④
子曰わく、朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり。
(里仁第四)
しのたまわく、あしたにみちをきけば、ゆうべにしすともかなり。
孔子が言われた。「朝、真理を聞いて悟ることができたなら、夕方死ぬことになったとしても悔いはない」と。
真に生きる道を知りさえすれば、肉体の死のごときは、もはやなにものでもありはしない。
五十沢 二郎「中国聖賢のことば」
ここで言う道とは、「真理」のことと思われる。五十沢二郎の「真に生きる道を知りさえすれば、肉体の死のごときは、もはやなにものでもありはしない」は、見事な解釈である。
孔子は、現実のみならず眼に見えない世界の真理をも知りたいと思っていたのではないだろうか。しかし真理を極められなくて、「朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり」と漏らしたのではないか。おそらく孔子の発言の裏には、「理想社会の実現」というものが悲観的に含まれていたと思われる。「悲観的に」というのは、孔子自身の意見が多くの国で受け入れられず(理論的には理解されただろうが)、君子による徳治政治の実現する見通しが立たなかったからである。
「道」という言葉を、各人がそれぞれの思いを当てはめて読むとよいだろう。『それを学ぶことができたら、死んでもいい』というくらいだから、人生をかけて探し続けるべきものだと解釈したい。それがどこにあるのか、どうすれば見つけられるのか、探し続けることが人生の目的の一つであるような気がする。「それぞれの道を求めて必死に生きる」、その前提として他者の幸福を一番に考える。何と素晴らしいことだろう。世の中のすべての人がこういった生き方をすることが出来たならば、皆が幸せになるだろう。
「覚悟を持て」「覚悟はあるか」など、『覚悟』という言葉を使ったり聞いたりする。辞書には、覚悟とは「危険なこと、不利なこと、困難なことを予想して、それを受けとめる心構えをすること」「迷いを脱し、真理を悟ること」「きたるべきつらい事態を避けられないものとして、あきらめること。観念すること」などとある。
「覚悟を決める」「覚悟を以て事に当たる」ということを、大切にしたい。なぜなら、自らの人生と真剣に向き合っていくためには覚悟を決めるということが必要不可欠だと考えるからだ。もし、覚悟が無ければどうなるか。覚悟を決められないということは、自らの行動や言動が招いた結果を受け入れない態度を取ってしまうということに他ならない。 つまり、自らの人生に対して無責任な態度を取るということであり、物事がうまくいかないときには、自分ではなく外部に(他者に)責任を求めるということにつながる。
事あるごとに責任逃れを考えていては、当たり障りのない行動ばかり取ってしまうようになる。全責任を負うのが怖くなり、縮こまって挑戦しなくなるだろう。果たして、こういった態度で自らの人生をより良くしていくことはできるだろうか。確かに覚悟を決めるということは難しい。
人は一般に、大した挑戦をしてきたわけではないし、何かを成し遂げてきたわけでもない。 見栄を張ったとしても、本心では何とも言えぬ不安を抱えているだろう。そうなると、周囲に同調することばかりを考え、今抱えている不安や自らの未熟さを、見て見ぬ振りをしてごまかそうとするかもしれない。仮にこういった態度のまま何かに挑戦したところで、得られる成果はたかが知れている。
覚悟を決めた人間とそうでない人間とでは、明らかに行動に差が出る。 すべてを投げ出してでもやると決めた人間は、望む結果を得るために最大限の努力をする。努力することを惜しまないのだ。うまくいかない場合のことも覚悟しているから、そうはなりたくないとがむしゃらに努める。時に不安を感じることがあったとしても、その不安を打ち消そうと自らを奮い立たせる。覚悟を決めることができれば、不安を、自らが成長するためのエネルギーに変えていくこともできるのである。しかし、覚悟を決められない人間は安全圏という殻を破ろうとせず、いざというときの責任逃れのための言い訳を探しながら行動してしまう。挑戦を前にやるべきは、「覚悟を決めること」である。そして、その覚悟を大切にして、全身全霊で自分の人生や物事と向き合う。そうすれば、事を成すことができる。喜びを得られるだろう。覚悟を決めてこそ、人生をより良く生きられるのだと信じる。
覚悟を以て人生を送っている人は、言い訳をしない。例えば、それが誰から見ても失敗だと思えるような選択だったとしても言い訳をしない。その経験が未来に繋がると信じているからだ。人生を覚悟している人は自分の言動に責任を持っている。人生を覚悟している人は、自分の人生に希望を持っている。目の前の事を全力で楽しめる。どん底の経験ですら笑いに変えられる。人生を覚悟している人は、感情が豊かだ。よく笑う、よく泣く、時には本気で怒る。未来に過剰な期待をしていない。未来は自分で切り拓いていくものだと思っているからだ。良い意味でドライである。他人に対して必要以上に干渉しないし、必要以上に同情もしない。自分がこれでいいと納得したらそこで終わりにする。その後の受け取り方は相手に委ねる。
この短い孔子のことばには、いつもの温厚な調子とは似つかぬ激しい感情がこめられている。古注では、「道を聞く」の道は真実の道というような抽象的なものではなくて、現実に道徳的な社会が実現していることをさすとみる。そして道徳的な理想社会は、自分の一生のうちには実現することはなかろうという絶望に近い感情をあらわしたのだと解する。これにたいして、朱子の新注は、道を心理と解し、朝、真理が知り得たら、夕に死んでもよいという、真理を求める積極的な意思を示していると説いている。孔子がこのことばをどんな状況で、どの弟子にむかって話したのかよくわからないけれども、春秋末の乱世のことであるから、「朝に道を聞いて、夕に死する」ことは、朱子の新注などが説くように、たんに真理を求める気構えをあらわすだけではなく、生命が朝にして夕をはかれない緊迫した社会における、もっと切実な発言であった。
貝塚 茂樹「論語」
衛霊公第十五(「仮名論語」231頁7行目)に「志士仁人は、生を求めて以て仁を害することなく、身を殺して以て仁を成すこと有り」とある(志士(志の高い人)や仁人(仁徳を体現した人)は、命が惜しいからと言って仁の道を曲げるようなことはしない。むしろ、我が身を犠牲にしてでも仁の道を成し遂げようとする)。
五十沢 二郎は、「中国聖賢のことば」の中で
「真の生命愛に生きる人々は、肉体への執着のゆえに生命の愛を犠牲にしたりすることはない。むしろ、生命への愛のためには、おのれの肉体をも犠牲にして悔いないものである」と。
宇野 哲人は、「論語新釈」の中で
「仁に志す人と仁を完成した人とは、道徳上死ぬのが当然な場合には生を求めて仁を害することなく、むしろ己の身を殺しても仁を成し遂げるのである」と通釈している。
高潔な目標を持っている『志士』と仁の徳性を身につけている『仁人』は、日常生活の中では自己の生命を尊重するが、仁徳を達成するためにどうしても自らの命が必要であると覚悟すれば、その身を潔く捨てることに何の躊躇もないということである。だが、軽々に「命は惜しくない」と言ってはならない。何のために命をかけるのかが問われる。親から頂いた命は、飽くまでも惜しまなければならない。
志士仁人の心構えはある種の自己犠牲精神とも言えるが、政治権力による人民の道具化につながる(利用される)恐れもある。だから、志士・仁人は『(他からの強制のない)個人の自発的な覚悟・克己』によって世の中のために働くのだということを忘れてはならない。とにかく、男女を問わず、「責任」と「覚悟」をもった生き方が問われるのである。政治に携わる者が皆、このような生き方をすれば、「民の徳厚きに帰す」のであろう。
「志士仁人は、生を求めて以て仁を害することなく、身を殺して以て仁を成すこと有り」は、峻烈な章句である。現代の人は命を捨てても仁徳を貫こうとか考えないだろうが、幕末の勤王の志士たちはこのような言葉を聞いたらさぞ感激しただろう。普通、人は誰でも生を好み、死を悪むものである。しかしながら、仁徳と生が矛盾する場合、生を捨てて仁徳を貫くものだと言われる。到底、私たち生半可な者には実行出来ない。この章句から子路を連想してしまう。いかにも子路の好みそうな言葉だ。私はこの章句を読むと身震いを禁じ得ない。真摯な生き方(考え方)に対し、頭を垂れるしかない。私たちは、先ず自分の身を正すことから始めなければならない。自分の身を正すことが出来れば、この言葉の意味をより深く感ずることが出来るかも知れない。とにかく、強烈なインパクトのある章句である。
志士であるだけでは人を惑わせることがあり、真の志士はやはり仁人でなければならない。一方で優しいだけで理想を持たなくては、何事をも為すことはできない。「理想(志)」を持つことは「人情を解した、真の思いやり(仁)」を持つことに比べれば、比較的容易だろう。日々生きることに悩みがあることは当然だし、まして変革を試みれば破壊があり、苦しみがあることは必然である。その苦しみを堪え忍ぶことができるか、また、周りの人々に堪え忍ばせることができるかが、志士と仁人の違いだと思う。決死行を強いるばかりで、その人に家族・生活があることに思いをいたさないようでは、誰も心から従うことはない。理想を持ち、「千万人といえども我ゆかん」という気概を持ちつつ、同士の生活を慮り、あえて独りで行こうとする。打算ではなく、その心性が人を動かし、志を達成させることがある。
仁徳の完成と、現実の生活とが矛盾する極限の場合をいったのだが、孔子にはこういった表現は珍しい。「朝に道をきけば、夕に死すとも可なり」(里仁第四)と、その表現の仕方が似ていて、それゆえに、共にわが国で愛唱されている。
⑤
己立たんと欲して人を立て 己達せんと欲して人を達す (雍也第六)
おのれたたんとほっしてひとをたて おのれたっせんとほっしてひとをたっす
仁者は自分が立とうと思えば先に人を立て、自分が伸びようと思えば先に人を伸ばす。
実に含蓄のある言葉だ。「自分さえよければ」というような考えが先に走ると、「他者のために汗をかく」などといった考えは毛頭浮かんでこない。
「人を達す」ということが念頭にあれば、争い事は起こらないだろう。私たちの日常を振り返るとき、何よりも自分の利益を求めることに追われ、人を押し退けて前に出ようとすることが多い。自分の主張を押し通した人が、結果的に得をしたりすることが少なからずある。だが、皆がそのような生き方を最優先するとき、社会は殺伐とした空気に覆われてしまう。だからこそ、自分の利益を後にして困っている人を助けたりする人が、「有徳の人」として認められることになるのだろう。
相手に思いやりを持って接する事が大切な事に疑う余地は無い。相手を思いやると自然と相手の立場を考えるようになり、相手を立てようと思う。ただ、遠慮をすると立てるのは違う。遠慮をしても相手を立てている事にはならないし、面倒臭い事を押し付けるようにも見えてしまう。
相手を立てるという行為は、たとえその人がその場にいない場合でもその人の長所について話をするなどがある。その人と相対したら話をよく聞き、間違っていたとしても真正面から否定はしてはならない。それは、知恵を働かせていないように思える。知恵のある人ほど、回り込んで別の角度から物事を気付かせるように話す。それも自身に置き換えてみれば分かるはずだ。正面から否定されたら、相手はカチンとくるだろう。相手を立てることができる人は、自分がやられて嫌な事は他人にもしない。相手と自分を客観的に見る事ができる人であり、本当の意味で賢い人とも言える。
相手を立てる事が自然とできる人は、恐らくは多くの友人を持ち、伴侶や子供などの家族に恵まれ、会社の同僚や先輩後輩とも末永くお付き合いをしているのではないだろうか。どれだけお金を稼げるかが、人の価値となるわけではない。ほんの少し折れただけで、ほんの少し相手の話に相槌を打つだけで、これからの人生が変わるかもしれない。討論で負けたとしても、命を取られる事はない。それどころか逆に信頼につながるかも知れない。今までの生き方を変える事は、ときにイライラする時もあるだろう。しかしそれは、これからの生き方を上手に変えてくれる香辛料ともなろう。相手を立てる事はそんなに難しいことではない。
自分の身を立てたいと思えば人の身も立ててやる、自分が伸びたいと思えば人も伸ばしてやる、つまり、自分の心を推して他人のことを考えてやる、ただそれだけのことだ。それだけのことを日常生活の実践にうつしていくのが仁の具体化なのだ。
下村 湖人「現代訳論語」
⑥
過ぎたるは 猶及ばざるがごとし
(先進第十一)
すぎたるはなおおよばざるがごとし
子貢問う、師と商とは孰れか賢(まさ)れる。
子日わく、師や過ぎたり、商や及ばず。
日わく、然らば則ち師は愈れるか。
子日わく、過ぎたるは猶及ばざるがごとし。
しこうとう、しとしょうとはいずれかまされる。
しのたまわく、しやすぎたり、しょうやおよばず。
いわく、しからばすなわちしはまされるか。
しのたまわく、すぎたるはなおおよばざるがごとし。
子貢が尋ねた。「子張と子夏とはどちらがまさっているでしょうか」と。
孔子が言われた。「子張はやり過ぎである。子夏はやり足らない」と。
子貢はさらに尋ねた。「それでは子張は子夏よりもまさっているでしょうか」と。
孔子が言われた。「過ぎたるはなお及ばざるが如し」と。
十分以上だということは、しかし十分以下だというのと同じように、それを完全とはいえないものである。
五十沢 二郎「中国聖賢のことば」
現在も日常的に使われる格言の出典である。
孔子は『中庸の徳』の実践を重んじており、才智や能力が極端に行き過ぎている者も、才智が劣っている者と同様にバランスが崩れていて安定性がないと考えていた。常識的に考えれば、平均的な能力・知性よりも極端に優れた人物の評価は高いはずであるが、安定的な持続性と人格的な徳性を大切にした孔子は、敢えて『過ぎたるはなお及ばざるがごとし』という警句を発したのである。
「中庸」とは、「儒教」において徳の概念を表す言葉である。儒学を学ぶときの四書として定められた『中庸』という経書のタイトルにもなっている。四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子』で構成され、『中庸』は最後に学ぶべきものとされている。
『中庸』は孔子の孫である子思によって作成されたという説が有力である。孔子はその思想を体系的に語ることはしなかったが、子思は孔子の教えを理論的にまとめ、学問として体系化した。
「中庸」は孔子が最高の「徳」として説いた概念であり、偏ることのない「中」をもって道をなすという意味だ。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の章句も、孔子が中庸の徳を説いた言葉として知られている。孔子の言葉に、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」(「仮名論語」為政第六78頁6行目)がある。どちらにも偏らない中庸の道は、徳の最高指標であるということを述べている。
「具体的にどのような道が中庸の道なのか」については、孔子の言葉を解釈し具体的な行動に落とし込んでいく必要がある。解釈の仕方には幅があるため、経典が難解だとされる原因でもあるが、逆にその幅があることが教えの普遍性を保っているとも言える。また、その意味を考えることが思考の訓練であり、学びそのものでもあるとも言える。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の章句の前文にある師とは子張、商とは子夏のことだが、子夏は「衛」の国の出身で孔子より44歳年下、子張は「陳」の国の出身で48歳年下の同世代である。ゆえに、子貢は子夏や子張よりは一回り以上先輩ということになる。子夏・子游・子張の三人はほぼ同世代で、孔子門下では学問上の良きライバルだったようだ。子張には少し生意気な所があったと言われる。先輩の子貢は、子張・子夏二人の後輩を孔子がどのように評価しているのかを知りたかったのだろう。子貢もやり過ぎる傾向があったから、孔子の言葉には心中穏やかではなかっただろう。
真面目だという美徳が度を超してかえってマイナスとなり、「真面目すぎる」「正直すぎる」「かしこすぎる」などと言われている人が少なからず存在する。「真面目人間」とは、「他人の言うことをまともに受け止め、一生懸命やっていればそれでよい」と考えている人である。こういった人を教育し、実社会に適用させるのはなかなか難しい。そういった人は、上司と意見が合わなかったり、自分のミスで失敗したときなどにひどく悩み落ち込んでしまうことが多い。やや余裕を持った真面目さが、社会生活を送るのに必要だと言える。また、真面目なことは美徳であり大事なことだが、あまり真面目すぎるとはた迷惑になることが少なくない。
さらに問題なのは、「賢すぎる」ということだ。誰もが賢くなりたいと願うが、賢さを真に生かすのはなかなか難しい。下手に賢さを振りまわすと、「小賢しい」ということになり人間関係を損なう。多くの賢い人たちは、たった一度の失敗をも恐れる、しかし、失敗するかもしれないという程度の危険を冒さなければ、やがてゆっくりと毒に蝕まれることになる。失敗は、いずれ学ぶであろう価値のある教訓を教えてくれ、続ける勇気を持つことは英知へと導いてくれる。
完璧を追求することは必ずしも悪いことではない。むしろ、素晴らしい成果をもたらすことも多い。一方で、「ここまで達成していれば十分」という程度があることも事実だ。常に完璧でなければ気がすまない完璧主義者にとって、「十分な程度を満たしていればよい」という感覚はなかなか理解し難いかもしれない。だが、時間は無限にあるわけではない。完璧を追求しすぎるあまり効率性が悪くなったり、ものごとが永遠に「未完」となってしまう恐れもある。
人の考え方や好みはさまざまである。たくさんの人が集まると、意見はまとまりにくい。国政の場などでも何かを決めるときにはいつも混乱する。これが生活習慣や言語が異なる国際社会なら、なおさらのことだ。国際社会のような複雑な関係は、私たちの身近なところでは滅多に見られない。しかし、異なる考え方が二つあることでぶつかり合うことはよくある。お互いが自分の利益ばかりを主張していたら、話は絶対にまとまらない。ものごとは前に進まない。「イエスかノーか」という極端な考え方をするのではなく、「イエスでもありノーでもある」という柔軟な考え方をしたほうが、間違いなく問題は解決しやすくなる。日本ではこういうとき、よく「足して2で割る」という解決の仕方がなされる。この解決法で導き出された答えは、双方に利益と不利益があるのでいかにも公平であるかのように見える。これが中庸であると考える人も多い。しかし、これは単なる妥協であって中庸とは違う。足して2で割ることでうまくいくことが多いのは事実だが、これでは双方に利益よりも不利益を多くもたらすこともある。
実際、政治の世界ではこのような妥協の仕方が平然と行われることがある。確かにそれでその場はうまく収まるが、確かな解決策にはならない。そもそも異なる意見を持つ人たちは、それぞれが求めていることを実現したいと考えている。お互いの思いを貫くことは無用な摩擦につながるので、話し合いによって解決するというのは同じ社会に生きる者の態度としては正しい。しかし、そのときの最適な解は、ただお互いの主張を足して2で割るような単純なものではない。最終的にはお互いが妥協しなければならないにしても、それぞれの思いを尊重しつつそれでいて小異を捨てて大同につく姿勢になれたときに、お互いが納得できる最高の答えを導き出せるのではないか。このときのポイントは「理念の高さ」である。目的が崇高なものであると、小異を捨てることが意外に躊躇なくできる。それぞれの利益は予想より小さくても、社会全体として見たときの利益がより大きければ、主張の中の一部分を譲ることに価値を見い出すこともできる。
そもそも人間一人の力には限界がある。特に大きな目標を実現させたいときには周りの協力が不可欠で、自分の利益だけ主張していてはなかなか実現できない。そのとき大切なのは、「理念を大事にしつつも、譲れるところでは妥協する」ことである。大局的な見方をして、そのあたりのバランスをうまくとりながら進めるのがまさしく中庸だろう。
実際の人間の評価にあたって、才の回り過ぎた者、適度を得ていない点では才の足りない人間と同じだという判断をくだすことはたいへん難しい。孔子は一、二の例外はあっても、弟子たちを神のように曇りのない目で眺めて長所短所をよく見抜いていた。
「中庸の徳」は面白味のない教えである。私も若いときには「中庸(の徳)」を軽蔑と憤りとで退けたことを記憶している。なぜなら当時(若い頃)賛美したのは、英雄的な極端であったからである。しかし、真理はいつもおもしろいわけではないが、有利な証拠もないのに、ただおもしろいというだけで信じられているのも多い。「中庸の徳」というのは良い例である。中庸の徳はおもしろくない教えだが、実に多くの場合、真実の教訓の一つになる。中庸を守ることの必要性は、例えば、一方で努力し、他方で諦める、という相反する態度の均衡を保つという点にある。 (牧野 力(編)『ラッセル思想辞典』)
⑦
其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿れ。
それじょかおのれのほっせざるところひとにほどこすことなかれ
子貢問うて日わく、一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや。子日わく、其れ恕か。己の欲せざる所、人に施(すこと勿れ。 (衛霊公第十五)
しこうとうていわく、いちげんにしてもってみをおうるまでこれをおこなうべきものありや、しのたまわく、それじょか。おのれのほっせざるところ、ひとにほどこすことなかれ。
子貢が尋ねた。「一言で生涯行っていくべき大切なことがありましょうか」と。孔子が言われた。「それは恕かなぁ。自分にされたくないことは、人におしつけないことだ」と。
孔子の道徳律の中でもっとも有名な章句であり、「論語の黄金律」と言ってよいだろう。一生涯を通して実践できる教訓として孔子が子貢に教えたものである。
中学校や高校の教科書で習ったという人が多いだろう。私もその一人だ。「自分が人からされていやなことは人にもしてはならない」とは当たり前の事だが、「生まれてから現在まで、そのようなことは一度もない」と言い切れる方が居られるだろうか。まず居ないのではないか。人として、心に止め置きたい章句である。
里仁第四(「仮名論語」43頁2行目)に「吾が道は一以て之を貫く。……夫子の道は忠恕のみ」とある。孔子の人柄と生涯は、「忠恕」という「ただ一つの道(儒学の根本原理)」で貫かれている。『論語』において最高の徳である「仁」を、まごころである「忠」と他人の苦境に思いやりを持つ「恕」によって解き明かし、それらをまとめて他人に対する温かな思いやり「忠恕」で説明している。
恕とは、「他人の立場や心情を察すること。また、その気持ち。思いやり」である。思いやりがある人は、他人の立場に立つことできる人だ。他人の痛みや、苦しみ、喜びを自分のことのように感じることができる人である。他人の立場に立つことができる人は、自己肯定ができる人ではないか。「私ってすごい」「自分はいけてる」などと、いくら自分だけで思っても自己肯定にはならない。
自己肯定とは、誰かの役に立っていると思えることである。自分は誰かに愛されていると思えること、自分を大事に思ってくれる人がいること、自分を必要としてくれるところがあることなど、自己肯定は他者からの肯定でもあるのだ。自己肯定ができなければ、人を受け入れることも認めることも許すこともできないし、人を思いやる余裕も持てない。人の役に立つこと、人の喜びのために懸命に働くことを続ければ、誰かに認められ必要とされる人となる。それが、自己肯定への早道となる。人生で一番大切な「思いやりの心」を育てたい。
人は、周りの人に助けられたり助けたりしながら生活している。生きること自体が周りの犠牲によって成り立っているとも言える。周りの人に一切世話にならずに生きることはあり得ない。そういった人との係わりによって人間は磨かれ成長していく。私たちは他者にお世話になりながら生きていくということを、自覚しなければならない。自覚することで他者によって活かされていることに気付き、他者への感謝の念が生まれる。そう感じる事によって、他者に不愉快な思いをさせてはならないという気持ちが湧いてくる。その思いが「恕」であろう。
他の人を気遣い、不愉快な気持にさせない、そういった心配りがとても大切であると孔子は説いている。そのような心配りが出来たならば、いじめの問題なども激減するだろう。人それぞれ、考え方、受け取り方が異なるので、自分では良い事だと思う行為でも誤解を招く事がある。大切なのは、自分が人からされて嫌な事は人にはしないということだ。人は知らない間に人の意見や評価を気にし、本当の自分を押し殺して人生を過ごしている時がある。周囲と仲良くなりたい、対立したくないと、守りの態勢に入ってしまうのは仕方がないことだ。しかし人間関係を違う方向から見直すと、肩の力が抜けていく。
嫌われてもいい覚悟をするというのは、相手の存在を過剰に意識せずに付き合えるようになることである。好かれようと思うと、相性が合いそうな人を求めて付き合ってしまう。このような限定した人間関係は、一度上手くいかなくなるとストレスになってしまう。
嫌われてもいい覚悟をすると人の好き嫌いが減り、好きになる人がどんどん増えていく。今までに接した経験がない人たちや、苦手な人とも自然と交流ができるようになり、気がついたら素敵な人に囲まれている事が多い。嫌われることはネガティブなイメージがとても強く、ほとんどの人は無理して嫌われないように努力している。「好きになる」というポジティブな内容が、なくなってしまう原因なのだ。
嫌われてもいい覚悟をすると、自分と意見が対立する人がいても不安にならない。人は全員顔が違うように、内面的な部分も違って当たり前である。自分の意見に賛成してもらえないと落ち込んでしまいがちだが、それは悪いことではない。たとえば将来これをやろうと、目的を決めたとしよう。必ず誰かが、ネガティブな意見を言ってくるはずだ。その時に相手の顔色を気にしたり、自分の敵を作らないように折れたりしてしまうと、自分の信念は揺らいでしまう。夢や目標を持ったとき、きっと進む先に邪魔になる出来事が起こるだろう。自分を嫌う人の存在もそのひとつである。強い思いを持っているのであれば、反対する人のために信念を捨ててしまわないようにしたい。
嫌われ者は、周囲に必ず一人はいるだろう。自分勝手でわがまま、相手の気持ちを考えられない人は、集団生活の中で苦労することが多い。嫌われてもいい覚悟をしている人と、嫌われている人は別である。
覚悟をして人生を過ごす人は、周囲の顔色を窺わずいつも自分らしく生活を送っている。嫌われる人は自覚をしていないため、相手の嫌がる行為を平気でやってしまうのである。嫌われてもいい覚悟は、無理に人に嫌われることではない。嫌われたらどうしようと、不安になる気持ちを捨てることなのだ。何ごとも覚悟をすると自分の核の部分がしっかりとするため、言動や動作も力強く相手に伝わる。嫌われる人は自分の都合だけを優先しているため、結果的にメリットが減ってしまうのである。
人に好かれるために、本当に言いたいことを我慢して周囲の流れに乗ってしまった経験はないだろうか。その後にやってくる後悔の念は、いつまでも心の中に残ってしまう。嫌われてもいい覚悟をすると、本当の自分が見えてくる。八方美人で疲れる時よりも、正直になって周囲と距離を置いたほうが、自分らしく過ごせるだろう。ただ自分らしくしたいと思っても、簡単にいかない場面も多い。たとえば上司の顔色を窺い仕方なく残業したり、友人に本音が言えずストレスが溜まったりする。人が抱える不安やイライラは、ほとんど他人から感じるものである。自分らしく生きることで周囲の存在が気にならなくなる。
集団生活のように無理に調和を大切にする生活は、必然的に自分を隠しているので本当の魅力に気づいてくれる人は少ないかも知れない。嫌われるのは、自分が孤独になるようなこととも言える。嫌われてもいいと覚悟を決めると、グループの一員でいるこだわりがなくなり、自由に自分の存在感がアピールできる。同時に人に頼ることがなくなるので、自立できるというメリットが生じる。嫌われたくないと思う気持ちは心の中を示しているので、一方的な思考パターンを変えていくことが大事だ。周りがやっているからこうすれば成功しやすいからという発想は、失敗した時の責任転嫁であり嫌われたくないという気持ちの表れでもある。しがらみを捨てた人生を送るならば、人に頼らない自立した自分が見えるはずである。
嫌われてもいいと覚悟することは勇気がいるが、見えない壁を乗り越えた時には一番楽で素敵な自分が待っているはずである。自然体で人間関係を作るためには、相手がどう思うかを考える前に、自分がどうしたいのかを自らに問いかけるとよいだろう。本当の自分を理解してくれる人は、必ず応援してくれるはずだ。
「人にして貰いたいこと」は、どのようなことだろうか。「人にして貰って嬉しいこと」は、どのようなことか。 たとえば、困っているときに親切にしてもらったこと。助けてもらったこと。これは嬉しいである。他にも、辛いとき自分の話をじっと聞いてくれたこと、共感して貰ったこと。これも嬉しいことだ。また、不安な時、ずっと隣にいてくれたこと、無理に何かをしてくれなくても何も言わなくてもただそばにいてくれること、それが何よりの心の支えになるだろう。自分がして貰ってうれしいそのことを、人にもしてあげるというのは本当に大切なことだ。
「人にして貰って嬉しいこと」というのは、他にも無数にあるだろう。これらのことには、共通点があるように思う。それは、自分という存在が人から大切にされたときだろう。私たちは心の深いところから喜びを感じる。相手が自分のことを大切にしてくれている、そう感じることができたとき、私たちは心から嬉しく思えるのだ。 次に、「人にして貰いたくないと思うことは、人にしてはならない」という教えについて想いを巡らしてみたい。「人にして貰いたい」こととは反対に、「人にして貰いたくない」ことは何だろう。
「人にされて嫌なこと」とはどのようなことだろうか。 たとえば、自分の存在が軽んじられるというのは、すべての人によって嫌なことだろう。馬鹿にされたり、意地悪されたり、侮辱されたりして快く思うことはない。また、存在を無視されたり、相手にして貰えないというのも、とても辛いことだ。このように「人にされて嫌なことは決して人にしてはならない」ということも、本当に大切なことである。 「人にされて嫌なこと」を挙げると切りがないほどたくさんあるだろうし、特にどのようなことが嫌に思うかは人によって違いもある。だが、「人にされて嫌なこと」にも共通点があるように思う。それは、自分という存在が人から大切にされないということだ。自分という存在が大切にされず、蔑ろにされていると感じるとき、私たちは心に深い悲しみを感じる。 「人にして貰いたいと思うことを人にする」「人にしてもらいたくないと思うことは、人にしない」、どちらも私たちが生きていくうえで欠かせない非常に重要な姿勢である。そのどちらにも、「人を大切にする」ということが共通のテーマとなっていることが分かる。
安冨 歩は「超訳 論語」の中で、
「『不欲』は、自分がされたらイヤなこととこれまで解釈されてきたけれど、『「自分がしたくない』」と素直に訳すほうが孔子の精神を忠実に表している」と述べている。安冨の解釈によると、孔子が教えたかったのは、「自分がされたらイヤだと思うことを相手にするな」ということではなくて、「自分がしたくないと思ったことは、自分を裏切って相手にしてあげてはならない」ということだと。孔子の思想の根幹にあるのは、「主君や目上の人に服従することではなくて、実は自分を裏切ることなく、迎合することなく、自分に対して正直であることの大切さだった」と。
恕とは一般的には「自分を思うのと同じように相手を思いやる・思いやり」と解されておりますが、孔子の恕はちょっと違うようで、「人の気持ちが分かるようになること、相手の身になって思い・語り・行動することができるようになること」これが恕、つまり本当の思いやり。自分の身に置き換えて云々するのはまだ半人前ということかも知れません。自分の身に置き換えてみることすらできないのは、半人前以下ってことですね。
恕は如(ごとし)+心(こころ)の会意文字ですが、仏教で「如心(にょしん)」といえば、人の心が手に取るように分かることを云います。釈迦も孔子も同じことを考えていたのかも知れません。恕の感性は、男性よりも女性の方が何倍も発達しているのではないでしょうか。
高野 大造「論語に学ぶ会・論語解説」
曽子は孔子から、「吾が道は一以て貫く」ということばを聞いて、自分の弟子にそれは「忠恕」だと語った(里仁第十五)。同じように「予一以て貫く」という教えを受けた(衛霊公第十五)子貢が、またこの「一貫」の原理は「恕」だと孔子から教えられている。仁を「恕」つまり思いやりと解する解釈は、子貢と曽子の両弟子が伝え聞いたことになり、二つの伝承が「論語」の中に保存されているのである。
貝塚 茂樹「論語」
孔子の生涯にわたる一切の教えにおいて貫かれた「一」とは、単なる数字上の一ではなく、一切の一であり全身全霊のすべてである。孔子が体得した真如の境地から発せられる忠恕の道なのである。
「一を以て之を貫く」は、深い真心を以て、ひとつのことに打ち込むことを指す。たくさんの情報が湯水のように流れ出てくる現代社会、気を引き締めておかないと、右へ左へと心を惑わされてしまいがちだ。「一を以て之を貫く」には、柔らかな心を持ちながらひとつのことをやり遂げる力強い意思が表れている。孔子の生き方そのものを表したスケールの大きな言葉である。現代を生きる私たちが見習うべき人生の指針となる。
「一を以て之を貫く」の類義語として、「初志貫徹」「首尾一貫」「徹頭徹尾」などがある。一度決めたことはどんなことがあってもやり遂げる。そんな清々しさを表した言葉とも言える。思いを込めて最初から最後までやり抜く、美しい生きざまを表している。さまざまな価値観が揺れ動く現代、ふらふらと心が離れてしまいそうになったら「一を以て之を貫く」を思い出し、初心に戻ることが求められる。