私も写真集や映像で見ただけで、実際には鑑賞した事がない。一度鑑賞する機会があればと思っている。
 樹齢550年超の「五葉松」や450年超の「藤」など、名品が揃っている。毎年の手入れを怠らず、脈々と継承して来たわけだ。大東亜戦争中も、畑に移して管理に努めたと聞く。培養・管理に務めて来られた方には、筆舌に尽くし難いご苦労があったことだろう。

 

 さて、平群町内の長屋王のお墓近くの、とあるお宅に庭植えの「黒松」の名品がある。「あった」と言うべきか。私の知る限りでは、生駒郡や王寺町界隈では一番だろうと思っていた。今から10数年前に、その存在を知った。近くを通る際は、いつも楽しみにしていた。門近くに植えてある模様木であり、枝ぶりが見事だった。手入れも的確適切で、かなりの腕前の庭師が担っていたと思われる。余談だが、「黒松の本格的な手入れが出来る植木職人は10人に一人も居ない」というのが持論である。この事について述べていると長くなるので、別の機会にする。それだけの「黒松」が植わっているのに、この家の他の植栽は大した事はない。

 ところで、先ほど「名品があった」と過去形にしたが、8年前から急に手入れをしなくなり、放任するようになってしまった。理由は、まったく分からない。そのお宅に誰も住まなくなったというわけではなかった。住人の気配は感じられたから。近くを通るたびに、「どうしたのだろう、残念だ」の思いが続いた。4年くらいで、茫々のむさくるしい姿に変貌した。「マキ」であろうが「ツゲ」であろうが、ほとんどの樹木は3~4年手入れをせず放任しても、次の年に剪定すれば、元の形に戻すことはわりと簡単だ。しかし、「黒松」はそういうわけにはいかない。3年も放置すれば、元に戻すことは不可能である。

 その「黒松」は長く放置が続いたのだが、4カ月ほど前に8年ぶりに手入れされていることに気づいた。すぐに近くによって、まじまじと眺めた。あの「名品」が無残な事になっていた。とても悲しくなった。生駒郡の、奈良県の、宝とも言うべき「名黒松」が、あわれな姿になっていた。国内の「黒松培養の達人」の域に近い50歳代の人が、これから20年の歳月をこの「黒松」一木にかけたとしても、元には戻らないだろう。

 冒頭、「皇居の盆栽」について記したが、盆栽に限らず、文化財等を何百年も保護・継承していくということは凄い事だ。並大抵の努力ではかなわない。況して「生き物」を……。

 私淑する田中英道氏(東北大学名誉教授)が、「『法隆寺の五重塔・金堂』の歴史的意義は桁外れである」と言われる。私たちは、その法隆寺のすぐ近くに住んでいる。地理的利点を享受しているだろうか。折に触れ訪れねばと、そして心に焼き付けねばと反省しているのである。

五葉松  樹齢550年
藤  樹齢450年
モミジ(清玄)  樹齢100年

建国記念の日

 今日は「建国記念の日」である。国旗を掲揚して、お祝いしたい。

 「建国記念日」を法律で定めて祝日とする国家は多いが、何をもって建国記念日とするかは、によって異なる。日本では、建国をしのぶ日として法律に基づき「建国記念の日」が定められた。日付は政令に基づき、建国神話日本神話)を基に日本建国日とされている旧紀元節と同じ日にされた。

2月11日は、日本神話の登場人物であり、古事記日本書紀で初代天皇とされる神武天皇即位日が、日本書紀によれば辛酉年春正月、庚辰、すなわち、1月1日 (旧暦)(『日本書紀』卷第三、神武紀 「辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮」)とあり、その月日を明治に入り、グレゴリオ暦での具体的な日付として推定したものである。

 明治5年11月15日太政官布告第344号「神武天皇御即位祝日例年御祭典」によって、旧暦1月1日に当たる1月29日が祝日とされた。翌 明治6年1月4日太政官布告第1号「五節ヲ廃シ祝日ヲ定ム」によって、神武天皇即位日という名称となり、1月29日に諸式典が斎行された。

 同年3月7日太政官布告第91号「神武天皇御即位日ヲ紀元節ト称ス」によって、紀元節という名称に改称された。同年7月20日太政官布告第258号によって、紀元節の日付は2月11日に改められ、翌 明治7年2月11日から適用された。この紀元節は昭和23年にいちど廃止されたものの、改めて昭和41年に「建国記念の日」として国民の祝日となり、その翌年から適用された。

 本日は、各地の神社仏閣(神道神社仏教寺院)にて「建国祭」などの祭りが執り行われる。政府主催の式典が挙行されないのは残念なことだが、「日本の建国を祝う会」が主催する「建国記念の日奉祝中央式典」が毎年開かれ、駐日大使の参列もある。旧日本海軍の技術・伝統を継承している海上自衛隊では、基地・一般港湾等に停泊している自衛艦において満艦飾が行われる。

日本の神さまは生きている     松浦 光修

 神話は、民族の「心のかたち」をあらわしたものですから、どの民族のどの神話も、いずれも尊いものです。けれども日本の「神代の物語」には、ほかの民族のどの神話ともちがう、大きな特徴があります。
 それは何でしょう?
 一言で言えぱ、「生きている」ということです。逆からいえば、他の「神話」は、祭りが絶え、死んでいるといことです。ですから、私は基本的に、わが国のものは「神代の物語」と呼び、外国のものは「神話」と呼んで、区別することにしています。

 さて、日本の「神代の物語」は「生きている」といいましたが、それは、どういうことでしょう? 私は平成十七年に上智大学名誉教授・渡部昇一先生と対談し、翌年、それが本になって出版されましたが、渡部先生はその対談のなかで、こういう話をしてくださっています。

 「昭和四十四年にアメリカから帰国する途中のことですが、 私はギリシァに立ち寄ってスニオン岬に滞在したことがあります。そこには海神ポセイドンの神殿の廃墟があるのですが、そこまでの道は両側が荊で険しく、危険で登りにくいものでした。行き交う人も見かけませんでした。まったくの廃墟です。その一週間後、帰国して家族と一緒に宮城県石巻に旅行したとき、金華山島へ渡りました。この島は峻険で、西麓にある黄金山神社の周囲は、鬱蒼とした巨木が林立しています。祀る人が絶えたら、木造の『延喜式』の神社は、すぐに朽ちてしまうような場所です。それが朽ち果てるどころか、いまも健在なのは、昔から日本人が海の神を祀り続けてきたからです。この対照的な光景は、ギリシァと日本の神話の構造は同じであっても、それがいまに 連なっているか否かにおいて、かくも違うのかと私に痛感させました。ギリシァの神は死んでしまっていますが、それに対して、金華山の神社に祀られている日本の神は生きている。いまだに立派な木造のお社が存在し、祀る人が絶えない。人と神がともにある。ここにこそ日本の本質が あると思ったのです」  (渡部昇一・松浦光修・八木秀次「日本を虐げる人々」平成十八年・PHP研究所)

 金華山の黄金山神社のご祭神は、今は「カナヤマピコの神、カナヤマビメの神、アノツカミ八百万神、クニツカミ八百万神」といわれていますが、この神社は、もとは土地の人々の、海の神さまへの信仰からはじまったものと言われています。ということは、この神社の神さまは、ギリシヤのポセイドンと、よく似た神さまだということです。
 ところが、ギリシァのポセイドンの神殿は、とっくの昔に「遺跡」になっています。それをお祭りする民族も残っていませんし、何をどうやって、どうお祭りしていたのかなど、くわしいことは、もう歴史のかなたに消えてしまいほとんどわからないのです。
 たぶん古代には、世界中で、神話が生きていたでしょう。けれども、「自分たちだけが信じる神だけが、唯一の正しい神だ。それ以外の神など:消してしまえ!」という乱暴な人々に、多くの地域のお祭りが減ぽされてしまい、やがては、その地域の王朝も民族も、すべて消えてしまい、わずかに「民間伝承」とか「民間習俗」などと呼ばれるもののなかに、昔の民族の信仰のなごりをとどめているにすぎません(たとえば、クリスマス・ツリーは、昔のゲルマン民族の巨木信仰のなごりだといわれています。昔は、ヨーロッパの人々も今も日本人が、神社のご神木を大切にするように、大きな木を神聖なものとして大切にしていたのでしょう)
 しかし、わが国は違います。わが島に、はじめて文明をきずいた民族が今もつづき、はじめて国を建てた君主の血統が今も国の中心にいらっしゃいまます。神話もお祭りも、みんなそろってつづいています。神社は「遺跡」ではなく、今も人々の信仰の対象です。ですから、日本の神さまたちが、今も生きているというのは、どう考えても、たしかなことなのです。
(つづく)

皇學館大学教授 松浦光修

「国宝・十一面観音菩薩立像」展

   奈良市内の国立奈良博物館で「国宝・十一面観音菩薩立像」展が開催されており(会期・2/5~3/27)、本日鑑賞して来た。温かい日となったうえに、比類なき美しさの仏像を間近に鑑賞でき、至福の時間を過ごした。同期間、「お水取り」展も開催されている。もちろ、こちらも鑑賞した。

 天平彫刻の名品として知られる聖林寺(しょうりんじ)の国宝・十一面観音菩薩立像をはじめ、かつてこの仏像があった大神神社(おおみわじんじゃ)付属の大御輪寺(だいごりんじ)伝来の仏像や、大神神社の自然信仰を示す三輪山(みわやま)禁足地の出土品などが展示されている。

 奈良県桜井市にある聖林寺の国宝 十一面観音菩薩立像は天平彫刻の名作で、日本を代表する仏像のひとつである。法隆寺の国宝 地蔵菩薩立像などとともに、江戸時代までは同市の大神神社に祀られていた。

 大神神社は本殿を持たず、三輪山を拝む自然信仰をいまに伝えるが、奈良時代以降には仏教の影響を受けて神社に付属する寺(大神寺、後に大御輪寺に改称)や仏像がつくられた。
 十一面観音菩薩立像が奈良国立博物館で展示されるのは、1998年の特別展「天平」以来24年ぶりだ。

国立奈良博物館のHP参照


国宝・十一面観音菩薩立像

神話は民族の心のかたち➀ 松浦 光修

   私たち一人ひとりの心は、「神話」という民族の「根っこ」につながっています。ですから、ある民族の「神話」は、その民族にとっての宝物です。けれどもそれは、その民族のみの宝物なのではありません。世界の人々にとっても、また宝物なのです。 
 なぜなら、民族の「根っこ」を、さらに深くたどっていけば、どうなるでしょう。きっと人類の「根っこ」にも、たどりつくにちがいありません。

 世界には、さまざまな神話が残っています。ギリシア、ローマの神括は、とくに有名です。そのほかにも、ユダヤ神話、北欧神話、ケルト神話などもよく知られていますが、それ以外にも、世界のさまざまな神話が残っています。
 それらは、いずれも、その民族の「心のかたち」をあらわしたもので、さらに人類の「心のかたち」にもつながるものです。それにもかかわらず、全世界で近代化がすすみ、とくに日本では「唯物主義」が広がって、神話が、ずいぶん軽くあつかわれる時代がつづきました。けれども、そういう考え方は、二十世紀にはいって、世界中で反省されるようになっています。
 たとえば、フランスのジョルジュ・デュメジル(1898ー1986)という大学者は、「神話をもたぬ民族がもしあれば、それはそれはすでに生命を なくした民族だというべきであろう」とまで言っています。これは神話がなければ、人間は文化を維持することができないという、じつに重い言葉です。
 そして、近ごろになると、世界各地で、神話が(正確に言うと、神話的なものが・・・)花盛りになっています。「えっ・・・今?、どこで?」と、
驚かれる方もいるかもしれませんが、たとえば、映画な漫画やゲームの世界は、もう「神話の要素だらけ・・・」といってもいいくらいなのです。
 一例をあげると、映画の「スターウォーズ」がそうでしょう。この映画は昭和五十年代から今日まで、もう三十年以上にもわたって、つくりつづけられた映画ですが、その映画監督のジョージ・ルーカスはジョセフ・キャンベルという神話学者のアドバイスをもとにして、映画の構想を練っています。この映画のストーリーは、神話学でいう「英雄体験」そのものです。
 「ふつうの少年」が不思議な運命にみちびかれて、さまざまな困難に出会うものの、知恵と勇気でそれらを乗り越え、ついには「怪物」を退治し、親ばなれをなしとげ、美しい「姫」をすくい、「英雄」としてたたえられるというのは、全世界に見られる神話の基本的なパターンです。これは、大人になるための「通過儀礼( イニシエーション)」を象徴するものといっていいでしょう。

 子供たちに、さまざまな試練を経験させ、そのあと「大人」として認める
という習慣が、昔から日本にもあります。その、一つが「伊勢参宮」であったということは、前にもお話ししました。いずれにしても、「男の子」が「男」になり、「女の子」が「女」になるというのは、じつにたいへんな事業なのです。
 そういえば、皆さんは、まさに「英雄体験」そのものの話が日本の「神代の物語」に残っている、ということをごぞんじでしょうか。スサノヲの神の物語です。スサノヲの神はお母さん( イザナミの命)を早くに亡くし、ずっと泣いてばかりいたため、とうとう天上の世界から追放されます。いわば死」の体験をするのですが、そのあと、「ヤマタのオロチ」を退治し、「クシナダ姫」を救う「英雄」として、みごとに「再生」するのです。

 戦後の子供たちは、ちゃんとした「英雄体験」をさせてもらえず、そのため、ほんとうの「通過儀礼」を体験しないまま、かたちだけの「成人」となっていることが、少なくありません。いい歳をして幼稚な日本人が増えているのは、たぶんそんなところにも、一つの原因があるのでしょう。
(つづく)

皇學館大学教授 松浦光修


M新聞の「チャイナウォッチ」

 我が国の大手日刊紙「M新聞」から毎月配布される「チャイナ・ウォッチ」という広告をご存知だろうか。
 この広告が表す意味、それは、「日本が中国共産党に狙われている」という事実を示しているということである。日本にとって、とても恐ろしいことなのだ。
 一体どういうことか。

 「M新聞」の読者が「チャイナ・ウォッチ」を見た時、普通の「新聞広告」だと思われる方が多いだろう。実は、そうではないのだ。これは中国共産党が運営する英字新聞社「チャイナデイリー」が発行している、れっきとした「広告」なのだ。しかも、ただの広告ではない。中国共産党の宣伝工作・キャンペーンのための広告である。「M新聞」が中国共産党から多額のお金を受け取って、毎月配布しているのだ。
 つまり、日本の大手メディアが、中国政府の宣伝を垂れ流しているということだ。影響力の強いメディアのネームバリューと信頼性を盾に、まるで普通の新聞記事のように見せかけた都合の良い情報を流し続けている。そのことで、購読者に「M新聞」の主張だと勘違いさせる。

 読者はお金を払わされて、知らず知らずのうちに洗脳されていく。これが、非常に巧妙な、中国のメディア戦略の一つなのだ。多額のお金は、購読部数が大きく減り、経営がひじょうに苦しい状態だと聞く「M新聞」にとっては、「干天の慈雨」なのだろう。

 日本は、新聞記事を信じる国民が多い国である。だからこそ、このような事実を知らされないままでいたら、日本は大きな危険に晒されてしまうだろう。しかも、これは氷山の一角に過ぎないと言われている。

 中国共産党は、台湾のみならず日本侵略に向けて着々と駒を進めているのである。中国の属国にならないように、国民の一人ひとりが中国の恐怖をしっかりと自覚する必要がある。

 親中派、媚中派と呼ばれる政治家を国会に送ってはならないのだ。

羽生九段 A級陥落

 将棋の羽生善治九段(51歳)は4日、名人戦の予選、順位戦A級で敗れ、来期からB級1組への陥落が決まった。
 A級は一流棋士の証であり、羽生はこれまで連続29期在籍していた。これまでの連続在籍記録は、大山康晴15世名人の44期である。
 将棋界では、40歳を超えると第一線で活躍するのは至難と……。ここまでA級を維持した羽生を称えたい。
 ただ、大山康晴は60歳を超えてタイトル戦に挑んだ。将棋界では、藤井名人の話題で持ちきりだが、奇しくも羽生のB級陥落で、大山の桁外れの偉大さが改めて浮き彫りとなった。
 来期、藤井はA級に昇進する可能性があるが、今後連続して何期維持できるのか、「記録は破られるためにある」とも言われるが興味は尽きない。
 

残念 ジェノサイド五輪の開催

 北京冬季五輪が開幕した。
 中国は非道極まりない新彊ウイグル自治区や香港・台湾等での人権弾圧に対して何らの反省が無いままに五輪を開幕させた。
 五輪に限らず世界各地でのどのような大会においても、日本選手に活躍してほしいの気持ちに変わりは無いが、北京冬季五輪の開催は、素直には喜べない。出来れば開催自体を取り止めにしてほしかった。今回だけは、テレビ中継などにもまったく興味が無い。


長寿祝い

 私が支部長(会長)を務める支部では、長寿祝いとして会員の傘寿・米寿・卒寿・白寿(99歳)・百寿(紀寿)に際し、ささやかなお菓子を謹呈している。会員の平均年齢・82歳の中では、対象は年に5~6件。その際、会著・副会長三名が揃ってお訪ねすることにしている。
 みなさん、笑顔でお迎えいただき、こちらも元気を貰える。本日も「米寿」のお祝いで会員宅を訪ねた。とても喜んでいただいた。この形をずっと継続したい。

地域の「ラジオ体操会」

 地域で「ラジオ体操会」を主宰している。住民の健康ときずなを深めることに少しでも寄与できればとの思いからだ。1年365日、毎日実施し6年4カ月になる。三郷町内でも、スポーツ・文化を問わず、多くの催しが営まれているが、「毎日開催」というのは唯一無二であろう。

 毎月月末、その月の皆勤者には、オリジナルの賞状をお渡ししている。1月の皆勤者は6名だった。これまでに、67回も獲得している方が居られる。1か月間の皆勤は、易いことではない。特に冬場の。67回は驚異的な数字である。84歳の女性だ。

 12月、1月と寒さ厳しく(氷の張った朝も度々)、また師走・大晦日・三が日と、何かと気忙しい時期だったが、今月皆勤の6名は、2ヵ月連続での皆勤でもあった。なかなか達成できる事ではない。大したものである。

 そういったこともあり、6名には会から「賞」として上等のカステラ1本を贈った。ささやかな「賞」ではあるが、心から称える「しるし」である。

 これからは、一雨ごとに徐々に温かくなる。寒い時期休まれていた方も、出て来られるだろう。これまで参加されていなかった方の参加にも期待する。ぜひ参加していただきたい。他の地域の方の参加も大歓迎だ。

 早寝早起きでき、無料で心身ともに鍛えることができるのだから、ラジオ体操に心から感謝、感謝である。

神さまを信じない人が、神さまの本を書く  松浦 光修 ➁

「日本の心」について、「楽譜」しか持っていない人と、すばらしい楽器と、すばらしい演奏の技術をもっている人との違いは、その人が書いた文章を見れば、だいたいのところは分かる。
 私のように長年、いろいろな人の文章を読んでいると、ウマいとかヘタとか、よく調べているとかいないとか、そういう表面的なものとは違うところで、その人の文章の行間から、なんとも言いようのない、その人の「気」をぼんやりと感じるようになるものだ。

 おおよその感じで言えば、「楽譜」しか持っていない人の本には、生気のない濁った「気」がただよっている。その反対に、すばらしい楽器と、すばらしい演奏の技術をもっている人の本には、生き生きとした澄んだ「気」がただよっているのだ。

 皆さんのなかには、「〝日本の心〟を知りたい」と思って、いろいろな本を読んでみたけれど、「どうもピンたくるものがないなあ…」という人が、いるのではないだろうか。
 そのあげく、「あーあ、私には、そもそも〝日本の心〟なんて、 難しすぎるのかも……」などと悲観している人がいるかも知れない。けれども、それは皆さんが悪いのではなくて、もしかしたら「書いた人」が悪いのかもしれない。
 「書いた人」が「日本の心」の「楽譜」しかもっていないのであれば、その本から美しい「音色」が聞こえてくるはずがないのである。

 もっとも、今どきは、美しい「音色」が聞こえてこないというだけの本なら、まだマシなのかもしれない。それは「薬」にならないというだけで、「毒」ではないからだ。

 困ったことに、今どきは、「日本の心」を看板にかかげつつ、その本の中に、じつは「猛毒」が含まれているという、怖い本も少なくない。まるで少し前に騒がれた「毒ギョーザ」のようなもので、そんな〝毒入り本〟も、書店には、たくさん積まれている。

 日本神話や伊勢神宮のことを学ぼうとして、タイトルを見て本を買ったら、その本には日本神話や伊勢神宮をバカにするようなことが書いてあったとか、日本の偉人の伝記を買ってきたら、その本には、その偉人の醜いところが、しつこく書いてあったとか。日本史の本を買ってきたら、その本には日本史の悪口ばかりが書いてあったとか。そんなことは、今の日本ではごく普通に見られる光景である。

 そういう本を書いている人たちは、日本の神代の物語を、伊勢神宮を、日本の偉人たちを、そして日本史そのものを、心の底では憎んだり、怨んだり、呪ったりしている人々である。けれども、その心の底を読者には気づかれないよう巧みに書いている。もっとも読んだあとに、必ずイヤな〝感じ〟が残るので、敏感な人ならら、すぐに何か気づくはずである。
 神さまも仏さまも信じていない人が、恐ろしい情熱で、神さまや仏さまの本を書いている、そんなことがほんとうにあるのだ。
 私も大学の教師のはしくれとして、二十年ほど生きて来たが、天皇を否定するために天皇の本を書き、神代の物語を否定するために神代の物語の本を書き、日本の偉人を否定するために日本の偉人の本を書き、そして日本史を否定するために日本史の本を書くなどという人々を、うんざりするほど見てきた。
 だから、そういう本を読んで、「ピンとくるものがない」のは当然なのだ。むしろそう感じることが、かえって日本人として、〝心が健康な証拠〟というほかない。そんな〝毒入り本〟が、今は少なくない。

松浦 光修

ホンタに疑問 大丈夫か

 「ホンダEV電池中韓製」 今朝の新聞を読んで驚いた。先にホンダは、「近い将来(2040年までに)全車を電気自動車に」と発表していたが、さらに燃料電池の全てを中国や韓国のメーカーから調達すると。
 中国に傾斜する姿勢に疑問を感じていたが、今回の方針はそれを通り越していると言わざるを得ない。
 「骨抜き」にされることは、目に見えている。目先の利益にこだわらず、方針の転換を、「中国からの撤退」を考えていただきたい。

GHQの中氷川神社「新嘗祭」視察

 約75年前、GHQの占領下にあった日本で、神社の命運を左右した「視察」が埼玉県の中氷川神社(なかひかわじんじゃ)で行われた。

 「3日後に、新嘗祭(にいなめさい)を総司令部の係官に見せてほしい」
 中氷川神社の山口文治宮司は、突然来訪した内務省からこう告げられた。
 当時、GHQの中では、「神社を破壊すべきだ」という過激な意見があった。その内務省の担当者は、「万一、悪い印象を与えれば全神社の浮沈にも関わる。そういう事情を汲んで、どうか引き受けてほしい」と宮司に頼み込んだ。
 山口宮司は1つ条件を出して引き受けた。

 「祭典に関しては誰も絶対に口出しはしない」

 「命がけで奉仕するのに、いちいちだめ出しをされたら到底務められない」
 そして、決意の下に、家族を巻き込んだ嵐のような3日間が始まった。戦後の困窮の中で、お供え用の野菜や魚は持ち寄り、酒は国の機関である神祇院などから提供されることになった。 
 「外国人に正座はできないだろう」と会場には机と椅子を並べた。さらに、外国人用の仮便所も作った。つい先日まで「鬼畜米英」と呼んだ相手をもてなすために人々は奔走したのだった。
 そして、昭和20年11月25日 新嘗祭。 当日ジープで乗り付けた民間情報教育局(CIE)の一行は、出迎えの町長らに機嫌良く日本式の礼を返した。そして、ついに祭りが開始。拝殿で行われた奉納舞では、楽人の演奏と立派な装束が娘たちをあでやかに演出した。
 「ワンダフル」
 視察を担当したCIEのケン・ダイク局長らは興奮した様子で、祭典の様子を写真に収めた。祭りは無事に終わった。約3週間後の12月15日、神社の取り壊しには踏み込まないとの通知を受けた。


 国学院大の大原康男名誉教授によると、「厳かで優雅な神社の祭典を視察して、ナチズムやファシズムといった全体主義的な施設とは全く異なるものだと実感したのだろう」と視察の影響を指摘している。
 つまり、宮司はGHQから日本の神社を守ったということである。もし、この視察の時に、何か粗相があれば、日本から神社が消滅していたかも知れない。

 なぜ、GHQは日本にやってきて突如として神社を焼き払おうと思ったのか。その答えは、GHQは日本の神道を何よりも“脅威”と見なしていたからだろう。 

 

 21世紀、GHQの機密指定が全面解除となり、ほぼ全ての極秘資料にアクセス可能となった。

中氷川神社(なかひかわじんじゃ)

埼玉県所沢市山口にある、氷川信仰神社である。旧入間郡多摩郡92村の総鎮守で旧県社。武蔵国三氷川中の社。延喜式内祈年國幣社で入間・多摩二郡にまたがる92ヶ村の総鎮守として山口城主崇敬も厚かった。約3500坪の狭山丘陵の杜に大社造りの御本殿に鎮座している。山口貯水池の湖底に沈んだ、朝鮮半島より渡来した人の居住地と伝えられる勝楽寺村の七社神社が合祀されている。

楽譜だけでは、音楽は生まれない 松浦 光修

  「信仰を知っていること」の違いは、音楽で言えば、「楽譜」と「演奏」との違いのようなもの……といったらいいでしょうか。

 たとえば、モーツアルトの名曲であろうと、ベートーベンの名曲であろうと、その「楽譜」そのものは、ただの「紙」です。けれども、すばらしい演奏家たちの手にかかれば、天上の調べを、この世に生み出します。

 その美しい音楽は、きっと人々の心を清め、光りを点し、あるいは励まし、慰めてくれるでしょう。すぐれた先人たちが残した言葉は、音楽でいえば「楽譜」のようなものです。ですから、それを読む力があったとしても、ただそれだけでは、この世に美しく正しく善いことは生み出されません。
 「こうすることが、正しいこと」「ああすることが善いこと」などという知識を、いくら蓄えたところで、それを読んだ人々が「正しいこと」や「善いこと」を、わが身で行わないのならば、ただの「楽譜」と同じことです。
 私たち自身が、すばらしい楽器をもった、すばらしい演奏をする人になった時はじめて先人たちの言葉から、正しく善い行ない、という美しい〝音色"が、この世に生み出されます。ですから、じつは私は、「誰が、どんな信仰を持っているのか? 」ということそのものには、あまり興味がありません。「誰から、どんな"音色〟が聞こえてくるのか? 」といことがいちばん大切なことだと思っています。

 今の曰本には全国に、かぎりのない数の宗教団体があり、宗教施設があり、その系列の病院や出版社などがあります。また、宗教系の学校も、小学生から大学院まで、いろいろとあります。それでは……、そこで働いている人たちの心からは、また、そのような学校に通っている学生や生徒たちの心からは、どんな〝音色〟が聞こえてくるでしょうか? もちろん美しい〝音色〟を発している人たちが多いと思います。けれども、そうでもない人たちも、少なくないのではないでしょうか。

 もっといえば……ほんとうは神仏など信じていなくて、この世の「モノ」しか信じていない唯物主義者が、じょうずに信仰という仮面をかぶっている……という場合があるかもしれません。もしも、そんなふうに神仏を、「食い物」にしている人がいたら、その人は私から見れぱ、神仏を信じていない人よりも、よほど罪が深いように思われます。なぜなら、自分が神仏を信じていないのに、人には「信じなさい」と言うことは、たとえていえば、自分には、まったく効かなかった薬を、「よく効く薬ですよ」と言って、高額で売り歩いているのと同じことだからです。きつい表現になりますが、それなら〝サギ〟と同じです。
 
 日本の心……ということについても、同じことが言えます。どれだけ日本の古典を読んでいようと、学問を修めていようと、どれだけ伝統文化を学んでいようと……、さらにいえば、それらについての資格や著書が、どれだけあろうと、心のなかは、じつは唯物主義者てんてんという人が、今の世の中には少なくありません。どれだけ耳を澄ましてみても、その人からは、〝日本〟という美しい音色が聞こえてこないのです。それは、まるで「楽譜」を両手いっぱいに抱え、それだけで、「どうだ、これが美しい音楽だぞ!  」と自慢している愚かな人のようです。

 「楽譜」は、いま……ここで、演奏されるのを待っています。それなのに、今の我が国には、すぐれた先人の残したい言葉という「楽譜」を集めることで満足してしまい、それを「自分が演奏する」という、もっとも肝心なことを、忘れてしまっている人が多いように思います。

皇學館大学教授 松浦 光修


GHQと公民館

 日本中の、古くからある街の「公民館」が、GHQによって設置されたことを知っているだろうか。というのも……GHQは、日本が再び米国の脅威にならないことを確実にするため、「日本弱体化政策」を強制したのだ。
 その政策の1つが、公民館の設置である。
戦前まで、地域住民の中心には神社があった。その年の豊作を祈る行事から、実りに感謝する秋祭りまで……1年のサイクルを通じて、人々は天地の恵みと神々への感謝を行い……地域住民は氏神様を中心として精神的な結束を固めていたのだ。

 さらには、地元の揉め事の解決からお祝い事まで地元のあらゆる問題は、神社で開催される寄り合いで解決されていた。つまり、神社は精神的支柱であると共に、行政拠点の役割も果たしていたのである。これに気づいたGHQは、学校教育などで神社参拝を禁止して国民の結束力を奪っていく一方で……神社に代わる国民の中心として構想されたのが「公民館」だった。そんな公民館で行われたのは、映写機を持ち込んでの映画会である。
 上映される映画は、もちろんハリウッド映画であった。豊かな資本主義社会が描かれており欧米の民主主義、自由主義、個人主義、資本主義の浸透が行われたのである。

 つまり、GHQは日本国民の地域共同体、つまりは「絆」を公民館を設置することによって破壊してきたということだ。

荒井知事に拍手

 奈良県でも新規感染者数がかなり増えて来たが、荒井知事はこれまでどおり政府に対して「まん延防止等重点措置」の要請はしない方針だと。微動だにしないこの一貫した姿勢を、引き続き私は支持する。荒井知事は、大したものである。歴代知事の中でも突出していると評価する。県の医師会会長も、これまでと違って荒井知事の方針に傾いて来た。

 一方、新聞報道によれば、和歌山県知事は「要請」の方向で検討し始めたと聞く。和歌山には和歌山の事情があるのだろう。

 また、愛媛県の中村知事については、私はこれまで何かにつけ疑問符をつけて来た。だが、「まん延防止等重点措置」の要請については荒井知事と同意見のようである。大いに評価している。ちなみに私は愛媛県の出身で、愛媛の状況について少しは分かっているつもりだ。

天孫降臨

 天孫降臨(てんそんこうりん)とは、天照大神(アマテラスオオミカミ)の命を受けて,アマテラスオオミカミの孫であるニニギノミコトが,高天原から日向国の高千穂峰に天降ったことをいうと言われてきた。(古事記と日本書紀)に神話として記されている

 東北大学名誉教授の田中英道(たなか ひでみち)氏が、永年にわたって遺跡や遺物を研究した結果、天孫降臨について異説を唱えるようになった。

 縄文時代、日本国内において圧倒的に人口の多かった関東・東北で、日高見国(ひだかみこく)という太陽信仰の祭祀国を形成し、鹿島神宮の祭神タカミムスビからアマテラスヘの一族が率いていた。
 大陸からの脅威に対抗するため、関東の鹿島から九州の鹿児島へ移動した。香取神宮(かとりじんぐう)と息栖神社(いきすじんじゃ・天の鳥船神社)の率いる船団が鹿島立ちして、船で鹿児島の天降り川に到着した。
 田中氏は、これが天孫降臨だと言われる。その後周到に準備して、イワレヒコ(神武天皇)が東征し、大和の国へ移った。この「天孫降臨・鹿島説」が、これまでの定説を覆し有力な説となっている。

 これまでの歴史学者は、文字や言葉のなかった時代の歴史を、文献を中心に読み解こうとして来た。田中は、元々は西洋美術史が専門である。西欧で西洋美術史の研究に没頭した後、帰国した。以来、30年以上にわたって我が国の遺跡や神社を実際に丁寧に調べ歩き、縄文土器などを美術史家の眼で探求して来た。
 縄文時代は1万6千5百年前からだ。私たちは、縄文人について野蛮な人たちという先入観で見てきたが、田中に依れば、文字や言語は有しなかったが、高い文化・文明を有していたと……。高天原や天照大神は、神話の世界の話ではなく、実在の話であるとも。高天原は、鹿島神宮(茨城県)や香取神宮(千葉県)の近くにあった地域であると。

大和魂と「神道指令」

   大東亜戦争終了後、GHQは日本で一切の神道を禁止した。これが、通称「神道指令」である。だが、この「神道指令」には、不可解な3つの謎が残っている。
 1つ目、なぜかGHQは、世界を敵に回してまでして神道を禁止した。実は「神道指令」は、国際法で禁止されていた。当時のハーグ条約という国際法では、占領中に他国の宗教・思想に干渉にすることは禁じていた。では、なぜGHQは世界を敵に回してまでして、神道を禁止にしたのか。

 2つ目、なぜか一神教のGHQは、特定の神様がいない神道の禁止にこだわった。GHQは最高司令官であるマッカーサーを筆頭に、キリスト教を信仰していた。
 キリスト教は「イエス・キリスト」だけを崇拝する一神教だが、神道は「八百万の神」(やおよろずのかみ)という言葉のように、特定の神様を信仰していない。
 そのような一神教のGHQが、なぜ特定の神様がいない神道の禁止にこだわったのか。

 3つ目、なぜかGHQは日本からは搾取せずに、「神道破壊」の道を優先した。日本で起きたGHQの占領は、他のアジアの国々と比べると異例中の異例である。
 アジアに対する西欧統治の歴史をみても分かるように、当時のアジアの国々は植民地にされて、ひたすらに搾取され続けていた。だが、日本だけは植民地にされなかった。
 その代わりに、「神道指令」が発令されて、7年の占領期間は終了している。なぜ、GHQは日本から搾取せずに、神道破壊の道を優先したのか。
 これらの謎に共通する1つの答えは、「神道指令」の徹底ぶりからも伝わるように、GHQは日本の「神道」を根源とする「精神性」を何よりも「脅威」と見なしていたからだ。
 幕末から明治維新にかけての、諸外国からの圧力にけっして屈しなかった国民性。日清・日露の戦いで大国に果敢に立ち向かって勝利した勇猛さ。終戦間際の神風特攻隊や南西諸島での決死の戦いぶり。GHQは、それらを恐れていた。
 21世紀になり、GHQの機密指定が全面解除となり、ほぼ全ての極秘資料にアクセス可能となった。そのようなGHQの公開資料から、大東亜戦争後、なぜGHQが必死になって日本から神道を引き離したかったのかが分かる。
 この「神道指令」の発令の秘密から、日本人の真の強さを、つまりは「大和魂」を知ることができるのだ。

電気自動車

  トヨタが、世界初の量産ハイブリッドカー「プリウス」を発売したのは1997年のことである。あれからもう25年が経過した。
 以来、ハイブリッドやダウンサイジングターボ、クリーンディーゼル、プラグインハイブリッドなどさまざまな省燃費技術が開発され、普通のガソリンエンジンも効率を大幅に高めた。エンジン以外の進化もめざましく、日本で販売されているクルマの平均燃費は25年前の2倍以上にまで改善された。にもかかわらず、世界的にみると、地球温暖化の原因とされるCO2(二酸化炭素)問題は年々深刻度を増しつつあると言われる。日本にもさらなるCO2削減が求められている。そのような中、注目を集めているのが電気自動車(EV)である。

 改めて申し上げるまでも無く、エンジンを搭載したクルマや、エンジンとモーターを組み合わせて走るハイブリッド車は、走行段階で化石燃料を消費しCO2を発生する。一方、電気自動車はバッテリーに蓄えた電力でモーターを回して走るため、走行段階では排気ガスを一切出さない。電気自動車がゼロエミッション・ヴィークル(排出ガスゼロの乗り物)といわれる理由がここにある。しかし、電気が作らる仕組みを考えると、電気自動車もゼロエミッションでは無い。太陽光や風力といった再生可能エネルギーや原子力だけで発電するのであれば排出ガスは事実上ゼロになるが、現在日本の発電量の約80%は火力発電である。これは、車自体からからCO2を出さない代わりに発電所で出していることを意味する。

 電気自動車はCO2排出量低減にどの程度貢献するのか、ハイブリッド(現行プリウス)と電気自動車(現行日産リーフ)を比較してみると、CO2排出量は電気自動車のほうが概ね35%少ないという結果になるそうだ。短い航続距離、高い車両価格、不足気味の充電インフラといった課題はあるが、現状、日本において電気自動車に一定のCO2削減効果があるのは確かである。しかし、火力発電の中でも発電時のCO2排出量がもっとも多い石炭発電が主力の中国やインドでは必ずしもそうはならない。にもかかわらず、両国が「EV化政策」を加速させているのは、第一に、深刻な大気汚染対策のためだろう。加えて、電気自動車を優遇することが、設計製造が難しいハイブリッドや最新エンジンの技術を持たない自国の自動車産業育成につながるという思惑がある。特に、中国はその傾向が強い。

 また、2040年までにガソリン車とディーゼル車の販売を禁止するという方針を打ち出したフランスは、世界で最も原子力発電比率が高い国だ(いったん廃止したものも再稼働しようとしている)。ドイツも、ディーゼルエンジンの進化に限界が見えつつあること、また得意とする高性能高級車ビジネスを温存しつつ、厳しさを増す燃費規制をクリアするには電気自動車が欠かせないと考えているようだ(ロシアからの天然ガスの問題で、再び原発に頼らざるを得ない状況にある)。これまで以上に電力確保の課題が大きくなってきており紆余曲折があるだろうが、欧米の傾向としては、今後、電気自動車が増えていくだろうと思われる。

 とはいえ、急速な「EVシフト」にはいくつかの懸念事項が伴う。まず、現状でも休日になると発生している「急速充電器の充電待ち」がますます増えるだろうということだ。また、電気自動車のバッテリーを満たすのに必要とされる電力確保も大きな課題である。つまり、リーフのバッテリーを空の状態から満充電するには、一般家庭が使う電力の2~3日分が必要になるからだ。現在の日本の電力需給をみると、電気自動車が数十万台規模増えても大丈夫だろう。しかし数百万台に達すると、夏場や冬場の電力ピーク時の電力供給量が追いつかなくなる可能性が出てくる。電気自動車を自宅で充電をするのは、基本的に電力供給に余裕のある夜間だから真夏の日中電力ピークとは時間的にずれる。大量の電気自動車が同時に充電をしたら大量の電力が必要になる。ましてや6,000万台に達する日本の乗用車がすべて電気自動車に置き換わったとしたら、大問題となる。

 自宅に太陽光発電パネルを設置したり、クルマを使わないときは電気自動車に蓄えたバッテリーを家に供給するというしくみが普及すれば電力問題は緩和されるが、それは理想的な電気自動車の使い方であり画餅とも言える。初期投資コストなどを考えた場合、そこまで対応できるのは一部の人に限られるのではないか。現実的には電気自動車が増えたら、ほぼその分だけ発電能力の強化が求められる。供給体制を整えるには、莫大なコストがかかる。電気料金の値上げは、クルマを持っていない人の家計にまで影響する。とはいえ、急場しのぎで火力発電、とくに石炭発電を増やすようではCO2削減という本来の意味がなくなってしまう。もちろん、長期的には国を挙げて再生可能エネルギーによる発電比率を増やしていくことが求められる。太陽光発電にしろ、風力発電にしろ、技術の進化によって低コストでの発電が可能になるだろう。しかしそれは一朝一夕で実現できるものではない。水力発電のために、ダムを増やす必要があるかもしれない。原子力発電に頼らざるを得ないかも知れない。エネルギー政策に絶対的な正解がない以上、電気自動車も絶対的なものにはなり得ない。改善されてきているとは言え、蓄電池の課題も依然として大きく横たわる。世界に誇る、積み上げて来た「ガソリンエンジンの省燃費技術」などを捨て去るかのように。溢れてくることが目に見えている従業員の雇用の問題も、避けては通れない。そのような中、ホンダは「電気自動車」に舵を切った。トヨタも追随しているように見える。大丈夫か。

 大切なのは、正解が見つかっていないこの段階で、いろいろな可能性を切り捨てないことだろう。内燃機関のさらなる効率向上、プラグインハイブリッド車の普及、水素燃料電池の開発推進、バイオ燃料の開発など、国としてメーカーとして、可能性にチャレンジする必要がある。そして、重要なのは、あらゆる可能性の中から、「省エネ」というライフスタイルやカーシェアリングなどを含め、どんなクルマを選び、それをどのように使い、どのように暮らしていくかを決めるのは、メーカーでも政府でもなく他ならぬユーザーであることだ。そのためには、電気自動車が善で内燃機関が悪、という二元論に流されないことが求められる。確かに電気自動車は有力な選択肢のひとつだが、すべての問題を解決してくれる夢のクルマではない。

 私は、自身の予測以上に衰えない限り、今後少なくともあと15年は車を運転するだろう。私の選択肢に「電気自動車」は無い。

あの時のダイオキシン問題は

 23年前に、日本中を大騒ぎさせた「ダイオキシン問題のニュース報道」を覚えておられるだろう。当時、テレビ朝日の人気番組の一つだった「ニュースステーション」で、「埼玉県所沢産の野菜から、高濃度のダイオキシンが検出された」という報道が出た。
 ダイオキシンは人類史上もっとも強い毒性を持った化合物といわれ、たき火をしたり魚を焼いたりするだけで発生するというのだから、多くの国民にとって衝撃的な話だったかと思う。
 「プラスチックを燃やすと、最強の毒性物質のダイオキシンに変わる」「ダイオキシンの分解物によって焼却施設が劣化してしまう」などという報道が追随し、「ダイオキシン凶悪説」が加速した。しかし、2年後、当時の東京大学医学部教授で免疫学や毒物学の第一人者であった和田攻教授の論文によって、「ダイオキシンによる健康被害が発生する可能性は、ほとんどないと思われる」ことが判明した。 しかも、「将来、健康被害が発生する可能性はほとんどない」と断言された。
   ところが、国のとった施策は違った。最初に取りかかったのは、ゴミを処分する焼却施設を改造したことだ。焼却施設でゴミを燃やす時はダイオキシンはそれほど出ないが、運転を止めると温度が下がり、ダイオキシンが生成されるので超高速で焼却施設を冷やす装置を取り付けたのだ。
 そのために税金が毎年600~1800億円使われ、この状況が10年以上続いた。巨額の税金をこれほどまでに投入する必要があったのだろうか。もっと言いえば、ダイオキシンは危険物質ではないと分かっている役所の人たちが、どうしてこうした部分に金が必要だと考えたのか。
 間違った知識は間違いを生むものだが、役所の上の立場にいる人は、時として自分の利益のために平気でうそをつく。ダイオキシンで騒げば、ダイオキシンの濃度を測定する会社は儲かる。ダイオキシンを監視している会社の役員の多くは、役所から天下った人たちで構成されている。これがダイオキシン騒動を引き起こさせた答えなのかなと……。
 地球温暖化問題についても、さまざまな意見がある。温暖化事態も、世の中が騒ぐほど平均気温は高くなっていないという事実が指摘されている。「脱炭素」に結びついている話である。政府は、巨額をつぎ込もうとしている。私たちの税金をである。

 マスメディアや一部の学者の意見に、私たちは安易に流されることはあってはならないと思うのである。
 
(一部参考・引用:武田邦彦著:エコと健康の情報は間違いがいっぱい!

冷静かつ的確な対応を

 武漢ウイルスが猛威を振るっている。全国で、1日の新規感染者数が5万人を超えた。
 憂慮すべき事態ではあるが、重症者の数はこれまでと違って大幅に少ない。また、ワクチン2回接種者の罹患率は、未接種者と比較して大幅に低い。年齢層にもよるが、3分の1~13分の1だと。これまでどおり、手洗い・手指消毒・うがい・マスクの着用・3密を避ける・不要不急の外出を自粛するなどの対策を講じておればよい。むやみに恐れることはない。
 新規感染者の増加の一因として、無料でPCR検査が受けられるようになり受検者が大幅に増えていることを挙げる専門家も居る。どちらにしても、付和雷同せず冷静かつ的確な対応が求められる。

「推敲」に「これでよし」は

 とある「記念誌」に寄稿せねばならず、作成した文章に推敲(すいこう)を重ねている。当初、昨年8月の締め切りであり、7月末にはほぼ仕上げていた。
 さまざまな事情から締め切りが2月中旬となり、しばらくは原稿を寝かせてあった。昨年暮れから、提出に向け推敲を重ねた。「こうした方がよい」「否、こちらの方が」と、大袈裟ではなく100回以上推敲を重ねてきた。
 「読書は大脳を使い、とてもよい」と言われるが、何かの本で「書くことは、読むよりも5倍以上……」とか。確かに、「ああでもない、こうでもない」と考えていたらとても疲れる。それだけ、大脳が働いているのだろう。
 100回以上も推敲を重ねていると、内容の大筋(原形)はもちろん変わらないが、それでも最初の文章とはとはかなり変わってくる。自分では、2割程度は進歩したのではと思っているのだが。もちろん、それは読まれる方が判断することである。
 とにかく、書くこと(ライティィング)は認知症の発症を遅らせるにはもってこいだろうと思うのである。ただ、ある程度のところで「よし」としなければきりがない。その「ある程度」の見極めが難しい。


3月の支部長会は取り止め

 武漢ウイルスが猛威を振るい始め、多くの都道府県で連日、新規感染者が過去最多を記録している。奈良県内でも、昨日は503名を記録した。「まん延防止等重点措置」を実施する都道府県も増えて来た。3回目のワクチン接種も各地で始まっているが、感染の拡大は今しばらく続きそうだ。
 そのような中、「今年度の事業報告」をまとめる時期に来ているが、三生連の行事の多くが取り止めや中止に追い込まれ、報告書自体が内容に乏しいものになってしまう。やむを得ないとは言え、寂しい限りだ。
 例年、3月に支部長会を開き、その際に支部報告の様式集や記入要領、並びに前述の事業報告や「新年度当初の予定」をお渡ししていたが、今回は支部長会を省略し郵送することとする。理由の一つには、新規感染者が増えているということもある。ご了承いただきたい。

論語に学ぶ 論語精髄 ➂

 命を知らざれば、以て君子たること無きなり。礼を知らざれば、以て立つこと無きなり。言を知らざれば、以て人を知ること無きなり。(堯曰第二十)

 めいをしらざれば、もってくんしたることなきなり。れいをしらざれば、もってたつことなきなり。げんをしらざれば、もってひとをしることなきなり。                                  

 

 天命を知らなければ、君子となることは出来ない。礼を知らなければ官位に就くことが出来ない。言葉(議論)の意味を知らなければ、人を評価することが出来ない。 

 

 天命を知らないでは君子たる資格がない。礼を知らないでは世に立つことができない。言葉を知らないでは人を知ることができない。

下村 湖人「現代訳論語」

 

 『天命』を理解した人物のみが君子になれるというある種の宿命論が説かれており、礼制・知性(言葉)を持つ有徳の士が己の天命を知ることによってのみ、『道』を実践できるということが示されている。

 孔子の教えとは、「君子の学」「リーダーシップの学」と言ってよいだろう。論語の冒頭 学而第一「子日わく‥‥人知らずして慍みず、亦君子ならずや」に始まり、煎じ詰めれば君子の要諦とはこうだと堯日第二十の最終章で結んで、論語全篇を締め括っている。
 論語はある意味雑纂だが、最初と最後については編者たちも気を遣ったと思われる。論語は起承転結が整っていないが、起と結をきちんと対応させて結んでいる。

 この章句は、指導者たるものは、自分の使命を自覚し、教養を育み、日頃の所作を含めて模範となるように心掛けなさい。また人の話をよく聞き、理解に努めることから始めなさいと言われていると理解したい。
 「あのような態度ではね」と言われたり、人の話を聞かない傲慢さを指摘されるような人を反面教師とすることが求められている。

 天命や運命があるかないかということは、難しい問題である。科学的に証明できるものではないから、そんなものはないという見方もできる。しかし、孔子は天命があるという立場で、自分は五十歳にして天命を知ったとはっきり言われた。つまり、孔子は古の聖人が説き実践した正しい道というものを研究し、それを現世に生かし後世に伝えることを生涯の仕事としたが、それは単に自分一人の意志や考えでやっているのではなく、それを超えたもっと大きな力、すなわち天命によって、いわばやらされているのだと考えたわけである。

 人間の心には、いつも煩悩が先行しているのではないだろうか。目先の私欲に振り回されるドロドロとした心ではなく、自らの欲望を抑えたサラサラとした清々しい心になれるようにしたい。
 孔子のように、歳を重ねるごとに精神的にも成長を遂げることは易くはないが、そのように努めたい。そして、一生を終える頃には、欲に心が支配されない悟りの境地に近づきたい。
 あの世には、地位も・名誉も・財産も持って行けない。持って行けるのは自分の心だけである。いつ自分の欲を吹っ切れるかが大きな課題であるが、悟りをめざす心を持ちたい。悟りをめざす心をあの世へのおみやげとして持って行くことができたならば、あの世でも迷うことはないと信じる。

 私たちが植物を見れば、皆同じように映る。植物は時期が来れば同じように芽を出し、花を咲かせ、実をつけてを繰り返し、最後は枯れて行く。地味の豊かな土地に育った植物は、他より太い茎を持ち、他より美しい花をつけるかもしれない。よく手をかけてくれる人のもとに生きた植物も同様である。けれども、その生長の機序は他と同じだし、終末に至るまでの行程も同じ、最後に枯れて無に帰する点も同じなのである。
 大局的に見れば、草木は皆同じ生を全うして枯れて行く。人間も草木と何ら変わりはない。金持ちか貧乏か、有名か無名か、見た目には大きな違いがあるように映るけれども、人間の死に至るまでの行程は皆同じなのである。生まれて親に養われ、教育を受けて自立し、職を得て結婚し、子を育てて死ぬ。この全行程こそが生きるということの実質であり、天が人間に与えた宿命なのだ。この宿命を、孔子は「天命」と呼んだのである。
 孔子は、「人は50歳くらいになれば、人間が皆同じような行程を歩み、同じ悲喜哀歓を感じ、同じように嘆きつつ死んで行くことを悟るだろう」と考えた。自分がそういう運命共同体の中に置かれて、万人と等しい生を送ることが天命なのであると。「人に課せられた、このような冷厳な現実を知った人間は、以後この枠から飛び出すようなことを考えない」とも。
 孔子は「天命を知った人間が何を欲しようと、その欲することが倫理の枠を逸出することはない」と言われている。孔子の「天命」がこのようなものだとするならば、彼は魯の国の人間ばかりでなく中国全体、世界全体の人間もまた「天命を知る」存在と考えていたのかも知れない。彼が現代に生きていたならば、人類全体を同胞と見る世界市民論者になっていたとも考えられる。だからこそ、彼はソクラテスや釈迦と並んで、「人類の教師」と目されるのである。

 今、働くことの意義を見失った人が増えているのではないか。一昔前なら、名の知れた企業に就職し、仕事に励んで失態さえしなければ、収入もポストもまず安泰だった。しかし今は厳しい競争の中、頑張ってもなかなか成果が得られず、見返りも少ないと嘆く人が多い。だが、「働く」とは地位や収入のためだけのものだろうか。よりよく生きるための手段ではないだろうか。
 孔子は「子、川の上に在りて曰わく、逝く者は斯の如きか。晝夜を舎かず」(子罕第九「仮名論語」119頁6行目)と言われた。人生とは死へと向かっているものである。これが大前提だ。だからこそ、「どのように生きることを楽しむか」を大切にするべきなのだ。働く意義を考えるなら、まず人生を高い見地から見つめ、「自分はこういう人生を歩みたい」と本質に立ち返ってみることが求められる。
 学校を卒業すると「それが務めだから」という理由で企業に入り、漠然と毎日を過ごしている人が多くはないか。清新な気持ちで会社に行けるのはせいぜい3年だろう。漫然と通勤し、与えられた仕事をこなし、帰ってくるだけ。目の前にある課題に追われ、見直す余裕もない。だから40代半ばにもなると、自分が何のために生きてきたのかが分からなくなってしまう。世間でいうよい学校へ入り、よい企業に所属すれば幸福になれると教え込まれ信じてきた。だが、現実は違うと悩み目標を失って苦しむ例が少なくない。

 40歳を「不惑」と呼ぶことは誰もが知る。50歳は「知命」である。すなわち「天命を知る時期」なのだ。50歳を迎える前に、誰もが一度自らの歩みを振り返る時間を持ち、自分の天命とは何か考える必要があるだろう。仕事を通してどのように社会に貢献できるか見つめ直した結果、仕事に対しまったく別の意義を見出し、心新たに取り組めるようになるかも知れない。
 私が気になるのは、一般に地位を得ることや金銭的に豊かになることを人生のゴールと考えるケースが多いことだ。そう思い込んで走り続けてきたものの、地位を得た瞬間に虚しさに襲われる人がいる。人生のゴールは、天命を果たすことにあるとも言える。孔子は「命を知らざれば、以て君子たること無きなり」と。自分に与えられた天命がわからないようでは、人を率いることはできないと言われる。

 職業選択とは、本来は「天命」の延長として考えるべきものだろう。ここでいう「天命」とは、決して大きなことである必要はない。生きていくうえでは誰しも役割を持っている。子は子としての役割、親は親の役割、夫や妻の役割、社員としての役割があるはずだ。それをきちんと果たしていくことで、その上に人生の確立があると言える。世間的に活躍する必要はなく、きちんと生きることが大切なのである。自分を枠にはめずに学び続けることが重要だ。

 働くことの原点は、人から羨望の眼差しで見られる会社に勤めることでも、高い給料を得ることでもない。孔子が「憤を発しては食を忘れ、楽しんでは以て憂いを忘れ、老の将に至らんとするを知らざるのみと」(述而第七「仮名論語」87頁6行目)と言われているように、時には社会的な問題に憤って行動し、食べることさえ後回しになるとか、楽しみが多くて憂いを忘れ、さらには自分が老いていくことさえ忘れてしまうぐらい仕事に熱中できれば素晴らしい。つまり仕事を好きになることこそが大切なのだ。「敏にして学を好み、下聞を恥じず」(公冶長第五「仮名論語」56頁5行目)のように、知的好奇心や向上心が旺盛で、たとえ目下の人間にも質問することを恥じなかった孔子は、のちに歴史に残る人となった。このような情熱を、自分の仕事の原点として持つことが重要である。
 しかし、一般には日々の仕事に埋没し、そのような情熱が持てないという人も多いだろう。情熱をかき立てるためにはどうすればよいのか。同年輩の優れた人を参考にすることも一つの答えだろう。過去の偉人を、発奮材料にするのはなかなか難しい。しかし、同世代の人なら「よし、自分も頑張らなくては」と思えるはずである。

 孔子は、「憤せずんば啓せず」(述而第七「仮名論語」82頁4行目)とも言われる。発奮しなければ自分を広げることもできない。だから刺激を求めてどんどん外に目を向けたい。最も愚かなのは、自分で枠を作り、そのなかに閉じこもってしまうことだ。「冉求曰く、子の道を説ばざるに非ず。力足らざればなり。子曰く、力足らざる者は、中道にして廃す。今女なんじは畫れり」(雍也第六「仮名論語」71頁5行目)と。孔子の弟子の冉求は、「先生の教えは素晴らしいと思いますが、私の力で実行するのは不可能です」と言った。そのとき孔子は、「力が足りない人間なら道半ばであきらめるもので、今のお前は最初から自分を見限っているだけだ」と諭すのである。
] 「できない」という言葉を、安易に口に出してはならない。難問、難題は、実力向上のチャンスと捉えるべきである。日々に埋没し、向上心を失ったとき、人は目標もまた失う。惰性のままに流れていく毎日にやりがいをなくし、ただ老いるだけの人生にどんな幸せがあるだろう。常に学び続けるなら、自ずと人生は豊かなものになる。「学びて時に之を習う。亦説よろこばしからずや」(学而第一「鉋論語」1頁1行目)。孔子は学びのなかに悦び(説は同義)があると言われるが、「悦び」は「喜び」とは異なる。「喜び」は瞬間的なものを意味し、「悦び」は何度でも繰り返し湧いて来るものだ。何か自分のテーマを持って学び続けると、一つ分かっても次々に新しい疑問が湧くはずである。それを解いていくうちにさらに発見がある。そのような「知の悦楽」を知った人なら、実り多い人生を送ることができる。
 また、学びを通じて、徳を高めることもできるに違いない。孔子は、「徳は孤ならず、必ず隣有り」(里仁第四「仮名論語」46頁5行目)とも言われる。社会的地位を得て、金銭に恵まれても、信頼できる友人もおらず、孤独な人生を送る人は少なくない。ところが、天命を知り、学び続けることによって人徳を高めた人の周りには、必ず友人が集まって来る。どれほど苦しいことがあっても、よい仲間や家族がいれば、人は乗り越えていくことができるのだ。

 人生は心がけ次第である。今、与えられた役割に感謝したい。孔子は「君子は憂えず懼おそれず。(中略)内に省みて疚やましからざれば、夫れ何をか憂え何をか懼れんと」(顔淵第十二「仮名論語」164頁3行目)と言われる。君子は自分のなかに疚しいことがない。だから何ものも憂うことがなく、恐れる必要もない。自分で疚しいことをせず、堂々と生きればよいのだ。それがよりよい人生を送るためのポイントと言える。また、孔子は「君子は坦かに蕩蕩たり」(述而第七97頁1行目)とも。憂うことなく、恐れることもなく生きているので、君子はいつもおおらかでゆったりとしている。それがまた人を引き付け、人生を豊かにしていくのである。
 日々の仕事は高い目標を課せられ、苦しいことばかりという方が多いかもしれない。しかし広い視野から自分の仕事を見たとき、社会的意義の大きさを感じるとか、今苦しくても大きな成長のチャンスがあると思えるなら、そこには潤いが生まれる。今、このときに「このように仕事に打ち込むチャンスを与えられることがありがたい」と思えるかどうかである。高いところから人生を見直し、そこに隠れたチャンスを発見したい。
 

 孔子は50歳で「天命」を知ったが、私は若いときに「自らの『天命』は何か」などと考えたことはなかった。一般的には、恐らくみなさんも同じではなかろうか。私の場合、もう少し早く論語の学びを深めていれば、もしかしたら早い時期に自らの『天命』について考えが及んだかも知れない。そうであれば、少し違った人生を歩んだかも知れない。
 遅ればせながら、現在は自らの使命について少しは考えたりする。
私の使命は、高齢者の会の役員(会長)として会の運営をスムーズに運び会員から喜んでいただくこと、それと論語塾で「論語」を講じることを以て、「論語」の普及に貢献することの二つである。
 その一環として、毎朝続けている地域住民の健康増進に貢献することを願って始めた「ラジオ体操会」をこれからも継続する。地域での「ラジオ体操会」は、6年4か月続けている。一年365日というのは楽ではないが、参加者からの「ありがとう」を糧に、また協力者の支えで以って、日々心を新たにして努めている。私の使命は小さなことばかりだが、『天命』として自らの心に刻んでいる。

 人は誰でも、天命を授かって生まれてくると言われる。しかし、多くの人は天命に気づくことが出来ていないのかも知れない。なぜなら、何気なく生活しているだけでは天命は見つからないだろうから。天命というものは、すぐに見つかるものではないと思う。なので、常に自問自答することが求められる。そして天命が見つかったとしても、努力せず毎日を適当にこなしていたら天命を全うすることは出来ない。  
 天命とは何をやるかという内容のことを指すのではなくて、「どう向き合っていくか」という姿勢のこととも言える。自らの天命を見つけて目の前のことに全力で取り組み、身近にいる大切な人たちの役に立つ行動をして、天命を全うしていく。

 理想の人間つまり君子の究極の目的は、天命を理解することである。これはすこぶる神秘的である。理性的な孔子も、窮極では神秘的にささえられているといっていいであろう。

貝塚 茂樹「論語」 

 

 荻生徂徠は、この最後の章は、学而第一の最初の章と首尾相応ずるのであり、「是れ編輯者の意也」、とする。いかにも「学んで時に之れを習う」は、言を知る努力であり、「人知らずして慍らず」は、命を知る努力である。

吉川 幸次郎「論語」

 

 この章句は人の知るべき肝要なことを示したのである。この三つを知れば、君子の事は完備する。孔子の弟子がこれを記して論語の最後においたのは意味のないことではない。学者が幼少の時からこの論語を読んで、老年に至るまで一言も己の厄に立てることを知らないで名利に没頭して世を送るならば、聖言を侮る者に近くはなかろうか。このような者は孔子の罪人である。深く念わなければならぬのである。

宇野 哲人「論語新釈」

国は情報開示を 「恐怖」をむやみに煽るな

 武漢ウィルスの新規感染者数が増加傾向にあり、憂慮すべき事態である事に疑いの余地は無い。
 ただ、次の点を国は国民に明らかにすべきではないかと思う。

1 武漢ウィルス禍以前と以後の年別 
 全死亡者数と年別死亡率の比較

2 武漢ウィルス禍以前と以後の年別  
 インフルエンザ感染者数の比較

 細かくは他にも多くあるが、先ずはこの2点である。

 テレビや新聞の報道では、武漢ウィルスの怖さが強調され過ぎているように思えてしかたがない。国民の油断を助長するのはよくないが、恐怖感ばかりを植え付けてはならない。
 高齢者の中には、テレビに釘付けになる方も多いだろう。武漢ウィルス禍の現在は、その傾向がより強いと思われる。
 国は情報を広く開示して、油断はならないがむやみに恐れることはないということも強く言うべきだろう。
 私たちの側も、大手マスメディア(テレビ・新聞など)の報道を鵜吞みにしてはならない。偏向報道が甚だしい事を知る必要がある。





「四海波」

   拙庭の椿「四海波」が開いてきた。白または桃地に紅の大小縦絞り八重咲大輪で、時に紅花も咲く強健な品種だ。40年以上前に仕事帰りに苗木を購入した。枝は太くしっかりと出るが、一般に背はあまり高くならない。だが、我が家の木は3㍍50以上に育った。愛知県の尾張地方では、生垣用品種としても愛されていると聞く。

 謡曲「髙砂」の中に、「四海波静かにして…」というくだりがある。おめでたい席等で謡われ、波風がおさまって、天下国家が平和なことを祝うものだという。
 愛知県知多郡武豊町富貴に「四海波」という海岸がある。大変景色のよい所だそうで、ここの波の形が変わっているので、竜宮城への入り口ではないかという浦島伝説もあるという。

論語に学ぶ 論語精髄 ➁


 子曰わく、朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり。   

                            (里仁第四)

 しのたまわく、あしたにみちをきけば、ゆうべにしすともかなり。

      

 孔子が言われた。「朝、真理を聞いて悟ることができたなら、夕方死ぬことになったとしても悔いはない」と。

 

 真に生きる道を知りさえすれば、肉体の死のごときは、もはやなにものでもありはしない。

       五十沢 二郎「中国聖賢のことば」

 

 ここで言う道とは、「真理」のことと思われる。五十沢二郎の「真に生きる道を知りさえすれば、肉体の死のごときは、もはやなにものでもありはしない」は、見事な解釈である。

 孔子は、現実のみならず眼に見えない世界の真理をも知りたいと思っていたのではないだろうか。しかし真理を極められなくて、「朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり」と漏らしたのではないか。おそらく孔子の発言の裏には、「理想社会の実現」というものが悲観的に含まれていたと思われる。「悲観的に」というのは、孔子自身の意見が多くの国で受け入れられず(理論的には理解されただろうが)、君子による徳治政治の実現する見通しが立たなかったからである。

 「道」という言葉を、各人がそれぞれの思いを当てはめて読むとよいだろう。『それを学ぶことができたら、死んでもいい』というくらいだから、人生をかけて探し続けるべきものだと解釈したい。それがどこにあるのか、どうすれば見つけられるのか、探し続けることが人生の目的の一つであるような気がする。「それぞれの道を求めて必死に生きる」、その前提として他者の幸福を一番に考える。何と素晴らしいことだろう。世の中のすべての人がこういった生き方をすることが出来たならば、皆が幸せになるだろう。 

 「覚悟を持て」「覚悟はあるか」など、『覚悟』という言葉を使ったり聞いたりする。辞書には、覚悟とは「危険なこと、不利なこと、困難なことを予想して、それを受けとめる心構えをすること」「迷いを脱し、真理を悟ること」「きたるべきつらい事態を避けられないものとして、あきらめること。観念すること」などとある。  
 「覚悟を決める」「覚悟を以て事に当たる」ということを、大切にしたい。なぜなら、自らの人生と真剣に向き合っていくためには覚悟を決めるということが必要不可欠だと考えるからだ。もし、覚悟が無ければどうなるか。覚悟を決められないということは、自らの行動や言動が招いた結果を受け入れない態度を取ってしまうということに他ならない。 つまり、自らの人生に対して無責任な態度を取るということであり、物事がうまくいかないときには、自分ではなく外部に(他者に)責任を求めるということにつながる。

 事あるごとに責任逃れを考えていては、当たり障りのない行動ばかり取ってしまうようになる。全責任を負うのが怖くなり、縮こまって挑戦しなくなるだろう。果たして、こういった態度で自らの人生をより良くしていくことはできるだろうか。確かに覚悟を決めるということは難しい。
 人は一般に、大した挑戦をしてきたわけではないし、何かを成し遂げてきたわけでもない。 見栄を張ったとしても、本心では何とも言えぬ不安を抱えているだろう。そうなると、周囲に同調することばかりを考え、今抱えている不安や自らの未熟さを、見て見ぬ振りをしてごまかそうとするかもしれない。仮にこういった態度のまま何かに挑戦したところで、得られる成果はたかが知れている。

 覚悟を決めた人間とそうでない人間とでは、明らかに行動に差が出る。 すべてを投げ出してでもやると決めた人間は、望む結果を得るために最大限の努力をする。努力することを惜しまないのだ。うまくいかない場合のことも覚悟しているから、そうはなりたくないとがむしゃらに努める。時に不安を感じることがあったとしても、その不安を打ち消そうと自らを奮い立たせる。覚悟を決めることができれば、不安を、自らが成長するためのエネルギーに変えていくこともできるのである。しかし、覚悟を決められない人間は安全圏という殻を破ろうとせず、いざというときの責任逃れのための言い訳を探しながら行動してしまう。挑戦を前にやるべきは、「覚悟を決めること」である。そして、その覚悟を大切にして、全身全霊で自分の人生や物事と向き合う。そうすれば、事を成すことができる。喜びを得られるだろう。覚悟を決めてこそ、人生をより良く生きられるのだと信じる。

 覚悟を以て人生を送っている人は、言い訳をしない。例えば、それが誰から見ても失敗だと思えるような選択だったとしても言い訳をしない。その経験が未来に繋がると信じているからだ。人生を覚悟している人は自分の言動に責任を持っている。人生を覚悟している人は、自分の人生に希望を持っている。目の前の事を全力で楽しめる。どん底の経験ですら笑いに変えられる。人生を覚悟している人は、感情が豊かだ。よく笑う、よく泣く、時には本気で怒る。未来に過剰な期待をしていない。未来は自分で切り拓いていくものだと思っているからだ。良い意味でドライである。他人に対して必要以上に干渉しないし、必要以上に同情もしない。自分がこれでいいと納得したらそこで終わりにする。その後の受け取り方は相手に委ねる。

 この短い孔子のことばには、いつもの温厚な調子とは似つかぬ激しい感情がこめられている。古注では、「道を聞く」の道は真実の道というような抽象的なものではなくて、現実に道徳的な社会が実現していることをさすとみる。そして道徳的な理想社会は、自分の一生のうちには実現することはなかろうという絶望に近い感情をあらわしたのだと解する。これにたいして、朱子の新注は、道を心理と解し、朝、真理が知り得たら、夕に死んでもよいという、真理を求める積極的な意思を示していると説いている。孔子がこのことばをどんな状況で、どの弟子にむかって話したのかよくわからないけれども、春秋末の乱世のことであるから、「朝に道を聞いて、夕に死する」ことは、朱子の新注などが説くように、たんに真理を求める気構えをあらわすだけではなく、生命が朝にして夕をはかれない緊迫した社会における、もっと切実な発言であった。

             貝塚 茂樹「論語」

 

 衛霊公第十五(「仮名論語」231頁7行目)に「志士仁人は、生を求めて以て仁を害することなく、身を殺して以て仁を成すこと有り」とある(志士(志の高い人)や仁人(仁徳を体現した人)は、命が惜しいからと言って仁の道を曲げるようなことはしない。むしろ、我が身を犠牲にしてでも仁の道を成し遂げようとする)。

五十沢 二郎は、「中国聖賢のことば」の中で

 「真の生命愛に生きる人々は、肉体への執着のゆえに生命の愛を犠牲にしたりすることはない。むしろ、生命への愛のためには、おのれの肉体をも犠牲にして悔いないものである」と。

宇野 哲人は、「論語新釈」の中で

 「仁に志す人と仁を完成した人とは、道徳上死ぬのが当然な場合には生を求めて仁を害することなく、むしろ己の身を殺しても仁を成し遂げるのである」と通釈している。 

 高潔な目標を持っている『志士』と仁の徳性を身につけている『仁人』は、日常生活の中では自己の生命を尊重するが、仁徳を達成するためにどうしても自らの命が必要であると覚悟すれば、その身を潔く捨てることに何の躊躇もないということである。だが、軽々に「命は惜しくない」と言ってはならない。何のために命をかけるのかが問われる。親から頂いた命は、飽くまでも惜しまなければならない。
 志士仁人の心構えはある種の自己犠牲精神とも言えるが、政治権力による人民の道具化につながる(利用される)恐れもある。だから、志士・仁人は『(他からの強制のない)個人の自発的な覚悟・克己』によって世の中のために働くのだということを忘れてはならない。とにかく、男女を問わず、「責任」と「覚悟」をもった生き方が問われるのである。政治に携わる者が皆、このような生き方をすれば、「民の徳厚きに帰す」のであろう。

 「志士仁人は、生を求めて以て仁を害することなく、身を殺して以て仁を成すこと有り」は、峻烈な章句である。現代の人は命を捨てても仁徳を貫こうとか考えないだろうが、幕末の勤王の志士たちはこのような言葉を聞いたらさぞ感激しただろう。普通、人は誰でも生を好み、死を悪むものである。しかしながら、仁徳と生が矛盾する場合、生を捨てて仁徳を貫くものだと言われる。到底、私たち生半可な者には実行出来ない。この章句から子路を連想してしまう。いかにも子路の好みそうな言葉だ。私はこの章句を読むと身震いを禁じ得ない。真摯な生き方(考え方)に対し、頭を垂れるしかない。私たちは、先ず自分の身を正すことから始めなければならない。自分の身を正すことが出来れば、この言葉の意味をより深く感ずることが出来るかも知れない。とにかく、強烈なインパクトのある章句である。

 志士であるだけでは人を惑わせることがあり、真の志士はやはり仁人でなければならない。一方で優しいだけで理想を持たなくては、何事をも為すことはできない。「理想(志)」を持つことは「人情を解した、真の思いやり(仁)」を持つことに比べれば、比較的容易だろう。日々生きることに悩みがあることは当然だし、まして変革を試みれば破壊があり、苦しみがあることは必然である。その苦しみを堪え忍ぶことができるか、また、周りの人々に堪え忍ばせることができるかが、志士と仁人の違いだと思う。決死行を強いるばかりで、その人に家族・生活があることに思いをいたさないようでは、誰も心から従うことはない。理想を持ち、「千万人といえども我ゆかん」という気概を持ちつつ、同士の生活を慮り、あえて独りで行こうとする。打算ではなく、その心性が人を動かし、志を達成させることがある。 

 仁徳の完成と、現実の生活とが矛盾する極限の場合をいったのだが、孔子にはこういった表現は珍しい。「朝に道をきけば、夕に死すとも可なり」(里仁第四)と、その表現の仕方が似ていて、それゆえに、共にわが国で愛唱されている。 

 

   己立たんと欲して人を立て 己達せんと欲して人を達す  (雍也第六)

 おのれたたんとほっしてひとをたて おのれたっせんとほっしてひとをたっす

 仁者は自分が立とうと思えば先に人を立て、自分が伸びようと思えば先に人を伸ばす。
 

 実に含蓄のある言葉だ。「自分さえよければ」というような考えが先に走ると、「他者のために汗をかく」などといった考えは毛頭浮かんでこない。  
 「人を達す」ということが念頭にあれば、争い事は起こらないだろう。私たちの日常を振り返るとき、何よりも自分の利益を求めることに追われ、人を押し退けて前に出ようとすることが多い。自分の主張を押し通した人が、結果的に得をしたりすることが少なからずある。だが、皆がそのような生き方を最優先するとき、社会は殺伐とした空気に覆われてしまう。だからこそ、自分の利益を後にして困っている人を助けたりする人が、「有徳の人」として認められることになるのだろう。 

 相手に思いやりを持って接する事が大切な事に疑う余地は無い。相手を思いやると自然と相手の立場を考えるようになり、相手を立てようと思う。ただ、遠慮をすると立てるのは違う。遠慮をしても相手を立てている事にはならないし、面倒臭い事を押し付けるようにも見えてしまう。

 相手を立てるという行為は、たとえその人がその場にいない場合でもその人の長所について話をするなどがある。その人と相対したら話をよく聞き、間違っていたとしても真正面から否定はしてはならない。それは、知恵を働かせていないように思える。知恵のある人ほど、回り込んで別の角度から物事を気付かせるように話す。それも自身に置き換えてみれば分かるはずだ。正面から否定されたら、相手はカチンとくるだろう。相手を立てることができる人は、自分がやられて嫌な事は他人にもしない。相手と自分を客観的に見る事ができる人であり、本当の意味で賢い人とも言える。

 相手を立てる事が自然とできる人は、恐らくは多くの友人を持ち、伴侶や子供などの家族に恵まれ、会社の同僚や先輩後輩とも末永くお付き合いをしているのではないだろうか。どれだけお金を稼げるかが、人の価値となるわけではない。ほんの少し折れただけで、ほんの少し相手の話に相槌を打つだけで、これからの人生が変わるかもしれない。討論で負けたとしても、命を取られる事はない。それどころか逆に信頼につながるかも知れない。今までの生き方を変える事は、ときにイライラする時もあるだろう。しかしそれは、これからの生き方を上手に変えてくれる香辛料ともなろう。相手を立てる事はそんなに難しいことではない。

 自分の身を立てたいと思えば人の身も立ててやる、自分が伸びたいと思えば人も伸ばしてやる、つまり、自分の心を推して他人のことを考えてやる、ただそれだけのことだ。それだけのことを日常生活の実践にうつしていくのが仁の具体化なのだ。                                    
          下村 湖人「現代訳論語」

 過ぎたるは 猶及ばざるがごとし

                                                    (先進第十一)

  すぎたるはなおおよばざるがごとし

 子貢問う、師と商とは孰れか賢(まさ)れる。

 子日わく、師や過ぎたり、商や及ばず。

 日わく、然らば則ち師は愈れるか。

 子日わく、過ぎたるは猶及ばざるがごとし。              


 しこうとう、しとしょうとはいずれかまされる。
 しのたまわく、しやすぎたり、しょうやおよばず。
 いわく、しからばすなわちしはまされるか。
 しのたまわく、すぎたるはなおおよばざるがごとし。


 子貢が尋ねた。「子張と子夏とはどちらがまさっているでしょうか」と。

 孔子が言われた。「子張はやり過ぎである。子夏はやり足らない」と。

 子貢はさらに尋ねた。「それでは子張は子夏よりもまさっているでしょうか」と。

 孔子が言われた。「過ぎたるはなお及ばざるが如し」と。 


 十分以上だということは、しかし十分以下だというのと同じように、それを完全とはいえないものである。

       五十沢 二郎「中国聖賢のことば」

 現在も日常的に使われる格言の出典である。
 孔子は『中庸の徳』の実践を重んじており、才智や能力が極端に行き過ぎている者も、才智が劣っている者と同様にバランスが崩れていて安定性がないと考えていた。常識的に考えれば、平均的な能力・知性よりも極端に優れた人物の評価は高いはずであるが、安定的な持続性と人格的な徳性を大切にした孔子は、敢えて『過ぎたるはなお及ばざるがごとし』という警句を発したのである。

 「中庸」とは、「儒教」において徳の概念を表す言葉である。儒学を学ぶときの四書として定められた『中庸』という経書のタイトルにもなっている。四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子』で構成され、『中庸』は最後に学ぶべきものとされている。
 『中庸』は孔子の孫である子思によって作成されたという説が有力である。孔子はその思想を体系的に語ることはしなかったが、子思は孔子の教えを理論的にまとめ、学問として体系化した。  

 「中庸」は孔子が最高の「徳」として説いた概念であり、偏ることのない「中」をもって道をなすという意味だ。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の章句も、孔子が中庸の徳を説いた言葉として知られている。孔子の言葉に、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」(「仮名論語」為政第六78頁6行目)がある。どちらにも偏らない中庸の道は、徳の最高指標であるということを述べている。

 「具体的にどのような道が中庸の道なのか」については、孔子の言葉を解釈し具体的な行動に落とし込んでいく必要がある。解釈の仕方には幅があるため、経典が難解だとされる原因でもあるが、逆にその幅があることが教えの普遍性を保っているとも言える。また、その意味を考えることが思考の訓練であり、学びそのものでもあるとも言える。 

 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の章句の前文にある師とは子張、商とは子夏のことだが、子夏は「衛」の国の出身で孔子より44歳年下、子張は「陳」の国の出身で48歳年下の同世代である。ゆえに、子貢は子夏や子張よりは一回り以上先輩ということになる。子夏・子游・子張の三人はほぼ同世代で、孔子門下では学問上の良きライバルだったようだ。子張には少し生意気な所があったと言われる。先輩の子貢は、子張・子夏二人の後輩を孔子がどのように評価しているのかを知りたかったのだろう。子貢もやり過ぎる傾向があったから、孔子の言葉には心中穏やかではなかっただろう。

 真面目だという美徳が度を超してかえってマイナスとなり、「真面目すぎる」「正直すぎる」「かしこすぎる」などと言われている人が少なからず存在する。「真面目人間」とは、「他人の言うことをまともに受け止め、一生懸命やっていればそれでよい」と考えている人である。こういった人を教育し、実社会に適用させるのはなかなか難しい。そういった人は、上司と意見が合わなかったり、自分のミスで失敗したときなどにひどく悩み落ち込んでしまうことが多い。やや余裕を持った真面目さが、社会生活を送るのに必要だと言える。また、真面目なことは美徳であり大事なことだが、あまり真面目すぎるとはた迷惑になることが少なくない。

 さらに問題なのは、「賢すぎる」ということだ。誰もが賢くなりたいと願うが、賢さを真に生かすのはなかなか難しい。下手に賢さを振りまわすと、「小賢しい」ということになり人間関係を損なう。多くの賢い人たちは、たった一度の失敗をも恐れる、しかし、失敗するかもしれないという程度の危険を冒さなければ、やがてゆっくりと毒に蝕まれることになる。失敗は、いずれ学ぶであろう価値のある教訓を教えてくれ、続ける勇気を持つことは英知へと導いてくれる。

 完璧を追求することは必ずしも悪いことではない。むしろ、素晴らしい成果をもたらすことも多い。一方で、「ここまで達成していれば十分」という程度があることも事実だ。常に完璧でなければ気がすまない完璧主義者にとって、「十分な程度を満たしていればよい」という感覚はなかなか理解し難いかもしれない。だが、時間は無限にあるわけではない。完璧を追求しすぎるあまり効率性が悪くなったり、ものごとが永遠に「未完」となってしまう恐れもある。

 人の考え方や好みはさまざまである。たくさんの人が集まると、意見はまとまりにくい。国政の場などでも何かを決めるときにはいつも混乱する。これが生活習慣や言語が異なる国際社会なら、なおさらのことだ。国際社会のような複雑な関係は、私たちの身近なところでは滅多に見られない。しかし、異なる考え方が二つあることでぶつかり合うことはよくある。お互いが自分の利益ばかりを主張していたら、話は絶対にまとまらない。ものごとは前に進まない。「イエスかノーか」という極端な考え方をするのではなく、「イエスでもありノーでもある」という柔軟な考え方をしたほうが、間違いなく問題は解決しやすくなる。日本ではこういうとき、よく「足して2で割る」という解決の仕方がなされる。この解決法で導き出された答えは、双方に利益と不利益があるのでいかにも公平であるかのように見える。これが中庸であると考える人も多い。しかし、これは単なる妥協であって中庸とは違う。足して2で割ることでうまくいくことが多いのは事実だが、これでは双方に利益よりも不利益を多くもたらすこともある。
 実際、政治の世界ではこのような妥協の仕方が平然と行われることがある。確かにそれでその場はうまく収まるが、確かな解決策にはならない。そもそも異なる意見を持つ人たちは、それぞれが求めていることを実現したいと考えている。お互いの思いを貫くことは無用な摩擦につながるので、話し合いによって解決するというのは同じ社会に生きる者の態度としては正しい。しかし、そのときの最適な解は、ただお互いの主張を足して2で割るような単純なものではない。最終的にはお互いが妥協しなければならないにしても、それぞれの思いを尊重しつつそれでいて小異を捨てて大同につく姿勢になれたときに、お互いが納得できる最高の答えを導き出せるのではないか。このときのポイントは「理念の高さ」である。目的が崇高なものであると、小異を捨てることが意外に躊躇なくできる。それぞれの利益は予想より小さくても、社会全体として見たときの利益がより大きければ、主張の中の一部分を譲ることに価値を見い出すこともできる。
 そもそも人間一人の力には限界がある。特に大きな目標を実現させたいときには周りの協力が不可欠で、自分の利益だけ主張していてはなかなか実現できない。そのとき大切なのは、「理念を大事にしつつも、譲れるところでは妥協する」ことである。大局的な見方をして、そのあたりのバランスをうまくとりながら進めるのがまさしく中庸だろう。

 実際の人間の評価にあたって、才の回り過ぎた者、適度を得ていない点では才の足りない人間と同じだという判断をくだすことはたいへん難しい。孔子は一、二の例外はあっても、弟子たちを神のように曇りのない目で眺めて長所短所をよく見抜いていた。

 「中庸の徳」は面白味のない教えである。私も若いときには「中庸(の徳)」を軽蔑と憤りとで退けたことを記憶している。なぜなら当時(若い頃)賛美したのは、英雄的な極端であったからである。しかし、真理はいつもおもしろいわけではないが、有利な証拠もないのに、ただおもしろいというだけで信じられているのも多い。「中庸の徳」というのは良い例である。中庸の徳はおもしろくない教えだが、実に多くの場合、真実の教訓の一つになる。中庸を守ることの必要性は、例えば、一方で努力し、他方で諦める、という相反する態度の均衡を保つという点にある。                      (牧野 力(編)『ラッセル思想辞典』)



 其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿れ。

 それじょかおのれのほっせざるところひとにほどこすことなかれ

 

 子貢問うて日わく、一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや。子日わく、其れ恕か。己の欲せざる所、人に施(すこと勿れ。                    (衛霊公第十五)

 しこうとうていわく、いちげんにしてもってみをおうるまでこれをおこなうべきものありや、しのたまわく、それじょか。おのれのほっせざるところ、ひとにほどこすことなかれ。

 子貢が尋ねた。「一言で生涯行っていくべき大切なことがありましょうか」と。孔子が言われた。「それは恕かなぁ。自分にされたくないことは、人におしつけないことだ」と。

  
 孔子の道徳律の中でもっとも有名な章句であり、「論語の黄金律」と言ってよいだろう。一生涯を通して実践できる教訓として孔子が子貢に教えたものである。
 中学校や高校の教科書で習ったという人が多いだろう。私もその一人だ。「自分が人からされていやなことは人にもしてはならない」とは当たり前の事だが、「生まれてから現在まで、そのようなことは一度もない」と言い切れる方が居られるだろうか。まず居ないのではないか。人として、心に止め置きたい章句である。

 里仁第四(「仮名論語」43頁2行目)に「吾が道は一以て之を貫く。……夫子の道は忠恕のみ」とある。孔子の人柄と生涯は、「忠恕」という「ただ一つの道(儒学の根本原理)」で貫かれている。『論語』において最高の徳である「仁」を、まごころである「忠」と他人の苦境に思いやりを持つ「恕」によって解き明かし、それらをまとめて他人に対する温かな思いやり「忠恕」で説明している。
 恕とは、「他人の立場心情を察すること。また、その気持ち。思いやり」である。思いやりがある人は、他人の立場に立つことできる人だ。他人の痛みや、苦しみ、喜びを自分のことのように感じることができる人である。他人の立場に立つことができる人は、自己肯定ができる人ではないか。「私ってすごい」「自分はいけてる」などと、いくら自分だけで思っても自己肯定にはならない。
 自己肯定とは、誰かの役に立っていると思えることである。自分は誰かに愛されていると思えること、自分を大事に思ってくれる人がいること、自分を必要としてくれるところがあることなど、自己肯定は他者からの肯定でもあるのだ。自己肯定ができなければ、人を受け入れることも認めることも許すこともできないし、人を思いやる余裕も持てない。人の役に立つこと、人の喜びのために懸命に働くことを続ければ、誰かに認められ必要とされる人となる。それが、自己肯定への早道となる。人生で一番大切な「思いやりの心」を育てたい。

 人は、周りの人に助けられたり助けたりしながら生活している。生きること自体が周りの犠牲によって成り立っているとも言える。周りの人に一切世話にならずに生きることはあり得ない。そういった人との係わりによって人間は磨かれ成長していく。私たちは他者にお世話になりながら生きていくということを、自覚しなければならない。自覚することで他者によって活かされていることに気付き、他者への感謝の念が生まれる。そう感じる事によって、他者に不愉快な思いをさせてはならないという気持ちが湧いてくる。その思いが「恕」であろう。
 他の人を気遣い、不愉快な気持にさせない、そういった心配りがとても大切であると孔子は説いている。そのような心配りが出来たならば、いじめの問題なども激減するだろう。人それぞれ、考え方、受け取り方が異なるので、自分では良い事だと思う行為でも誤解を招く事がある。大切なのは、自分が人からされて嫌な事は人にはしないということだ。人は知らない間に人の意見や評価を気にし、本当の自分を押し殺して人生を過ごしている時がある。周囲と仲良くなりたい、対立したくないと、守りの態勢に入ってしまうのは仕方がないことだ。しかし人間関係を違う方向から見直すと、肩の力が抜けていく。

 嫌われてもいい覚悟をするというのは、相手の存在を過剰に意識せずに付き合えるようになることである。好かれようと思うと、相性が合いそうな人を求めて付き合ってしまう。このような限定した人間関係は、一度上手くいかなくなるとストレスになってしまう。  
 嫌われてもいい覚悟をすると人の好き嫌いが減り、好きになる人がどんどん増えていく。今までに接した経験がない人たちや、苦手な人とも自然と交流ができるようになり、気がついたら素敵な人に囲まれている事が多い。嫌われることはネガティブなイメージがとても強く、ほとんどの人は無理して嫌われないように努力している。「好きになる」というポジティブな内容が、なくなってしまう原因なのだ。
 嫌われてもいい覚悟をすると、自分と意見が対立する人がいても不安にならない。人は全員顔が違うように、内面的な部分も違って当たり前である。自分の意見に賛成してもらえないと落ち込んでしまいがちだが、それは悪いことではない。たとえば将来これをやろうと、目的を決めたとしよう。必ず誰かが、ネガティブな意見を言ってくるはずだ。その時に相手の顔色を気にしたり、自分の敵を作らないように折れたりしてしまうと、自分の信念は揺らいでしまう。夢や目標を持ったとき、きっと進む先に邪魔になる出来事が起こるだろう。自分を嫌う人の存在もそのひとつである。強い思いを持っているのであれば、反対する人のために信念を捨ててしまわないようにしたい。

 嫌われ者は、周囲に必ず一人はいるだろう。自分勝手でわがまま、相手の気持ちを考えられない人は、集団生活の中で苦労することが多い。嫌われてもいい覚悟をしている人と、嫌われている人は別である。
 覚悟をして人生を過ごす人は、周囲の顔色を窺わずいつも自分らしく生活を送っている。嫌われる人は自覚をしていないため、相手の嫌がる行為を平気でやってしまうのである。嫌われてもいい覚悟は、無理に人に嫌われることではない。嫌われたらどうしようと、不安になる気持ちを捨てることなのだ。何ごとも覚悟をすると自分の核の部分がしっかりとするため、言動や動作も力強く相手に伝わる。嫌われる人は自分の都合だけを優先しているため、結果的にメリットが減ってしまうのである。

 人に好かれるために、本当に言いたいことを我慢して周囲の流れに乗ってしまった経験はないだろうか。その後にやってくる後悔の念は、いつまでも心の中に残ってしまう。嫌われてもいい覚悟をすると、本当の自分が見えてくる。八方美人で疲れる時よりも、正直になって周囲と距離を置いたほうが、自分らしく過ごせるだろう。ただ自分らしくしたいと思っても、簡単にいかない場面も多い。たとえば上司の顔色を窺い仕方なく残業したり、友人に本音が言えずストレスが溜まったりする。人が抱える不安やイライラは、ほとんど他人から感じるものである。自分らしく生きることで周囲の存在が気にならなくなる。

 集団生活のように無理に調和を大切にする生活は、必然的に自分を隠しているので本当の魅力に気づいてくれる人は少ないかも知れない。嫌われるのは、自分が孤独になるようなこととも言える。嫌われてもいいと覚悟を決めると、グループの一員でいるこだわりがなくなり、自由に自分の存在感がアピールできる。同時に人に頼ることがなくなるので、自立できるというメリットが生じる。嫌われたくないと思う気持ちは心の中を示しているので、一方的な思考パターンを変えていくことが大事だ。周りがやっているからこうすれば成功しやすいからという発想は、失敗した時の責任転嫁であり嫌われたくないという気持ちの表れでもある。しがらみを捨てた人生を送るならば、人に頼らない自立した自分が見えるはずである。

 嫌われてもいいと覚悟することは勇気がいるが、見えない壁を乗り越えた時には一番楽で素敵な自分が待っているはずである。自然体で人間関係を作るためには、相手がどう思うかを考える前に、自分がどうしたいのかを自らに問いかけるとよいだろう。本当の自分を理解してくれる人は、必ず応援してくれるはずだ。 

 「人にして貰いたいこと」は、どのようなことだろうか。「人にして貰って嬉しいこと」は、どのようなことか。 たとえば、困っているときに親切にしてもらったこと。助けてもらったこと。これは嬉しいである。他にも、辛いとき自分の話をじっと聞いてくれたこと、共感して貰ったこと。これも嬉しいことだ。また、不安な時、ずっと隣にいてくれたこと、無理に何かをしてくれなくても何も言わなくてもただそばにいてくれること、それが何よりの心の支えになるだろう。自分がして貰ってうれしいそのことを、人にもしてあげるというのは本当に大切なことだ。
 「人にして貰って嬉しいこと」というのは、他にも無数にあるだろう。これらのことには、共通点があるように思う。それは、自分という存在が人から大切にされたときだろう。私たちは心の深いところから喜びを感じる。相手が自分のことを大切にしてくれている、そう感じることができたとき、私たちは心から嬉しく思えるのだ。 次に、「人にして貰いたくないと思うことは、人にしてはならない」という教えについて想いを巡らしてみたい。「人にして貰いたい」こととは反対に、「人にして貰いたくない」ことは何だろう。
 「人にされて嫌なこと」とはどのようなことだろうか。 たとえば、自分の存在が軽んじられるというのは、すべての人によって嫌なことだろう。馬鹿にされたり、意地悪されたり、侮辱されたりして快く思うことはない。また、存在を無視されたり、相手にして貰えないというのも、とても辛いことだ。このように「人にされて嫌なことは決して人にしてはならない」ということも、本当に大切なことである。 「人にされて嫌なこと」を挙げると切りがないほどたくさんあるだろうし、特にどのようなことが嫌に思うかは人によって違いもある。だが、「人にされて嫌なこと」にも共通点があるように思う。それは、自分という存在が人から大切にされないということだ。自分という存在が大切にされず、蔑ろにされていると感じるとき、私たちは心に深い悲しみを感じる。 「人にして貰いたいと思うことを人にする」「人にしてもらいたくないと思うことは、人にしない」、どちらも私たちが生きていくうえで欠かせない非常に重要な姿勢である。そのどちらにも、「人を大切にする」ということが共通のテーマとなっていることが分かる。 

安冨 歩は「超訳 論語」の中で、

「『不欲』は、自分がされたらイヤなこととこれまで解釈されてきたけれど、『「自分がしたくない』」と素直に訳すほうが孔子の精神を忠実に表している」と述べている。安冨の解釈によると、孔子が教えたかったのは、「自分がされたらイヤだと思うことを相手にするな」ということではなくて、「自分がしたくないと思ったことは、自分を裏切って相手にしてあげてはならない」ということだと。孔子の思想の根幹にあるのは、「主君や目上の人に服従することではなくて、実は自分を裏切ることなく、迎合することなく、自分に対して正直であることの大切さだった」と。 

 恕とは一般的には「自分を思うのと同じように相手を思いやる・思いやり」と解されておりますが、孔子の恕はちょっと違うようで、「人の気持ちが分かるようになること、相手の身になって思い・語り・行動することができるようになること」これが恕、つまり本当の思いやり。自分の身に置き換えて云々するのはまだ半人前ということかも知れません。自分の身に置き換えてみることすらできないのは、半人前以下ってことですね。

   恕は如(ごとし)+心(こころ)の会意文字ですが、仏教で「如心(にょしん)」といえば、人の心が手に取るように分かることを云います。釈迦も孔子も同じことを考えていたのかも知れません。恕の感性は、男性よりも女性の方が何倍も発達しているのではないでしょうか。       

高野 大造「論語に学ぶ会・論語解説」
 

 曽子は孔子から、「吾が道は一以て貫く」ということばを聞いて、自分の弟子にそれは「忠恕」だと語った(里仁第十五)。同じように「予一以て貫く」という教えを受けた(衛霊公第十五)子貢が、またこの「一貫」の原理は「恕」だと孔子から教えられている。仁を「恕」つまり思いやりと解する解釈は、子貢と曽子の両弟子が伝え聞いたことになり、二つの伝承が「論語」の中に保存されているのである。

貝塚 茂樹「論語」 

 孔子の生涯にわたる一切の教えにおいて貫かれた「一」とは、単なる数字上の一ではなく、一切の一であり全身全霊のすべてである。孔子が体得した真如の境地から発せられる忠恕の道なのである。
 「一を以て之を貫く」は、深い真心を以て、ひとつのことに打ち込むことを指す。たくさんの情報が湯水のように流れ出てくる現代社会、気を引き締めておかないと、右へ左へと心を惑わされてしまいがちだ。「一を以て之を貫く」には、柔らかな心を持ちながらひとつのことをやり遂げる力強い意思が表れている。孔子の生き方そのものを表したスケールの大きな言葉である。現代を生きる私たちが見習うべき人生の指針となる。
 「一を以て之を貫く」の類義語として、「初志貫徹」「首尾一貫」「徹頭徹尾」などがある。一度決めたことはどんなことがあってもやり遂げる。そんな清々しさを表した言葉とも言える。思いを込めて最初から最後までやり抜く、美しい生きざまを表している。さまざまな価値観が揺れ動く現代、ふらふらと心が離れてしまいそうになったら「一を以て之を貫く」を思い出し、初心に戻ることが求められる。




論語に学ぶ 『論語精髄』➀

  変化の激しい時代である。新しく学んだことが、半年先には陳腐なものになっていることも少なく無い。だが、時代が如何に変わろうとも微動だにしない本質があることも事実だ。流行を追うことばかりにエネルギーを費やさず、ときには逆らってみることも必要だ。一人ひとりが学びを深め、ものごとの本質を追求し、「不易」を押さえることが求められる。
 また現代は情報が氾濫し、それらの中には、世の中を惑わすことを意図して流される偽情報やデマもある。新聞やテレビの報道にも各社各局によって偏向があり(国際金融資本<例えば、ロスチャイルド家やロックフェラー家など>や中国共産党の影響を受けているとも言われる)、すべてを鵜呑みにしてはならない。
 『論語』に、「故きを溫ねて新しきを知る」(為政第二「仮名論語」16頁)「學びて思わざれば則ち罔く、思うて學ばざれば則ち殆し」(為政第二「仮名論語」17頁)とある。日ごろから本質は何かに思いを致し、先人に学び何が真実なのかを見極める力量を養いたい。

 令和元年12月からの武漢肺炎禍の拡大は、世界中を震撼させている。国境を越えての往来の頻繁なグローバルな社会では、感染症対策は避けて通れない大きな課題である。人類の英知を結集して立ち向かわなければならない。

 さて、我が国は、世界に例を見ない超高齢化社会に突入している。すでに、人生100年時代が到来しているのだ。私は7年程前から、地域の高齢者の会運営に携わっているが、山積する課題を備にする機会が多い。超高齢化社会への対応についても世界中の人が現実を直視し、困難な課題に立ち向かうことが求められている。 

 一方、現在の児童・生徒が成人して社会で活躍する時代には、さらに厳しい挑戦の時代を迎えているだろう。そのことは容易に想像できる。将来を担う子どもたちには、困難にめげず荒波を乗り越えてほしいと願って止まない。そのためにも、伝統や文化に立脚し、高い志や意欲を持つ自立した人間として、他者と協働しながら新たな価値の創造に挑み、未来を切り拓いていく力を身につけることが求められる。  
 一人ひとりが互いを認め合い、尊重し合いながら自己実現を図り、幸福な人生を送れるようにする。より良き社会を築いていくことができるよう、人と人とが健全につながり合うことがますます重要になるだろう。

 ところで、『論語』は今からおよそ二千五百年前に中国に生きた思想家 孔子とその主な弟子たちや、当時の為政者たちとの言行をまとめたものである。『論語』には、人と人とが健全につながり合い快適な生活を過ごすための知恵や人間としての在り方や生き方、現在やこれからの時代を生きる人々が身につけるべき大切なことが随所に鏤められている。
 私は現在、大阪と奈良の論語塾で『論語』を講じている。日々、学べば学ぶほど、学びを深めれば深めるほど、論語の奥深さに感服するのである。現在の中国の指導者層が、この『論語』をしっかりと学んで「人権意識」を高めて内政・外交に生かすならば、覇権争いを止めて「平和な世界」の実現に大きく貢献ができるようになるだろうと切に思うのである。

 『論語』は20篇、512の章句から成る。一篇は一つのテーマで括られはいない。『論語』は孔子自身が書き遺したものでは無く、また一人の弟子が編集したものでも無い。弟子たちが持ち寄って編纂されたと言われる(現在の形に編纂されたのは、孔子歿後四百年後と言われる)。雑纂でまとまりに欠けるのが『論語』の特徴とも言えよう。ただ、冒頭と締め括りは、ピシッと決まっている。

 孔子の生きた時代、自らの思想や考えを書き遺すという習慣はなかったようだ。孔子も例外では無い。雑纂ゆえに、第一篇から順を追って学ばなくても理解でき、どこから読みはじめてもよいという特徴がある。  
 前述のとおり『論語』は512の章句から成るが、最初から最後までを貫く幾つかの章句があることに気づく。一貫していると思われる章句は、論語を読まれる方一人ひとりによって違うかも知れない。それが論語の魅力でもあるだろう。
 私の選んだ8つの章句を、『論語精髄』として挙げたい。『論語』を学んでみようかと思う方の少しでも参考になれば、望外の喜びである。(令和4年正月)



 子曰わく、学びて時に之を習う、亦説ばしからずや。朋遠方より来る有り、亦楽しからずや。人知らずして慍みず、亦君子ならずや。

 しのたまわく、まなびてこれをならう、またよろこばしからずや。ともえんぽうよりきたるあり、またたのしからずや。ひとしらずしてうらみず、またくんしならずや。
 

 孔子が言われた。「学んだことを繰り返し実践していると、自然によい習慣が身について来る。これは何とも嬉しいことではないか。志を同じくする友が遠方から訪ねて来て語り合う。これは何とも楽しいことではないか。世間に認められようが認められまいが、気にせず一層研鑽に励む。これは何とも立派なことではないか」と。


 「論語」の冒頭を飾る誰もが知る章句である。古今東西「論語」を研究する者の多くが、冒頭に相応しい章句であると語っている。

 この時代の「学び」は、主に師からの言葉による知識の伝達であった。弟子たちは師が「詩経」や「書経」を読むのを聴いて、その内容を忘れないように復習した。基本は貴族社会の礼儀作法や教養・素養を受け継ぐことにあった。
 君子とは、統治者階級に相応しい「人格・度量・教養・品位」を備えた貴族のことであり、孔子が現れて以降は、「徳」を兼ね備えた人物を指して呼ぶようになった。孔子は、為政者たる者は有徳の君子でなければならないと考えた。

 『詩経』は、中国最古の詩篇であり、儒教の基本経典・五経の一つである。元々は、舞踊楽曲を伴う歌謡であったと言われる。西周時代、当時歌われていた民謡や廟歌を孔子が編集したとされる。『書経』は中国古代の歴史書で、伝説の聖人であるから王朝までの天子や諸侯の政治上の心構えや訓戒・戦いに臨んでの檄文などが記載されている。五経の一つでもある。

 夢と志を持ってその道の達人から学び、常にそれを自分のものにしようと努力することは、非常に心が満たされることである。そして、自分と同じような夢・志を持つ人と知り合い、共に夢を語り合い、切磋琢磨することはとても楽しいことだと言われる。

  • 夢を持つこと 
  • 夢に向かって常に学び続けること 
  • 同じ夢を持つ人と出会うことの大切さと楽しさを伝えてくれる 

 学ぶことにより、自分の糧になるだけでも生きがいとなる。学び続ける途中で、共感を得られる人との出会いもある。そういった人たちとの交わりは楽しいものであり、さらに嬉しい気持ちになるだろう。  
 有名になることが大事なのではなく、人目を気にすることなく夢中であり続けられること自体が、不安を少なくすると理解できる。学ぶことそのものを生きがいとすれば友達が増え、さらに学び続けることができるだろう。努力の結果が報われないような不安をもし感じたとしても、懸命に学んだことは失われないと読み解くこともできる。

 論語から学ぶとき、人それぞれの解釈や理解が生まれる。そして、ごく当たり前のことが再確認できることもある。大切なのは、学ぼうとする者の受け取り方によって、また読み解き方によって、過去の偉人の言葉を自らの生き方にプラスできるということではないか。

 「人の己を知らざるを患えず。人を知らざるを患うるなり」(学而第一「仮名論語」10頁3行目) 「人の己を知らざるを患えず、其の不能を患うるなり」(憲問第十四 「仮名論語」217頁 5行目) 「君子は能無き患う。人の己を知らざるを病えず」(衛霊公第十五 「仮名論語」235頁 7行目) 「位無きを患えず、立つ所以を患う。己を知る莫きを患えず、知らるべきを爲すを求むるなり」(里仁第四「仮名論語」42頁6行目)

 これら四つの章句も含蓄があり、後半部分の「人知らずして慍みず」に相通ずる。「他者がどう思おうが気にせず努力を積み重ねなさい」と孔子は言われている。人の評価に右往左往せず、信念を貫き通すことが大事なのだと。

 孔子は、「学びて思わざれば則ち罔く、思うて学ばざれば則ち殆し」(為政第二「仮名論語」17頁5行目・(学ぶ<(読書をする>だけで、時間をかけて自分で考えてみないと真に活きた学問とはならない。自分の頭で思い巡らすだけで博く学ぶ<読書する>ことをしなければ、独断に陥り不安定なものとなる)とも言われた。
 孔子が考える「学ぶこと」の中心は、周代の政治や礼制、倫理の学習であり、基本的に「古代の先王の道」を学ぶことである。「思うこと」の中心は、自分の頭で自発的に考えることだ。孔子は「師や書物からの経験的な学習=学ぶこと」と「自分自身の合理的な思索=思うこと」をバランスよく行い、それらを総合することで正しく有用な知識教養が得られると考えた。この考え方は今も色褪せていない。むしろ現代にこそ輝く言葉ではないだろうか。

 今の時代、「物知り」であることの価値は低下している。世界中のどこでもインターネットに接続出来るこの時代、大抵のことはインターネットで調べられる。その分余計に、私たちには「想像」や「創造」が必要となる。知識を得たとしても、さらに深く考えることが求められる。しかしいくら考えようにも、最低限の基礎がなければそれはただの絵空事になってしまう。知識を得る本来の目的は、その知識を活用することにある。
 学んだ知識を活用するためには、独自に再び読み解き、認識して、他人から得たそれらを自分のものにしなければならない。この過程が思考だ。この思考過程が欠落するならば、学んだ知識は本当の意味で身に付かず、活用することもできない。つまり、知ることとその知識を応用することは、二つの段階に分けられる。一方、思考の目的は、事物の因果関係、物事の原理を解析することにある。しかし、思考するばかりでそこに必要な参考知識や情報がなければ、いくら考えても結論を出すことはできない。多くの情報を把握したうえで咀嚼できたとき、はじめて賢明な判断を下すことができる。情報を収集するということは、知識を得て自分なりに咀嚼するということだ。

 もちろん情報収集という学びの段階でも、情報分析という思考の段階においても、それらは全てその人の既存知識や人生観、生命観、価値観、倫理観などに強く左右される。観念は、色眼鏡やパソコンのソフトのようなものだ。同じものを見ても眼鏡の色が違えば異なる色が見え、同じ情報を分析・処理しても、ソフトが違えば処理結果は異なる。そのため、正しい結論を導き出すには正しい人生観、生命観、価値観、倫理観の形成が重要であり、それらは自分の一生を左右することになる。実は事物の本質を洞察するには、後天的に形成された観念が少ないほど良い。観念が少なければ先天の智慧が自然に湧いてきて、事物の本質を認識することができる。

 孔子は、「故きを温ねて新しきを知る、以て師と為るべし」(為政第二16頁5行目・古いこと<古典や歴史>を学んで、そこから現代に通用する新しい意義を見出すことができれば、立派な指導者になれるだろう)とも言われる。古い事柄を再び味わって基礎を固めた後で、新しい事柄を改めて知れば、より奥行きのある実践的な教養知識が得られる。
 孔子の言われることの本質は、「過去の知識を単純に詰め込むだけでは、人を指導する師にはなれない」ということだろう。2500年前の孔子の言葉を、現代の自分の身に置き換えて考えてみるからこそ、そこに新しい意義が発見できる。つまり、ためになって役立つ「活学」となる。知識を増やすだけであったなら、役に立たない「死学」である。

 子曰わく、巧言令色、鮮なし仁。

              (学而第一)

 しのたまわく、こうげんれいしょく、すくなしじん。 

 孔子が言われた。「口達者でやたら愛想のいい者に、至ってまごころはないものだ」と。 

 語呂のよさもあり、この章句もよく知られている。巧言も令色も、ともに媚び諂う、人に気に入られるようにご機嫌を取る言動に過ぎない。古来、「卑屈な態度」とされて来た。

 仁の徳を完成させるためには、目上の人に対して従順な「孝悌の徳」が欠かせない。だが、ただのご機嫌取りや学問の真理を曲げて権力者や時勢に迎合するような者ばかりを、君主の周りに集めたのでは社会の秩序や安全が揺らいでしまう。
 巧言令色をもって為政者(権力者)に擦り寄り、民衆を苦しませる悪政の原因となる「媚びへつらいの奸臣(かんしん・上役へのゴマすりで私利を図る政治家や役人)」を、孔子は警戒するよう警告している。
 言葉や表情が良い印象であっても、根源である本心が「己の評価」のためだけならば、そういう人をパートナーとして選ぶべきではない。心のこもったおもてなしが求められる時代だからこそ、根底となる「人間としてのあり方、思いやり」を身につける大切さを忘れないようにしたい。

 人としての根本は変わらないということを再認識することが求められるが、論語には現代に通用する章句が多く鏤められている。如何に時代が変わろうとも、どんなに科学技術が進歩したとしても、世の中には甘い言葉、儲かる話、聞こえの良い文章や文言など、さまざまな形での誘惑が溢れていることに変わりはない。一般に誰れもがお金を欲しがり、楽な暮らしを送りたいと思うものだ。しかし、人としての弱さを突いてくるようなサービスや人には心がないと読み解くことが求められる。
 相手に対して常に誠実であり対等であることが大事だ。上手い話には裏があり、楽して儲けられないことは本来誰れしもが分かっていることだ。言葉巧みに誰かと話そうとすればするほど、他者から心を感じて貰えない、信用されないことを再認識することが求められる。論語を読み解くことで、自分自身を見つめ直すことも、新しい考え方や可能性に気がつくこともできるだろう。

   世の中には、巧言令色を武器にして昇進したり、富を得たりする者が居る。残念だが、そのような例は枚挙に暇が無い。私は教育界に身を置き永年過ごしたが、45歳くらいまでは周りが見えていなかった。そういった事から最も遠い所に位置するのが教育界だと信じて疑わなかった。だが、実際はそうではなかった。皮肉にも、そのことが管理職をめざすきっかけになったとも言える。教育界の不条理に一石を投じようと思ったのである。そのあたりの詳細は、拙著「校長の覚悟で学校は変わる」(平成25年・銀河書籍)に記した。

 ところで、長い期間でものごとを見るならば、不正や偽りで築いた地位や名声、富などが長く続くものではない。それは洋の東西を問わず、歴史が物語っている。孫や玄孫の時代まで、偽りや不正で得たものに陽光が射し続ける筈がないのである。「積善の家に余慶あり」だ。 

 陽貨第十七 (「仮名論語」272頁 3行目)に、全く同じ章句がある。公冶長第五 (「仮名論語」62頁1行目 )の「巧言令色、足恭なるは、左丘明之を恥ず……」や衛霊公第十五 (「仮名論語」238頁7行目 )の「巧言は德を亂る……」なども同義である。里仁第四(「仮名論語」45頁7行目)に「古者言を之れ出さざるは、躬の逮ばざるを恥ずればなり」と、また同じく46頁3行目に「君子は言に訥にして、行に敏ならんと欲す」とある。
 孔子は「巧言」を嫌い、「不言実行」を好んだ。雄弁に巧妙な言葉を操る人よりも、しっかりした考えをもち機敏に実践する人のほうが、より君子的であると考えた。だが残念な事に、世の中には弁は立つが行動の伴わない人間があまりにも多いのである。

 子路第十三(「仮名論語」198頁7行目)に、「剛毅(ごうき)朴訥(ぼくとつ)、仁に近し」という有名な章句がある。これは、芯が「しっかりして辛抱強く素朴で口数の少ない者は、最高の徳である仁に近い人物と思って良い」ということだ。孔子が考える仁徳の構成要素について語っているのである。

 剛  物事に、恐れず立ち向かう強さ

 毅  苦難に堪え忍ぶ強さ

 木  質素で飾らないこと

 訥  口数が少ないこと

 剛毅朴訥は、「巧言令色」とは対照的な言葉である。剛毅朴訥の人物は信頼でき、安心して付き合える。「仁者(人格者)は、その発言が慎重である」という意味でもある。より分かりやすく言うならば、『人格者は言葉に責任を持つ人なので、慎重になるものだ』ということであろう。

 ものづくりの世界などで「その道60年、70年」という人が居る。匠の領域に達している人たちだ。それらの人の多くは、学歴などというものに無縁である。学校での勉強には縁遠かったとしても、一つの事に打ち込んで来たという何物にも代えがたい経験の重みがある。言葉は訥であっても、一言一言に言い知れぬ深みがあるのだ。「巧言令色」とは無縁なのである。ぜひとも見習いたい。

 あの人は「不言実行の人だ」だなどと評することがある。「不言実行」とは、辞書には「あれこれ言わずに、なすべきことを実行すること」とある。人を評価するときに肯定的に使われる。主に、実力のある人に対して用いられることが多い。
 「不言実行」と同じく、「有言実行」という言葉もよく耳にする。「私は有言実行を心がけている」という表現にも出会う。はたして「有言実行」という表現は正しいのか。「有言実行」という言葉が、現在正しい言葉として存在することは間違いない。ただし、30年くらい前までに発行された辞書には掲載されていない。「有言実行」という言葉が、比較的新しい言葉であることが分かる。「不言実行」が先にできた言葉であり、そこから派生したのが「有言実行」であろう。

 「有言実行」も、「不言実行」と同じくよいイメージで使われる。「彼は有言実行で、オリンピックチャンピオンになった」などと。有言実行をする人は、自分にプレッシャーをかけ目標をやり遂げようとする傾向がある。近年は、「不言実行」より「有言実行」の方が立派な態度だと見なされる事が比較的多い。夢や目標を口にし、それに向かって努力して成功する人のほうが、格好が良いと見なされるように時代が変化してきたのだろう。

 いくら口達者でも、行動しない人は成果をあげることはできない。本当に物事を知っている人は、口であれこれ言う前に素早く行動するものである。「能弁な評論家」を評価するのではなく、たとえ失敗したとしても、実際に行動を起こす「前向きな挑戦者」が評価されるべきである。

 ふだんはあまり使わないが、慇懃無礼(いんぎんぶれい)という言葉がある。意味はご存知のとおり、「言葉や態度などが丁寧過ぎて、かえって無礼であるさま」「あまりに丁寧すぎると、かえって嫌味で誠意が感じられなくなるさま」。また、「表面の態度はきわめて礼儀正しく丁寧だが、実は尊大で相手を見下げているさま」である。人や物事に対して丁寧で礼儀正しく接することは良いこととされるが、「慇懃無礼」は、度を超えた丁寧さや礼儀を重んじ過ぎる様子である。そして度を超えた礼儀によって相手が不快になるような対応を「慇懃無礼」と表現する。基本的には、何か思うところがあり、相手に失礼な振る舞いをしようという気持ちを持ちながら、わざと丁寧過ぎる対応をすることを指す。  
 「慇懃」は、「慇懃な態度」など単体でも使われる言葉であり、「礼儀正しく丁寧」という意味がある。そのため「慇懃」だけであれば良い意味での言葉だ。「慇懃」に「無礼(=失礼)」という言葉が付けば、悪い意味の言葉となる。「慇懃無礼」は、巧言令色と相通ずるところがあるだろう。立場の違う人物と交渉しなければならないとき、慇懃無礼な態度は、大きなマイナスになる。丁寧な言葉の裏に相手を見下す態度はないか細心の注意を払いたい。

 子罕第九(「仮名論語」124頁6行目)に、「歳寒くして、然る後に松柏の彫むに後るるを知るなり」とある。冬が来て寒くなって来ると木々は元気がなくなるが、松や桧などはいつも変わらず存在感を示しているという意味である。冬になっても、『緑の葉』を保つ松や柏の樹木を、最後まで信念と仁徳を貫く『誠実な弟子』の姿に重ね合わせているとも言える。最後まで孔子のもとを去らなかった弟子たちの信義と誠実を、晩年の孔子は冬の寒さに耐える松柏の姿に重ね合わせたのだろうか。順境の時は、その人物の大きさは中々分からないものだが、逆境に遭遇した途端にその人本来のものが露わになる。どのようなときでも、松柏のようにいつも堂々としていたい。「得意澹然(とくいたんぜん・思い通りに事が運んでもおだやかでいる) 失意泰然(思い通りにいかなくとも落ち着き払っている)」とありたい。

 頼みごとをされたときに、自分にとって利益になるかならないかを、またそのことがしんどいことなのか、簡単なことなのかを受諾の条件にしてしまいがちだ。言い換えれば、困難な事であっても一肌脱ごうと前向きに考えるのか、逃げてしまうのかの違いである。世の中には、選択の基準を自らの利益不利益に置いてしまう人を多く見かける。そういった人の多くは、「巧言令色」の態度で生きているのではないだろうか。しんどいことであっても、筋の通ったことであれば前向きに受け止める生き方をしたい。

 少し唐突だが、私たちは建前で生きていないか。建前で塗り固められた人生になっていないだろうか。建前で生きると、悩むことが多くなるのではないか。もちろん人生においては、建前が必要になることもある。私たちは人との関係の中で生きており、場を乱さず秩序を守るため建前で接することもある。交渉や話し合いではまず建前から入り、相手の様子を窺いながらお互いの妥協点を探っていくことが多い。反対であっても、建前上、賛成せざるを得ないときもある。
 建前はある意味、生きていく上で欠かせない処世術だ。しかし、過度の乱用には要注意である。建前ばかりではいけない。建前が増えれば増えるほど、人から誤解されやすくなるだろう。本音と建前のギャップが広がるにつれて、違和感に苦しめられ悩むことも増えると思われる。建前は、本当の考えを表現しているわけではない。表向きの考えに過ぎない。場をスムーズにすることと引き換えに、優しい嘘をついている状態である。時には優しい嘘も必要だが、何度も繰り返されると思わぬ方向に話が進んでしまう。建前ばかりになると、周りの人はそれがあなただと誤解してしまう。「みんなは私のことを誤解している」「本当に言いたいことを言えていない」「私が本当に言いたいのはそうではない」となってくる。「本当のあなた」と「周りから思われているあなた」との間でギャップが生じる。建前ばかりでは表面的な浅い会話しかできず、人間関係を深めることも難しくなる。人間関係に悶々とすることが増え、悩むことになるのである。

 悩まない生き方をしたいなら、本音で生きるようにしたい。本心から出た言葉を発したい。建前を取り除いた本当の考えを表現したい。もちろん時には建前も必要だが、最小限にする。「本音で生きる」を言い換えるならば、「正直に生きる」ということである。本音で話して素の自分を見せれば、周りの人は正しく理解してくれるようになる。
 本音で生きることはときに勇気のいることだが、悩まない生き方のためには欠かせない。本音を表現することで、相手から驚かれることもあるだろう。自分にとって普通のことでも、相手には不思議や非常識に映ることもある。相手は「あなたはそういう人なの」「変わった考えだね」と驚かれるかもしれないが、それは最初だけである。そのうちに理解されるようになる。素の自分を出しても、案外嫌われないものだ。ユニークな考え方であっても、それを表現し続けているうちに個性として認識されていく。いったん理解されたならば、後はスムーズである。相手にとって少しきついことを言っても、受け入れてもらえやすくなる。独特の考えを披瀝しても、「あなたらしいね」と思われるようになる。理解してくれる人が増えるだろう。
 本音で生きることで、あなたから去る人もいるだろう。それはそれでいいのではないか。引き止める必要も追いかける必要もない。残った人たちと付き合えばいいことである。本音になれば、相性の合う合わないが早めに分かるので、大切な人に集中できる。本音で生きると、正直な意見を言えるようになる。やりたいことをやれるようになるので、毎日が楽しくなる。近づく人去る人がはっきりするが、ありのままの自分を表現できるので心の葛藤に苦しむことがなくなる。時にはつらいことや悩ましいこともあるだろうが、自分と向き合った結果なので納得した人生が歩める。素の自分を出して生きることは貴いことだ。どんどんと自分らしい道を歩んでいける。毎日が清々しいドラマになるだろう。



 曾子曰わく、終を慎み遠きを追えば、民の徳厚きに帰す。

 そうしいわく、おわりをつつしみとおきをおえば、たみのとくあつきにきす。

  曾子が言われた。「親の葬式を丁重にして真心から喪に服し、先祖の祭りを手厚くすれば、民の人情風俗は自ずから真っ当なものになる」と。 

  「終」とは、古代中国の春秋時代における身分の高い貴族の死去であり、「終を慎む」とは亡くなった人の葬式を形式(礼制)に則ってきちんと正しく行い、悲哀の感情を捧げて喪に服すことである。

 孔子の時代には、宗教国家として神権政治を行った殷以来の祭儀葬式の名残が遺っており、宗教的な祭儀を厳格にしめやかに執り行うことが社会秩序の安定につながると考えられていた。為政者が、すでにこの世に存在しない祖先の遺徳を丁重に取り扱うことで、現在生きている人民の徳や功績を大切にすることを天下に知らしめる効果があり、祖先を敬う社会秩序の基盤にもなった。

 孔子は孝悌の重要性を説いたが、『孝』とは父系社会の血族集団において目上の人を敬い仕える徳であり、一般には「親孝行」に代表される祖先崇拝思想の名残である。  
 『悌』とは共同体の年長者に従順に仕える徳であり、地域社会の秩序を維持するための規範である。「親孝行」は、すべての本となると言っても過言ではないと言っている(「仮名論語」学而第一2頁・君子は本を務む、本立ちて道生ず。孝弟なる者は、其れ仁を為すの本か)。 

 「父在せば其の志を觀、父没すれば其の行を觀る。三年父の道を改むる無くんば、孝と謂う可し」                         

(学而第一「仮名論語」6頁6行目) 

 「三年父の道を改むる無きは、孝と謂う可し」                 

 (里仁第四「仮名論語」45頁2行目) 

 ここでも『孝』について述べられている。三年(丸二年)の喪に服すことは人として曲げてはならぬことだとある。

 儒教においては、親の葬儀を盛大に営む事が何より大切な事とされる。元々、儒教教団は、そういった葬儀に関する様々なしきたりを教授する人たちから生まれたものである。
 儒教の死生観では人は死ぬと魂(こん)と魄(はく)という二つのたましいに別れる。魂は精神を、魄は肉体をつかさどるたましいであるとされる。魂は天の陽気からのたましいであり、魄は地の陰気からのたましいである。魂は天に昇って神になり、魄は地に返る。残された者たちは魂を祀るために位牌を作ってに祀り、魄の戻る場所として地中に遺体を埋める。
 葬儀では、死者の魂を天国や地獄など7つの世界を巡らせる儀式を行う。この儀式で死者の魂が最後に到達する世界はこの世であり、再びこの世に生まれ変わってきて欲しいとの願いを込めている。また、死者との関係ごとに定められた作法で慟哭することが求められる(哭礼)。

 近年、我が国では葬儀を家族葬などにして簡素化を図ることが多くなった。私の住む地域も例外では無く、ざっと8割が家族葬のように思われる。以前は多かった地域の自治会館を使用しての葬儀も、年に一回あるかどうかといったところだ。
 葬儀の簡素化が進んでいる理由としては、宗教観が変化したこと、人間関係の希薄化が進んだこと、さらに高齢化の進行で故人の友人・知人がすでに他界していたり、友人・知人が概して高齢化し葬儀に来られない人々の数の増加などが挙げられる。
 通夜・告別式等々の宗教儀式を行わず火葬のみを行う葬儀形態を「直葬」と呼ぶが、近年増えており関東では4分の1に至っているという統計もある。

 宗教によってやり方は異なるであろうし、同じ仏教でも宗派が違えば法要の作法はそれぞれに異なる。しかし、先人を敬い感謝し、追善する気持ちは同じである。「終を慎み、遠きを追う」ことは無言の教育であり、絆を深めることに、この上なく意義深いのである。 

 当時の「孝」の概念には三段階あったようで、親が存命であれば親孝行を以て孝の心を表す。 親が亡くなったら、葬儀・服喪を以て孝の心を表す。服喪が明けたら、ご先祖と同様年忌 法要を以て孝の心を表す。というのが「孝」と考えられていたようである。

 位牌や墓、年忌法要の仕来たりは、仏教特有のものと考えておられる方が殆どではないかと思うが、実は、本来の釈迦仏教とは何の関係もない。釈迦は「肉体執着を断て、肉体煩悩を捨てよ」の一点張りだから、本来の仏教に、位牌や墓や年忌法要などは無い。(物や形に未練を持たないのだ)、 位牌や墓や年忌法要は日本仏教特有のものであ、元々儒教の仕来たりを拝借したものである。

(「論語精髄」谷口利広 銀河書籍 から抜粋)

我が国は国債破綻しない 

 

 主に財務省が主導している「国の借金で破綻する」という誘導戦略は、大噓である。平成9年以降の物価の持続的低下(デフレーション)の深刻化は、この嘘に端を発している。

 「嘘の財政破綻論」が蔓延し始めたのは、村山内閣の武村大蔵大臣が平成7年に事実上の財政危機宣言を行い、消費税の増税路線が事実上の広範な同意を得たときである。その結果、現在にまで続く「国の借金で破綻する」宣伝活動が始まったのである。大蔵省や報道機関が全面的に武村を支援し、「日本は財政危機」という認識が、社会に浸透していった。

 「財政破綻論」が社会に蔓延する中、平成9年に橋本政権により消費増税と公共投資の削減という緊縮財政が始まり、我が国の経済は物価の持続的低下に陥った。国民の所得の合計であるGDPが、全く伸びなくなってしまった。

 当時の橋本首相が、「財政破綻論」を無視したならば、我が国が物価の持続的低下に陥ることは無かった。日本のGDPは、今頃(少なくとも)一千兆円を超え、所得と税収が伸び続け、財政赤字の問題など顕在化していなかっただろう。「嘘の財政破綻論」という誘導戦略が、全てを壊した。

 

 財政破綻の定義は、一つしかない。政府の債務不履行だ。政府が借りた金を返済できなくなるか、もしくは利払いができなくなることこそが「財政破綻」なのである。

 財務省が「国の借金」と呼んでいる概念は、正しくは「政府の負債」である。「国」でも「国民」でもなく、日本政府の借金のことなのだ。

 日本銀行の資金循環統計でも、「政府の負債」となっている。日本銀行は「政府の負債」と正しい用語を用い、財務省は「国の借金」と呼んでいるのだ。財務省が「用語の誤用」により、印象操作を試みている。

 

 借金大国どころか、世界最大の金持ち国家である

 「国の借金」とは、定義的には日本の対外債務のことである。「日本国家」が外国から借りている金こそが、正しい意味の「国の借金」なのだ。

 日本の対外負債は、2020年末の数字で、約789兆円もある。ところが、外国に「貸し付けている金」もある。対外資産だ。日本の対外資産は、約1146兆円(16年末)。差し引いた対外純資産は、約357兆円である。金持ちの定義は、「金融資産が多いこと」ではない。「純資産が多いこと」なのだ。日本の対外純資産、約357兆円は世界最大だ。

 実は、借金大国どころか世界最大の金持ち国家なのである。ちなみに、世界で最も対外純「債務」が多い国は、米国である。

 世界一の金持ち国家日本の「中」で、「国」ではなく「政府」が借りているのが、財務省が言う「国の借金」の正体だ。正しくは、「政府の負債」と呼ばなければならない。

 

 「国民一人当たり800万円以上の借金」を広める財務省の記者クラブ

 財務省は自省の記者クラブ「財政研究会」を通じ新聞記者に資料を配り、政府の負債を「国の借金」と呼ばせ、国民を煽る。政府の負債を人口で割り、「国民一人当たり800万円以上の借金」と……。「日本の赤ちゃんは生まれた瞬間に800万円以上の借金を負っている」などと新聞一面に掲げられると、国民は「罪悪感」に苛まれることになる。結果、増税路線に抵抗できなくなる。「借金の先送りをするのですか」とやられると、「増税もやむ無し」になってしまうのである。

 政府の借金を「貸している債権者」こそが、日本国民なのだ。

 
 どのような形で国民は「政府に金を貸している」のか

 多くの人は「自分は国債など購入していないし、政府に金を貸していない」と思うだろうが、国債を保有していなくても間違いなく政府に金を貸している。

 「誰かの金融資産は、誰かの金融負債になる」のだ。言い換えると、「誰かが金を貸しているとき、別の誰かが同額の金を借りている」という話しだ。この基本を理解していただきたい。

 金融資産とは、「現金」「銀行預金」「債権」などだが、例えば100万円の銀行預金を持っていたら、それは「金融資産」だ。銀行側にとっては「金融負債」である。銀行側にとっては「借りた金」であって、「金融資産」ではなくて「金融負債」なのだ。銀行は預かっているのではなく、借りているのである。その証拠に、銀行側は微々たるとは言え金利を支払い、「返してほしい」と望んだとき、きちんと「返済」してくれる。

 

 銀行はなぜ、本業を顧みず国債を買うのか

 銀行にとって「銀行預金」が増えていくことは、「金融負債」が積みあがることを意味する。それだけでは金利の支払いが増えるのみで、逆ザヤで倒産してしまう。銀行の業務は、金を高い金利で貸し出し、金利差を得ることだ。

 現在、日本ではデフレが継続しており、一般企業は設備投資を増やそうとしない。デフレ下では儲からないからだ。設備投資をしなければ、銀行から金を借りる必要はない。「民間の資金需要が足りない」のである。企業の現預金は、現在史上最大に膨れ上がっている。設備投資しないから内部留保(要するに銀行預金)として貯蓄するばかりだ。銀行から借りる必要はないのである。

 企業に限らず、一般家庭でもこの状況下においては、住宅ローンを積極的に組もうとはしない。中小零細企業に対しては、銀行側が不良債権化を恐れて金を貸し渋る。銀行から民間への「貸付」という流れが細っている。これを「民間の資金需要がない」と表現する。銀行には「預金」が集まるばかりで、逆ザヤで倒産してしまうことになる。

 だから、日本の銀行は国債を購入し、政府にお金を貸し付けるという形で゛金利を稼いでいるのだ。デフレは深刻で民間の資金需要が少ないため、「日本円」の借り手は、事実上、日本政府以外にない。結果、史上屈指の低金利で国債を発行することができている。

 日本国債の保有者、すなわち「政府に金を貸している債権者」の過半数は、国内の金融機関である。銀行の「銀行預金」という債務の債権者は、日本国民である。債務者、債権者の関係で言えば、政府の債権者が日本国民の銀行だ。国内銀行の債権者が日本国民なのである。生命保険会社や損害保険会社なども同じだ。


 
 国民は債務者ではない、「債権者」である

 日本政府の負債(国の借金)の債権者(金の貸し手)は、直接的には銀行などの国内金融機関であり、「最終的な債権者」は国民だ。国民は「莫大な借金を負っているのではない。巨額のお金を日本政府に貸し付けている国民こそが「債権者」だ。新聞は、日本の赤ちゃんは生まれながらにして800万円以上の債権を持っていると書くべきなのだ。

 現在の国債金利は世界最低水準だ。とはいえ、日本国債の金利が低いのは、別に「日本政府が信任されている」「日本国債の信用が高い」といった理由からではない。単にデフレが継続し、民間の資金需要が乏しく、銀行預金にとってのお金の運用先がないためだ。

 もっとも、例えば日本国債の所有者の多くが外国人で、金利が世界最低ではなかったとしても、日本政府の債務不履行という「財政破綻」は起き得ない。理由は、日本は独自通貨国で、かつ国債の100%が自国通貨建て(日本円建て)であるためだ。なぜ、日本国債は100%日本円建てなのか。理由は簡単、皆さんが日本円を銀行に預金するためだ。

 
 日銀が国債を買い取れば、政府の借金は実質的に「棒引き」となる

 日本政府は、「日本銀行」という子会社を持っている。実は、日本銀行は株式を東京証券取引所に上場している。とはいえ、全株式を市場で取引しているなどということはあり得ない。日銀の株式の55%は、日本政府が保有している。すなわち、政府は日銀の親会社だ。

 民間企業でも同じだが、親会社と子会社とのお金の貸し借りは、連結決算のルールで「相殺」されてしまう。借金が存在しないということになる。政府が過去に借りたお金の借用証書である国債が、日本銀行に買い取られると、政府は実質的に「借金棒引き」になってしまう。

 政府は日銀が保有する国債について、放置し続けても構わない。利払いも不要だ。一応、政府は日銀が保有する国債について利払いを続けているが、日銀の決算が終わると「国庫納付金」として返還されている。

 日銀が国債を買い取るのは、邪道ではない

日本政府の「実質的な借金」は減少しているが、政府は「借金棒引き」が目的で日銀に国債を買い取らせているわけではない。日銀が通貨を発行する仕組み上、国債を買い取らなければならないためだ。日本銀行が日本円を発行する際には、銀行が保有する国債を日銀が買い取り、その代金を支払う形で「新たな日本円」が発行されるのだ。

 日本銀行の役割の一つは、日本円の通貨発行である。日本銀行はその存在理由から、日本国債を買い取り、「親会社の借金を棒引き」にするのだ。現在は単に、日本銀行が銀行などから買い取る国債の金額が増えている。という話に過ぎない。

 世の中には、「日本銀行が国債を買い取るなど邪道だ」などと、日銀の存在理由を否定する人が居る。そういう人は、日本円を使うことをやめるべきだと思う。私たちが日常的に使っている一万円札、五千円札、千円札も、日本銀行が国債を買い取ることで供給されている(硬貨は日本銀行ではなく、日本政府が発行している)。

 いずれにせよ、「世界で最も国債の金利が低い」「政府の負債の債権者が日本国民である」「国債が100%日本円建てで、政府は日本円を発行できる日本銀行を子会社としている」この3つの理由から、日本政府の財政破綻の可能性はゼロなのだ。自国通貨を発行できる政府が、自国通貨建て国債の債務不履行を起こすなど、あり得ない話だ。

天皇陛下の元日

 天皇陛下はどのようなお正月をお過ごしなのか、ご存知だろうか。
 私たち一般人は、こたつに入り、おせちを広げ、のんびりとしたお正月を過ごす人が多いと思う。私は3日間、駅伝のテレビ観戦三昧。合間に年賀状書き、そして読書と気楽に過ごす。しかし、天皇陛下は、超多忙なスケジュールをこなされている。

 天皇陛下の元日は、日の出前から始まる。着用するのにもかなり時間がかかりそうな古式装束を身にまとわれ、
朝の530分から「四方拝(しほうはい)」という儀式に臨まれる。5時40分からは「歳旦祭」という祭祀に臨まれる。(詳細な内容は不明)
 そして9時05分からは宮内庁の侍従職職員から、9時45分からは宮内庁長官や課長以上の者から、それぞれ祝賀の挨拶をお受けになられる。
 その後、10時00分からは、各皇族や政府関係者、各都道府県の知事や議会議長、各国の駐日大使などなど、分刻みのスケジュールで祝賀の挨拶をお受けになられる。
 この次から次の祝賀挨拶は、数時間に渡って続く。この間、天皇皇后両陛下は「立ちっぱなし」だそうだ。
 合間を見て、飲み物やサンドイッチなどの軽食を召し上がるそうだが、
ゆっくり昼食を取る時間もなく、休憩も無い。

 新年早々から天皇陛下はこんなに大変なスケジュールをこなされておられる。
 具体的なタイムスケジュールは、下記のとおりである。

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5時30分 四方拝
5時40分 歳旦祭(御代拝)
9時05分 祝賀及びお祝酒(侍従長始め侍従職職員)
9時30分 晴の御膳
9時45分 祝賀(長官始め課長相当以上の者、参与及び御用掛)
10時00分 祝賀の儀(皇太子同妃お始め皇族各殿下)
10時10分 祝賀(元皇族、御親族)
10時15分 祝賀(未成年皇族)
11時00分 祝賀の儀(内閣総理大臣等)
      祝賀の儀(衆議院議長及び参議院議長等)
      祝賀の儀(最高裁判所長官等)
11時30分 祝賀(認証官等)
11時40分 祝賀(堂上会総代)
13時10分 祝賀(旧奉仕者会会員)
13時20分 祝賀(宮内庁職員及び皇宮警察本部職員)
13時30分 祝賀(元参与,松栄会会員,元側近奉仕者,元御用掛)
14時30分 祝賀の儀(各国の外交使節団の長及びその配偶者)
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 ご多忙といった言葉では言い尽くせぬ行事をこなされている。
 なお、天皇陛下は日本国の安寧や国民の健康や幸福を願って(けっして、ご自分や皇族のために祈られているのではない)、毎日5時前からお祈りされている。これは、公務でご旅行されたときも同様である。

謹賀新年

 謹賀新年
 本年もどうぞよろしくお願い申し上げる。
 ラジオ体操の後、例年同様に若草橋(大和川)から初日の出を拝んだ。あいにく東方に雲がかかり、いつもより20分近く遅れた。そのためか、人出も例年の10分の1程度だった。その後、氏神である「春日神社」(奈良市内の春日大社ではない)にお詣りした。例年通りのパターンだ。地域の世話人の方々が準備の最中だった。そのような中、世話人の一人で明治の支部長であるM氏から「お神酒をどうぞ」と声を掛けられ、遠慮なくいただいた。
 帰りに、「勢野霊苑」内の我が家の墓と妻の実家の墓に寄り、手を合わせた。前日、妻と娘がお参りし花を手向けていた。早い時間だったので、誰も居なかった。
 実はまことに恥ずかしい話だが、今朝、自宅に国旗を掲揚する事を失念してしまった。情けない。
 ご来光を拝みに行く途中で気づいたが後の祭り、「元日早々失態をの」気持ちを引きずった。結局、掲揚は8時10分になってしまった。いつもラジオ体操に出かける前に掲揚するのだが……。
 9時から家族3人で正月を祝った。

大晦日に当たり

 三生連のホームページをご覧いただいている皆様に、大晦日に当たり、ご挨拶を申し上げたい。日ごろは本ホームページにお訪ねを賜り、深謝申し上げる。会員外からも「ホームページ見ているよ」の声を数多く聞くようになった。本当にありがたく思う。できるだけ頻繁に更新しようとは思っているが、「武漢ウィルス」禍の中、行事の開催もままならず掲載材料に乏しいこともあり苦労している。
 そういう中ではあるが、皆様のお声を糧に無い知恵を絞り今後も努めてまいりたい。ご愛顧の程よろしくお願いしたい。

SDGsに思う

 

 最近、「SDGs」という言葉をよく目にする。三郷町もかなり注力している。最近の(随分前からかも知れないが)広報には、何ヶ所にもわたって出ている。町長を筆頭に、町職員の挨拶や各種文章には必ずと言ってよいほど……。不勉強な私は、一年ほど前まで何のことやら分からなかった。

 SDGsは「Sustainable Development Goals」の略称であると。日本語では「持続可能な開発目標」と表される。2015年9月の国連サミットで採択されたそうだ。SDGsは、2016年から2030年までの15年で達成すべき17のゴールと169のターゲットで構成されている。経済や環境、社会の課題が幅広く取り上げられ、持続可能な社会を築き上げるために、国連が主導してさまざまな取り組みが広がっているようだ。

 「貧困をなくす」「飢餓をゼロに」「すべての人に健康と福祉を」「質の高い教育をみんなに」「ジェンダー(性差)平等」「エネルギーをみんなにそしてクリーンに」――SDGsが掲げる目標はどれも普遍的であり、異論などあろうはずはない。しかし、「エネルギーをクリーンに」の部分には注意が必要だ。世界がめざす「脱炭素=カーボンニュートラル」の実現には、国民の莫大なコスト負担とチャイナリスク(中華人民共和国が抱える様々な矛盾や不均衡のことである。特に、外国企業<日本企業も含む>が中国国内で経済活動を行う際に生じるリスクを指すことが多い)が潜んでいるにもかかわらず、ほとんど報道されることはない。「再生エネルギー」促進などで値上がりする電気・ガス料金、メガソーラーによる自然破壊と災害リスク、「太陽光パネル」で目論む中国の世界支配、欧州メーカーなど(中国が係わっていることは明白だが)による自動車の「EV化」など、課題は山積している。
 脱炭素政策は実は非論理的で、温暖化防止には役立っていないばかりか、産業の自然なイノベーションを阻害し、私たちから富を奪い、さらには途上国の発展の足を引っ張っているとも言える。その一方で、ある一定の人たちには莫大な利益をもたらしているらしい。誰が儲けているのかを考えると、その背後にどのような意図が潜み、何が動いているのかが透けて見えてくる。さらに衝撃的なのは、SDGsの大きな波の中で、日本が間違いなく没落していく運命であること。日本にとっての「脱炭素政策」は自滅的だとも言える。であるのに、私たちはこの不吉な目標に向かって突進し始めている。そして、メディアが無責任にも喝采を送っている状況がある。私は自動車について、「ガソリンエンジン」は人類の想像した最高傑作だと思う。さまざまな点から「電気自動車」は不要だ。トヨタやホンダは、欧米メーカーに追随することなく、究極の「ガソリン車」(ハイブリッドを含む)をめざすべきだと思っている。さらに、SDGsには「安全保障」や「経済安全保障」、「食料の自給」などの視点が欠けている。これらは、我が国においては喫緊の課題であるはずだ。

 さて、SDGsに取り組まなくても罰せられるわけではないため、有志のみが取り組んでいるということがSDGsの問題点として挙げられる。SDGsを認知し、解決の必要性を感じている人しか取り組まなかったり、取り組む余力のある人しか取り組めない現状がある。貧困や情報格差がある開発途上国の人々は、十分に取り組めない。置かれている状況の改善が急がれるものの、本人が何もできない状況が生まれてしまっている。格差を縮めることが大きな課題であるにも拘わらず、格差を理由として結局はピラミッドの上層、つまり先進国が主導権を握ってしまっている。

 多くの企業や組織がSDGsに取り組んでいる中、「周りがやっているからうちもやろう」という流れでSDGsを取り入れるところも出てくる。SDGsが社会貢献と結びついていると考え、SDGsに取り組む組織は「良いこと」をしているという肩書き欲しさにSDGsを取り入れるところも少なからず存在する。 

 響きの良いSDGsという言葉を使って売名行為をしたり、SDGsを表面上で行なっていると公言しながら、実際はSDGsを実践していない状況のことを、「SDGsウォッシュ」と言うらしい。SDGsの一つの目標を達成しようと、他の目標の達成に悪影響を及ぼしている状態にも、同様の言葉が使われるようだ。例えば、ユニクロを運営する「ファーストリテイリング」において、中国の2つの下請け工場で従業員が長時間労働かつ低賃金での労働を強いられている状況のあることが、2014年の調査で明らかになった。作業場は異常なほど高温となり、かつ有害なガスや異臭の漂う状況であると。そういった劣悪な環境で働かせることは、労働者の権利侵害に当たる。人件費を安く抑えることで、高品質でありながらお手頃価格での製品販売を実現させている。正当に給料が支払われなかったり、健康に悪影響を及ぼすような環境で働かせていることが明らかになったことで「ファーストリテイリング」の闇が見えた。発覚した後も同社は、これらに関して明確には回答していない。日本人として、恥ずかしいかぎりである。米国は人権蹂躙阻止という立場から、法律によって人権無視の企業との取引を禁止しようとしている。すでに法案は可決され、実施されようとしている。日本政府は、なぜ黙っているのだ。「親中派」や「媚中派」の反対により「中共非難決議」が国会で決議されない状況が続いているが、残念至極である。

 SDGsウォッシュに陥ってしまう原因として、組織の事業と合わないのに無理やりSDGsを取り入れてしまうことが挙げられる。実態に沿わない分野まで取り組もうとしてしまい本来業務がおろそかになったり、本来業務からずれてしまう恐れがある。さらに、組織がSDGsに十分にコミット(結果に責任をもつ)できない理由の一つに、職員や従業員がSDGsを負担として捉えていることが考えられる。組織でSDGsに取り組むにあたって、上層部の人たちのみで方策が練られてしまうと、職員や従業員と認識の差が生まれてしまう。そうならないように、周りの意識向上(共通理解・課題の共有)も合わせて取り組むことが求められる。SDGsを組織で取り入れるにあたっては、組織内のコミュニケーションが大事となることは言うまでもない。

 世間でSDGsが広まりつつある中、流行に乗り遅れてはならないという感覚で取り組むのではなく、一人ひとりが問題意識を持って取り組むことが大事だ。一番問題となりやすいのが、前述のSDGsウォッシュである。SDGsウォッシュに気をつけるためには、どのように計画にSDGsを組み込むかなど取り組み方法を十分に考え、そして成果を公開することが求められる。取り組みをオープンにすることで、組織外からの(住民からの)信頼の確保につながると思われる。また、一人ひとりがSDGsを理解し、同じ思いで取り組めるように役割分担したり、組織内コミュニケーションも円滑にしていく必要がある。SDGsに掲げられた目標が、なぜ求められているのか、一人ひとりに考えさせることで、課題解決が進むだろう。

 SDGsに掲げられている目標は、短期間で解決できる問題ではない。そのため、未来への投資だという意識を持ち、長期目線で実践することが求められる。未来を想像し、自分はどのような世界に住みたいか、どのように社会に貢献したいか、今一度考えてみることが求められる。自分がめざす将来像を描くことにより、具体化された取り組みが思いつくはずだ。長い先の将来を考えるのは難しいかもしれない。しかし、将来ありたい姿を想像して、逆算しながらその都度やるべきことを考えていくことが、SDGsに取り組むにあたって最も重要だろう。

 SDGsの実践に当たりそもそも問題となるのが、SDGs自体の認知度の低さである。認知度が低いから、特定の人しか取り組まなかったりすることになる。組織を挙げての研修などが必要だ。SDGsは一人で解決できる問題ではないが、一人の行動がその周りの多くの人々に影響を与えることができる。多くの人の心に響くような実践を続けることで、一人ひとりの意識改革・行動改革へとつながるだろう。このように問題点が多々あるものの、SDGsはこれからの世界を形成していく上でとても大切な「道標」となる。

力不足を痛感 お詫びを

 「百祥 三生連のあゆみ」は、現在会員の手元に配布されているところだ。
 できるだけ費用をかけないでと努めた。できるだけミスの無いようにと、校正にも時間をかけたのだが、出来上がってみると、何ヶ所にも不具合がある。そのほとんどが編集のミスであり、制作責任者である会長の私の責任である。お骨折りいただいた編集委員の責任では、全く無い。
 上梓できたことは大きな喜びだが、一方で力不足を痛感している。「注意力・集中力の散漫」に尽きる。汗顔の至りである。
 これらを踏まえ、さらに精進を重ねる所存だ。署名原稿については、著者に深くお詫びしたい。本来ならば、ご迷惑をおかけした方々、お一人おひとりを訪ねて謝罪すべきところだが、この場をお借りしてお詫びを申し上げる。
 みなさまにはこれに懲りず、今後ともご指導の程よろしくお願い致したい。

『百祥 三生連のあゆみ』刊行に当たって

  三郷町生き生きクラブ連合会(以下、「三生連」)の『百祥 三生連のあゆみ』の刊行に当たり、ご挨拶を申し上げる。

 連合会の名称を三生連に変更後、早いもので3年近くが経過した。改称した年の5月に改元が成ったので数えやすい。辻 孝三前会長から私にバトンタッチされたのも、同じ年の4月である。この間、会員の皆様には、愚昧不肖の私に対し一貫して温かいご支援・ご協力を賜っておりますこと、心から御礼を申し上げたい。また、「武漢肺炎」禍という未曽有の危機の中、已む無く中止となる行事も少なくないが、何とか滞ることなく運営できている。これも偏に、奈良県や三郷町をはじめ、全国老人クラブ連合会(以下、「全老連」)・奈良県老人クラブ連合会(以下、「県老連」)・生駒郡生き生きクラブ連合会(以下、「郡生連」)・三郷町社会福祉協議会(以下、「社協」)など、関係諸団体のご支援があればこそと深謝申し上げる。とりわけ、社協の事務局長や事務局長補佐をはじめ職員の皆様には、永年一方ならぬお世話をお掛けしている。ご高配に対し、三生連を代表して御礼を申し上げる。

 私自身の三生連との関りは、年少のゆえまだ6年足らずだ。が、先輩諸賢のお話しなどから、歴代会長はじめ役員、顧問、支部長、社協事務局の皆様等、多くの方々のご尽力により、また会員のご協力により、ここまで辿りつけた事を強く感じる。先達の多大なご功績を心から称えたい。

 論語に、『慎終追遠』という章句がある。「愼終追遠 民徳歸厚矣 終わりを慎み遠きを追えば、民の徳厚きに帰す」(学而第一)と読まれるが、元の解釈は「先帝の葬式を丁重にして真心から喪に服し、先祖の祭りを手厚くすれば、民の人情風俗は自ずから真っ当なものになる」である。浅学を顧みず私なりに意訳すれば、「先人の功績を称え優れたところを学ぼうとするならば、人としての道は自ずと開けるだろう。結果として人々の支持を得られるだろう」と言ったところか。先人のご功績を称えさらに誠心誠意努める中で、三生連の活性化を図っていくことが求められる。

 

 取り巻く環境は厳しい

 ところで、我が国の高齢者クラブを取り巻く環境は、年々、夙に厳しいものがある。三生連でも、会員の平均年齢が81歳を超える中(令和3年12月末現在)、お亡くなりになられる方や施設への入所などが理由で退会される方が後を絶たない。一方で、年金制度や社会情勢の変化などによる就業年齢の高まりや個人主義のますますの広がりもあり、新規に入会される数が極端に少なくなっている。会員の減少は本連合会のみならず全国的な傾向である。

 県老連では、平成15年にクラブ数が2千79、会員数は12万8千995名を数えたが、これをピークに減少に転じた。以来、減少は止まることを知らない。三生連でも、平成17年度当初の会員数が千8百45名で(16年度以前は不明)、以後減少の一途を辿り県老連とほぼ歩みを同じくしている。全老連全体でも同様だ。

 三生連では、春秋のハイキングの実施や同好会・教室の新設(論語・万葉集・習字・健康体操など)、会報の充実やホームページの開設・公開、会名の改称など、思いつく対策を矢継ぎ早に講じて来た。手をこまねいているわけではない。だが、十分に功を奏しているとは言えない。それどころか、令和2年4月には、会員数がとうとう千人を切ってしまった。会長として責任を痛感している。

 繰り返しになるが、現代人の特徴とも言える「群れなくてもやっていける。人づきあいはできれば避けたい」などの個人主義の拡大は、今後ますます目立ってくるのかも知れない。「友人は多いほどよい。多いことは人生に彩りが……」は自明の理だが、分かってはいても多くの人は行動につながらないのである。

 60歳代の会員がゼロの支部も増える傾向にあり、会員の平均年齢は上がる一方だ。ゆえに、単位支部におけるリーダーの後継者不足も深刻である。三生連23支部中、約半数の支部長が80歳を超えた。また町内では、ネットワークとの関係も課題のひとつだ。別頁資料のとおり、三生連ではこの10年で5つの支部が廃会となった。、その理由は前述のとおりである。

 

 現役員は全力で

 現役員・顧問は、『朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり』(朝に人としての真実の道を聞いて悟ることができれば、夕方に死んでも悔いはない)<論語・里仁第四>『生を求めて以て仁を害することなく、身を殺して以て仁を為すこと有り』(命を惜しがって仁徳をそこなうことはなく、時には命を捨てて、仁徳を成し遂げることもある)<論語・衛霊公第十五>などの気概と覚悟をもって努力を積み重ねている。だが、会員増強に係わっては今のところ報われていない。

 そういったある意味、時代の趨勢とも言わざるを得ない極度に困難な状況下ではある。だが、諦めてはならない。今後も弛まず、活性化を促し盛り上げて行くことが求められる。そのことを肝に銘じる。展望の開けない状況は続くが、会長として残されたあと1年余りの任期を全身全霊で全うする所存だ。

 

 46名から玉稿が

  末尾となったが、今回、『百祥 三生連のあゆみ』と銘打ったこの小誌を刊行するに当たって、三郷町長・町議会議長、県老連会長。郡生連会長・郡生連副会長のお二人、町住民福祉部部長・同次長、町社会福祉協議会事務局長・同事務局長補佐、三生連全役員・顧問、全支部長、全同好会代表者等、そして一般会員にも寄稿をお願いした。その結果、46名の皆様からのご協力をいただけた。望外の喜びである。

   ご多用の中、玉稿を賜った皆様には、心からの感謝を申し上げる。

  

 謹呈作業も年内に終えることが出来、晴れ晴れとした気持ちで新年を迎えた。

 本年も、会員にとって、三生連にとって、そして日本国にとって、『百祥』であることを心から祈念する。

 

 ひと区切り苦き香りのモカ珈琲

 新たな意欲我に沸き立つ

               蓮路

 

    奈良・三郷町の拙宅にて
            谷口 利広

気骨を見せる安倍晋三 元首相

 

 12月1日、安倍元首相は台湾のシンポジウムで演説を行った。その際の「台湾有事は日本有事だ」という発言は、日本のメディアでも広く報道された。この発言に中国が激怒し、「火遊びをするな、内政干渉をするな」と厳しく抗議した。当日夜に垂 秀夫在・中国大使を呼びつけて抗議するという事態に発展した。垂 大使は臆することなく、「日本の中にそのような意見があるということだ」と毅然とした態度を貫いた。大したものだ。拍手したい。当然と言えば当然なのだが、これまでの大使にはなかったことだ。

 安倍は、演説の中で尖閣問題に触れて、「習近平との会談のたびに必ず日本が尖閣諸島を守る意志を伝えてきた」と話した。中国ではこれまで「世界の指導者が習近平にペコペコして、習近平がうまく話を取りまとめて……」と宣伝してきただけに、今回の安倍の演説内容は、中国の宣伝とは真っ向から食い違うものだった。安倍がこのように主張してきたことが知られていなかったのだ。習近平の顔に泥を塗ったということで、中国側は安倍に対して激しい抗議を行ったのだろう。
 安倍の中国に対する強硬的な姿勢には、台湾から広く感謝の声が届いた。

 「大人の対応」はもう必要ない 
 これまで日本では中国との外交の際、「中国を刺激するな」という姿勢で臨んで来ただろう。それが「大人の対応」であるとされて来た。しかし、安倍は「台湾有事はすなわち、日本有事である。そして日本有事は、日米同盟の有事である。習近平はこのことを見誤るべきではない」と主張した。まさに、日本外交の通念を破ったわけだ。
 さらに安倍はこれに加えて、「それでも(習近平が)冒険するなら、それは経済的自殺だ」と強く警告した。また、「日本はF35戦闘機を147機購入している。新しい巡航ミサイルを購入・開発しており、与那国島と宮古島に陸上自衛隊も配備している」とも……。

 台湾から日本への感謝 
 安倍の中国への警告では、「日本には中国と戦う覚悟がある」ということ明らかにした。この演説に、台湾人は2つの理由で感謝している。

 1つ目は、安倍が、戦後初めてと言ってもよい気骨のある政治家であることが分かったこと。中国の横暴への強い意志は武士道精神そのものであり、これこそ台湾が日本を尊敬する一番の部分でもある。
 2つ目には、初めて安倍が台湾人の気持ちを代弁してくれたことにある。演説の中で、安倍は「台湾は、医療や衛生などの命に関わることでさえ 国際社会の中で発言権を持っていなかった。1971年に国連を追放されてから50年間、台湾はこの状況に耐えており、さらに25年間民主化の道を歩んできた」と述べた。
 台湾では、安倍の演説を受けて「情義相挺(チェンギショウティン)」という言葉が広がっていると聞く。これは「情もあり、義侠心もある」ということで、安倍元首相が 我々台湾を支えてくれているという意味だ。「日本にとって台湾が共通の価値観を持つ国であることを示してくれた」と。台湾が独立国として存在を示すことは日本や世界の利益になると強調した安倍に対し、多くの感謝の声が集まっている。
 ところで、安倍が発言したシンポジウムは、一民間団体主催のものであり、中国が大々的に日本を批判しなければここまで有名になることはなかった。この安倍の勇気ある発言は、世界にも勇気を与えるものだったことに疑いの余地はない。この演説に即座に反応し、世界のビッグニュースになるまで大騒ぎしてくれた中国には、大いに感謝をしなければならないと思うのである。

師走は間もなく半ば

 師走もすでに半ば近く、樹木の落葉もほとんど終わり、朝夕の冷え込みも強くなり、年の瀬を強く感じずにはおられない。
 武漢ウィルスの新規感染者数は激減しているが、新種の発生もありマスクの不使用に至るまでには、まだまだ遠いだろう。密を避けなければならないため行事も思うように開けない。
 三郷町においてはワクチン接種で文化センター大ホールを使用するので、総会の開催も当分無理である。
 そのような中、製作中の「三生連のあゆみ」が間もなく出来上がることは、暗中、一抹の光明である。会員の皆さんの手元には、今月25日以降にお届けできることになっている。楽しみにお待ちいただきたい。
 米国では、竜巻による大きな被害が生じている。お亡くなりになられた方のご冥福をお祈りするとともに、米国民に心からのお見舞いを申し上げる。

収束に向かいつつあるが

 ここに来て、武漢ウィルスの新規感染者数が、大きく減って来た。全国的な傾向だ。東京も大阪も、北海道も沖縄も。

 荒井知事の言われるとおり、「他の地域が増えるときは奈良も増える。減るときは減る。宣言を出そうが出すまいが一緒だ」である。「財源は限られている。より有意義に支出する方がよい」そのとおりだ。

 誰も荒井知事を称賛しない。奈良市、生駒市、天理市をはじめとする各首長、県医師会長、奈良テレビをはじめとする各報道関係、「何とか言いなさいよ」と私は言いたい。

 もうひとつ言いたいのは、気の弱い方や高齢者などを恐怖に陥れるような話をされる有識者と呼ばれる方々だ。人々が過信するような話も困りものだが、必要以上に怖がらせるのはもってのほかだ。こういった方々は、現在の状況をどのように説明されるのか。「けっして油断してはならない」の一言だろう。

 油断はだめだ。油断すると、また増えるだろう。要は油断せず、必要以上に恐れず、うがい・手洗い・消毒・必要に応じてのマスクの着用に心がけ、3密を避けることだ。

 密とは無関係なのに野外でマスクをしたり、車に一人で乗車中でのマスク着用などは、無駄である。但し、「どうしても着用したい」という方に「やめなさい」などとは言わない。まさに、個人の自由である。(令和3年10月10日)

「50周年」ではなかった 

 来年は「創立50周年」という事で、昨年度末以来、準備を進めてきた。

 
ある時期(8から10年位前と思われるが詳細不明)に、平成16年度以前の支部報告等の資料一切が廃棄処分にされてしまった。私がそのことを知ったのは、副会長を務めていたときだ。本連合会設立以来、これまで周年行事がまったく展開されておらず、「10年区切りのまとめ」といったものも無いことも。平成20年度以前の会長はすでに鬼籍に入っておられるし、19年度以前のことが一部を除いて分からない状態である。

 平成26年に発行された県老連の50周年記念誌「50年の歩み」の記事(当時の三老連の会長が寄稿)に、「三老連は、昭和48年の発足と思われるが……」の記述がある。事務所に遺されている「歴代会長」の資料も昭和51年度からであった。ただ生駒郡の他の町の連合会設立年度は、斑鳩町が昭和38年度、平群町が39年度、安堵町も39年度だったので、なぜ三郷町だけ大きく遅れをとったのだろうと不自然に思っていた。しかし、確認する術(すべ)が無かった。

 昭和48年の設立ならば創立50周年に当たる。大きな節目の年に、何らかの記念事業を展開しなれば後顧に憂いを残すと思い、令和2年度末に「創立50周年事業検討委員会」を立ち上げた(後に実行委員会に移行)。
 事業のひとつとして記念誌を制作することにした。歴史を掘り起こして残さなければと思ったのだ。そして、一人でも多くの方に寄稿願おうと、早速、町長を始め皆様にお願いすることになった。一般会員にも会報を通して……。

 そのような中、前述の県老連50周年記念誌の表彰歴一覧の中で、昭和42年に馬場支部が県老連から「会長賞」を受賞したとあった。43年には、信貴ケ丘支部が「県知事賞」を受賞したとも……(馬場と信貴ケ丘の両支部に確認したが、賞状などの所在は不明)。昭和42年度に受賞したのであれば、「三郷町老人クラブ連合会」は遅くとも41年度には設立されていたと考えるのが自然だ。もっと以前の可能性もある。その方が郡生連の他町との比較でも妥当だ。41年には町制も施工されている。
 設立年度について県老連にも問い合わせしたが、残念ながら、『50周年記念誌「50年の歩み」』に掲載されている以外のことは不明であった。

 これらを受けて8月19日に役員会を開き、対応を協議した。その結果、記念誌については作業がすでにスタートしており、「回顧録」(仮称)として予定どおりに発行することにした。令和4年4月に総会と併催予定としていた「記念式典」は、取り止めることとした。原稿執筆をお願いしていた三生連関係者以外の皆様にはお詫びすると共に経緯を、明日ご説明申し上げる。
 まことに恥ずかしい話である。責任はすべて、会長である私にある。

(令和3年8月19日)

会報「矍鑠」第19号 『照隅』

 希望する高齢者へのワクチン接種が、先月末に終了した。今後若い世代へと進み、一日も早く収束に向かってほしい。現在中止を余儀なくされているさまざまな行事が、通常どおり実施できることを願う▼最近、支部長連絡網がきちんと機能し、『矍鑠』が会員に速やかに配布されている。支部長をはじめ、支部役員の日頃のご尽力に対し感謝する▼東京五輪の開会式への評価は分かれた。どちらかと言うと否定的な意見が多かった。会員諸氏のご意見は如何だろうか。ロサンゼルス大会から、過度と思われる演出が増えた。商業主義が蔓延る(はびこる)ようになった。私は、前回東京五輪の入場行進や聖火最終ランナーの聖火台への点火のような、余計な演出を避けた単純明快な進行に軍配を上げたい。青空の下での開会式が懐かしい。とにかく、所要時間が長かった。誰もが感じただろう。正味4時間、集合解散を含めて8時間は、選手に酷である。橋本組織委員長やバッハIOC会長の挨拶は、内容や態度については立派だったが、異常に長過ぎた。「挨拶は短く簡潔に」が鉄則だ▼昭和39年の前回大会はまだ中二だったので、テレビ観戦と市川 崑監督の記録映画の鑑賞のみに終わった。3年後にはパリで、その次はロサンゼルスで、さらに4年後にはブリスベン(豪)で開催されるが、海外までは……。生きている間に、もう一度日本で開催される望みは限りなくゼロに近い。「この機を逃せば、五輪を目の当たりせずに生涯を終えることになる」の思いで、一人札幌へ向かった。五輪への思いが人一倍強いのだ▼通常、男女マラソンの日程は離される。今回は競歩を含め4日連続での実施となり、5種目が観戦できた。そして首尾よくコース沿いに、それもスタート・ゴール近くにホテルが取れた。キプチョゲなど、世界の一流選手の力強く美しいフォームを何度も眼にし、ただただ感嘆するばかりだった。今でも余韻が。金が確実視された男子20キロ競歩では、残念ながら銀と銅の獲得に止まった。改めて金獲得の重みを痛感させられた。男女マラソンはメダルに届かなかったが、6選手は力の限り健闘した。それらを含め、語り尽くせぬ感動を味わった▼聖火ランナーを務めることができたうえに、日本選手のメダル獲得の場面をこの眼に焼き付けることができた。幸せ者である。欲を言えば、後輩の鈴木健吾くんがマラソンに出場して欲しかったが、それは欲張りだろう。パリ大会を待ちたい。今後、事務所で感動の一端をお話しできると思う。

札幌で五輪の応援

 8月6日(木)、札幌を訪ね、競歩3種目と男女マラソンに声援を送った。予想したとおり、全国から多くの応援客が訪れていた。
   マラソンではメダル獲得が難しいが、男子20キロ競歩では金メダル獲得が確実視されており、その場面に立ち会いたかった。札幌に着いた夕刻のレースとなったが、思ったより涼しかった。結果だが、残念ながら銀と銅に終わった。優勝すると思われた山西選手が最終盤で失速し、3位となった。期待の大きかった私の落胆は……。夕食はおいしい寿司でもと思っていたが、金を獲れなかった責任は私にもと、臥薪嘗胆、〇〇屋の牛丼とした。
 
 翌日は早朝から男子の50キロ競歩、夕刻には女子の20キロ競歩と続いたが、前日の結果が尾をひいたのかメダルには届かなかった。
 土・日のマラソンは男女ともメダル獲得には力不足で、よかって6~8位と予想していたが、そのとおりの結果となった。
 今回、男子3千㍍障害で三浦選手が、女子1500㍍では田中選手が、そして女子5千㍍で廣中選手が入賞と気を吐いた。
 次のパリ五輪では、ぜひマラソンでのメダル獲得をと期待して札幌を後にした。

サツキ見頃

 拙庭のサツキが見ごろになってきた。
 大したものではないが、40数年前から鉢で育てたさまざまな種類を地植えにしたので赤一色ではない。他の植栽も同様だが、水やりや剪定、施肥・施肥薬剤散布などを職人に頼んだことは一度も無くすべて自分でやっていることが自慢だ。
 よかったらご覧いただければと思う。鑑賞には早朝が最適だ。日差しが強くない方がよい。ラジオ体操から6時55分には戻るので、7時45分くらいまでの時間にお越しいただければと思う。雨の日は、余計に美しい。前述のとおり多種類なので、月末まで鑑賞に堪えられる。
 昨日は辻  孝三三生連前会長が、今朝は西村 恒子 三生連会長はじめ夕陽ケ丘支部の仲間7~8名の来訪があった。
(5月15日)
 


人一倍の汗をかき、「手柄は他者に」の姿勢

   他府県の話だが、「武漢ウィルス」のワクチン接種に係わって、対象年齢に達していない若い市長や町長などが先に注射して貰ったというニュースが、世間を賑わしている。
   長たる者は、「お先にどうぞ」の姿勢が大事である。特権を行使するなどは論外である。人一倍の汗をかき、「手柄は他者に」の姿勢を常に保たなければならない。心したい。
 生駒郡4町には、そのような首長は居ないと信じる。
(令和3年5月13日)

みなさんに支えられて「三生連」は盤石

 本連合会の役員・顧問は13名だ。
  会長の私が最年少で、私を除いてみなさん人柄がよく、かつ能力の高い方ばかりである。そして何より、率先して人のために汗のかける人ばかりである。私はみなさんに、大いに助けられている。
 そういった中でも、西村 恒子・恒川  敏・大浦 幹文の三副会長は俊逸であり、私はほとんど何もしていないと言った日常である。有り難いことである。理事のみなさんも、担っていただいている分野はもちろんのこと、他の業務も手助けしていただく。
 また、顧問や監事のみなさんも理事と同様の業務をこなしていただく。このような組織・団体は稀有ではなかろうか。これまた、本当に有難いことである。「三生連」は盤石だ。
(令和3年4月)

東京五輪の聖火を無事繋いで

 現在、東京オリンピック・パラリンピックの聖火が、福島を皮切りに全国をリレー巡回している。

 奈良県内でも、4月12、13の両日にわたって17か所で実施された。私は、12日の午後、法隆寺・法起寺間のコースで、法隆寺東大門から中宮寺夢殿入口前の区間を走らせて貰い、無事聖火を繋いだ。

 前回の東京五輪(昭和39年)のとき、私は中学2年だった。高校に入学後、陸上競技部の卒業された先輩(4歳上)が聖火ランナーとして走られたことを知った。そのときのユニフォーム、日の丸の入ったランニングシャツとランニングパンツを見せていただき、とても羨ましく思ったものだ。3年で主将を務めたが、もう少し早く生まれていたら自分も選ばれていたかもと残念な気持ちになった。57年の時を経て、聖火リレーランナーとしてまさか走ることになるとは……。

 私の走った所は、会員のみなさんならすぐお分かりのように、両側が土塀、下は石畳の道で、見上げれば五重塔なども見ることのできる見事なロケーションである。聖火トーチを掲げながら、夢のような、幸せな気分に浸った。

 当日は、応援のために多くの方々が駆けつけてくれた。有り難いことである。三郷町の森 町長や伊藤 町議会議長、教育部長もご多用の中、お出でいただいた。みなさんに、心からお礼を申し上げたい。なお、16日午後、西村・恒川両副会長と共に、森 町長を表敬訪問させていただいた。
(令和3年4月16日)

東京五輪・パラリンピック聖火リレー

 東京五輪・パラリンピック県内での聖火リレーは、4月11日と12日の両日実施されるが、昨日、組織委員会から連絡が入り、私の走る区間が判明した。
 法隆寺~法起寺の9区間のうち、第2区の法隆寺東大門から夢殿前の200㍍を走ることになった。走る時間は、12日の午後2時15分頃である。
 体調を整えて、きちんと役割を果たしたい。

「新友会」の新支部長に安部正明氏が

 「新友会」の現支部長が、今年度をもって退会される。後継が決まらず、憂慮すべき事態となっていたが、安部正明氏にお引き受けいただくことになった。
 安部氏は、本部の会計を7年、今年度は理事を歴任された。体調が万全では無い中、その男気に拍手したい。

学術会議騒動に思う

 

 昨年9月末、日本学術会議が首相(任免権者)に提出した新会員候補者の内、6人が拒否された。それに対して、同会議は、「学問の自由」が侵害されたと騒ぎ立てた。野党の一部も同調した。
 不満ならば、同会議の会長は辞任して抗議すればよい。会員においても、不満な者は辞任することだ。しかし、誰一人として抗議辞任はしていない。もっとも会員が辞任しても、政府も国民にも影響があるとは思わない。会長以下、多数の会員が今回の人事結果に不満ならば、政府とは縁を切り独立独歩で活動すればよいだろう。政府とは無関係となり、自分たちが費用を負担して自主独立での活動をすればよい。であるのに、なぜ政府から離れられないのか。現状の居心地が余程よいのだろう、何らかの旨い汁を吸うことができるのではと勘ぐられても仕方ないのではないか。そのように思ってしまう。

 38年間、公立高校の教員を務め、定年退職して10年になる。当然だが、在職中、人事に対して異議を申し立てたことなどなかった。自身、望まない転勤を強制されたり、納得のいかない管理職人事なども少なからずあったが、仕方が無いと思った。組織であるから、教育委員会事務局の最終決定が出た後は、人事に対して拒否できる権利などどこにも存在しない。この原則は、他の組織においても同様だろう。

 日本学術会議などという仰々しい名前で、中身は空虚な組織など、政府組織としては無用の長物だと思う。ここ何年も提言らしきものが提出されていないことが、それを示している。国民の幸福に資していないのである。それどころか同会議は軍事研究には反対だと主張をし、北海道大学における某研究を攻撃し研究を中止させたと聞く。同会議は、平成19年3月の「軍事的安全保障研究に関する声明」で「戦争を目的とする科学の研究は絶対に行なわない」ことを掲げた。戦前の軍国主義の幻影を引きずり、過剰に反応しているように感じる。世論調査にみれば、国民の多くは自衛隊を認めている。自衛隊を必要と認めるならば、中国共産党の脅威を感じる中、相応の自衛力も補償すべきだ。同会議の対応は、近視眼的行為ではないか。どのような研究であろうが「ものづくり」であっても、軍事に結びつかないものはないだろう。専守防衛の範囲内で安全保障研究に関与するかどうかは、研究者個人の良識に委ねるのが適切だ。安全保障研究への参画を組織的に阻害すべきではない。それこそが、「学問の自由」の侵害と言える。

 合点がいかないのは、同会議は軍事研究に反対という主張をしながら、同会員の少なからずは中国共産党の人民解放軍と深い繋がりを有していることだ。追及されると、「政府の学術研究に対する予算が貧弱だから」となる。実績を積み上げ、それこそ正面から要求すべきであろう。本末転倒、とんでもない話である。そのような中、海外から優秀な研究者を招致する悪名高い中国のプロジェクト「千人計画」に、少なくとも44人の日本人研究者が関与していたことが分かった。日本政府から多額の研究助成を受けながら、中国軍に近い大学で教えていたケースもあった。許しがたい大きな問題である。米国では、海外から一定額以上の資金を受けた研究者に情報の開示を義務付けているほか、国の予算を使う企業、大学などの関係者が外国の人材招致計画に参加することを禁止している。我が国は、対応が遅れている。

 学術会議の問題の本質は、全国約85万人とされる科学者を代表した組織になっていないことだ。大学研究者が大部分であり、民間や企業の研究者、政府系の研究者の意見が反映されにくく、分野にも偏りがある。一部の大学研究者の独りよがりの意見となりがちだ。偏りを是正し、学術界の縮図となるように会員210人を選ぶ方式にすべきだ。繰り返すが、日本の研究者のほとんどは、日本学術会議なる組織とは無縁であろう。にもかかわらず、同会議は日本中の研究者が参加し後援しているような虚言を弄(ろう)している。

 図らずも、新会員任命において政府(首相)から拒否された今回の騒動によって、日本学術会議なるものの実態が明らかになったのは、とてもいいことだ。 
 すなわち、同会議が、

 (1)政府(最高責任者は首相)の一部であること
 (2)日本の研究者の大半は、同会議と無関係であること

(3)そのメンバーの誰一人として抗議の辞任をしていないこと

(4)民間の団体となる覚悟がないこと

(5) 中共人民解放軍とつながりをもっていること

などが分かった。

 政治は国民のためにあり、科学もまた、国民のためにある。政治と科学には一定の距離感と緊張感が求められるが、対立する必要はない。現在の日本学術会議の姿勢では、他の多くの研究者や国民の支持は得られない。

 「学問の自由」を保証することは当然のことだが、菅内閣は学術会議の詭弁に妥協することなく、毅然とした対応を取り続けていただきたいと強く思うのである。

新年のご挨拶

謹 賀 新 年

 三生連は武漢ウィルス禍に負けず、令和3年も飽くこと無く可能性を追求する。
 本年も、ご協力をよろしくお願いしたい。特に支部長の皆様には何かとご支援・ご協力を賜っているが、引き続きよろしくお願い申し上げる。なお、福祉保健センターの事務所での業務開始は、1月5日からだ。

10/28支部長会 挨拶

 みなさん、こんにちは。

 ご多用の中、ご出席いただきありがとうございます。日ごろは、三生連の運営にご協力を賜りまして感謝申し上げます。

 さて、「武漢肺炎」禍のため、三生連では総会をはじめ様々な行事や日々の活動がままならない、困った状況が続いています。みなさんの支部におかれましても、同様の状況ではないでしょうか。本日の支部長会もセンターの使用規定で出席者人数が制限され、二回に分けての開催となりました。また役員も4名のみの出席としています。

 三郷町では、この2か月半余り新規の感染者が出ていませんが、全国的に見ると収束に向かっているとは言えない状況があります。また世界に目をやると、ヨーロッパ諸国や米国、インド・ブラジルなどでは、毎日万単位の新規感染者があります。まことに深刻な事態です。

 色々と暗い話題の多い昨今ですが、先般は三郷町と大阪柏原市とで申請していました「竜田古道」の日本遺産への登録が叶いました。また昨日は、西川きよしさんが文化功労者に選ばれるなどの明るいニュースもありました。

 こういう時期だからこそ余計に、前向きな気持ちを維持して日々過ごしていくことが求められるでしょう。

 これから徐々に寒くなってまいりますが、みなさんにはご自愛いただきまして、コロナ禍を乗り切っていただきたいと思います。

 はなはだ簡単ではありますが、開会の挨拶といたします。

収束の気配が少し

 会報「矍鑠」第16号の巻頭言で『収束の気配見えず』と記したが、「そんなことはないだろう」と思われている方も多いだろう。
 諸般の事情で、16号の印刷は8月14日に行った。と言うわけで、あの一文は8月13日以前に書いたものだ。その後しばらくして、新規の感染者数はかなり減って来た。東京・大阪はもちろんのこと、奈良県でもこのところ5人以内で推移している。三郷町ではしばらくの間、新規の感染者は出ていない。

 有識者の間では、第二波のピークは7月末だったと言われている。予断は許せないが、徐々に『収束に向かっている』とも言えなくはない状況だ。そうあってほしいと願うのだ。(9月3日)

収束の気配は

  梅雨明けが、例年になく遅かった。7月の雨量は、記録的な数字となった。

 少し前から朝夕の風に秋を感じるようになって来た。とは言っても残暑は厳しい。「秋には武漢肺炎も収束に向けて……」と少しは期待したが、そうはいかない様相だ。依然として新規の感染者が後を絶たない。ワクチンの開発も進んではいるが、一般に使われるようになるのは来春からのようだ(ロシアでは9月末からというニュースも)。まどろこしい気持ちもしないではないが、副作用などを考えると慎重にならざるを得ないのだろう。

 薬の使用は、欧米では始まったようだ。とにかく、早くマスク無しの生活に戻りたい。これから収束に向けて一歩一歩進むだろうが(そうあって貰わなければ困る)、まだまだかなりの時間を要するだろう。東京五輪・パラリンピックの開催は微妙だが、現時点での予定どおり、来夏開かれることを信じたい。 

 行事の中止相次ぐ

 本連合でも町でも、郡生連・県老連でも、行事が次から次と中止になり、無力感に襲われる。会員諸賢も同様の思いだろう。これも何十年先には、「あんな事があったなぁ……」と子や孫がしみじみと思い出すことになるのだろうか。しかし、親族などが犠牲になった場合は、まったく別の話となる。忘れられない親族の悲惨な思い出として、脳裏に刻み込まれることになる。町内から死者が出ていないのは何よりだ。  

 前号で、『「武漢肺炎禍」後の世界を再構築する中で、人とのつながりの喪失や情報の格差によって置き去りにされる人をなくすことが求められる』と記したが、私の支部でも、携帯電話を「スマホ」に替えたり、長い間中断していたパソコンの使用を再開したりする人が少なからず居る。前向きな姿勢に拍手をすることになる。「もう80歳だから……」と前向きな気持ちを失うのではなく、また弱気になるのではなく、新しいことに挑戦する気持ちを持ち続けることが大事である。要は、「まだ80歳」「まだ90歳」なのである。齢を重ねても、前向きでいたい。 

 可能性を求めて

 私は英語が苦手である(日本語も心許ないが)。英語を流暢に操る人に出会うと羨ましく思うときもある。「思うときも」と言うのは、「ネイティブのように話せなくとも、伝えようという気持ちがあればカタコト英語でも通じる」という経験があるからだ。外国人がカタコトの日本語を話すのを聞いて、「何だあの外人の日本語は」などと思われるだろうか。逆に微笑ましく思うのではないか。私は、もちろん後者だ。カタコト英語を聞いた英語を母国語とする人たちやその他の流暢に操れる人たちも、私たちのカタコト英語を馬鹿にしたりはしないと聞く。侮るのは、ネイティブに近い発音のできる一部の日本人だと言われる。カタコト英語を気にせず、身振り手振りを交えて、ときには筆談も駆使して堂々と話せばよいだろう。私は、マラソンや登山などでこれまで8ヵ国を旅しているが、言葉で困ったことはない。「サムライ・イングリッシュ」(カタコト英語)で結構通じるものだ。しかし、流暢に話すことができれば、それに越したことは無い。英語にはあまり縁の無い私だが、身近に置いている英文がある。

 That`s why it`s important to keep challenging your self , and creates new values.(大事なのは、あなた自身の可能性を追求することである。そうすれば、新しい価値を見つけることができるだろう)「飽くこと無く可能性を求めて」と、Where there is will , there is a way.(意志あるところに道は開ける)

である。折に触れ口ずさむ。
 

 美田を遺さない

 前述のパソコンを再開された会員は、パソコン本体も最新の機器に買い替えた。もちろんスマホも。そして、王寺駅前の教室に通って技能を磨かれた。それに加えて、テレビも4k放送が視聴可能なものに買い替えた。「残りの人生、お金は自分のために使うものだ」とのお考えだろう。私は大いに賛同する。だが、その方も後先考えず贅沢をしているのではない。節約するところは節約し、いろいろと考えて計画的に出費されている。

 西郷南洲(隆盛)を持ち出すまでも無く、子や孫に美田を遺しては彼らのためにならないと思う一人である。学校を卒業するまでは援助するのは親の義務だが、あとは本人に切り拓かせねばならない。通帳・印鑑・家の権利書、カード類は、けっして早い段階で子どもに渡して(預けては)はならない。高齢者の会に関わって6年、早く預け過ぎたがためにみじめな末路を歩んだ方を少なからず見てきた。もちろん、正常な判断を下せなくなった場合は別だ。

 そのためにも、テレビの娯楽番組などばかりに釘付けにならず、新聞を読みニュース番組も視聴する。ただ、新聞報道やテレビ・ラジオニュースにも偏りがあることを忘れてはならない。マスコミに※自虐史観(じぎゃくしかん)を植え付けられてはならない。何でもかんでも疑ってかかるのはどうかと思うが、お人よし過ぎるのはやめたい。要は、何でも鵜呑みにしてはならないのだ。若干飛躍するが、「オレオレ詐欺の餌食」にならないでいただきたい。

 「過度に節約して多くは遺さず、夫婦のために(自分たちのために)計画的に使う」が持論である。ただ様々な考えがあるだろう。押し付けるものではない。自分たちのためにと言ったが、「ケチはダメだ」を付け加える。「ケチ」は嫌われる。     

 ※自虐史観  自分の国を過度に悪とみなす歴史観のこと。 

 またもや水害が

 7月の豪雨では、熊本を中心に多くの犠牲者が出た。何万もの人が家屋浸水などの被害を被った。土砂崩れもあちらこちらで……。7月末には、山形・最上川も氾濫した。居たたまれない気持ちだ。犠牲者のご冥福をお祈りするとともに、被災された方には心からお見舞いを申し上げる。
(「矍鑠」第16号から)


安寿会連合会 前会長 辻 修氏ご逝去

 かねてより病気療養中であられた安寿会連合会(安堵町)の前会長の辻 修氏が、8月12日にご逝去された。
 謹んでご冥福を祈念申し上げる。
 辻氏は安堵町はもとより、生駒郡生き生きクラブ連合会の会長としても、生駒郡の高齢者の会の発展のためにも献身的に尽力された。その功績は大なるものがあり、早逝はまことに惜しまれる。葬儀には郡内の縁の人が数多く参列され、氏の遺徳を偲んだ。

会員数の減は残念ながら……

 会員数の減に歯止めがかからない状況が続く。残念である。
 奈良県内では、比較的元気であると言われる我々の生駒郡生き生きクラブ連合会(郡生連)の4町も例外ではない。昨年度、三郷町では98名の減となった。斑鳩町では168名の減、平群町では46名の減、安堵町では30名の減、4町では計342名の大幅な減少だ。
 減少の要因は、はっきりしている。ご高齢の方などがお亡くなりになり、一方で新規入会者がごく少ないという状況があるということだ。三郷町と斑鳩町では、末端の支部の一つが無くなったことが大きかった。
 会員数の減少は、都市部や地方に関わらず全国的な傾向である。10年後、高齢者の組織はどうなっているのだろうかと危惧される。一部では、「高齢者クラブ」は雲散霧消となるのでは見通される方も居る。「人生百年」と言われる中、高齢者人口は、これからますます増加することは間違いない。「高齢者クラブ」の必要性はますます増すのに、その存在自体が危ぶまれるという矛盾した事態が進む。
 「個人主義の横行」という大きな壁があるが、国(厚生労働省)は、抜本的な対策を講じなければならない。

新規感染者が奈良でも……

 新規感染者が、このところ奈良県内でもじわりじわりと増えつつある。
 皆様には、人混みや公共施設、電車・バスなどではマスクの着用を、またけっして油断なさらずに「3密」への対応や人との間隔を十分にとるなどにご留意いただきたい。多人数での会食なども、今しばらく避けて(我慢して)いただきたい。

油断は……

    武漢肺炎禍も少しは収まりかけていたが、東京などでは感染者の数がぶり返している。若い世代に感染が広がっている。近畿でも、少し増える傾向にある。奈良県でも同様だ。予断を許さない状況である。国内でも、米英をはじめ諸外国においても、ワクチンの開発は予想以上のスピードで進んではいるようだが、一般に使用されるようになるには、まだまだ先のことになりそうだ。

医療従事者に感謝

 武漢肺炎禍が続いている。会員諸氏には、連日の自粛生活で精神的にお疲れのことと推察申し上げる。運動不足の解消のために、創意工夫をして室内や庭などで体操などをしていただきたい。また気晴らしに読書や文化的な趣味に親しむことも……。緊急事態宣言もそのうちに解除されると思うので、それまで堪えていただきたい。なお、医療現場などでは、医療関係者が身を挺して武漢肺炎禍に立ち向かっておられる。本当に有難いことだ。三生連を代表して、心から感謝を申し上げたい。一刻も早く、特効薬やワクチンが開発されることを祈るばかりだ。

意識して体を動かそう

 行事や通常の活動が延期や中止に追い込まれている。どうしても運動不足になりがちだ。
 意識して人混みを避けての散歩や体操をすることを心がけたい。テレビなどでも、手軽にできるさまざまな体操を紹介している。庭や室内で、体を動かそう。

 お元気に過ごしていただくことを願う。

ハクモクレンが

 拙庭のハクモクレンが、満開に近い。
 三室に住んでいるときからの樹で、私が手をかけるようになってから約45年になる。
   一昨年の台風21号の暴風で、かなり枝が折れたが回復して来た。三郷町近辺での庭木としてのハクモクレンでは、大木のひとつであろう。
 道路際に植えてあるので、往来の人に楽しんで貰える。青空に白い花が似合う。明日(3/13)が一番の見頃になるのでは……。
   ハクモクレンが終わるとソメイヨシノの開花だ。今年は例年よりかなり早い開花となるだろう。
バルコニーから

支部の年会費

 三生連には、年会費を徴収していない支部がいくつかある。その中には、会員数が比較的多い支部が三つ含まれる。
 高齢者の会に限らず、どのような会でも会費をきちんと納める中で、会員としての自覚が生まれるだろう。
 年会費を徴収していない支部は、会設立時からそのような形をとっているようだ。理由は定かでないが、「会員をより多く募りたかった」というのが理由だろうと推測する。会費を徴収していない支部では、支部の行事への参加者が多くないという声を耳にする。徴収していない支部、内部からの声だ。一般的には、会員としての自覚が希薄になればなるほど、行事への参加者は多くを望めないだろう。
 現在会費を徴収していない支部が、これから徴収しようとすることがひじょうに困難なことは明白である。改革には、相当な覚悟とエネルギーが求められる。
 日ごろから悩ましい問題だと思っている矢先、追い打ちをかけるような事態が生じている。これまで1,000円の年会費を徴収していた会員数の多い支部が、来年度から徴収しないことを決議したと。この支部は、最盛期270名の会員数だったが、数年前に100名を切り現在は70名台だ。だが、当該支部長のお話では、この4月には会員数が40名増になると。この支部の財政は比較的豊かで、年会費の徴収をストップしても問題ないと聞く。
 私が危惧するのは、年会費を徴収しないと知って入会した人が(そういう人ばかりではないだろうが)、高い自覚を持たれて会員として歩んで行かれるかどうかだ。また、従来からの会員についても、意識の低下につながらないかの懸念を抱いてしまう。支部がよかれと決めたことに口出しする気は無いが、これまでの1,000円の会費はけっして高額ではないし、「引き続き徴収すればよかったのに」の思いである。そういった危惧や懸念が、「要らぬお世話(心配)」になれば嬉しい。答えが出るのは、早くとも3~4年先だろう。

「新友会」とは

 本連合会で一緒に活動するためには、先ずは各地域の支部に入会する必要がある。ただ、居住されている地区に支部の無い所がある。例えば、「イーストヒルズ」である。
 「イーストヒルズ」にお住まいの方から三生連の活動に参加したい旨の申し出があり、そのときに「新友会」(しんゆうかい)という名称のグループを立ち上げ、支部と同等資格を得た。そのときに、地元の支部に何らかの理由で入らないという方も「新友会」に入られた。平成23年度のことだ。当時の会長は片岡雅基氏である(明治・現三生連顧問)。現在、「新友会」の会員は11名だ。平成31年3月に支部が解散した「勢野第3」「信貴山西」の方でも、「新友会」に加入希望があれば個人の資格で加入できる。
 ところで、支部が三生連を退会した場合、会としては存続するとき、その会に所属したままで「新友会」に入ることは出来ない。三生連を退会したのだから当然の事だ。当然の事として、これまで会則には明記されていなかった。今回、会則を改定して、この事を明記される(3/9の支部長会で改定する予定だったが中止となったので、4/3に予定されている来年度1回目の支部長会で議決)。
 とにかく、支部が三生連から退会し会として続けて活動する場合は、その会を離れない限り「新友会」(新友会)には入れないのである。三生連の活動には、会員として活動できない。
 この事は、現役員・顧問、全員一致した考え方である。

HP大賞「佳作」の賞状が届いた

 先日、受賞通知を貰っていたHP大賞「佳作」の賞状が届いた。次回は、準グランプリ以上を目指す。
  写真が横向きなことに違和感を覚えられるだろうが、わざと横向きにしているのではない。元写真を90度左に回転させても直らないのだ。管理者の能力では、修正できないのである。どなたかアドバイスを……。
「佳作」の賞状

訃 報

 ご療養中であった美松ケ丘支部長の松本 信一氏がお亡くなりになられた。心からご冥福をお祈り申し上げる。なお、葬儀はすでに済まされたそうだ。本日(2月22日)午前、弔問させていただいた。

「本連合会から脱退される」との残念なニュースが

 正式には未だであるが(会長名による届)、ある支部(昨年4/1現在の会員数83名)がこの3月をもって脱退することを班長会議で決議したと聞く。自治会からの補助金なくなるなどの理由が取り沙汰されているが、とにかく大変残念なことである。
 摩訶不思議なのは、会としては存続するということだ(当該支部の副会長談)。であれば、本連合から脱退することは無いと思うのだが……。当該支部からは「万葉集」「カラオケ」「習字」「論語」などの教室や「春秋のハイキング」などへの常連参加者も少なく無い。そういった方は、4月以降どのようにされるのか。「新友会」支部に入られるのか。脱退したのに存続する会に在籍したままで、本連合会参加の「新友会」に入ることは出来ない。「新友会」は、在住する地区に支部が無い場合と、さまざまな事情で地区の支部には入らないという方の集まりである。本連合会からの「脱退」を何とか思い直していただきたいと願うばかりだ。

春はそこまで

 年明けから一か月余りが経過した。会員の皆様には「佳い年」をお迎えになられたことだろう。立春も過ぎ暦の上では春だが、朝晩は寒く「春は名のみ」だ。しかしながら、日の出が随分と早くなった。目を凝らせば、植物の芽が少しずつ大きくなっているのに気づく。桜やハクモクレンの花芽などは顕著である。「春はそこまで」を強く実感する。支部で「ラジオ体操会」を主宰していることもあり、毎朝4時半には起きる。また庭いじりを趣味とするので、人並に季節の移り変わりには敏感だ。早咲きの梅の花も咲き始め馥郁と芳香を放つ。学校では今、卒業式の準備で慌しいことだろう。現役の頃が懐かしく思い出される。
 会長を務めるようになって早や10ヶ月が経過した。周りからは頼りないと思われていることは重々承知している。だが、何事にも前向きな役員・顧問のみなさんや支部長の方々に支えられて、ここまで何とか運営できている。心から感謝を申し上げたい。そのような中、今年度の大きな行事は3月2日の「社会見学」を残すのみとなった。それらへの取り組みと並行して、これから来年度に向けての準備に取り掛かることになる。抜け落ちのないようにしっかりと努めたい。皆様には、今後ともご支援ご協力をお願いする。

 本連合会のホームページ
 さて、「三生連」のホームへージを立ち上げから7ヶ月が経った。現時点で、訪問者数は二千四百人を、アクセス数は五千八百回を超えた。あちらこちらから「楽しみに見ていますよ」と言っていただける。先日、間もなく90歳になる会員の方から「スマホに変えるかどうか迷っていたが、三生連のホームページを見たいので決断したよ。見るのが日課となり楽しみだ」と。楽しみにしている方のためにも、頻繁に更新に努めねばならない。そのような中、「とりあえずエピソード大賞」に応募したところ、全国数多ある中から「佳作」の賞を賜った。立ち上げから7ヶ月での快挙だ。
 先日ある支部長から「ホームページの内容があっさりしているね」と。きっと「新着情報」だけをご覧になっていたのだろう。「MENU」をクリックしていただき、その上で各項目をクリックして貰う。その操作で内容が広がる。項目に*印があるものについては、さらに*をクリックしていただく。そうすると項目がさらに広がるのだ。

 矍鑠たる
 10月の郡生連の「社会見学」では、97歳の上田 氏(立野北第二支部)が、矍鑠としたお姿をお見せいただいた。「もう歳だから」ではなく、「まだまだ……」という前向きな姿勢に敬服している。3月の社会見学にもお申込みいただいている。このように各支部には、会員の範となられる私が存じ上げない「矍鑠たる先輩方」が大勢居られるだろう。これらの方々は、間違いなく現役会員として100歳をお迎えになられる。今後は、100歳超会員が、珍しく無くなるだろう。
そのような中、11月の「友愛のつどい」は、大いに盛り上がった。3日間で合わせて約220名の参加だったが、一堂に会する会場があればもっと賑やかなものとなるだろう。また運営の手間もかなり軽便となる。対象は80歳以上だが、会場では「10歳程サバ読みされているのでは」と思ってしまうような方をたくさんお見受けした。みなさん、とにかくお若いのである。笑顔が素敵なのだ。
 (会報「矍鑠」第14号 2/5発行 から)

油断は大敵

 年明けから晴れの日が続いた。近年では珍しいことだ。東信貴ヶ丘支部では6日に新春互礼会を開いたが、雲ひとつ無い快晴であった。行事開催日に青空が広がると、出席者全員の心が晴れやかになる。56年前の東京五輪の開会式は、抜けるような青空となった。今回の五輪でもそうあってほしいと願う。 
 初詣は、今年もラジオ体操の後、近くの春日神社に詣でた。先ずは、今年こそ災害の無い年になってほしいと願った。会員諸氏の願いも同様ではなかったか。
 例年の冬に比べ、比較的気温が高い。雪不足のニュースもあちらこちらから聞こえて来る。雪国では例年屋根の雪下ろしに悩むが、今のところそれも少ないようだ。一方、スキー場などでは困っている。2月もこのままの状態が推移するのだろうか。
 阪神大震災から四半世紀の節目を迎えた。三郷町は大雨による被災のリスクは大きくないが、活断層がすぐ近くを通っており、油断すること無く地震への備えを忘れてはならない。
           (2/5発行「矍鑠」第14号 照隅から)

会員増をめざして飽く無き挑戦を

 高齢者の会の会員数減は、都市部・地方を問わず全国的な傾向である。主たる要因は、個人主義の横行である。若い層の入会が、とにかく少ない。一方で、自然減が進む。施設に入所される方も多い。どの会も、純増1名が至難の技となっている。「全国老人クラブ連合会」では、この5年間「百万人増強運動」を展開したが、結果は百万人減という惨憺たるものとなった。役員を務める者は会員増強の難しさを痛感するが、厳しい状況であってもけっして諦めてはならない。
 会員増強のためには、会を活性化する必要がある。ここ数年、実行した事(している事)を披瀝する。
 先ず一つ目は、会名称を変えた事だ。これまで、本連合会の名称は「三郷町老人クラブ連合会」であった。これを三郷町生き生きクラブ連合会(以下、三生連)とした。勧誘の際、「私は、老人ではない」と言われないようにしたのである。二つ目は、会報「矍鑠」(かくしゃく)を創刊したことだ。3~4ヶ月に一度発行している(私の支部では、支部会報「燦燦」を毎月発行)。今では、三生連に欠かせないものとなっている。90歳超の方にも寄稿いただける。
 次に、幾つかの支部では「茶話会」を始めた。自治会館に集まり、菓子とお茶でいろいろと話し合う。故郷の事、幼き頃の思い出、好物などを。続いて「散歩会」の実施である。毎週金曜日の朝、「ラジオ体操」の後、45分から1時間程度を歩く。6時30分からの「ラジオ体操」は、平成27年10月からの開始で、4年2カ月以上、1日も休み無く続き(雨天時は、自治会館内)、諸団体から受賞が相次ぐ。毎朝の「ラジオ体操」を生き画としている方が多い。
 五つ目は、年末の防犯見回り活動を始めたことだ。12/28からの3日間、「火の用心、戸締り用心、火の用心」と4~6人で回る。「高齢であっても、できることは積極的に担おう」が、本連合会のモットーだ。六つ目は、「行事参加ポイント制度」を取り入れたことだ。行事に参加した場合、予め定めたポイントが獲得できる。年度末に集計し、上位者を総会時に表彰している。
 今年度は、「三生連」のホームページを開設した。周りには、「ホームページが出来たのでスマホに変えた」と言う方も少なく無い。管理者である私も、これからもっともっと学習をして、よりよいものにして行く。これらはどれもささやかな取り組みだが、とにかく、知恵を出し合って活動を活性化し、会員増に繋げることが求められる。今後も「意志あるところに道は開ける」ことを信じ、飽くこと無く可能性を求めたい。先ずは、小さな一歩からだ。
(「とりあえずHPエピソード大賞」応募作品)

森 三郷町長を表敬訪問

   1月21日(火)、片岡雅基元会長(現顧問)と辻 孝三前会長(前会長)の三人で森 宏範三郷町長を表敬訪問し、全国老人クラブ連合会全国大会で「優良連合会賞」を受賞したことを報告した。
 町長からは、「大変名誉なことであり、町としても慶ばしい限りだ」のお言葉を賜った。今回の受賞を糧に、さらなる活性化に努めたい。(写真 向かって左から町長、谷口、辻顧問、片岡顧問)

聖火ランナーに選出される

 奈良県選出の、東京五輪の聖火リレーランナー39名の一人に選ばれた。名誉なことである。体調を整え、しっかりと聖火を繋ぎたい。
 前回の東京五輪の時とき(昭和39年)、私は中学2年であった。高校へ入学すると、少し前に卒業された陸上競技部の先輩(元主将)が聖火ランナーとして走られたことを知った。後日、そのときに着用された日の丸の入ったランシャツとランパンを見せていただいた。見るからに上等の生地で輝いて見えた。とても羨ましく思った。後年、私も主将を務めたが、五輪開催が4年遅ければもしかしたら私も走れたのかと残念に思った。その気持ちは、心の隅にずっと残っていた。
 まさか、56年後にチャンスが訪れるとは思っていなかった。今回は、39名の募集に2192名が応募したと聞く。三郷町内からも多くの方が応募されたことだろう。「大した経歴も無い私が選ばれてよかったのだろうか」の思いも少なく無い。4月13日に走るが、落選された方の思いも込めて、しっかりと聖火を繋がねばと思っている。ひとつ残念なのは、三郷町がコースから外れていることだ。これは組織委員会が決めた事なので如何ともし難いが。
 昨夜、前述の先輩(愛媛県松山市在住)に電話をした。「私の場合は偶々だったが、谷口は違う。56年間の夢が叶うことになり、私もうれしいよ。しっかり走りなさい」と。
 どの区間を走るかが決まればお知らせしたい。お時間が許すならば、皆さまにも声援をかけていただければこの上ない喜びとなる。

「友愛のつどい」開会の挨拶

 80歳以上の会員を福祉保健センターにお招きし、毎年秋に3日間に分けて昼食会を開いている。1日目は75名が参加した。町長も来賓としてご臨席された。以下は、開会の挨拶である。

 みなさん、こんにちは。日ごろは、三生連の活動にご協力を賜りまして感謝申し上げます。本日は、森町長にご来賓としてご臨席を仰ぎ、第21回の「友愛のつどい」を開催しましたところ、このように大勢のみなさんにご出席いただきました。ありがとうございます。三日間で約220名の方にご参加いただきます。お世話いただく方を合わせると300名近くになります。
 森町長には、公務ご多用の中、本連合会のために貴重な時間をお割きいただき深謝申し上げます。町政の推進には様々な課題が山積していると思われますが、粉骨砕身のご活躍をいただき、県内はもとより、全国的にも稀有の大きな成果を収められていますこと、重ねて感謝致します。今後も微力ではありますが、三生連は町長をお支え申し上げたいと思います。
 さて、会員のみなさんには、それぞれに生き生きとした人生を送られて居られることと思います。今後も、森町長が先頭に立って推進されているフレイル健診に、また町や社協、そして三生連の実施しているさまざまな行事等に積極的にご参加いただきまして、健康寿命をさらに伸ばしていただきたいと願います。
 「友愛のつどい」の開催に当たりましては、実行委員長であります西村女性部長をはじめ女性部役員の皆様、三生連本部役員の皆様、そして社協職員の皆様など、多くの方のご尽力があります。御礼を申し上げます。
 最後に、本日の「友愛のつどい」が実り多いものになりますことを祈念し、簡単ではありますが開会の挨拶と致します。

不易と流行

 20年程前、教育界を中心に「不易と流行」という言葉がよく使われた。不易」はいつまでも変わらないことであり、「流行」は時代時代に応じて変化することだ。いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、変化を重ねているものをも取り入れていくことである。また、新味を求めて変化を重ねていく流行性こそが、不易の本質であるとも言われる。蕉風俳諧(しょうふうはいかい)の理念の一つであり、松尾芭蕉が元禄2 (1689) 年頃から説き始めたという。
 中教審(中央教育審議会)答申(平成8年) 「21世紀を展望した今後の教育の在り方」や臨教審(臨時教育審議会)答申の中で「不易と流行」が引用され、その後、教育関係者の間でしばしば使われるようになった。私が管理職試験を受けた頃、その真っ只中だった。私自身、小論文などでよく使ったものだ。教育現場も上から押しつけられた「流行」により振り回された時期があった。「総合的な学習の時間」が始まるときは、だれもが「総合、総合」と言い、学校は「総合的な学習の時間」一色だった。今はどうだろうか。学力低下論争が起きて、授業時間や授業内容の増加に伴い、「総合」はすっかり悪者扱いである。陰は薄くなり、今や消滅の危機に瀕している。現在は「英語」ブームである。「小学校英語」については十分議論されたとは思えないまま、スタートとなった。「総合」も「英語」も悪いことではない。ただ、基礎基本がないままに探求学習をしようとしたり、必要性や学校教育としての指導体系が不明確なまま外国語学習を闇雲に進めるのは如何なものか。必ずや歪みが出てくるだろう。
 さて、教育における「不易」とは何か。一つは日本の伝統的教育のよさに求めることができるのではないか。例えは、一斉学習の技術、素読、規範意識の育成などが挙げられよう。時代が変わっても、それらには変わらぬよさがあり、変えてはならない日本人の教育であるとも思われる。これらは一時、「弊害あって一利無し」とも言われたが、今見直され始めている。私の遠縁の娘が通う小学校のあるクラスでは、「道徳」の授業かホームルームの時間か定かではないが、全員で『論語』の素読を行っていた。その子は、帰宅後も自主的に素読をしていた。ただ、現在の教育環境に不易がすべてそのまま有効とは思っていない。子どもたちの現状や教師の力量に応じた、流行的側面を取り入れた「不易の教育」がこれからの教育の在り方となろう。
ある時期、「教育は強制であってはならない」という言葉が絶対視され、「強制」イコール「悪」という構図が、学校現場でもすべての前提であるかのように言われた。「許容の無い強制でよい」などとは思わないが、教育の根源は強制である。善悪がよく分からない幼少時期や、何を学ぶべきかが判断できない低学年の児童期、大人が強制的に行わせることも必要欠くべからざることである。「鉄は熱いうちに打て」の言葉どおり、基礎基本・よりよく生きていく上での規範を叩き込む必要がある。『論語』は、人が生きていくうえで必要なあらゆるものに言及している。「人間学の参考書」と言われる所以である。人がよりよく生きるためにはどうしたらよいのか、より心豊かに生きるにはどうしたらよいのか、それを『論語』を通して一人ひとりが考えるとよい。子どもたちに考えさせることが求められる。
(自著「論語に学ぶ」から)

日本人の高い道徳性

 多くの人が、「江戸時代、幕府は鎖国を行って海外との交流を断っていた」と思っている。30~40代以上の方は小学生の頃からそのように習ってきた。「長崎の出島で限られた国と細々と貿易を行ってはいたが、それ以外は完全に外交をシャットアウトし孤立していた。そうした閉鎖性ゆえに、幕末に列強が開国を求めてくると幕府は驚いて慌てふためき、国際情勢に対応できずに滅亡した」、そのように思っている人が多いのではないか。実は、17世紀半ばから19世紀半ばの時代、幕府は完全に海外との交流を断っていたわけではなかった。長崎以外にも、対馬・薩摩・松前の3つの外交窓口を開いていたのだ。この4カ所を「四つの口」という。
 そもそも、「鎖国」をしていたと言われる時代に「鎖国」という言葉自体がなかった。「鎖国」は、後の世の人が作った言葉だ。だから、「鎖国令」などというものは存在しない。当時の幕府には「鎖国」しているという感覚はなく、「キリスト教の布教禁止」といった方針のもとに日本人の渡航を禁じ、取引国を段階的に制限した。そして、徐々にすべての貿易を幕府の統制下に置いたというのが実のところだ。幕府は、外交を絶って孤立しようとしたのではなかった。いわば外側からバリアを張って、国内の支配体制(幕藩体制)の安定を図ったのである。したたかな外交戦略だと言える。さらに、外交を一手に握った幕府が得ようとしたのは物品だけではなかった。海外の情報収集にも重きを置いていたのである。このことを裏付けるようなエピソードがある。
 寛文13年(1673)、イギリス船が長崎の出島に来航して、貿易の再開を求めた。このとき幕府は、国王チャールズ2世がカトリック国の王女カタリナ(キャサリン)と結婚したことを理由に要求を拒否した。つまり、日本はキリスト教の布教を禁止しているため、「カトリックの王女を持つ国とは国交できない」としたのである。二人の結婚は、1662年のことである。貿易再開の要求があったわずか10年ほど前のことだ。この件だけではない。イギリスで起こった清教徒革命、フランスのフランス革命やナポレオン戦争などの世界情勢も、幕府は1~2年のうちに把握していたようだ。テレビもインターネットもなかったこの時代にである。海外の情勢や動向を幕府がいち早く知ったのは、「唐船風説書」や「オランダ風説書」によるものだ。特に、先のイギリス国王の結婚の情報元となった「オランダ風説書」は、長崎出島に商館を置いていたオランダ(正確には東インド会社)の新任の商館長(カピタン)が来日した際に将軍に提出したものだ。幕府の要人だけが閲覧を許される「最重要秘密事項」であった。こういった情報をうまく利用し、幕府はイギリスからの通商申し入れを拒否した。かなりの交渉上手であったと言える。
 「鎖国」していたと言われる状況下でも、日本は無知でも孤立していたのでもなかった。確かな情報収集によるしたたかな外交能力は幕末にも発揮され、列強の言いなりにはならなかった。近年、これらの史実をもって、歴史学では「開かれた鎖国」といった概念が提唱されている。
 以上のとおり、江戸時代中期以降、しばしば外国人が日本を訪れた。それらの人たちが、日本や日本人に対する印象を書き残している。スウェーデンの植物学者カール・ツュンベリは、安永4年(1775) 長崎・出島に来て江戸出府に加わり日本人を観察、記録した。「彼らは第一級民族。勤勉で賢明で礼儀正しく勇敢」と評価し、「支那朝鮮では女は奴隷なのにこの国では女が男と同席し、表も自由に歩く」ことや「清潔好きで週に一度どころか毎日風呂に入る」ことに驚きの目を見張った。                       
《折節の記 「正論」 平成25年7月号》

 ※フランシスコ・ザビエルや※ルイス・フロイスなどのヨーロッパの宣教師は、当時の日本社会の実情を記した手紙・報告書を故国に書き送っている。その中で「日本人はヨーロッパの最先進国の人々ですら足元にも及ばぬほどの、高い文化とモラルを持っている」と絶賛している。ザビエルは民度の高さに驚き、「とても気品があって、驚くほど理性的、慎み深く、また才能があり、知識が旺盛で、道理に従い、その他さまざまな優れた素質を持つ」と。また、「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます」とも。加えて、「大部分の人は読み書きができます」と本国のスペイン人、あるいはインド人や中国人よりもレベルが高いことに驚いている。さらに時代が下って、幕末の頃に日本を訪れた西洋の外交官や商人たち、オールコックやヒュースケン、※アーネスト・サトウや※シュリーマンなども、「日本は他のアジア諸国とはまったく異なる」と、その歴然たる民度の差違をはっきりと認めている。
 シュリーマンは帰国後、日本見聞録を著した。彼は日本の前に立ち寄った中国と比較して、次のようなエピソードを紹介している。「中国で最も不快に感じたのは、平気で嘘をつきお金をごまかす一般庶民の姿だった。乗り物に乗っても、最初に提示した料金とは全然違う高額の料金をあとでふっかけられたりして、閉口することがしばしばだった。日本で渡し舟に乗ったときのことである。あとで料金を支払う段になって、中国で味わった不快な先入観が頭をよぎった。どうせ法外な料金をふっかけられるに決まっているだろうから、それならば最初から高い金を渡しておこうと思い、規定の数倍の料金を渡した。すると船頭が不思議な顔をして、「これは既定の料金と違いますよ」と言って余分の金を返してきた」                   《福井雄三「司馬遼太郎と東京裁判」》
 シュリーマンが日本を訪れた当時、幕府は外国との貿易を推奨していたが、江戸の防衛は厳格に行われ、東京湾の海域に外国船は入ることができなかった。すでに幕府は軍艦を保有し、お台場など砲台を準備して外国への牽制も行っていた。そんなことから、シュリーマンの乗った船も横浜港に入った。そのとき、「二人の官吏がにこやかに近付いてきて、オハイヨ〔おはよう〕と言いながら、地面に届くほど頭を下げ、30秒もその姿勢を続けた。次に、中を吟味するから荷物を開けるようにと指示した。荷物を解くとなると大仕事だ。できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞれ1分(2.5フラン)ずつ出した。ところがなんと彼らは、自分の胸を叩いて「ニッポンムスコ」〔日本男児? 〕と言い、これを拒んだ」      (シュリーマン旅行記 清国・日本 (講談社学術文庫)
「日本人は、裏金(ワイロ)は受け取らない」という強い意思表示であっただろう。

 我が国を訪れた外国人から敬慕されたのは、「日本人の高い道徳心」だった。「おとなしく、好奇心にあふれた様子で眺めてくるだけで、敵意を感じさせたりもしない。むしろ天真爛漫で、幸福そうにすら見えた」(アメリカ人通訳・ヒュースケン)日本の民衆が持つ純真さを愛した。自分たち西洋人がこうした純真さを壊してしまうのではないかと、気に病んでいたほどだった。「ハッピーな人々が暮らす、清潔で秩序溢れる国だなあ」と彼らはそんな好意的なまなざしで日本を見ていた。アーネスト・サトウは、幕末期に私の生まれ故郷 伊達 宇和島藩にも訪れているが、四国西南の僻陬の地 宇和島の人々にも好印象をもったようだ。拙著『攘夷などと無謀なことを』(平成25年・K.C.プリント)でも紹介させていただいた。
 明治初期、大森貝塚の発見で知られるアメリカ人の動物学者エドワード・モースが、瀬戸内地方を旅したある日、広島の旅館に財布と懐中時計を預け、そこからしばらくの間、遠出をしようとした。そのとき旅館の女中が「お預かりします」と言ってしたことは、時計と財布をお盆に載せてモースの泊まった部屋の畳の上に置いただけであった。部屋はふすまで仕切られているにすぎず、鍵や閂などが掛けられてはいない。モースはとんでもないことだと思って宿の主人を呼んだが、主人は平然と「ここに置いておけば安全です」と答えた。自分の旅行中にこの部屋を使う客は何人もいるわけだし、女中たちも終始出入りする。モースが不安を拭えるわけもなかった。しかしモースは、ここで思い切って「日本社会の実験」をしてみようと思ったようで、そのまま遠出したのである。一週間後、旅館に戻ったモースは部屋のふすまを開けて驚き感じ入った。そのときのことをモースは次のように記している。
 「帰ってみると、時計は言うにおよばず小銭の1セントに至るまで、私がそれらを残していった時と全く同様に、ふたのない盆の上に載っていた」
 モースによれば、当時の欧米のホテルでは盗難防止のため、水飲み場のひしゃくには鎖が付き、寒暖計は壁にネジで留められているのが常だったそうだ。モースはこの日記の文章に続けて「日本人は生得正直である」と書きとめている。
(エドワード・モース「日本その日その日」平凡社より)
 またモースは、日本の清潔さについて次のようにも「衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり……これらは恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」と。

 最近、日本の家電メーカーは韓国や台湾の勢いに苦戦を強いられているが、品質と信頼のジャパンブランドはまだまだ健在だ。「『これは日本製か』『そうだ』というやりとりだけで、商談が成立する」と高い信頼性がある。なぜ日本製品への信頼が厚いのか。答えは、「日本人はウソをつかない。ウソをつかない日本人が作るものには間違いがない」だと聞く。英語では、インテグリティが高いというらしい。『誠実さ』である。      
 そういった高い道徳心や誠実さで溢れる佇まいは、どのようにして生まれ、どう引き継がれて来たのか。日本人の根底に流れるようになったのはいつからどのようにして……。現在、外国から観光で訪れる人の数はますます増える傾向にある。政府は年間4千万人を目標としている。令和2年(2020)の東京オリンピックには、その数は空前絶後となることが予想される。そういった中、世界の国々の人と比較して、日本人の民度の高さは誇るべきものがあることは疑いのない事実である。例えば、地震や水害などで被災したときの日本人の対処の仕方についてだが、いつも世界中のジャーナリストがこぞって賞賛する。改めて論じるまでもないだろう。これらのことは、少なくとも400年以上前から変わらないのである。(自著「論語に学ぶ」<銀河書籍 令和元年10月15日発刊>から抜粋)

酷暑もやっと

 例年以上に厳しかった残暑もようやく終りを告げ、随分と涼しくなった。残暑が連日35度を超えるということは、これまでなかったことだ。台風の襲来があるので油断はできないが、これから12月の初めまで爽やかな日々が続く。申し上げるまでもなく、秋は運動にも読書にも、もってこいの季節だ。昔に比べて、紅葉のピークが半月以上も後ろへとずれた。町文化センター前のドウダンツツジの紅葉は例年見事だが、猛暑にも拘わらず葉焼けも少なく、今年も楽しませてくれそうだ。今秋もあちらこちらの紅葉を楽しみたい。会員諸氏も積極的に外にお出になり、それぞれの秋を堪能していただきたい。
 さて、遅ればせながら「三生連」のホームへージを立ち上げ、6月28日夜から公開している。スマホなどでご覧いただいた方も多いだろう。「矍鑠12号」(7月1日発行)で公開の件をお知らせできればよかったが、印刷日や折り綴じ等の作業日の関係もあり、「公開日」の掲載は難しかった。業者に委託しての立ち上げで無く手作りだったので余計に……。とにかく、周知が遅れたことをお詫びする。『さんせいれん』と検索していただければご覧になれる。何らかの方法でご覧いただきたい。
 ご存知のとおり、県老連や「平群町長寿会連合会」などもリニューアルし、立派なホームページとなった。三生連もできるだけ頻繁に更新に努めて、他に置いていかれないようにしたい。各支部はもちろん、各クラブ、教室のコーナーも設けているので、掲載したい内容をお届けいただきたい。「ホームぺージが出来たので『矍鑠』はなくなってしまうのか」の声を耳にするが、そのようなことは考えていない。今までどおり発行するのでご安心いただきたい。
 話は変わるが、9月15日に東京オリンピックのマラソン代表選考会が、ほぼ五輪と同じコースを使って行なわれた。テレビ観戦された方も多かっただろう。結果だが、中村、服部が1位、2位となり、代表に内定した。私の高校の後輩である鈴木 健吾(富士通)も出場し、7位と健闘した。また、高校野球夏の甲子園にも後輩たちが県代表として出場し気を吐いた。初戦敗退とはなったが、後輩たちの活躍には大いに刺激を受ける。有難いことである。ちなみに女子のマラソン代表は、前田・鈴木が内定となった。
 ところで随分前の話になってしまったが、7月3~4日にかけて郡生連の「指導者宿泊研修」が開かれた。11名で参加したが、2~3頁の萬治理事からの報告のとおり、実り多いものとなった。「郡生連」の幹事担当町は今年度、来年度と斑鳩町が務めるが、廣津会長は前向きな方であり今回の研修会でも積極的な姿勢が際立った。「県老連」の理事会等でも積極的に発言していただけるだろう。微力ではあるが、私も評議員としてバックアップしたい。
 10月26・27日の両日、恒例の町の文化祭が開かれる。三生連のコーナーでは、今回も絵画・書・手芸などの会員諸氏の作品が数多く展示される。力作をぜひ鑑賞していただきたい。私も昨年に続き、盆栽を出展させていただく予定だ。
 前号で庭木のクロマツの芽切りをしているとお伝えしたが、その後、二番芽がしっかり育った。すこぶる順調である。あと半月もすれば、よい姿を見せてくれると思う。どんなにやるべきことが多くても、何とか工夫して時間をつくり庭の手入れを怠らないようにしている。
 東信貴ヶ丘を通られた節は、「ピンポン」を鳴らしていたただければと思う(午前中はセンターの事務所に居ることが多いが)。
(三生連会報「矍鑠」13号(10/1発行))

「老人の日・老人週間」「社会奉仕の日」の取り組みについて(協力依頼)

   「老人の日・老人週間」は、老人福祉について関心と理解を深めると共に、高齢者に対し自らの生活向上に努める意欲を促すために制定された。
 「老人」という呼称については、私は違和感を持つ。自ら「老人」と名乗ることは無いというのが持論であり、この4月から「生き生きクラブ連合会」と改称した理由でもある。あらゆる機会に「『高齢者』でいいじゃないですか」と申し上げている。だが、それに対する返答はいつも決まって、「法律の呼称が老人福祉法だから」と。それならば、厚労省に働きかけて、「法律名を変更すればよい」だけの話である。要するに、やる気の問題である。

 団体名も相変わらず、「全国老人クラブ連合会」「奈良県老人クラブ連合会」である。奈良県だけでも「奈良県高齢者クラブ連合会」に改称して欲しいが、執行部にそれだけの覚悟と気概が無いようだ。ちなみに、生駒郡は「生駒郡生き生きクラブ連合会」である。
 そのことについて今回はさて置き、9月15日の「老人の日」から21日までの「老人週間」の期間中、高齢者のクラブが展開する「健康」「友愛」「奉仕」の活動を通して、健康づくりと社会参加への意欲と姿勢を姿勢を示そうとする全国的なキャンペーンには「三生連」としても賛同し、毎年、全面的に協力して来た。今年度も、ご協力の程何とぞよろしくお願いしたい。
 なお、期間中9月20日を「社会奉仕の日」とし、全国一斉に緑化・美化・資源ごみのリサイクル等の奉仕活動を実施する。以て、地域社会に対する感謝と地域の担い手としての活力を示す。日時については20日に一斉がより望ましいが、各支部の実情に応じて都合のよい日時で主体的に展開していただければと思う。
 実施に際しては、水分補給等の体調管理に努めていただきたい。

HP立ち上げから2週間

 ホームページを立ち上げてから2週間が経過した。この間の訪問者数は347名、アクセス数は1,442回であった。この数が多いか少ないかの捉え方は人によって異なるだろうが、「まずまず」と言ってよいのではないか。
 感想も多くいただいた。別添掲載のとおりだが、「よくぞやった」との声が多くを占めたと言えよう。何十万と大金をかけて業者に頼むところが多い中、そうではないこと(手作り)を評価して貰ってのことだろう。
 今後も、会員外の方も含め、皆様のご意見を参考にしてさらにより良きものをめざしたいと思っている。ご意見を賜りたい。

ホームページの公開に当たって

 連合会のホームページの立ち上げが成り、ここに公開出来たことは、まことに喜ばしい限りだ。従前よりその必要性は強く感じていたが、「期は未だ熟さず」の思いもありここまで来てしまった。お隣の平群町長寿会連合会では随分前に立ちあげられ、少し前にリニューアルされた。奈良県老連もこの5月にリニューアルされたところだ。今となっては、遅きに失した感も否めない。
 本連合会ではこの3月に二つの支部が解散し、会員数で見ると95名の減となった。平成25年4月の会員数は1,432名だったが、この4月の会員数は1,045名である。6年で約400名近い減少となったのだ。会員減の兆候が顕われ始めてからの会長も、けっして手をこまねいていたわけではない。特に辻 孝三前会長は大きな働きをされた。会員減に歯止めをかけ反転攻勢をかけるためには、同好会や教室などを増やし活性化を図ることが大事と考えられ、新しく「自彊術教室」(現・健康体操教室)、「万葉集を楽しむ会」、「書道クラブ」、「論語に親しむ会」などを立ち上げられた。春秋には、ハイキングも始めた。またこれまで無かった『会報』を創刊された。そして連合名も『三郷町生き生きクラブ連合』と改称された。『会則』も改定された。驚くべき矢継ぎ早の改革であり、思いつくさまざまな手を打たれた。これらは着実に結実しつつある。しかしながら一方で、お亡くなりになる方や施設等に入所される方が後を絶たない状況もある。会員減に歯止めをかけることは容易ではなく、一部の支部を除いて会員の純増には至っていない。
 全国老連や県老連は、今後の目標は「現状維持」であると。会員減は都市部、地方に限らない、全国的な傾向なのである。

 このように何かと暗い話題が多い。だが一方で、同好会や教室などにおいて、日々の活動で楽しく、生き生きと過ごしておられる会員も少なくない。こういうときだからこそ余計に、引き続き元気を笑顔を前面に出していくことが求められる。また、新年度に入ってから新入会があったとの支部報告も複数ある。これからも、執行部としてはホームページや会報などを通して、明るいニュースや話題を発信していけたらと思うのである。
 ホームページは、スマートフォーンでもご覧になれる。少しずつだが、普通の携帯電話からスマートフォーンに切り替える方も増えていると聞く。ご自分ではパソコンもスマホも触らないという方でも、お子さんやお孫さんは活用していることだろう。三生連のホームページが、お子さんやお孫さんとの会話のきっかけにでもなればうれしい。ぜひご覧になっていただきたい。未加入のお友だちがスマホをお持ちであれば、また家でパソコンをさわられる方であれば、「三生連のホームページをのぞいてみて」とご紹介していただければ……。
 トップページの写真は恒川(つねかわ)理事が撮影されたものだ。恒川さんは、昨年度の三郷町の「芸術祭」全部門の中でグランプリを獲得された方だ。ご存知の方も多いだろう。これらの写真を鑑賞していただくだけでも、大いに癒されるだろう。とにかく、全会員のご支援ご協力により、このホームページをよりよきものに育てていきたい。

             令和元年6月28日
                三郷町生き生きクラブ連合会
                           会 長 谷 口 利 広

 

小規模スーパーの建設開始と温泉の湧出

 「勢野北口」駅前の「小規模スーパー」は、日常の生鮮食料品などの買い物で何かと便利だった。それが数年前に取り壊され残念に思っていた。新店舗を建設し再開するとの噂もあったが、なかなか工事は始まらなかった。やっと10日ほど前から整地作業らしきものが始まった。動き始めたのだ。前の業者が年内営業再開をめざすとのことである。近隣の方は工事の騒音などでしばらくは迷惑を蒙るだろうが、利用客にとっては朗報である。特に車を運転しない高齢者にとっては。
 また、「信貴山のどか村」の敷地内で試掘したところ、温泉が湧出したと聞く。国庫補助金などを利用しての事業には、来場者が入浴できる施設の建設も含まれているとのことだ。町民も気軽に温泉浴が楽しめるようなものになることを期待する。

体調管理にご留意を

   ひじょうに遅い「梅雨入り」だったが、このところ雨の日が多くなっている。本日(7/2)も雨だ。水害や土砂災害に細心の注意を払いたい。また雨の日だと油断せず、水分補給に努めたい。

 私のところでは、現在クロマツの芽切り(盆栽・庭木)をしている。昨年から育成状況がよく、とても元気だ。育成培養歴40年にして、やっとコツをつかんだ。おうちのクロマツの状態がよくないという方がおられたなら、そしてご希望ならばお庭にお伺いしてお教えしたい。もちろん、三生連会員の方には無料である。
   写真は、今回切った今年春から伸びた芽である。7~10日で2番芽が出て来て成長する。それを9月により分け、今年の葉とする。成長期における日照時間の関係で、葉が短く止まる。いわゆる短葉法である。

ホームページへの感想

○素晴らしいHPが完成しましたね! 新体制の活動力に感服しております。会長始め役員の皆様の今後ますますのご活躍をお祈り申し上げますと共に、これからも支部の活動に当たり大変お世話をお掛け致しますが、これまで以上にご支援、ご協力の程よろしくお願い申し上げます。(6/29  K支部長)

○三生連HP公開見させていただきました。立派なものが出来上がりましたね。他のものと比較しても矍鑠として頼もしい限りです。(6/29  現役員)

○期待を遥かに超えるHPとなり、誇らしい気持ちです。今後、本連合会や三郷町のPRとなるような写真をどんどん増やしていただきたいと思います。(6/29  現役員)

○「三郷町生き生きクラブ連合会」祝ホームページ開通。拝見させて頂きました。内容も写真も充実しており、地域貢献を拝することが出来ます。全てに心と魂と体力を使っておられる姿に感服いたします。御身ご自愛の上、益々のご活躍を祈念致します。(6/30 大阪市 N氏)

○早速、見ました。ふだん他のHPをあまり見ないので細かい点は分かりませんが、このHPがよくできているということは一目瞭然です。ありがとうございます。(6/30 現役員)

○ホームページ見ました! 素晴らしい出来ですね。維持が結構大変ですが、頑張ってください。(7/1 大阪市 T氏)

○HP見させて頂きました。見事なHPです。会長としてご多用のことと拝察いたします。「論語を楽しむ会」も大したものです。貴会の益々のご発展を祈念いたします。大いにご活躍下さい。(河内長野市 Y氏)

○ホームページを拝見しました。素晴らしいですね。県老連もリニューアルして2ヶ月ですが、なかなか中身の変更プログラムが追いつかなくてうまく進まない状況です。早々にすっきりとさせますので、もうしばらく看過していただけたらと思います。
 リンクをさせていただきました! これからもどうぞよろしくお願いいたします。(奈良県老連事務局 I氏)

○なんか凄いです。完成度の高さに脱帽。見やすく、分かり易い、それに動きもスムーズです。(横浜市 T氏)

○ホームページ見ました。すごいです、それにわかりやすいホームページです。(奈良市 Y氏)

○驚きました。高齢者の市町村連合会のホームページとしては、他に例を見ないでしょう。それも業者に委託せず、自力で立ち上げられたと。驚きを通り越しています。それにさらにすごいのは毎日のように更新し、デザインもよりよいものにと試行錯誤を続けていることです。これから、毎日訪問させていただきます。(大阪市 M氏)

○早速拝見したよ。まさに生涯現役を地で行く活躍振りだね。連合会の命名も貴君らしくていいね。HPの立ち上げには結構時間を要したことだろう。(愛媛・松野町 S氏)

○季節感のある写真も含め、デザインが全体的に美しいです。活動の様子も分かり易いです。(京田辺市 M氏)

○ホームページを立ち上げても作りっ放しというのがほとんどの中、そうでないのがよい。大変だろうが、よろしくお願いしたい。(役員 F氏)

○デザインが良い。色合いが上品だ。(藤井寺市 I氏)

○拝見しました。何かとお忙しい中、すばらしいホームぺージを立ち上げましたね。
26の地域の高齢者の会を取り纏めるのは大変なご苦労がおありでしょう。このようなホームページは珍しいのではないでしょうか。流石ですね。ご努力に敬意を表しますと共に「三生連」の益々の発展を祈念致します。(橿原市 S氏)
南天の花
ガクアジサイとサツキ

酷暑の夏が

 「令和」の新しい時代に入り、早や二ヵ月が経過した。季節は着実に歩を進め、雨の合間には焼けつくような夏の日差しが……。子どもの頃にはどうという事もなかったものが、年齢と共に堪え難きものとなって来る。仕方のない事とは言え、つい「若さ」を羨ましく思ってしまうのだ。50歳まで競技としてマラソンをやっていた。フルマラソンはもちろんのこと、100㌔、140㌔、230㌔などといったウルトラマラソンにも出場した。幾度か美酒も味わった。走ら(れ)なくなった今、若者が軽やかに走り過ぎる姿を羨望の眼差しで見てしまう。一方で「君たちも膝や腰を労わらないと……」と余計な(?)心配をしてしまう。現在多くの人が苦しむ変形関節症は、20年後には軟骨の移植手術が一般化し、ある程度克服されているだろう。
 ところで、20代半ば過ぎから庭いじりを趣味としてきた。随分前に亡くなった劇作家が『園藝と農耕』という雑誌の中で、「農耕と園芸は雑草と害虫との闘いである」と語っていた。読んだのは30代初めのことだが、心に残っている。「言い得て妙」と思ったのだろう。まさにそのとおりである。庭いじりにはさまざまな作業があるが、草むしりほど辛いものは無い。そう思う。膝や腰に難があると余計である。私など這いずり回っての作業となるが、2時間が限度だ。無理をすると、3~4日膝や腰に後遺症が遺る。また庭いじりで一番いやな(避けたい)作業は、薬剤散布ではないか。だが、美しい緑を保つには、これも避けては通れない。怠ると、大きな被害を蒙ることになる。理想的には、予防のために散布することが求められる。被害を受けてからでは遅い。被害を蒙ると葉の色が悪くなるし、葉に傷みが遺る。であるから、我が家では3月から10月まで、計8~9回は散布する。結果、葉の緑は美しさを保っている。
我が家はサツキの刈り込み物主体の庭だが、今年も美しく咲いてくれた。「冬場の水遣り」と消毒が功を奏していると言えよう。手をかければ結果は自ずと……。
 サツキも他の花木と同様、花後の剪定は早い程よく例年6月の5日頃までには終えるようにしている。今年は昨年より花期が1週間遅く、私の所での剪定終了は6月16日となった。ツツジ類の剪定は梅雨明けでは遅い。何故ならば、7月の末から8月の上旬には来年の花芽が形成されるからだ。刈り込んだ美しい姿を眺めながらのお茶は一段とおいしい。○○やの羊羹や△△やの升最中があれば、言うこと無しだ。
 どのような作業も、適期を逃さないことが肝心、現在はクロマツの芽切りの最中だ。
 話は変わるが、4月の本連合会の総会終了後、「信貴山下」駅から王寺まで電車で一緒に出て、駅界隈で役員による懇親会をもった。一人も欠ける事無く13名全員が出席し、大いに食べ大いに飲み懇親を深めた。そういった事は何年もなかったのではないだろうか、少なくともこの4年は。今後、時々はこういった機会を持とうという事で一致した。時間の許す方は自慢の喉をさらに鍛えようと、「鍛錬の場」に向かった事は言うまでも無い。
 5月29日に、斑鳩町で生駒郡生き生きクラブ連合会の役員会が開かれた。本連合会からは辻顧問、安部会計、恒川・津田・西村の3理事、社協から駒田氏、そして私の7名が出席した。斑鳩町と安堵町も会長が変わられた。副会長として郡生連の会議に出席していたので、平群町を含めみなさんとは旧知の中である、阿吽の呼吸で協議できそうだ。なお、秋の郡生連カラオケ大会の日程は、11月27日に決まった。申込要領の詳細が発表になれば、カラオケ同好会「さけび」の片岡氏(本連合会顧問)が中心となって参加者を募集する。奮って応募いただきたい。また、7月3~4日にかけて郡生連の「指導者宿泊研修」が開かれる。前記の7名と藤原監事、萬治・武智の両理事と、田村(三室の元支部長)氏の11名で参加する。実り多いものにしたい。
 町の文化祭は、10月26日(土)と27日(日)の両日に開催されることが決まり、現在支部を通して出展募集をしている。すでに回覧等で周知のとおりだ。こちらにも、昨年にも増しての出展をお願いする。                   (会報「矍鑠」12号から)
自宅培養の雑木盆栽

今年度総会を開催

 会員の皆様には、本連合会の運営にご支援、ご協力を賜っておりますこと、また今年度総会に多数ご出席いただきましたこと、会長として厚く御礼を申し上げたい。
 唐突だが、※「剛毅朴訥」(ごうきぼくとつ)という言葉が好きだ。常にそうありたいと思っている。今年度が60歳代最後の年となる若輩だが、本連合の発展のために誠心誠意汗をかかせていただく。
 口下手で「立て板に水」とは行かないが、筋の通らぬ事に対しては上部団体であっても本連合を代表して忌憚なく発言していく。その覚悟はもっている。辻前会長は「沈着冷静」であったが、私は程遠い。どちらかと言うと「激情」タイプである。俗に「短気は損気」と言われ自らを戒めはするが、生来の性格はなかなか……。会員の皆様には、私が冷静さを欠いて暴走せぬようにご指導ご鞭撻を賜りたい。品位・品性を重んじる三生連において、「激情」「暴走」などと乱暴な言葉を遣っているが、自らを称しての事なのでご容赦願いたい。「若輩」に係わっては、役員・支部長の中で私が最年少だ。所属する支部においても同じである。ところで、今回、役員にかなりの入れ替わりがあった。退任された諸先輩方には、本連合会へのこれまでのご尽力に対し、心から御礼を申し上げたい。ご功績はいつまでも語り継がれるであろう。今回選任された理事7名の内、5名が新任である。役員全体の平均年齢はけっして若くはないが(78.2歳)、精神的にはフレッシュマン、フレッシュレディーであり、センター内の事務所には清新な空気が漂っている。ちなみに、今回の支部報告によれば、4月1日現在の本連合会会員全体の平均年齢は、79.7歳だ。
 さて、4月1日に新しい元号が「令和」と決まった。予想が当たったという方は居られるだろうか。我が国最古の歌集・万葉集からの引用と聞く。「平成」に慣れ親しんだのでしばらくは違和感をもつだろうが、すぐに馴染むのではないか。本連合会もこの4月から「三生連」と改称し、新しいスタートを切った。こちらには、一日も早く馴染んでいただきたい。
 「三生連」は、万年青年の集まりである。「老人」という言葉は似合わない。私も体はそれなりにあちらこちらダメージを受けてはいるが、気持ちだけは若くありたいと思っている。何事を成すにも気持ちが大事だ。困難に立ち向かう粘り強い気持ちを維持したい。「意志あるところに道はひらける」「精神一到何事か成らざらん」である。 
   私たちを取り巻く環境には厳しいものがある。みなさんご存知のとおりだ。そういった中、2つの支部が解散するなど(2頁参照)、本連合の会員数は昨年比、90名以上の大幅な減となった。時代の趨勢とは言え、残念な事である。このような状況になろうとは、20年前には予想できなかったのではないか。しかしながら、そのような厳しい状況の中だからこそ余計に、役員が一丸となって、会員のご支援ご協力を仰ぎながら支部長の皆様と共に本連合のために尽力することが求められる。微力ではあるが、精一杯努めたい。
 ところで、私たち執行部にとって「何が一番の糧か」と問われるならば、「会員の皆様の本連合主催の行事やサークル・教室への積極的なご参加である」と即答する。そして、会報「矍鑠」への寄稿であると付け加える。これは、役員すべての気持ちではないか。幸い、行事参加者は増えつつあるし、サークル・教室などの活動は活発である。また本紙への寄稿もじわりじわりと増えている、喜ばしい限りだ。今後も、引き続きよろしくお願いする。
 寄稿に係わっては、文章が上手いとか下手とかまったく関係ない。思いのたけを書いていただければと思う。いつも申し上げるが、自分の書いた文章が活字になることは、とてもうれしいものだ。一人でも多くの会員にその快感を味わっていただきたいと願うのである。
 今年は元号が新しくなる最初の年、三生連に名称変更した最初の年だ。何年か先にこの記念すべき年を振り返ったとき、会員の思い(願い)を汲みつつ「皆で全力を尽くして努めたな」と言える年にしたいと思う。「思う」に終わらず、しなければならないのである。
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※剛毅(ごうき)朴訥(ぼくとつ)、仁(じん)に近(ちか)し 
(論語・子路第十三)
 芯があり辛抱強く、素朴で口数の少ない者は、最高の徳である仁に近い人物と言って良い。徳とは、仁(思いやり)・義(正しい心)・礼(礼儀)・知(知性)信(信用、信頼)を指す。すべての徳は仁が土台となる。対義語は、巧言(こうげん)令色(れいしょく)(愛想のいいことを言ってこびへつらうこと)である。「巧言令色鮮(すくな)し仁」だ。
                   (会報「矍鑠」11号から)
谷口会長
サツキ「千代の光」 幹回り49㌢

平成31年度(令和元年度) 総会での就任挨拶

 みなさん、こんにちは。本日は、ご出席ありがとうございます。辻会長の後任に就任しました 谷口 です。よろしくお願い申し上げます。
 只今、辻会長が退任のご挨拶を述べられましたが、永きにわたりまして、本連合会のためにご尽力を賜りました。会を代表しまして、心から感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございました。今後は、三生連の顧問として、いろいろとご助言を賜る事になっております。引き続き、ご指導をよろしくお願い致します。
 本日は今年度の総会を開催致しましたところ、森町長様、山田町議会議長様、廣津生駒郡生き生きクラブ連合会会長様、お三方にご臨席を賜っております。ご多用のところまことにありがとうございます。厚く御礼申し上げます。
 さて、私、三生連の新会長としまして、微力ではありますが精一杯努めます。ご支援、ご協力の程、何とぞよろしくお願い申し上げます。三生連の運営につきましては、辻会長がきちんと軌道を敷かれておりますので、それをさらに堅固なものにして着実に歩みたいと思います。
 ご承知のとおり、高齢者の会を取り巻く環境にはひじょうに厳しいものがあります。そのような中ではありますが、会員の皆様方のご支援ご協力を糧にしまして、しっかりと運営に努めます。よろしくお願い致します。
 本日も総会終了後、いつものように余興がございます。最後までお楽しみください。
 はなはだ簡単ではありますが、これにて開会のご挨拶と致します。(平成31年4月15日)

辻 前会長 総会での退任挨拶

   皆様 こんにちは。第47回総会に多くの方のご出席を頂き誠にありがとうございます。
 私は、上田会長の後を受けまして、平成27年4月から2期4年間、三老連の会長を務めさせて頂きました。私なりに精一杯務めさせて頂いたつもりですが、至らないところも多く皆様方にご迷惑をお掛けしたことも多々あったと思います。皆様方から暖かいご支援を頂き、何とかここまで務めさせて頂きました。役員の方々、及び会員の皆さま方に厚く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
 私の在任中は全国老人クラブ連合会の100万人会員増強運動の期間でございました。それで少しでも会員増につながる活動をと支部長の皆様方にお願い致しました。一方三老連(現三生連)としましては、「少しでも魅力のある会にすること」及び「会を活性化する事」が重要と考え、ハイキングなどの行事を充実させること、新しいクラブを立ち上げる事を考え、習字、自彊術、論語、万葉集などの新しいクラブを立ち上げることができました。またいろいろの情報を会員の皆さま方にお伝えすることが重要と考え会報を創刊致しました。昨年には、会の名称を「三郷町老人クラブ連合会」から「三郷町生き生きクラブ連合会」に改称する作業を行い今年の4月から実施致しました。このようなことで三生連を少しでも魅力のある会にすることに努めて参りました。そしてこの4月1日に、谷口新会長にバトンタッチをさせて頂きました。
 谷口さんは、私の2期目から副会長としていろいろな面で私を支えて頂きました。谷口さんは会報の編集委員長、「論語に親しむ会」の講師、そして東信貴ケ丘福寿会の会長を務めておられ活発に活動しておられます。谷口さんは、何といってもその若さとバイタリティーにあふれた方ですので、三生連の厳しい状況も果敢に乗り切って頂けると期待しております。
 皆様方には谷口会長を支えて頂き新しくスタート切りました三生連に温かいご支援を賜りますよう切にお願い申し上げます。私自身も顧問としまして新しくスタートしました三生連のために少しでも働かせて頂きたいと思っています。
 最後になりましたが、役員の方々、そして会員の皆さま方には、この4年間いろいろとご協力ご支援を賜り誠にありがとうございました。厚く御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

魅力ある会に       前会長 辻 孝三(顧問)

   新緑の候 会員の皆様には、ますますお元気でお過ごしのことと思います。日頃は、本会にご支援、ご協力を賜りまして、深謝申し上げます。
 さて、本会の会報は、本号から名称が「矍鑠」(かくしゃく)となりました。何となく、難しく思われる方もおられましょう。ですが、卒寿となられましても、矍鑠とした先輩方が多い本会にふさわしい名称であり、徐々に馴染んでくることを確信致します(6頁に由来・語源を掲載)。一年もすれば、一目一声で誰からも、本会会報とお分かりいただけるでしょう。会員の皆様のご協力により、県内外から注目されるような会報に育てたいものです。
 ところで、超高齢社会では、高齢者がその豊富な経験と知識、時間的余裕を生かして、社会に貢献し、生きがいをもって生活することが望まれます。その手助けをする老人クラブの役割はとても重要ですが、社会情勢の変化などもあって、残念ながら会員数は全国的に減少しています。
全国老人クラブ連合会では、平成26年から百万人会員増強運動を実施し、3年が経過しました。三老連の会員数の推移を見ますと、平成27年4月には1315名、28年4月には1297名、そして本年4月には、1197名となりました。昨年からは100名の大幅減です。それでも、昨年は28支部中6支部で会員増を達成し、3支部が県老連から会員増強躍進賞を受賞されました。また、本年4月の調査でも8支部が会員増を達成しておられます。非常に嬉しいことです。今後も会員増強推進にご協力をお願い申し上げます。
 三郷町では、60歳以上の方は、平成28年4月現在で8171人おられます。老人クラブへの加入率は約16%です。何とかもっと上げていく必要があります。粘り強く地道な活動を続けて行かねばなりません。本会をより魅力あるものにするため、昨年新しい取り組みをしました。平城宮跡の散策、馬見丘陵公園ハイキング、健康教室などの実施。また、新しい教室として、習字教室、自彊術健康教室、論語に親しむ会、万葉集を楽しむ会などを開講しました。待望の会報創刊も、その一つです。ですが、これらの活動は緒に就いたばかりです。今年も継続して、活性化を図ってまいります。皆様のご協力をお願い致します。
 全国老人クラブ連合会のスローガンは「のばそう! 健康寿命 担おう! 地域づくりを」です。家に閉じこもらず、積極的に外出しましょう。外には、生きがいと健康づくりの場が大きく拡がっています。三老連の行事やクラブ、教室などにも積極的にご参加ください。
 最近「友達の数で寿命は決まる」という本が出ていますが、できるだけ多くの人とつながりを持つようにしたいものです。「担おう! 地域づくりを」については、まずは地域の行事に積極的に参加し、経験を生かして地域を活性化させましょう。
 また、介護保険制度の改定により、「新地域支援活動」が重要になっています。三老連におきましては、現在も友愛活動やボランティア活動、奉仕活動を展開していますが、さらに充実させていくことが第一だと思います。特に見守り、居場所作り、簡単な手伝い、環境美化、世代間交流などの活動も拡げていきたいと思います。
 本年も三老連の活動をさらに充実させ、皆様に喜んでいただける魅力ある会になるよう努めます。会員の皆様方におかれましても、所属する会と三老連の活動内容とその良さ、楽しさを未加入の方にお話しいただき、入会を勧めていただくよう切にお願い申し上げます。
             (平成30年4月末・会報「矍鑠」第2号から)
辻 前会長

会報名称「矍鑠」の語源・由来

  「矍鑠」の語源・由来
意味・歳をとっても丈夫で元気のよいさま。 
出典・後漢書の馬援伝。
62歳という高齢の馬援が敵陣に立とうと光武帝に申し出たが、老齢を気遣い許さなかった。馬援は甲冑をつけて馬に乗り、威勢を誇示したところ、光武帝は「矍鑠たるかなこの翁は」と感嘆したという故事から。
矍は、眼をきょろきょろさせ、素早く反応するさま。鑠は、輝くさま、あるいは、生き生きして元気がよいさま。
※当時の平均寿命は、40歳代後半から50歳前半と推定される。ゆえに、当時の62歳は、現代で言えば90歳を優に超える年齢だろう。

連合名改称と会則の改定に向けて

   本連合は、平成31年4月1日付で、「三郷町老人クラブ連合会」から「三郷町生き生きクラブ連合会」に変わりました。 

 7月の西日本豪雨による被害は、水害としては平成になってから最も悲惨なものとなった。広島・岡山・愛媛をはじめとして、被災された皆様には心からお見舞いを申し上げる。会員ご自身も、会員の関係者の中にも、被災された方が居られたのではないだろうか。

 その後は一転、猛暑が続き、とうとう最高気温の記録まで更新した。酷暑が続き、体調維持には苦労されたことだろう。多くの会員から、「年々ますます暑さ寒さが堪える」との声が聞こえる。暑さ寒さも気にならずただ遊びに夢中だった幼き頃、その頃に戻りたい。そうは思わないだろうか。もっとも、遊び惚けて勉強しなかったのは私だけかも知れないが。とにかく、早く涼しくなってほしい。
 そのような中、ようやく朝夕の風に秋の訪れを感じるようになった。とは言え、まだまだ残暑は厳しい。会員の皆様には油断なさらず、水分補給にご留意されるなどくれぐれもご自愛願いたい。
 前置きが長くなったが、日ごろは、各支部での活動や三老連の催しなどへの参加を通してのご支援、ご協力を賜り、心から感謝を申し上げたい。会員減が続いている厳しい状況の中、何が求められているかと思うとき、大事なのは会員の結束であり協力であろう。その点、心強いものがあり有難く思っている。

 「矍鑠」は今号で8号
 さて、会報は今号で8号となった。名称が「矍鑠」となった2号(平成29年4月発行)から編集長を務めている。当初「矍鑠」の名称には賛否両論があった。否定的な意見には「そのうちに馴染んで来ますから」と申し上げて来た。1年半が経過した今、如何だろうか。定着して来たと思うのだが……。他町から「いい名称だね」と羨望の声を少なからず聞く。一方、内容的には編集の拙さから稚拙の誹りを免れない。ただ、編集(製作)方針の一つ「作成のすへてを自前で行い経費削減に」を守り、向上心を忘れていない事には胸を張れる。業者を頼らず浮かせた経費で、従来から希望の多かった新しいコピー機(プリンター)を購入出来た。
 今後も飽くこと無く内容の充実を志向する。期待に応えられるよう努める。だが、さらなる充実のためには、会員からのご寄稿が欠かせない。支部のニュースなども、もっともっとお寄せいただきたい。

 率先垂範の姿勢と八面六臂のご活躍に感服
 ところで、僭越ながら、そして失礼を省みず本連合の辻会長について触れたい。
 辻会長のいつも笑顔を絶やさぬ温厚な人柄と、率先垂範の姿勢には敬服する。ただただ頭の下がる思いだ。氏を知る方には、共通の思いであろう。常々私は、組織(会)の長たる者は「組織(会)のことを誰よりも思い、誰よりも組織(会)のために汗をかかなければならない」と考える。黙々と実践されているのが辻会長だ。真似たいと思っても、愚昧不肖の私などには到底無理である。孔子の弟子顔淵(がんえん)が、孔子のことを「之を仰げば彌々高く、之を鑚れば彌々堅し。之を瞻るに前に在り、忽焉として後に在り……」(これをあおげばいよいよたかく、これをきればいよいよかたし。これをみるにまえにあり、こつえんとしてしりえにあり……【論語】子罕第九)と。まさに、辻会長のことを言い表しているようだ。
 私は歴代の会長についてほとんど存じ上げない。立派な方ばかりであっただろう。辻会長も負けず劣らず、ひたすら三老連のために汗をかかれて居られる。この機会に、活動の一端をご紹介する。 
 会長に就任後、「自彊術体操教室」(現在、「健康体操教室」)「習字教室」「万葉集を楽しむ会」や「論語に親しむ会」など、新しい教室(学習会)を立ち上げられた。それらは既存の同好会などと同様に、熱心な会員に支えられ地道な活動が続く。春秋の「ハイキング」も始められた。毎回、盛況である。会報も創設された。「矍鑠」は、他町の会報にも多少なり刺激を与えている。生駒郡生き生きクラブ連合会(以下、郡生連)の中に「切磋琢磨」(せっさたくま)する雰囲気を醸成するのに一役買っていると言ってよい。また、役員会や支部長会議において議長・書記を置き、きちんとした会議の形を構築された。以前を知る多くの方から、「会議らしい会議になってきましたね」と……。「ムラの寄り合い」状態を脱皮させたのだ。誤解を招かないように申し上げるが、「ムラの寄り合い」を否定はしていない。それはそれで和気藹藹の和やかムードを醸し出すことに一役を……。ただ、会員千人以上の会には似合わない。
 横道に逸れたが、加えて辻会長は例のバイクに跨って、情報共有を遅滞させてはならないと支部長宅や役員の家に資料などをお届けになる。神出鬼没である。「言うは易し……」と形容されるとおり、なかなかできない事である。大した行動力だ。これらは、「信貴ヶ丘有隣会」の会長と「郡生連」の会長、並びに「県老連」の理事とを兼務されながらの、粉骨砕身の働きである。歴史の学習会である「史学 さんごう」でも中心的役割を担われている。氏の実績は枚挙に暇が無いし、東奔西走しての獅子奮迅、八面六臂のご活躍には驚きを禁じ得ないのである。
 全国的な傾向として会員増強において厳しい状況が続く中、辻会長は支部長間の情報交換の場を設けるなどの方策を講じておられる。卓越した指導力が無ければ、とうに本連合の会員数は千人を下回っていたかも知れない。
郡生連の他町の会長、副会長を存じ上げているが、みなさん識見の高い立派な方ばかりだ。それらの中でも、辻会長の人柄と実力は優るとも劣らない。燦然と輝いている。辻会長の下で、共に汗をかかせていただけることに幸せを感じる。辻会長を支えて、会発展のために惜しまず汗をかきたい。

 「会名称変更」と「会則の改定」
 三老連では、現在ほとんどの支部で「老人クラブ」の名称は使用していない。であるのに、旧態依然として連合本体が「老人クラブ」と名乗っている。県、全国の連合も同様だ。全老連は、この事について「老人福祉法」の名称が変わらなければどうにもならないと言う。政府に働きかけはしているのだろうか。法律の名称を変えるのがそんなに仰々しいことなのか、平群町や安堵町の連合会では、すでに外されている。生駒郡は、ご存知のとおり「生駒郡生き生きクラブ連合会」と称している。
 そのような中、8月17日の役員会で三役会から「会名称の変更」が提案され、長時間にわたる協議のうえ承認された。また、現在の「会則」は昭和48年の制定(過去2回一部改定)だが、実情にそぐわない点が生じている。慣行的に運用している点については明確にしなければならないと考え、改定しようとしている。9月26日の支部長会議で、会名称変更と共に「会則の一部改定」が最終決定する。 
   次号「矍鑠」9号で、支部長会議での審議結果を明らかにする。「新会則」全文も掲載する予定だ。「会員が『会則』を見たことも無い」などはあってはならない。本会は、常に「開かれた会」でありたい。  
 ついつい長々と記してしまった。会員の皆様には、引き続きのご支援、ご協力をよろしくお願い申し上げる。
              (会報「矍鑠」第8号から)

友愛のつどい 挨拶

  みなさん、こんにちは。
 日ごろは、三生連の活動にご協力を賜りまして感謝申し上げます。本日は、森町長にご来賓としてご臨席を仰ぎ、第21回の「友愛のつどい」を開催しましたところ、このように大勢のみなさんにご出席いただきました。ありがとうございます。三日間で約220名の方にご参加いただきます。お世話いただく方を合わせると300名近くになります。
   森町長には、公務ご多用の中、本連合会のために貴重な時間をお割きいただき深謝申し上げます。町政の推進には様々な課題が山積していると思われますが、粉骨砕身のご活躍をいただき、県内はもとより、全国的にも稀有の大きな成果を収められていますこと、重ねて感謝致します。今後も微力ではありますが、三生連は町長をお支え申し上げたいと思います。
   さて、会員のみなさんには、それぞれに生き生きとした人生を送られて居られることと思います。今後も、森町長が先頭に立って推進されているフレイル健診に、また町や社協、そして三生連の実施しているさまざまな行事等に積極的にご参加いただきまして、健康寿命をさらに伸ばしていただきたいと願います。
  「友愛のつどい」の開催に当たりましては、実行委員長であります西村女性部長をはじめ女性部役員の皆様、三生連本部役員の皆様、そして社協職員の皆様など、多くの方のご尽力があります。御礼を申し上げます。
   最後に、本日の「友愛のつどい」が実り多いものになりますことを祈念し、簡単ではありますが開会の挨拶と致します。

謹賀新年(令和2年元旦)

 大晦日は就寝が11時半になってしまったが、元旦はいつもどおり4時半の起床。
 ラジオ体操終了後、大和川に架かる若草橋から初日の出を拝んだ。雲が多かったが、よいタイミングとなった。その後、勢野の春日神社に初詣し、ご来光のときと同じく、災害の無い一年と世界平和を祈願した。
 大和側の堤を少し歩き、家に戻って家族と正月を祝った。夕方も散歩したので、本日は1万5千歩を記録した。午後には、甥家族が訪ねて来て談笑した。夜は30分程度論語を素読し、賀状を書いた。
 穏やかな元日を過ごした。

運動不足の解消を

 行事や通常の活動のほとんどが延期や中止となり、どうしても運動不足になりがちである。こういう時期こそ、意識して体を動かす必要がある。人混みを避けての散歩や庭や室内での体操をこまめに実施するように心がけたい。テレビなどでも、いろいろと手軽な体操を紹介している。
 お元気にお過ごしいただくことを願う。

運動不足の解消を

 行事や通常の活動のほとんどが延期や中止となり、どうしても運動不足になりがちである。こういう時期こそ、意識して体を動かす必要がある。人混みを避けての散歩や庭や室内での体操をこまめに実施するように心がけたい。テレビなどでも、いろいろと手軽な体操を紹介している。
 お元気にお過ごしいただくことを願う。

意識して体を動かそう

 行事や通常の活動が延期や中止に追い込まれている。どうしても運動不足になりがちだ。意識して人混みを避けての散歩や体操をすることを心がけたい。テレビなどでも、手軽にできるさまざまな体操を紹介している。庭や室内で、体を動かそう。
 お元気に過ごしていただくことを願う。

あのときのダイオキシン騒動は

 23年前に日本中を大騒ぎさせた“ダイオキシン問題のニュース報道”。当時、テレビ朝日の人気番組の一つだった「ニュースステーション」で、「埼玉県所沢産の野菜から、高濃度のダイオキシンが検出された」という報道が出た。
 ダイオキシンは人類史上もっとも強い毒性を持った化合物といわれ、たき火をしたり魚を焼いたりするだけで発生するというのだから、多くの国民にとって衝撃的な話だったかと思う。

 「プラスチックを燃やすと、最強の毒性物質のダイオキシンに変わる」「ダイオキシンの分解物によって焼却施設が劣化してしまう」などという報道が追随し、「ダイオキシン凶悪説」が加速した。しかし、2年後、当時の東京大学医学部教授で免疫学や毒物学の第一人者であった和田攻教授の論文によって、「ダイオキシンによる健康被害が発生する可能性は、ほとんどないと思われる」ことが判明した。
 しかも、「将来、健康被害が発生する可能性はほとんどない」と断言。
ところが、国のとった施策は違った。最初に取りかかったのは、ゴミを処分する焼却施設を改造したことだ。焼却施設でゴミを燃やす時はダイオキシンはそれほど出ないが、運転を止めると温度が下がり、ダイオキシンが生成されるので超高速で焼却施設を冷やす装置を取り付けたのだ。

 そのために税金が毎年600~1800億円使われ、この状況が10年以上続いた。巨額の税金をこれほどまでに投入する必要があったのだろうか。もっと言いえば、ダイオキシンは危険物質ではないと分かっている役所の人たちが、どうしてこうした部分に金が必要だと考えたのか。
 間違った知識は間違いを生むものだが、役所の上の立場にいる人は、時として自分の利益のために平気でうそをつく。ダイオキシンで騒げば、ダイオキシンの濃度を測定する会社は儲かるし、
ダイオキシンを監視している会社の役員の多くは役所から天下った人たちで構成されている。これがダイオキシン騒動を引き起こさせた答えなのかなと……。
 地球温暖化問題についても、さまざまな意見がある。温暖化事態も、騒ぐほど平均気温は高くなっていないとも。
 マスメディアや一部の学者の意見に流されることはあってはならないとおもうのである。
 
(一部引用:武田邦彦著:エコと健康の情報は間違いがいっぱい!

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